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フットボール批評誌、最も気になるのは鹿島の“RB化”である

鹿島についてつぶやくフットボール批評公式Twitterである。
フットボール批評 #27の記事からの引用、「『僕は指導者を始めたときからパスワークを重視している。ただ、自陣でボールを保持しているという人もいますけど、僕はそれが嫌い』(ザーゴ監督)」から鹿島に高い期待を述べる。
「Jリーグ再開時、最も気になるのは鹿島の“RB化”である」とのこと。
ここで挙げられるRBライプツィヒはドイツのブンデス・リーガにて上位に着けるクラブである。
特に名将と名高いラングニックに率いられ、非常に戦術的なことで知られる。
鹿島がこの戦術を取り入れることが期待されておる。
”ボールを奪ってから8秒以内にシュートまで持っていく縦に速いサッカー”
魅惑のフットボールがもたらされよう。
楽しみである。

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上田綺世、予測不能なその動きは歴代の名FWたちを彷彿

上田綺世について記すサッカーダイジェストの徳原隆元氏である。
フォトグラファーから観た綺世がよく伝わってくる。
そして、「カメラマンの視点からすると、ゴール前で多くの選択肢を持つ選手の動きは、予測するのが容易ではなく、ファインダーの中に収めるのも難しい。上田はFWとして総合的な能力を兼ね備えた、カメラマン泣かせの選手なのだ」と綺世を評す。
綺世が以前のインタビューに於いて語っておった、「頭の中にすべきプレイのカードが五枚ほど浮かびその中からゴールに近いモノを選ぶ」ということが徳原氏からもよく分かる。
綺世は多彩な攻撃を魅せてくれるであろう。
徳原氏が言う「鹿島の栄光を築いてきた柳沢敦、興梠慎三、大迫勇也らと重なる」というプレイに更に磨きをかけるのだ。
期待しておる。

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【ピッチレベルの真実|上田綺世編】予測不能なその動きは、歴代の名FWたちを彷彿
徳原隆元
2020年04月30日

照れた様子で控え目な笑顔を浮かべて


スタンドからの大声援に応える上田。サポーターからの熱が伝わったかのように、その笑顔が弾ける。写真:徳原隆元

 2019年8月10日、鹿島アントラーズの期待のルーキーが、ファインダーの向こうで躍動し、最高の笑顔を見せた。

 22節・鹿島対横浜戦。試合開始1分、セルジーニョの電撃ゴールで先制した鹿島だが、68分に同点とされる。迎えた73分、勝ちに行くために上田綺世がピッチに送り込まれる。その14分後、三竿健斗の浮き球のパスを土居聖真がヘディングでゴール中央に折り返す。このボールに反応した上田は右足でシュート。見事にネットを揺らして、嬉しいプロ初ゴールはチームに勝点3をもたらす決勝弾となった。

 試合後、鹿島サポーターから殊勲のヒーローに向けて大きな声援が送られた。法政大卒業を待たずに飛び込んだプロの世界。大学生からプロへの転向は、ピッチの技術レベルだけでなく、スタンドの観客から発せられる熱量にも、嬉しい意味で差を感じたことだろう。ルーキーは大声援に対して、照れた様子で控え目な笑顔を浮かべて応えていた。

 12番目の選手たちの声援は止まることなく続く。さらなる呼び声に促された上田は、ピッチを回る鹿島の選手たちの輪からからひとり離れ、スタンド近くへと駆け寄った。

 ここでサポーターからの熱が伝わったかのように弾ける。飛び切りの笑顔を見せたのがこの1枚だ。

 ピッチでワンバウンドしたボールのタイミングを計り、ダイレクトで放った上田の記念すべきゴールは、鹿島の歴代の日本人FWの姿を彷彿させた。振り返れば、これまでの鹿島の日本人FWには、パスを“点”で合わせる技術に優れ、またポストプレーからチャンスメイクもこなすなど、前線で幅広いプレーができる万能型が多かった。

 上田も鋭い動きで相手DFとの駆け引きを繰り返し、一瞬のチャンスを逃さずゴールを仕留める。最前線でのターゲットの役割も器用にこなす。こうしたプレーは、鹿島の栄光を築いてきた柳沢敦、興梠慎三、大迫勇也らと重なる。

 カメラマンの視点からすると、ゴール前で多くの選択肢を持つ選手の動きは、予測するのが容易ではなく、ファインダーの中に収めるのも難しい。上田はFWとして総合的な能力を兼ね備えた、カメラマン泣かせの選手なのだ。

 今シーズン、新監督ザーゴが就任し、さらに積極的な新戦力補強により転換期を迎えた鹿島。上田のプレーに歴代スター選手たちを重ね合わせ、期待をかけるサポーターも少なくないのではないだろうか。去年の夏に見たサポーターの歓喜と上田の笑顔は、これから何度も繰り返されるに違いない。

取材・文・写真●徳原隆元

Jリーグ、再開後のスタジアム店舗営業自粛を検討

再開後のスタジアムでの販売店の営業自粛を検討するJリーグである。
3密を回避するために要請する方向とのこと。
これは、世界有数のスタグルが楽しめるカシマサッカースタジアムとしては死活問題であろう。
そしてそれに対して小泉社長が意見をTweetしておる。
「三密が問題であれば事前決済でのピックアップや席までのデリバリーなど工夫のしようはあるので、頭ごなしに自粛というのはやめた方が良い。もっと知恵を絞って、サポーターやスタジアムに出してる店舗の方々に貢献したい」と意見を述べる。
これは頼もしい。
IR技術を投入し、3密を回避して経済活動を支援することが可能となろう。
この姿勢が嬉しい。
この状況、単に自粛だけではなく、我らもアイディアを出して、この問題だけでなく乗り切っていきたい。

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Jリーグ 再開後はスタジアムでの飲食店営業自粛へ グッズ店含め周辺の営業も対象の見込み
[ 2020年4月30日 05:30 ]

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で公式戦を中断しているJリーグが再開後もスタジアムでの飲食店、グッズ店などの営業は自粛の方向で調整していることが29日、分かった。関係者によれば、いずれも3密(密閉、密集、密接)のリスクを完全に回避することが難しいための措置という。
 Jリーグでは現在、無観客での再開案にかじを切っているが、今後の状況次第では収容率を制限、席割りも工夫しながら、段階的に観客も動員する考え。その際、3密のリスク回避は不可欠だ。店舗前には行列ができるケースも多く、関係者によればスタジアム周辺での営業も自粛の対象となる見込みだ。

 現時点の再開案は6、7、8月の3パターン。真夏の開催で動員が可能となれば熱中症のリスクも伴う。飲食店の営業を自粛した場合、飲料の確保はどうするか今後も対策が協議される。サポーターにとって店舗巡りも観戦の楽しみの一つ。営業面でも苦渋の選択となるが、まずは安全を最優先し、再開を目指す。


Jリーグ、今シーズンの日程終了は12/23

Jリーグ2020年シーズンの終了日程をについて報じるサンケイスポーツである。
12月23日までに全日程を終了させる方針とのこと。
そして、10月再開も検討しておるが、その際は試合数を削減する。
こうなると巷で話題となる秋春制への移行は、Jリーグとしては視野に入れておらぬ事がよく分かる。
今季のJリーグは、無観客試合を視野に入れており、収入をDAZNの放映権に大きく頼ることとなる。
そうなると、欧州サッカーシーズンがオフとなる夏に行われるJリーグは重要なコンテンツとなる。
今後も大きな放映権料を維持するためには、ここでシーズン制の移行はせぬという判断がなされるのも理解出来よう。
いずれにせよ、今季は年内に終了する。
なんとか再開にこぎつけ、シーズンを無事運営して貰いたい。
祈っておる。

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Jリーグ、越年せず年内決着 12月23日までに今季日程を終了
 新型コロナウイルスの影響で2月下旬から公式戦を中断しているJリーグが、12月23日までに今季日程を終了させる方針であることが29日、関係者の話で分かった。

 前日28日にクラブ側とウェブ会議を実施。リーグ戦を全試合消化するには8月までの再開が必要で、9月、10月にずれ込んだ場合は試合数を削減することを確認した。ルヴァン杯は日程を縮小する方針。越年はせず、年内で決着をつける。

 日本プロ野球機構(NPB)と合同で設置した「新型コロナウイルス対策連絡会議」では、専門家チームから緊急事態宣言下での再開は困難との提言を受けている。現在は6月、7月、8月からの再開を念頭に準備中だが、長期戦も見据えて対応する。

Jリーグ、10月再開案をも想定

10月再開案をも検討し始めたJリーグである。
この緊急事態が続くこととなれば、それすらも怪しい事態ではある。
しかしながら、韓国のKリーグは5月9日より再開が発表されており、ドイツのブンデス・リーガも同時期の再開が検討されておる。
世界では、いち早くサッカーが開催される地域も出てきた。
ここでの成功が伝われば、日本のJリーグも再開に踏み切ることとなろう。
我らとしては、外の情報に目を向けつつ、自粛を続け、外出を厳禁として過ごす以外にない。
事態の収束を待つだけである。

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Jリーグ「10月再開」も、最悪事態想定し準備へ
[2020年4月29日7時0分]

新型コロナウイルスの感染拡大により2月下旬から中断中のJリーグが、リーグ戦の「10月再開」も想定しはじめたことが28日、分かった。

この日、ウェブ上で各クラブとリーグ再開に向けた会議を実施。日程面についての協議では、新型コロナの収束が不透明な現状から、9月と10月の再開シミュレーションも伝えられた。

あくまでも6月、7月、8月の3パターンを最優先に目指していくことに変更はない。だが、23日にプロ野球と合同で実施した第6回新型コロナウイルス対策連絡会議では、専門家チームから緊急事態宣言下での再開は難しいうえ、再開時には無観客が妥当であると提言された。最短日を6月13日に設定しているが、新型コロナの脅威が収まらない中、再開日の軸足は7月に移ってきている。ルヴァン杯の大会規定変更や国際Aマッチデー期間の開催などの運用面だけでなく、さらに長期化するという最悪の事態をも想定し、年またぎの来年1月終了までも加えた幅広いプランの準備に入った模様だ。

いずれにせよ、再開後は過密日程を強いられる。Jリーグとして選手とクラブを守るべく、今季は1試合の交代枠を従来の3人から5人(交代数3回まで、ハーフタイム除く)に拡大することを本格的に検討していることも判明した。国際サッカー連盟(FIFA)は一時的な措置として「交代3回最大5人」案を提案しているようで、競技規則を定める国際サッカー評議会(IFAB)の承認を経て正式決定となり、そのうえで導入に向けて最終決断を下すことになる。Jリーグは富士ゼロックス・スーパー杯で「交代5人制」を導入済みだけに、大きな障害はなさそうだ。

ルヴァン杯のレギュレーション

今季のJリーグについて報じるスポーツニッポンである。
その中でルヴァン杯のレギュレーションが伝えられておる。
「ルヴァン杯は全6試合に簡略化される見通し。4クラブ総当たりの1次リーグは3試合(既に1試合消化)に。決勝トーナメントは準々決勝からで準決勝、決勝まで全てが1回戦制となる」とのこと。
GSは首位の4クラブと2位の中で上位の1クラブが決勝トーナメント進出ということであろうか。
鹿島としては、既に1敗を喫しておることは痛いが、残り二つを勝利すれば勝ち上がる可能性はある。
この変則レギュレーションでも勝利を追求して悔いのないシーズンとしたい。
再開を待ち望んでおる。

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Jリーグ公式戦、1クラブ最大40試合に 8月再開なら中2日超強行日程も
[ 2020年4月29日 05:30 ]

 Jリーグの今季公式戦開催は越年せず、まずはリーグ戦とルヴァン杯を合わせ1クラブ最大「40試合」とする方針で調整を進めていることが28日、分かった。新型コロナウイルス禍で公式戦中断中のJリーグはこの日、各クラブの運営、強化担当らとウェブ会議を実施し、今後の日程変更などが話し合われた。
 複数の関係者によれば、ルヴァン杯は全6試合に簡略化される見通し。4クラブ総当たりの1次リーグは3試合(既に1試合消化)に。決勝トーナメントは準々決勝からで準決勝、決勝まで全てが1回戦制となる。

 現在、リーグ戦(1試合消化済み)の再開は最短で6月13日を目指すが、関係者によれば準備期間は練習再開後「4週間」となる見込み。当初、クラブ側から6週間を要望する声もあったが、一方では少しでも早い再開を望む声も強く4週間で調整された。

 深刻なコロナ禍の現状を考慮し、Jリーグは既に6月の他にも7、8月の再開案も想定している。もっとも現実的とされる7月案でも試合数はさらに削減の可能性がある。8月案となれば、中2日での試合開催が連続する超強行日程をのみ込んででも試合消化を優先する方向。シーズン終了の「越年」は反対多数だったという。

ビスマルク氏からのメッセージ

激励のメッセージを伝えるビスマルク氏である。
これには励まされる。
そして、それを実現させた鹿島アントラーズTwitterには感謝しかない。
ありがとう、ビスマルク。
ありがとう、鹿島。
“ともに”結束して乗り切っていこうではないか。

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ホーム勝率ランキング

各クラブのホームスタジアムでの勝率を集計したサッカーダイジェスト編集部である。
1位に輝いたのは県立カシマサッカースタジアムでの鹿島アントラーズとなった。
これは誇らしい。
2位以下が50%台であるところで60%以上を記録するのは圧倒的と言って良かろう。
多くの民に幸せを与えておることがよく分かる。
この先もこの勝率を上げるべく、ホームでは無類の強さを誇っていきたい。
その為に毎試合通う。
楽しみである。

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【J1全18クラブのホーム勝率ランキング】トップは驚異の60%越え。昨季優勝の横浜は…
サッカーダイジェスト編集部
2020年04月28日


昨季優勝の横浜は7位タイだが…


J1全18クラブのホーム勝率を集計。地の利を生かしているのは?(C)SOCCER DIGEST

 サッカーにおいてサポーターの送る声援が選手に勇気を与え、励みになるのは間違いない。特にホームでの後押しは、いつも以上のパワーを引き出してくれるだろう。しかし、4月23日のJリーグメディアブリーフィングで、村井満チェアマンが「(無観客試合を)この段階に来れば想定しなければいけない」と発言。Jリーグの今後の判断が気になるところだ。

 ここではJ1全18クラブのホームでの勝率をランキング化。多くのサポーターの応援を味方に、本拠地で強さを発揮するチームはどこか――。

 なお、データは各クラブが2020年シーズンにおいてメイン使用しているスタジアムのもので、1993年~2020年までのJ1の成績。「Jリーグデータサイト」を基に集計した。

――◆◆――◆◆――

 堂々の1位に輝いたのはJ1を8度制覇している鹿島。勝率は63.2%で、2位との差は約8%。得点も失点の2倍近い数字を記録し、県立カシマサッカースタジアムでの強さは飛び抜けている。名古屋は豊田スタジアムでの試合も多いが、今季より多く使用するパロマ瑞穂スタジアムで集計。川崎や浦和を抑え、2位に位置した。

 わずかに50%に届かなかった5位の清水は、得点数では鹿島に次ぐ2位。IAIスタジアム日本平(当初の名称は清水市日本平運動公園球技場)を1993年のJ初年度から使用し、その歴史がデータに反映されている。

 7位の鳥栖はここ2シーズン、最終節まで残留を争ったが、47.4%を記録した。サッカー専用の駅前不動産スタジアムが作り出す独特な雰囲気の下で、一昨季は浦和や名古屋、昨季は鹿島やFC東京を撃破。ホームで強さを発揮している。

 また、横浜は鳥栖と同じく7位で47.4%。もっとも、優勝した昨季は日産スタジアムの成績に絞ると7勝3分2敗で、58.3%と高い数字を誇った。

1位:鹿島(県立カシマサッカースタジアム) 63.2%
273勝55分104敗 827得点・446失点

2位:名古屋(パロマ瑞穂スタジアム) 55.6%
143勝37分77敗 469得点・330失点

3位:川崎(等々力陸上競技場) 54.4%
147勝63分60敗 513得点・320失点

4位:浦和(埼玉スタジアム2002) 52.0%
142勝59分72敗 452得点・307失点

5位:清水(IAIスタジアム日本平) 49.7%
192勝56分138敗 615得点・533失点

6位:柏(三協フロンテア柏スタジアム) 47.6%
148勝53分110敗 503得点・423失点

7位タイ:横浜(日産スタジアム) 47.4%
137勝62分90敗 436得点・323失点

7位タイ:鳥栖(駅前不動産スタジアム) 47.4%
63勝28分42敗 166得点・148失点

9位:広島(エディオンスタジアム広島) 45.1%
162勝68分129敗 549得点・435失点

10位:FC東京(味の素スタジアム) 45.0%
125勝65分88敗 413得点・325失点

11位:C大阪(ヤンマースタジアム長居) 43.1%
91勝36分84敗 334得点・315失点

12位:G大阪(パナソニックスタジアム吹田) 42.6%
29勝19分20敗 100得点・69失点

13位:仙台(ユアテックスタジアム仙台) 41.1%
79勝47分66敗 290得点・265失点

14位:神戸(ノエビアスタジアム神戸) 39.1%
88勝58分79敗 318得点・293失点

15位:札幌(札幌ドーム) 33.8%
25勝13分36敗 96得点・113失点

16位:湘南(Shonan BMWスタジアム平塚) 33.3%
67勝27分107敗 267得点・363失点

17位:大分(昭和電工ドーム大分) 32.6%
46勝35分60敗 157得点・181失点

18位:横浜FC(ニッパツ三ツ沢球技場) 22.2%
2勝1分6敗 8得点・16失点

構成●サッカーダイジェスト編集部

北九州・川島大地引退

現役を引退し北九州の普及事業課コーチ就任する川島大地である。
「ケガに悩み、プロサッカーの現実を見せつけられ、苦悩の日々の方が多かった気もします」と現役生活を振り返る。
苦しいことの方が多いプロ生活であったことが伝わる。
しかしながら、トリッキーなプレイは観る者を魅了したことも事実である。
我らも勇気付けられたものである。
これからは新たな道を進み始める。
プロサッカー選手であった経験が強く活かせるであろう。
お疲れ様でした。

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川島 大地 選手 現役引退および普及事業課コーチ就任のお知らせ
この度、2019シーズンをもちまして契約満了となっておりました川島 大地選手が現役を引退し、弊クラブ普及事業課コーチに就任することとなりましたので、お知らせいたします。

ポジション
MF

出身地
茨城県

生年月日
1986年11月21日

身長/体重
168cm/64kg

所属歴
波野SSS - 鹿島中 - 鹿島高 - 東海大 - 鹿島アントラーズ - モンテディオ山形 - 鹿島アントラーズ - ギラヴァンツ北九州

本人コメント
「新型コロナウィルスの影響で皆様が大変な思いをされている中、私事で恐縮ですが、この度現役生活の幕を閉じる事になりました。
まず始めに、波野S.S.S.、鹿島中学校、鹿島高校、東海大学、鹿島アントラーズ、モンテディオ山形、ギラヴァンツ北九州で関わったチームスタッフ、チームメイト、ファン・サポーターの皆様、全ての人に心から感謝しています。
そして、どんなときも応援してくれた家族、いつも側で支えてくれた妻にも改めて感謝しています。
これまで携わってくれた全ての人が僕をJリーガーにしてくれて、歓声の沸くピッチに立たせてくれて、一度消えかけた火をもう一度燃やすチャンスをくれて、11年間Jリーガーでいさせてくれました。とても貴重な時間を与えてくれました。
正直、サッカー選手としては、とても胸の張れる11年ではありませんでした。
ケガに悩み、プロサッカーの現実を見せつけられ、苦悩の日々の方が多かった気もします。
しかし、その中でも一枚の横断幕や一節のチャント、激闘の一試合や歓喜の一点、そして歓声の沸く一瞬を何度か経験できた事はその苦悩の日々を苦悩と思わせず、僕にとって輝かしい11年にしてくれました。本当に幸せな11年でした。
これからは、自分を支えてくれた人たちに少しでも恩返しができるよう、精進していきたいと思います。
そして、今までの経験を活かして新しい自分に挑戦し、突き進んでいきたいと思います。その一歩として、普及事業課コーチとしてまたこのクラブに携われる事になりました。大変嬉しく思います。北九州のために一生懸命頑張ります!
最後になりますが、現在、私達は世界中で見えない敵と戦っています。一刻も早く事態を収めるためには、現場で体を張って戦ってくれている医療従事者だけではなく、それ以外の人達の行動がとても重要になります。今こそ皆さんの想いを一つにして、この危機を乗り越えましょう。」

Jリーグ、200億円強の融資を要請

三菱UFJ銀行と商工組合中央金庫に対して、200億円強の融資を要請したJリーグである。
新型コロナウイルスの影響にて破綻危機にあえぐクラブを救済する資金を調達することとなる。
動きが素早い。
新型コロナウイルスとは無関係に危機に陥っている鳥栖はともかくとして、中堅クラブである新潟や札幌もシグナルを発しておる現在、手を打てることは打っておかねば、日本サッカー界全体が窮地に陥る。
この資金を上手に使って、この危機を乗り切っていこうではないか。
重要な局面である。

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Jリーグ、200億円強の融資要請 観戦収入消え苦境
2020/4/28 16:06 日本経済新聞 電子版

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が三菱UFJ銀行と商工組合中央金庫に対して、コミットメントライン(融資枠)の設定を含む計200億円強の融資を要請したことが明らかになった。新型コロナウイルスの感染拡大でリーグの開催延期が続くなか、クラブ支援などの資金を予防的に手当てする。特に中小のクラブでは観戦収入の激減で資金繰りが課題と懸案となっていた。

三菱UFJ銀とは200億円前後の融資枠の設定で調整している。事業環境の一段の悪化に備え、迅速に調達できる枠を拡充する。商工中金は数十億円を融資する見通し。1993年に創立したJリーグが金融機関からまとまった額を借り入れるのは初めてとみられる。

Jリーグには財務基盤が弱いクラブも多い。J1のサガン鳥栖は2020年1月期の純損失が20億円と、2期連続の赤字となった。下部のJ2、J3のクラブはさらに経営環境が厳しく、収入の柱の1つである観戦チケットやグッズの販売が滞ったことで資金繰りに悪影響が出ている。

Jリーグは15日にクラブへの融資制度で、借り入れ上限額を引き上げたり、返済期日を延ばしたりする特例措置を発表した。金融機関から新たに調達した資金はこうした支援に充てるとみられる。

Jリーグ自体の先行きにも不透明さがある。Jリーグの経常収益の約65%は放映権収入が占める。動画配信サービスのDAZN(ダ・ゾーン)と17年からの10年間で約2100億円の大型契約を結んでおり、このまま試合が開催できなければ契約額の減額につながる懸念がある。他のプロスポーツでも大会やリーグの中止・延期が相次いでおり、収入が絶たれる競技団体は多い。

2018年シーズンの人件費はJ1の18クラブ中2番目

鳥栖の20億円を超える莫大な赤字について報じる報知新聞である。
選手に事前説明がなかったことを然もありなんと伝える。
しかしながら、このような大きな事象を、そして経営にも大きく影響を及ぼす情報を現場に先に流すようなことはあり得ない。
どこからどのように情報が漏れ、話に尾ひれが付く可能性がある。
これはセオリーである。
このように経営側の悪行のよう便報じるのは日本のメディアの幼いところであろう。
それはそれとして、この記事に2018年シーズンのチーム人件費が列挙されておる。
鹿島の金額は31億5700万円であったとのこと。
これはJ1では二番目に大きな金額である。
そして、2019年度は29億3600万円と微減しておるが、30億前後が鹿島のクラブとしての予算と考えて良さそうである。
今期も同様なのであろう。
この予算を上手に使い勝利を積み重ねたい。
期待しておる。

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鳥栖】20億円赤字発表から一夜、事前説明なく選手に驚きの声
2020年4月28日 7時0分スポーツ報知


2018年のJ1クラブのチーム人件費

 鳥栖が2019年度(19年2月~20年1月)に20億円超の赤字を計上したことについて27日、クラブの選手からは驚きの声が上がった。チームはコロナ禍で活動休止中で、在宅でのトレーニングを実施している。26日の株主総会前に選手やスタッフに事前説明はなく、竹原稔社長(59)の報道発表で初めて詳細な内容を聞いたというある選手は「(資金繰りが)厳しいとは聞いていたが、数字を聞いて驚いた」と振り返った。

 竹原社長が「天文学的な赤字」と表現したが、給与未払いなどの問題は起きていないという。別の選手は「(3月上旬に資金難について一部で)報道が出た時も社長が『大丈夫、大丈夫』と説明してくれた。不安になっても仕方ないので、待つしかない」と話した。

“常勝軍団”鹿島が唯一負け越している相手は

Jリーグの対戦成績ついてまとめたサッカーダイジェストの多田氏である。
鹿島の情報に目を向けると、悲しいことに川崎に大きく負け越しておる。
これは由々しき仕儀である。
ここ最近も勝てておらぬが、特にジュニーニョが在籍しておった当時の等々力競技場では特に負け続けたことが記憶に残る。
この苦手スタジアムを克服することが求められよう。
とはいえ、長年苦手であった日本平の清水にもついこの間、勝ち越すことが出来た。
この川崎にも勝ち越す日が来よう。
また、その他のクラブに目を向けると、対戦数の割に負けておるのが湘南と鳥栖である。
ここは相手の採る戦術に相性があるように思う。
鹿島は今季より、ゲームモデル・プレイ原則を構築し、新たなスタートを切っておる。
これが熟成されることにより、苦手クラブ・得意クラブもまた変化しよう。
どのように“かわる”のであろうか。
楽しみである。

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対戦成績から探る「J1全18クラブの相性」前編|“昨年王者”横浜には天敵が
多田哲平(サッカーダイジェスト)
2020年04月27日

“常勝軍団”鹿島が唯一負け越している相手は

鹿島アントラーズ

「川崎に唯一負け越し」

対戦相手(対戦成績) 直近5試合の成績(○勝△分●敗)
札幌(12勝3分1敗)○△○○△
仙台(15勝2分7敗)○●○○○
浦和(31勝10分17敗)○○●△○
柏 (27勝6分13敗)●○△○○
FC東京(20勝8分10敗)△●●●○
川崎(9勝7分16敗)●●△△●
横浜(30勝8分22敗)●●○●○
横浜FC(2勝0分0敗)---○○
湘南(18勝1分9敗)○●○○●
清水(27勝7分24敗)○△○○○
名古屋(34勝3分21敗)○○●○○
G大阪(29勝11分18敗)○○△△△
C大阪(22勝4分14敗)○○○○○
神戸(25勝7分10敗)○△○○●
広島(29勝8分20敗)●●△△●
鳥栖(7勝3分6敗)●○△●○
大分(11勝4分3敗)○○○●○

 さすがは“常勝軍団”とも呼ばれ、主要タイトル20冠を誇る名門だ。17チーム中16チームに勝ち越している。しかし唯一負け越している相手が川崎。昨年11月の対戦で敗れ、優勝争いから引き離されたのは、記憶に新しいだろう。もっともその川崎相手にもリーグカップ、天皇杯、チャンピオンシップを含めると、19勝9分20敗とほぼ互角。カップ戦での強さが窺い知れる。

マルキーニョスのゴール集

マルキーニョスのゴールを紹介する鹿島アントラーズ公式youtubeである。
胸の空く素晴らしいゴールの数々が流れてくる。
鹿島の三連覇に大きく貢献したストライカーは紛れもなくレジェンド。
また、チラッと映る本山のスルーパスもドキドキさせられる。
こうした映像が楽しめることを糧にこの状況を乗り切っていきたい。
ありがとう。

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FC東京・レアンドロ、ここでずっと残りのキャリアを続けるかは分からない

ブラジルメディア『ESPN BRASIL』のインタビューに応じたFC東京のレアンドロである。
Jリーグに在籍する助っ人外国籍選手の名を挙げ褒め称える。
その中にレオ・シルバとブエノも列挙しておる。
昨季までの同胞にはリスペクトを感じておったことが伝わる。
特にここでブエノの名を挙げたことには大きな意味がある。
潜在能力は天下一品。
今季の再開後には大きく飛躍してもらおうではないか。
またレアンドロは、今季末に契約が切れる事を明かし、その後のキャリアについて「ここでずっと残りのキャリアを続けるかは分からない」、「その後に何が起こるか見てみよう」と言う。
まだ26歳という年齢からすると、日本でキャリアを終える気持ちは毛頭なく、ステップアップを目論んでおろう。
代理人の腕の見せ所と思われる。
鹿島としてはフリーで手放すこととなり、少々残念なところ。
これもまた縁。
レアンドロの次なるクラブを楽しみにしておる。

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「Jリーグはレベルが高いし、日本人選手は優秀」FC東京のレアンドロが母国メディアに語った日本のサッカーと生活
サッカーダイジェストWeb編集部
2020年04月27日


「日本のサッカーとこの国に順応できた」

 今シーズン、鹿島アントラーズからFC東京にレンタルで加入したのがレアンドロだ。来日4年目の迎えるブラジル人アタッカーが、母国メディア『ESPN BRASIL』のインタビューに応じ、Jリーグや日本での生活について語っている。

 4月26日に掲載された記事によると、まずコロナ禍における現在の生活について、レアンドロは「しばらくは、すべていつも通りでチームトレーニングを続けていたが、ここ数週間は自宅で隔離されている」と説明し、こう続けた。

「家族と一緒にいて、トレーニングをしたり、子どもと遊んだり、楽器を演奏したり、テレビゲームをしたりしている。この生活が終わるまで、ベスト方法で時間を使うようにしたい」

 新天地で好スタートを切っていただけに、中断となってしまったのは無念だろう。ブラジル代表歴もある26歳は、自身4年目に突入したJリーグのレベルについても言及している。

「ここは本当にとてもレベルが高い。クオリティーの高い日本人選手がたくさんいるし、ブラジル人や他の国の外国人選手も優れている。例えば、(アンドレス・)イニエスタ(ヴィッセル神戸)がいるし、フェルナンド・トーレスもプレーしていた。彼らはあらゆるものを勝ち取ってから日本に来たが、まだ高いレベルを維持しているんだ」

 そして、「ブラジル人では、ジョー、カブリエル・シャビエル(ともに名古屋グランパス)、レアンドロ・ダミアン(川崎フロンターレ)、セルジーニョ(松本山雅FC)、マルコス・ジュニオール、エジガル・ジュニオ、エリキ(以上横浜F・マリノス)、レオ・シルバ、ブエノ(ともに鹿島)、ダンクレー(神戸)などがプレーしている」と同胞のJ戦士を紹介した。

 鹿島での3シーズンについては、「1年目は本当に良かったけど、最後にJリーグのタイトルを失った」と切り出し、こう振り返った。

「残りの2年間は、重要なタイトル(ACL)を獲得し、クラブ・ワールドカップも戦った。だけど、僕は膝の怪我の問題にぶつかっていたんだ。なんとか回復し、新たな挑戦をして、素晴らしいシーズンを過ごす準備ができ、とてもいい気分だよ」

 最後に今後のキャリアについても語っている。

「鹿島で3年、FC東京で1年目、日本のサッカーとこの国にうまく順応できた。ここでずっと残りのキャリアを続けるかは分からない。予測は難しいけど、ここには僕がうまく適応できたサッカーと素晴らしい国がある。鹿島との契約がもう1年あり、年末までのレンタルなので、その後に何が起こるか見てみよう」

 日本のサッカーにも生活にもフィットしていることを明かしたレアンドロ。リーグ再開後の活躍に期待したい。

構成●サッカーダイジェストWeb編集部

調子乗り世代の怒りと快進撃の記録

2007年開催のU-20W杯カナダ大会についての追憶を記すNumberWebの安藤氏である。
この調子乗り世代の快進撃とそのメンバーの中での内田篤人の存在感が強く伝わってくる。
「ひょうきん者が多い中、一歩引いた立場でクールに立ち振る舞いながらも、嫌な表情は一切浮かべない。チームにおいて、とてもいい潤滑油だった」と評す。
そしてこのU-20日本代表は明るくて良いチームであったことが思い起こされる。
懐かしい思い出である。

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調子乗り世代の怒りと快進撃の記録。
内田篤人「このチームがかなり好き」

posted2020/04/26 11:50


ゴール後のパフォーマンスで会場を沸かせた2007年U-20W杯カナダ大会。ベテランとなった今でも「調子乗り世代」は健在だ。

text by
安藤隆人
Takahito Ando

photograph by
Snspix/AFLO


 調子乗り世代――。

 1987年生まれ以降の選手で構成されたU-20日本代表の躍進をきっかけに、このネーミングはたちまち世間に広まった。

 2007年U-20W杯カナダ大会を率いた吉田靖監督のもとに集まったメンバーは多士済々だ。内田篤人(鹿島アントラーズ)、香川真司(サラゴサ)、槙野智章、柏木陽介(ともに浦和レッズ)、森重真人、林彰洋(ともにFC東京)、太田宏介(名古屋グランパス)、梅崎司(湘南ベルマーレ)、田中亜土夢(HJKヘルシンキ)……。日本サッカー界を牽引してきた彼らも今年で33歳、1学年下にあたる香川も31歳を迎え、ベテランの域に差し掛かっている。

 この世代は、筆者にとっても特別な思い入れがある。2005年2月の立ち上げ合宿を取材した時から、海外を含めたすべての遠征に同行した。フリージャーナリストに転向し、初のFIFAの世界大会の取材がU-20W杯カナダ大会だった。

 今回は同大会と吉田ジャパン終焉となったラウンド16のチェコ戦を振り返っていきたい。

期待されていなかった「調子乗り世代」。

 当時、「調子乗り世代」への期待は小さかったように思う。

 1999年には小野伸二や高原直泰らを擁した「黄金世代」がワールドユース・ナイジェリア大会(カナダ大会からU-20W杯と名称変更)で、日本サッカー史上初となるFIFA公式戦ファイナリストになった。2005年ワールドユース・オランダ大会では本田圭佑、家長昭博、西川周作ら豊富なタレントたちが集まり、「日本の将来を明るく照らす人材の宝庫だ」と大きな期待を背負っていた。

 一方で「調子乗り世代」は2005年のU-17世界選手権(現U-17W杯)出場を逃した代でもあり、先輩たちのような評価を得られずにいた。

 さらにU-20W杯に向けた強化の一環として行われた韓国遠征でもライバル韓国に大敗。9月の仙台カップ国際ユースサッカー大会では、明らかに格下であったU-18東北選抜を相手に2-5の大敗を喫した。東北選抜には、後に代表チームに加わる香川(当時高2)がいて、手玉に取られるほどだった。AFCユース選手権(現AFC U-19選手権)で準優勝してU-20W杯の出場権こそ掴んだが、本大会直前のトゥーロン国際ユースではグループリーグ敗退。決して万全のチーム状況ではなく、メディアの注目度も低かったのだ。


 しかし、本大会に入ると彼らを取り巻く環境は一変する。

 U-20W杯初戦はスコットランド戦に3-1と白星発進。第2戦のコスタリカ戦に1-0で勝利し、早々にグループリーグ突破を決めると、メンバーを大幅に入れ替えて臨んだ第3戦ナイジェリア戦にもスコアレスドローに持ち込み、グループリーグ無敗で決勝トーナメント進出を果たしたのだった。

現地を熱狂させたパフォーマンス。

 これまでの鬱憤を晴らすかのような快進撃は、今でも鮮明に記憶している。

 だが、ここで記したいのはカナダ・ヴィクトリアという街の熱狂だ。

 なぜここまで劇的に変わったのか。それはまさに“調子乗り”と評された、このチームの魅力である「明るさ」に起因する。カナダの人々にインパクトを与えたのが、ゴール後のパフォーマンスだった。


 スコットランド戦、FW森島康仁(藤枝MYFC)が先制弾を挙げると、バックスタンド前に次々と選手が集まり、観客に向けて当時軍隊式フィットネスとして世界中でブレイクしていた『ビリーズブートキャンプ』の真似たパフォーマンスを披露。最後方に陣取っているはずのGK林までもが輪に加わったこのパフォーマンスによって、スタジアムは一気に日本のホームと化した。

 カナダはサッカーが盛んな国ではない。試合会場となったロイヤルアスレチックパークも元々はクリケット場で、仮設スタンドなどを増設して強引にサッカー場に仕立てたようなスタジアムだった。観客もサッカーファンというよりは、地元ヴィクトリアの市民が興味半分で集まった雰囲気。だからこそ、彼らが行った奇抜なパフォーマンスはカナダ人の心に突き刺さったのだった。

 梅崎、青山隼(元・徳島ヴォルティス他)のゴール後も同じパフォーマンスを行うと、試合後にはスタンディングオベーションが巻き起こった。そこでも彼らは全員でパフォーマンスを披露。たった1試合で、言葉が通じないファンの心をわしづかみにしてみせた。


侍、相撲……「僕らは日本代表なので」

 当時、輝かしい戦績を残していた日本のアンダー世代にとって、決勝トーナメント進出はさほどトピックになる話題ではない。だが、この街を巻き込んだ熱狂は、やがて国内でも大きな話題として報道され、現地で取材する筆者のもとにも多くの連絡が届くまで広がった。

「あれ、ウケましたね(笑)。ずっとゴールパフォーマンスはどうしようかと話し合っていたんですよ。それでカナダの人も日本の人も理解できるものがいいなと思ったので、世界中で流行っていたビリーズブートキャンプのポーズがわかりやすくていいんじゃないかと思って、試合前にみんなで決めたんです。思った以上にウケたので、今後もいろいろやっていこうと思いますよ」

 発案者の1人である槙野が語ったように、その後も彼らはさまざまなパフォーマンスを披露した。

 第2戦コスタリカ戦で田中がダイレクトボレーを蹴り込むと、バックスタンドに向かって刀を腰の鞘から抜いて振りかざし、再び鞘に戻す「侍パフォーマンス」を。第3戦のナイジェリア戦後にはバックスタンド前に整列すると、今度は相撲の張り手とすり足を真似た「力士パフォーマンス」をやってみせた。

「やっぱり僕らは日本代表なので、『日本と言えば』というパフォーマンスを考えました。世界中の誰もが日本をイメージするもので知っていると思ったので、これにしました」

 そう語る梅崎の笑顔は弾けていた。10番を背負った柏木も「カナダの人たちが喜んで期待してくれるのが分かった。これは応えないと男じゃないでしょう」と誇らしげだった。

ひょうきん者の中で冷静な内田。

 ただ、印象的だったのは右サイドバックの内田だ。みんながパフォーマンスに参加する中、ひとり参加しなかったのだ。

「初戦はあんなパフォーマンスをするなんて知らなかったもん(笑)。そもそも恥ずかしいもん。もしあの後失点してしまったら嫌じゃないですか。俺は点を取って喜んだ後にすぐに失点した嫌な思い出があるから」

 いかにも内田らしい回答。だが、決して仲間に対して冷めた態度を取っていたわけではなく、それらを側から眺めていることが肌に合った、といった印象だった。

「俺はこのチームがかなり好きだから、もっともっとこの最高の仲間でサッカーをやりたいね」

 ひょうきん者が多い中、一歩引いた立場でクールに立ち振る舞いながらも、嫌な表情は一切浮かべない。チームにおいて、とてもいい潤滑油だった。


 次々と対戦相手を凌駕するサッカー、そしてゴールパフォーマンスに象徴するチームワーク。カナダで躍進する彼らを見て、「これはひょっとして……」と抱いた期待感は今でも胸に残っている。

「ドラゴンボール」も好評、上々のスタート。

 迎えた2007年7月11日。ベスト8を懸けた決勝トーナメントラウンド16、チェコ戦。この日も日本代表はヴィクトリアで戦った。

 日中の気温は35度と、それまでの50年間で最高気温を記録。キックオフの20時15分でも気温30度と、過酷なコンディションのなかで試合は始まった。

 立ち上がりから攻勢に出た日本は、22分に柏木の左CKから槙野がヘッドで合わせて先制。待ってましたと言わんばかりにバックスタンドに向かった槙野は、日本が誇る人気アニメ『ドラゴンボール』の元気玉を表現した。47分には田中が獲得したPKを森島が決めて、再びドラゴンボールのパフォーマンス。完全に日本ペースだった。

 しかし、ここから流れが一気にチェコへ傾く。

 日本は猛攻に転じたチェコの圧力を前に、74分、77分と立て続けにPKを献上してしまい、気がつけば2-2の同点に追いつかれた。

「ちょっと整理がつかなかった。ここで自分たちを見失ってしまった」(梅崎)

 終盤の85分にはチェコに退場者が出て、再び日本に流れが傾いたが、チェコのゴール前を固める守備をこじ開けられず、延長戦へ突入した。

 延長後半5分、梅崎に代わった投入された香川が決定機を作り出す。同13分にゴール前の混戦から相手GKが飛び出した状態で、フリーの香川の目の前にボールがこぼれた。ゴールとの距離はわずか3mほど。誰もが「決まった」と思ったが、香川の放ったシュートはゴールライン上にいたDFの腕に直撃。明らかなハンドだった。しかし、主審の笛は鳴らない。

 ピッチ上に「混乱」が広がったまま、延長後半アディショナルタイムには途中出場のMF藤田征也(徳島ヴォルティス)が一発退場。勝負はPK戦までもつれ込んだ。

もう1度、2-0のところに時を戻したい。

 先攻の日本は1人目の安田理大(ジェフユナイテッド千葉)に続き、4人目の森島が失敗。チェコの5人目のキックが決まった瞬間、吉田ジャパンの2年半の活動が終了した。

 増設されたロイヤルアスレチックパークのスタンドは低い。そこから差し込む夕日で空は鮮やかなオレンジ色に染まっていた。選手たちは長い影を写したピッチに倒れ込み、泣きじゃくっていた。

 快進撃を続けた「調子乗り世代」の終焉は、あっという間に訪れてしまった。

 だが、ロイヤルアスレチックパークの観客たちは、彼らを最後まで讃えてくれた。日本代表が場内一周するまで席を立たず、鳴り響いたのは惜しみない拍手。間違いなく、彼らは「グッドルーザー」だっただろう。

「俺はこのチームとともに成長してきた。選手、スタッフ、そしてメディアの人たちもこんなに一体になれるんだと思うほど1つだった。こんな経験はなかなか出来ないし、一生残ると思う」

 梅崎が試合後のミックスゾーンで目に涙を浮かべれば、中盤で奮闘した青山も「みんなで笑って、泣いて、友情の塊のようなチームだった。僕らだけでなく、スタッフ、メディアの人たちを含め、すべてが一つになって戦った」と表情を崩しながら語った。

 このチームの源は槙野、安田、柏木、森島らの底知れぬ明るさだった。チームの立ち上げ時からメディアに対してもフランクで、仲間たちやスタッフとも良好なコミュニケーションが取れる存在だった。早生まれの梅崎、河原和寿(元・愛媛FC他)らも威張ることなく、チームの個性を尊重する。内田、田中といったシャイな選手たちも、やんちゃする彼らを温かく見守っている。GK林はいじられキャラとして人気者だった。

 本大会前に新戦力としてチームに加入した香川、森重、太田らが伸び伸びと個性を発揮できる環境もあった。特に太田は最後の最後で代表入りを果たしたが、大会ではチームの盛り上げ隊の中心を担っていた。


「選手、スタッフ、メディアの皆さん。本当にみんなで戦えたし、最高の時間だった。これで終わりなんて考えられない。もう1度、2-0のところに時を戻したい。本当に申し訳ありませんでした。そしてありがとうございました」

 ミックスゾーンの我々に頭を下げて話したのは、髪を赤く染め上げた槙野だった。

 よくありがちな内輪で盛り上がるのではなく、周りを巻き込む力を持っていた。後にも先にも、こんな魅力が詰まったチームを私は知らない。

当初は「調子乗り」に怒りも。

 さらにもう1つ、裏話がある。それはカナダ大会で「調子乗り世代」と名付けられた時のエピソードだ。

 当初、日本で「調子乗り」と報道されていることを知った時は怒っていたのだ。

「俺たちだって真剣にやった上で少しでも日本のことを知ってもらいたい、応援してもらいたいと思ってやったこと。ただの調子乗り集団と思われないようにやりたい」(槙野)

「調子に乗っているだけとは思われたくないよね。ちゃんと地に足を付けてもっと頑張る」(柏木)


 挑戦はベスト16で挑戦は終わったが、この言葉の通り、ただの「調子乗り」で終わらないサッカーを見せつけた彼らは、今では率先して「調子乗り世代」というフレーズを大切に使っている。

「確かに最初は嫌だったけど、よく考えるとこれまでなかった『〇〇世代』をつけてくれたわけですから、こうして未だに多くの選手が現役で頑張って、ピッチ外でみんなで集まったりした時に、調子乗り世代と覚えてもらえるのはいいことですよね。カナダは本当に悔しさもあるけど、いい思い出しかありません」(林)

 彼らにとってあの2年半の活動、そしてカナダでの躍進はサッカー人生において重要なものとなった。「調子乗り世代」としての誇りを胸に、それぞれのステージで戦い続けている。

 あの日、カナダで彼らを照らした夕日と、惜しみない拍手は決して色褪せない。

ジーコとイニエスタ、ふたりの様々な共通点とは

神戸のイニエスタを鹿島に於けるジーコに例えるサッカーダイジェストの白井氏である。
イニエスタはこれまで神戸が獲得してきた多くのスター選手とは一線を画す。
ジーコと並び立てるもの理解出来よう。
ジーコが鹿島にて成した偉大なる功績を神戸にもたらすやもしれぬ。
神戸の親会社である楽天はJリーグのスポンサーでもあり、多くの忖度を受けることも必至であることも後押しされる。
家康に於ける唐の頭に本多平八であったり、三成に於ける島の左近と佐和山の城とも思えるが、その評価は今後の歴史家に委ねるところ。
我らはこの白井氏が語るジーコの教えを守り更に鹿島を発展させていきたい。
初志貫徹である。

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神戸を変えたイニエスタはジーコのような存在…ふたりの様々な共通点とは
白井邦彦
2020年04月25日

華やかな助っ人の歴史でも一線を画す

 1995年の船出から四半世紀を迎えた今、神戸は大きな変革の渦中にある。長年にわたって受け継がれてきた堅守速攻スタイルから脱却し、自らボールを握るポゼッションサッカーへの移行という挑戦。その中心にいたのは、元スペイン代表のアンドレス・イニエスタである。

 今まで神戸には数々のスーパースターが在籍し、それぞれがひとつの時代を築いてきた。草創期の96年にはデンマークの英雄ミカエル・ラウドルップがレアル・マドリーから移籍加入し、若かりしアンドレス・イニエスタも憧れたドリブルやノールックパスなどの華麗なプレーでクラブをJリーグ昇格へと導いている。

 他にもマルキーニョス、レアンドロ、ペドロ・ジュニオール、ボッティ、ポポ、エステバン、キムナミルなど、神戸の歴史に名を刻む外国籍選手を挙げればキリが無い。ネームバリューで言えば、2002年のワールドカップ日韓大会でブレイクした元トルコ代表のイルハン・マンスズ、元カメルーン代表のパトリック・エムボマ、ローマでプレーしたシンプリシオらも記憶に残る選手だ。

 そして近年では、ダビド・ビジャやルーカス・ポドルスキといった超一流選手も在籍した。神戸のスーパースター列伝はかなり華やかなものと言っていい。

 その中で、イニエスタはやはり別格だ。いや、一線を画す存在といったほうが正しいかもしれない。

 なぜなら、ピッチでの異次元なプレーでチームを牽引するだけではなく、チームやクラブの方向性を示すコーディネーター的な側面を有しているからだ。例えるなら、鹿島を常勝軍団へと導いたジーコのような存在かもしれない。

 ジーコとイニエスタを比較すると、いろいろと共通点が浮かび上がってくる。まずは選手としてのキャリアである。

 ジーコはワールドカップに3度出場している。82年大会は、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとともに黄金のカルテットを形成し、「セレソン史上最強」と評されることがあるチームの中心として活躍した。そして母国ブラジルに限らず、世界的に絶大な人気を誇っている。

 鹿島では、93年のJリーグ開幕戦でハットトリックを達成し、同年の天皇杯ではヒールボレーという超絶プレーで日本のファンに強烈なインパクトを残した。

「だから、日本にやってきた」


鹿島に一流のプロフェッショナリズムをもたらしたジーコ。イニエスタと様々な共通点がある。(C)J.LEAGUE PHOTOS

 一方のイニエスタは4度のワールドカップを経験し、10年南アフリカ大会で優勝している。しかもオランダとの決勝戦では自らのゴールで優勝へと導いている。母国スペインにとどまらず、世界での人気を不動のものにした。

 そして神戸では、昨季24節の鳥栖戦で見せた、50メートル以上先の古橋亨梧へのワンタッチボレーパスなどワールドクラスのプレーを連発。しかも、まだ現役バリバリ。まだまだ強烈なインパクトを残してくれることは間違いないだろう。

 次に似ている点を挙げると、人望が厚く、日本に一流選手を呼べる点だ。鹿島にブラジル代表のレオナルドやジョルジーニョといったビッグネームを呼べたのは、ジーコや、その兄エドゥの存在が大きかったと言われている。クオリティの高い選手と一緒にプレーすることで、鹿島の日本人選手の質が向上し、結果としてチームの底上げに成功した。そして、勝ち続けることで勝者のメンタリティのようなものがクラブに根付くことになった。

 神戸ではイニエスタの加入によって、似たような現象が起こっている。ビジャやセルジ・サンペール、ベルギー代表のトーマス・フェルマーレンらスター選手がイニエスタの影響もあって神戸へやってきた。イニエスタ加入の1年前に加わったルーカス・ポドルスキを含め、ワールドクラスの選手たちと練習を繰り返し、試合を重ねることで日本人選手のクオリティはみるみると向上している。ボールを扱うスキルが上がったことで、プレーの判断スピードも高まり、チーム全体として余裕が出てきた。その環境下で、古橋や小川慶治朗、安井拓也といった若い選手が覚醒し、山口蛍、田中順也ら中堅からベテランも新境地を開いている。

 20年には元日の天皇杯決勝を制し、2月のゼロックススーパーカップも勝利。タイトルを積み上げることで選手たちにも確固たる自信が芽生えた。まだ途上だが、確実に神戸は常勝軍団へと成長している。

「私個人として、ヴィッセル神戸をJリーグの中でベストなチームにしたいと思っている。だから、日本にやってきた」

 これは、イニエスタが18年の最終節を前に合同記者会見で述べたコメントだ。19年シーズンの神戸は相次ぐ監督交代などで大いに揺れたが、その中で彼はキャプテンに就任し、ベストなチームにしたいという信念を貫いてきた。今は新型コロナウイルスという危機に直面し、プレーができない状況だが、彼のその想いがブレることはないだろう。

取材・文●白井邦彦(フリーライター)

ジョルジーニョ秘話

ジョルジーニョについて記すSportivaのリカルド・セティオン氏である。
ジョルジーニョの生い立ちや鹿島移籍の秘話、力を注ぐスクールのことが語られる。
ジョルジーニョを鹿島に呼んだのはエドゥであったことは初耳であった。
監督の采配で話題に上ることの多かったジーコの兄であるが、この功績だけでも鹿島の歴史に名を刻む価値があった。
また、ジョルジーニョに個人的には再び鹿島にて指揮を執って欲しい。
逆に日本の他クラブには行って欲しくない気持ちが大きい。
ジョルジーニョの次なるクラブに注目である。

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ジョルジーニョの告白。鹿島移籍時
「ジーコは私をほしくはなかった」

リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(前編)


 1994年アメリカW杯。ブラジルは決勝でPK戦の末にイタリアを下し、24年ぶりに世界チャンピオンのタイトルを手に入れた。その立役者はロマーリオだった。彼は大会中チーム内最多の5ゴールを決め、大会最優秀選手にも選ばれた。しかし、その優勝を陰で支えたもうひとりの功労者がいた。それがジョルジーニョだ。


1995年から98年まで鹿島アントラーズでプレーしたジョルジーニョ photo by Yamazoe Toshio

 本大会を前にブラジルは危機に陥っていた。南米予選の最終戦で、ブラジルはウルグアイに勝たなければならなかった。そうでなければ、史上初めてW杯出場を逃す可能性さえあった。しかしこの時、セレソン(ブラジル代表)の雰囲気は最低だった。ロマーリオがその少し前の親善試合出場を拒否したことで、カルロス・アルベルト・パレイラ監督との仲が決裂しかけていたのだ。

 そこで立ち上がったのがジョルジーニョだった。彼はロマーリオにチームに戻るように説得し、モチベーションを上げさせると同時に、パレイラ監督を落ち着かせた。その結果、ロマーリオはこの試合で2ゴールを決め、ブラジルは無事W杯出場を決めた。ジョルジーニョ自身も1ゴール目をアシストなど活躍。ロマーリオはゴールを決めると。真っ先に彼のもとにかけつけた。

 温厚で常に礼儀正しく、他人をリスペクトするジョルジーニョは、いわばロマーリオと正反対の性格であったが、それがよかったのかもしれない。セレソンの合宿でふたりはいつも同室で、ジョルジーニョは多くの伝説を持つ悪童に忠告ができる、数少ない人間でもあった。いまでも彼らは仲のいい友人である。

 彼がサポートしたのはロマーリオだけではない。ドゥンガも一筋縄ではいかない性格をしているが、彼の代表監督就任中、ジョルジーニョはそのアシスタントを務めている。チームメイトのみならず、対戦相手やサポーターなど、誰からも愛される存在であった。ブラジルサッカーの歴史の中でも、最も紳士的で謙虚な選手といっても過言ではないだろう。

 ジョルジーニョは1964年、リオデジャネイロの郊外の貧しい地区で生まれた。父親のことをジョルジーニョはこう語っている。

「彼はポルトガルからの移民だったが、とにかく酒が好きだった。家に帰るといつも暴力をふるった。今でいうDVだ。母はあまり何度も殴られたため耳が聞こえなくなってしまった。私も手加減なしに殴られた。本当にひどい子供時代だった」

 その父親も早くに亡くなり、一家は貧しかった。ジョルジーニョ少年にとって、サッカーはそんな現実から逃れる唯一の手段だった。

「サッカー人生で最も栄光に輝いていた時でさえ、かつての家での風景がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。母が泣き、自分は殴られないようにどこかに隠れ震えている。そんなシーンがまるで映画のように見えてくるんだ」

 彼の持つ優しさは、そうした生い立ちからくるのかもしれない。選手時代、彼は毎日一番に練習場に現れ、翌日のために誰よりも早く就寝した。そんなジョルジーニョをフラメンゴでともにプレーしたジーコはこう評している。

「ジョルジーニョはサッカー選手のお手本のような生活態度だった。彼が頑張っているから、自分も頑張る。そう思う選手も少なくなかったろう。彼はチームのエネルギーの源であり、無くてはならない存在だった」

 ブラジルからヨーロッパに渡っても仕事に対する真摯な態度は変わらなかった。レバークーゼンで多くの勝利を得て、名門バイエルンでは外国人選手ながらキャプテンを務めるまでになったのは、彼の人柄と仕事熱心な態度からだろう。

 1995年、シーズン途中に突如ドイツを離れ、日本へと渡った。当時のいきさつをジョルジーニョ自身が教えてくれた。

「実は日本に行くなんていう考えは自分の頭にはまるでなく、イタリアかスペインに行きたいと思っていたんだ。しかし、バイエルンがヨーロッパのライバルチームに私を渡すのを嫌がっていて、そんな時に日本からのオファーが来た。

 私を鹿島アントラーズに呼んだのはジーコということになっているが、それは真実ではない。私を呼んだのはジーコの兄のエドゥだった。あまり知られていないことだが、ジーコは私をほしがってはいなかった。彼らには、アルシンドの代わりになるような前線の選手が必要だったからだ。でもエドゥの口調は断固としていた。『ジーコと喧嘩をしても僕は君がほしい。このチームには真のリーダーが必要だ。経験があってチーム全体を動かせるようなね』と。その言葉が私を決心させたんだ」

元鹿島のジョルジーニョはいま、
430人の貧しい子供を育てている

リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko


アメリカW杯でブラジルが優勝した翌年、鹿島アントラーズに移籍したジョルジーニョ photo by Yamazoe Toshio

あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(後編)


 1994年アメリカW杯でブラジルの優勝に貢献。ドイツの名門バイエルンでキャプテンを務めていたジョルジーニョは、1995年、ジーコの兄エドゥの求めに応じて来日。すぐに鹿島アントラーズの中心選手となった。彼の加入にあまり積極的でなかったというジーコも、その移籍が成功だったことを認めざるを得なかった。

 キャプテンとして多くの若き日本人プレーヤーの指南役を務め、チームにタイトルをもたらした。すでに30歳を超えていたジョルジーニョを、ギャリアの終わった選手だとみなす者も多かったが、彼はこれに自分のやり方で反論した。1996年にJリーグの年間最優秀選手に選ばれたのだ。

 1999年、鹿島を退団してブラジルに戻ったジョルジーニョは、サンパウロ、ヴァスコ・ダ・ガマでプレーしたあと、2002年のフルミネンセを最後に引退し、指導者としての勉強を始めた。ドイツに渡り、そこで多くの優秀な監督から学び、かつて在籍したバイエルンで修業を積んだ。

 2005年には、選手のキャリアをスタートしたのと同じアメリカRJで監督を始める。温厚な性格のおかげで、どこにでも友人がいたため、彼にはさまざまな声がかかった。ブラジル代表のアシスタントコーチもそのひとつ。5年間にわたり、ドゥンガの右腕となって代表に尽くしたあとは、いろいろなチームで経験を積み、2012年には、鹿島アントラーズの監督として日本に舞い戻っている。

 1年半、鹿島を率いたあと、彼はまたブラジルへと戻ったが、それは日本での成績が悪かったからではない、ブラジルのビッグクラブ、フラメンゴが彼を招聘したからだ。ブラジル人監督ならば誰もが憧れるポストである。その後もポンチ・プレッタ、アラブ首長国連邦のアル・ワスル、ヴァスコ・ダ・ガマなどで監督を務め、昨シーズンにはコリチーバを率いていた。

 監督としてのジョルジーニョは、選手としての彼ほどは成功していないと言っていいだろう。2012年、鹿島アントラーズでナビスコカップに優勝し、2016年にヴァスコ・ダ・ガマでカンピオナート・カリオカ(リオ州選手権)優勝を勝ち取ったのが目立つ程度だ。

 一方、ジョルジーニョほど多くのスターとともにプレーした選手はそういない。ジーコとはフラメンゴでともにプレーし、フランツ・ベッケンバウアーはバイエルン時代の監督だ。

 もちろん、ブラジル代表ではロマーリオ、ベベット、ジーニョ、ドゥンガ、カレッカ、クラウディオ・タファレル、レオナルドをチームメイトに持ち、偉大な監督マリオ・ザガロとパレイラのもとでプレーしている。代表ではまずライトバック、その後はセンターバックを務め、11年間で71試合に出場、1990年と1994年のW杯に出場した。個人タイトルも多く取っているが、なかでも彼らしいのか1991年に受賞したFIFAフェアプレーアワードだ。

 ジョルジーニョは言う。

「私の人生における一番大きなプレミアムは、私の家族と、そして私の作ったスクールだ」

 スクールの名前は「インスティトゥート・ボラ・プラ・フレンテ」。「ボールを前へ」という意味だ。自分が生まれ育ったリオ近郊の貧しい地区の子供たちを助けるため、彼はこの学校を作った。2000年に設立して以来、ほぼ独力で、何万人という人々を助けてきた。現在は6歳から17歳まで430人の子供たちが学んでいる。みな家が貧しく、学校など行けない者たちだ。彼らはここで基礎的な教育を受け、食事をし、望めばスポーツや芸術などを学ぶこともできる。

 もうひとつの彼の宝である家族は、妻のクリスティーナと4人の子供、そして3匹の犬である。

 55歳になるジョルジーニョは現在、ほかのブラジル人と同じように家で過ごしている。英語を学びながらこの危機が去るのを待ち、その後は新たなチームを探すつもりだ。2019年の終わりにコリチーバを辞めてから、まだオファーはない。

「しかし、こんなことはブラジルでは当たり前だよ。監督は就任するのも、クビが飛ぶのも一瞬だ。自分としてはまだ数年は監督を続けたいと思っている。外国のチーム、もちろん日本のチームも大歓迎だよ。日本は私の中ではいつも特別な国なんだ」

岩政大樹氏、アドレナリン8割、大袈裟2割

サッカー選手の接触プレイ時の転倒についてTweetした岩政大樹氏である。
「大袈裟に倒れてすぐ起き上がる」について「アドレナリンのせいです。アドレナリン8割、大袈裟2割(個人的見解)」と返答する。
非常に興味深い。
アスリートは実践中にはアドレナリンが分泌され集中力が増しておる。
このあたりも含めて観戦すると更に面白く観ることが出来よう。
また、岩政のTwitterはとても面白い。
彼の文章力が凝縮されておる。
言語化という能力は突出した人であることがよく分かる。
これからも更新を楽しみにしておる。

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「サッカー選手は大袈裟に倒れてすぐ起き上がる」に対する岩政氏の本音「悪しからず」
20/4/25 07:11

 元日本代表DFの岩政大樹氏が24日に自身のツイッター(@_PITCHLEVEL)を更新し、「サッカー選手は大袈裟に倒れてすぐ起き上がる」と言われることに対して持論を述べた。

 現役時代に鹿島などで活躍した岩政氏はツイッターで「サッカー選手をやめて1年半。離れてみると試合中のアドレナリンって凄かったなと思う」と回顧。痛みを抱えながら無理を押し通してプレーを続けた試合を振り返り、「今の時代はもうこういう姿勢はよしとされないだろう。しっかり治してからプレーすべき。僕もそう思う。ただ、僕は試合に出たかった。監督の信頼に、サポーターの声に応えたかった」と語っている。

 続けて岩政氏は「ちなみに『サッカー選手は大袈裟に倒れてすぐ起き上がる』と言われますが、あれアドレナリンのせいです。アドレナリン8割、大袈裟2割(個人的見解)」と言及。「接触の瞬間は痛みがあり、アドレナリンで試合中はすぐ引きます。ただ、瞬間では状態が分からないこともあり、ひとまず痛がります。悪しからず」と付け加えている。

 ユーザーから「プロはかなり大袈裟だと思う」「ラグビー選手はサッカー選手ほど痛がらない」といった意見が寄せられると、「カテゴリが違えば、スピードが違いますよね。強度もまるで違うかと。またサッカーとラグビーはそれこそまるで違うと思うのですが。足で扱っていませんし、相手が来る方向なども」と元プロサッカー選手の立場から説明した。

染野唯月、今はまだ序章に過ぎない

染野唯月について記す高校サッカードットコムの小室氏である。
高校時代のゴールシーンの回想に加え、先月に行われた札幌戦でのゴールについて評す。
「シュートまでの一連のアクションがこれほど滑らかなFWはそういないのではないか」と賛辞を送っておる。
これは期待に胸が膨らむ。
小室氏は更に「力みがなく、しなやか」と特筆する。
流れる風のようなプレイなのであろうか。
染野唯月の躍動が楽しみである。

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シュートまでの一連のアクションが 驚くほど滑らかなFW染野唯月
2020.04.24


高校時代のMF染野唯月(右)

 ちょっと何を考えているのか、わからない。

 鹿島アントラーズの高卒ルーキーのひとりである染野唯月のプレーを見て、そんな感想を漏らす人が少なくないが、FWにとってこれほどの褒め言葉はないだろう。

 ボールの周辺状況をめぐり、プレーの優先順位が決まっていくサッカーでは技術もさることながら、相手との駆け引きがものをいう。

 次のプレーを予測させない。もしくは予測されていたとしてもその裏をかく。ギリギリで、プレーの選択を変えられるか、否か。そんな“惑わす力”が攻撃的な選手には問われるといっても過言ではないだろう。

発想の転換と、それを涼しい顔で、やってのける技術の高さ。染野のプレーには思わず腰を浮かしてしまうような驚きがある。

 尚志(福島)2年時の第97回全国高校サッカー選手権で5得点を挙げ、大会得点王を分け合った(ほかに2人)。なかでも衝撃的だったのは、準決勝の青森山田(青森)戦でのハットトリックだろう。ゴールへのアプローチからフィニッシュに至るまで、どれをとっても点取り屋としての資質にあふれていた。

 現時点でのFW染野のプロモーション映像をまとめるとしたら、外せないゴールばかりだ。

 第98回大会の出場権をかけた県決勝では(2019年11月17日)、チームを全国に導く貴重な1点をマークしている。そのシュートもまた“らしさ”満載だった。得も言われぬ軌道を描きながらゴールの枠内へ吸い込まれていく。相手選手にとって抗う術がなかった。

 ゴールシーンを少しプレイバックしてみよう。

 右サイドからのロビングに対し、相手GKとDF、味方の3人が重なるような形になり、そのこぼれた球を左足で止めて、素早く左足でふわりと浮かせた。ボールを受けた位置はゴール正面やや左側で、ペナルティーエリアのライン上辺り。味方につないで、攻撃をやり直してもいいような状況だった。

ところが、染野はシュートを選択する。その瞬時の判断にまず驚かされるし、そこにシュートコースを見出した着眼点にもうなるばかりである。

 当然のように“全国”での活躍が期待されたが、その後、腰椎分離症によって戦線離脱を余儀なくされてしまう。本大会の選手登録を外れたため、ピッチに立つことはなかった。チームは初戦の徳島市立(徳島)に0-0からPK戦の末、無念の敗退。染野の高校サッカーはここで幕を閉じた。

「ずっと試合に出るのが当たり前だったけれど、チームメイトをサポートする側に回っていろいろ気づくこともあった。自分にとっては大事な時間になった」と、前向きに受け止めている。

 プロのスタートをきった鹿島でのトレーニングは当初ケガのためにリハビリ中心だったが、3月中旬にチームの全体練習に合流。元気な姿を見せていた。

 そして3月21日、札幌とのトレーニングマッチで、いきなりゴールを決めてみせた。味方からのパスを受けて、ドリブルで持ち上がり、GKとの1対1を丁寧にゲットした形だが、シュートまでの一連のアクションがこれほど滑らかなFWはそういないのではないか。

「大器の片りんを見せつけたね」と、チーム首脳陣も思わず笑顔になる。

中学時代、鹿島つくばジュニアユースに在籍していた当時、ボランチだったが、尚志に進み、FWとしての才能を開花させていく。

 力みがなく、しなやか。

 そんな染野がしのぎを削り合うプロの世界で、どのくらいのゴールを積み上げていくのか。俄然、夢が広がるが、今はまだ序章に過ぎない。

(文=小室功)

小泉社長、しっかり経営努力をしていく

選手の報酬返納についてコメントした小泉社長である。
「なるべく社員、フロントスタッフも含めて手をつけたくない。しっかり経営努力をしていく。(人件費は)ほとんどのチームのコストを占める部分ですので、議論としては最後の最後に残ってしまうと思う。私たちは何とか稼げるように努力をして人件費を守っていきたい」と語る。
この雇用を守る姿勢は素晴らしい。
頼もしい経営者と言えよう。
「海賊と呼ばれた男」を彷彿させる。
出光興産創設者をモデルにしたこの小説に於いて主人公の国岡鐡造は戦争による危機でもひとりの馘首をせず乗り切り企業を発展させた。
この誇りと精神には頭が下がる。
小泉社長もこのように鹿島を大きくしてくれよう。
楽しみにしておる。

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【鹿島】選手の報酬返納には否定的 小泉社長「経営努力で人件費を守っていく」
2020年4月24日 22時47分スポーツ報知


取材に応じる小泉社長(左)

 鹿島は24日、定時株主総会で19年度の決算報告を行った。営業収入は約68億円で、純利益は約300万円の黒字。株主総会後に報道陣向けにウェブ会見を行った小泉文明社長は、昨今のコロナ渦について「実態が見えず見通しが難しい状況。アントラーズも気を抜くと危ない」と危機感を募らせた。

 選手の報酬返納の可能性については「各クラブチーム、選手会、リーグ、それぞれでコミュニケーションをとりながらやっていく必要性がある」と話した。欧州の一部の国ではリーグと選手会の主導で行われたが、クラブ単位での導入には否定的。「なるべく社員、フロントスタッフも含めて手をつけたくない。しっかり経営努力をしていく。(人件費は)ほとんどのチームのコストを占める部分ですので、議論としては最後の最後に残ってしまうと思う。私たちは何とか稼げるように努力をして人件費を守っていきたい」と話した。

 リーグ再開の見通しが立たず厳しい状況が続くが、小泉社長は「リーグも理念強化配分金など賞金を含め資金を配布しながら1チームもつぶさないと村井チェアマンはじめ、リーダーシップをもってやっている。このまま行くと夏、秋にかけて資金繰りが厳しくなってくるチームも出てくると思っていますし、アントラーズも気を抜くと危ない状況になるかもしれない。デジタルを始め、いろいろな経営努力を行っていく必要がある」と語った。

機動戦士ガンダム40周年 アントラーズコラボレーションガンプラ販売開始

機動戦士ガンダム40周年 アントラーズコラボレーションガンプラの告知である。
なかなか格好が良い。
右肩のカラーリングに鹿島がよく表されておる。
またストライクガンダムは、機動戦士ガンダムSEEDの前半の主役機である。
キラ・ヤマトの種が割れるシーンが強く記憶に残る。
攻撃的な鹿島アントラーズによくマッチしておるのではなかろうか。
チームも中断明けには種が割れて覚醒してくれよう。
楽しみである。

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機動戦士ガンダム40周年 アントラーズコラボレーションガンプラ販売開始のお知らせ
2020.04.24(金)

4/25日(土)10時よりJ1全チームとコラボレーションしたガンプラより 『HG 1/144 ストライクガンダム 鹿島アントラーズVer.』がオフィシャルオンラインストアで販売になります。

商品の詳細、購入はこちら


HG 1/144 ストライクガンダム 鹿島アントラーズVer. 価格:3,000円(税込)
サイズ:1/144(高さ約12.5cm)



【注意事項】
・販売数量には限りがあります。完売の際はご了承ください。

【オフィシャルオンラインストアでの注意事項】
・オンラインストアでのご注文には、JリーグIDのご登録が必要となります。
JリーグIDに関する詳細はこちら をご覧ください。
・お支払いはクレジットカード決済または代引き決済となります。
・ご注文いただいた商品は、日本郵便がお届けいたします。
・送料は3/18より
 3,980円(税込)以上のご注文【全国一律送料無料】
 3,980円(税込)未満のご注文【全国一律715円(税込)】となります。
・代金引換をご利用の場合は、330円(税込)の手数料が別にかかります。
・新型コロナウイルスの影響で配送に遅れが出る場合がございます。予めご了承ください。
・「ファンクラブ割引対象外」とさせていただきます。
・商品によってはお届けまでお時間をいただく場合がございます。商品ページをご確認のうえご購入ください。
・一度ご使用になった商品や、お客様の都合で汚れ・キズ等が生じたもの、またお客様都合での交換・キャンセル・返品はお受けできません。
・その他、詳細は、J.LEAGUE ONLINE STORE ヘルプページ にてご確認ください。

【お問い合わせ】
●鹿島アントラーズオフィシャルオンラインストア
(オンラインストア カスタマーセンター)
受付時間:平日10:00~17:00(年中無休)
電話番号:050-5306-6093
お問い合わせフォーム:https://store-jleague.faq.rakuten.net/form/inquiry

【各公式HP】
機動戦士ガンダム
40周年Jリーグコラボレーション公式サイト:https://gundam-jleague.jp/
ガンダム40周年プロジェクト公式サイト:http://gundam40th.net/
バンダイホビーサイト:http://www.bandai-hobby.net/
株式会社BANDAI SPIRITS HP:https://www.bandaispirits.co.jp/

小泉社長、アントラーズも気を抜くと危ない状況

株主総会後にメディア向けウェブ会見を行った小泉文明社長である。
「実態が見えず、見通しが難しい。このままいくと夏、秋にかけて資金繰りが厳しくなるチームが出てくると思うし、アントラーズも気を抜くと危ない状況」と語り、今期について「入場料収入はかなり小さくなると思う。その他物販など含めて、おそらく10億円以上の単位で場合によっては(営業収入が)落ち込む可能性もあると思っている」と言う。
新型コロナウイルスの影響は非常に大きい。
その対応策として、「減るのをただ見ているわけにはいかない。物販ではeコマース(電子商取引)の強化を準備中。クラウドファンディングや投げ銭などのデジタル施策で収益化を計る、またお客様の感動値をいかにスタジアムと同じようにキープできるかなど、無観客試合であっても入場料収入が0にならないような仕組みを準備したい」と挙げる。
新経営者はこれまでとはひと味違うところを見せる。
また、「10億円規模の融資枠を得ている」、「政府が準備している支援策もある。場合によっては、親会社からのさらなる融資も検討の必要がある」とこの難局を乗り切る術を口にする。
鹿島アントラーズFCはとりあえずは大丈夫と信じる。
小泉社長と共にこの危機を乗り越え、更なる高みを目指していこうではないか。
重要な局面である。

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鹿島「10億以上の単位で落ち込む」デジタルに活路
[2020年4月24日14時42分]

鹿島アントラーズは24日、定時株主総会で19年度の決算報告を行った。営業収入は、クラブ史上最高だった昨年比約マイナス5億の約68億円。純利益は約300万円の黒字となった。

新型コロナウイルスの影響でJリーグが中断しており、入場料収入を得られない状況。株主総会後にメディア向けウェブ会見を行った小泉文明社長(39)は「実態が見えず、見通しが難しい。このままいくと夏、秋にかけて資金繰りが厳しくなるチームが出てくると思うし、アントラーズも気を抜くと危ない状況」と説明した。

発表された19年度の決算報告では、入場料収入は約10億円だった。小泉社長はリーグ戦再開が決まらない現状に「入場料収入はかなり小さくなると思う。その他物販など含めて、おそらく10億円以上の単位で場合によっては(営業収入が)落ち込む可能性もあると思っている」と危機感を表した。「減るのをただ見ているわけにはいかない。物販ではeコマース(電子商取引)の強化を準備中。クラウドファンディングや投げ銭などのデジタル施策で収益化を計る、またお客様の感動値をいかにスタジアムと同じようにキープできるかなど、無観客試合であっても入場料収入が0にならないような仕組みを準備したい」と、親会社メルカリが得意とするデジタルに活路を見いだす構えだ。

そのメルカリからは「10億円規模の融資枠を得ている」(小泉社長)とも明かした。「政府が準備している支援策もある。場合によっては、親会社からのさらなる融資も検討の必要がある」と続け、厳しい現状を受け止めた。

鹿島アントラーズFC、2019年度決算概要

2019年度の決算を公表した鹿島アントラーズFCである。
営業収入は67億7680万円、およそ70億円の売り上げということとなった。
Jリーグとしてはトップランクに位置づけられる。
また、支出に目を向ければ、チーム人件費(選手と監督・スタッフへの年俸)がおよそ30億円となり大半を占める。
これはサッカークラブとして健全な形である。
より良いチームを運営していくためには高額でクオリティの高い選手を保持することが必須となる。
昨期の状況は理解出来た。
また、今期は新型コロナウイルスの影響にて無観客試合が想定され、入場料収入の激減が予想される。
そして来期以降は不況にて広告収入の減収も予期せねばなるまい。
それもふまえて経営陣の手腕に期待しておる。

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2019年度 決算概要について
2020.04.24(金)

株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーの第29期定時株主総会が本日4月24日(金)に開催され、下記決算内容が報告されましたので、お知らせいたします。

2019年度クラブ収支状況
(単位:百万円)
2019年度
営業収入 広告料収入 2,303
入場料収入 996
Jリーグ配分金 775
アカデミー関連収入 257
その他 2,437
計 6,768
営業費用 チーム人件費 2,936
試合関連経費 518
トップチーム運営経費 483
アカデミー運営経費 192
販売費及び一般管理費 2,544
計 6,673
営業利益 95
営業外収益 5
営業外費用 1
経常利益 99
特別損益 0
税引前当期純利益 99
法人税等 96
当期純利益 3

ジョルジーニョ氏からのメッセージ

ジョルジーニョ氏のメッセージを伝える鹿島アントラーズ公式Twitterである。
新型コロナウイルスについて口にする。
奥さんとお子さんに感染し、義父も入院しておるとのこと。
ジョルジーニョ本人は陰性とのことであるが、胸の内は苦しい思いをしておろう。
このコメントから力を貰い、強くこの新型コロナウイルスとの戦いに挑んでいきたい。
また、後半に納められておる現役当時のプレイには感嘆させられる。
力強く正確なボールが懐かしい。
ジョルジーニョと共にこのパンデミックに勝利しようではないか。
結束である。

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「家族も感染していて…」元鹿島・ジョルジーニョからの力強いメッセージにファン感激
サッカーダイジェストWeb編集部
2020年04月23日


鹿島の“レジェンド”がブラジルの現状を語った

 過去に在籍した名手たちのゴール集などをYoutube公式チャンネルで公開している鹿島アントラーズは4月23日、かつて選手としてプレーし、監督も務めた元ブラジル代表ジョルジーニョの動画を公開した。

 現在ブラジルにいるジョルジーニョは冒頭、「親愛なるアントラーズサポーターのみなさん。ブラジルの現状をお伝えできたらと思います」と呼びかけた。

 そして「ブラジルは(新型コロナウイルスの)パンデミックの初期段階ではないかと思う。家族もかかっていて、妻と子どもふたりは症状が現われ、熱、倦怠感、頭痛、咳、味覚・嗅覚の欠如があります」と、家族が感染していることを明かした。

 ジョルジーニョ自身と末っ子には症状が出ていないという。だが、「75歳になる義理の父親は陽性となり、呼吸器をつけて入院中です。回復を願っているところです」とその身近で感染者が出ていることを伝えている。

 ブラジルでは日々感染が拡大しており、22日時点で感染者は4万5000人、死者は2000人を超えた。貧困層で蔓延が大きな問題となり、深刻な状況が続いている。

 そんななか、元セレソン戦士は最後に日本のファンへ力強いメッセージを送った。

「神のご加護でブラジル、日本そして世界を護ってくれることを願っています。リスクの高い60歳以上の方、持病をお持ちの方などを重点的にケアして、このパンデミックに勝利しましょう。みなさんが恋しいです。心からのキスを」 

 この言葉に、鹿島サポーターは「ご家族が罹患されているのに。本当にありがとう」、「心はいつもそばにいます。あなたが恋しいよ」、「ジョルジの家族が回復されますように」、「ご自身の辛い状況の中で暖かいのメッセージを頂き、本当にありがとうございます」といったコメントを寄せている。

構成●サッカーダイジェストWeb編集部


ジーコはとりわけJリーグの“看板”としての大きな役割を果たしてくれた

ジーコ(と中田英寿)について記すサッカーダイジェストのセルジオ越後氏である。
Jリーグ黎明期のジーコの功績を大きく称える。
鹿島アントラーズをアジア屈指のクラブに造りあげたことで知られるが、それ以上にJリーグの爆発的ブームを押し上げた。
日本のサッカーファンはそれを思い起こし、感謝をしておる。
この27年で日本サッカーは大きく進歩した。
その要因にジーコの功績は多大である。
それを心に刻み、更に日本のサッカーを進化させていきたい。

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【セルジオ越後】代表監督時代は批判もしたけど…土の上でサッカーをしてくれたジーコに感謝!
サッカーダイジェストWeb編集部
2020年04月23日


Jリーグ歴代ベストイレブン企画で敢えて選ばなかった2名について話したい


発足当時のJリーグを支えたジーコ(上段中央)。世界のスターが来てくれたことに感謝したいと越後氏。(C) Getty Images

 新型コロナウイルスの感染拡大によって全世界の経済活動が停滞してしまっている。サッカー界も言うに及ばず、リーグ戦はどこも中断を余儀なくされて、ヨーロッパの一部では中止を決断する状況にもなった。Jリーグもちょっと再開の時期が見通せなくなっているね。

 そんななかでスポーツに関する報道もネタが限られているよね。最近、新型コロナウイルス関連のニュースのほかでよく目にするのは、過去の名場面や名選手を取り上げる企画だ。実は、僕も4月23日に発売される『サッカーダイジェスト』誌でのJリーグ歴代ベストイレブンの企画に参加して、懐かしの11人を選んでみた。

 僕がどんな11人をピックアップしたのかは、雑誌のほうを読んでもらいたいんだけど、今回は「長くJリーグを支えてくれた選手」という基準で選んだから、本当は挙げたいけど、敢えて選ばなかった選手が何人かいたんだ。そんななかでも、とりわけ挙げておきたい二人の人物について話したい。

 まずひとり目は、すでに一度は引退しながらもJリーグ発足にあたり、住友金属(鹿島の前身)からのオファーで復帰したジーコだよ。僕は彼が日本代表の監督をやっていた当時に、散々批判してきたからアンチ・ジーコだと思っている人も多いかもしれないけど、日本サッカーを底上げして、Jリーグを日本に根付かせてくれたという意味では本当に大きな貢献をしてくれたと思って感謝しているんだ。

 世界中の誰もが知っているスーパースターがJリーグ発足前の日本にやってきて、時には土の上でもサッカーをやらなければいけない環境を選んでくれた。これは本当に凄いことだよ。少年時代から芝生の上でサッカーをしてきた今のJリーガーに、そんな覚悟は持てるかな? しかも周りはアマチュアからプロになりたての選手ばかりだ。

 僕もブラジルから来日した当初は、パワフルな釜本(邦茂/ヤンマー)さんやエレガントな宮本輝紀(新日鐵)さん、スピードのある杉山(隆一/三菱重工)さんのプレーには驚かされたものだけど、そうした選手は一握り。ガッツや根性のある選手はいっぱいいたけど、そのレベルといったら……。おそらくジーコも、環境にしろ、サッカーのレベルにしろ、言いたいことは山ほどあったはずだよ。

 もちろん、ジーコのほかにも発足当初のJリーグを支えてくれた選手としてはファンタスティックな技術で楽しませてくれたピクシーやリトバルスキー、あるいはラモス瑠偉やカズがいた。さらに日本リーグ時代に遡ればネルソン吉村、ジョージ与那城といった選手たちがレベル向上のために引っ張ってきてくれた。

 ここ数年でまたフォルランやイニエスタといったビッグスターが来てくれるようになったけど、彼らが活躍するためのレールを引いたのは間違いなくJリーグ発足当初のスター選手たちだよ。そのなかでもジーコはとりわけJリーグの“看板”としての大きな役割を果たしてくれたんじゃないかな。

日本人が実力で勝ち取った初めての“海外移籍”

 歴代ベストイレブンに選ばなかったなかで、もうひとり挙げておきたいのが中田英寿だ。ヒデはJリーグでは3年半ほどしかプレーしなかったけど、特に3年目、4年目のインパクトは凄かったよね。

 ヒデの功績として大きいのは、日本人選手として初めて“海外移籍”したことだよ。正直、彼がペルージャに移籍するより前の移籍は、留学的な側面が強かった。移籍先のチームも初めから選手の実力を評価して取ったわけじゃなくて、まず練習させて実力を測ったうえで契約したり、あるいはマーケティングの側面を大いに期待しての契約だったはずだ。

 もちろん、ペルージャに移籍したヒデにもクラブがまったくマーケティング効果を期待しなかったわけじゃないと思うけど、ワールドカップで魅力的なプレーをして選手としての正当な評価を得たうえで、プロ化した社会に海の向こうからオファーが届いた。あの移籍が、日本人が実力で勝ち取った“初めての”海外移籍だったと思うよ。

 そして、そのヒデのイタリアでの活躍によって、日本代表の主力選手たちに海外から次々とオファーが来るようになった。ただし、その後は代理人が売り込んでねじ込むような移籍も増えていったから、現状は一概に実力で勝ち取った移籍とばかりは言えないけど、ジーコと同じく道筋をつけたという意味では、ヒデの貢献も大きいよ。

 ただし、そんなヒデも欧州のビッグクラブでレギュラーに定着するところまではいけなかった。その後、長友がインテルでしばらくレギュラーを務めたけど、マンチェスター・ユナイテッドに所属した香川しかり、ミランに移籍した本田しかり。花形の攻撃的な選手では、いまだビッグクラブで主軸となり、活躍したケースは出ていない。

 日本サッカーがさらにもう一歩ステップアップするためにも、そういう選手が出てくることを望みたいね。

Jリーグ、無観客試合での開催を検討

Jリーグ再開について現時点での状況をまとめる報知新聞の内田キャップである。
6月再開を目標としており、中断初期はやらないと明言しておった無観客試合を考慮しておることが伝えられる。
無観客試合は、赤字となるため運営側のデメリットが大きすぎる。
しかしながら、今季はDAZNの放映権料にて補填することで乗り切ることとなる。
欧州では、ドイツが5/9の再開を目指しており、もしその無観客試合が無事に開催されれば、それがモデルケースとなろう。
Jリーグは5/23に見極めるとのこと。
一ヶ月後には明るい話題が流れることを期待しておる。

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Jが無観客再開シミュレーション検討…デメリット入場料ゼロでもDAZN放映権料「減額なし」追い風に
2020年4月24日 6時0分スポーツ報知


3月21日、一般非公開で行われたカシマスタジアムでの鹿島と札幌の練習試合


今季のJリーグ


 新型コロナウイルスの影響で中断しているJリーグは、村井満チェアマン(60)が無観客開催での再開のシミュレーションを開始すると明言した。無観客試合の数少ないメリットを、内田知宏キャップが読み解く。

 村井チェアマンはNPBとの連絡会議後、各クラブの代表者とウェブでの臨時実行委員会を開いた。「6月の再開を一つのシナリオに交えながらやっていく」と伝え、開催方式に無観客試合を「オプションとして加え、備えていく」と通達した。これまで「最後の選択肢」としていた無観客試合。感染症専門家チームからの助言を受けて、視野に入れた。

 無観客は、デメリットしかないといわれる。クラブ収入源の一つ、入場料収入が得られず、スタジアムの賃料や選手へのインセンティブ(出来高)の支払いで大きな赤字を生む。火事場のくそ力の源、声援がなければ、選手のパフォーマンスに影響も出るだろう。また、画面を通して見る側は当然、現地観戦よりも心の振り幅が小さく、非日常を味わうことはかなわない。

 ただ、今回に限ってはメリットがある。Jリーグと10年約2100億円の放映権契約を結ぶスポーツチャンネル「DAZN(ダゾーン)」だ。他国では中断に伴い、放映権料の減額を求めるケースが多い。関係者によると、今週の会議でDAZN側は、Jリーグが夏場に再開できれば大きな減額をしない方針とし、減額してもJリーグ運営に支障が出ない、1割未満に抑えるという。

 Jリーグが弱体化し、魅力が薄れれば、DAZN加入者数にも影響が出る。今を取るか、先を取るかで将来を考えた経営判断だと聞く。無観客試合で加入者が増えることが見込まれ、「減額なし」に追い風となることは間違いない。無観客試合は、罰則適用の2014年3月23日の浦和―清水戦以来。最短で6月13日に再開する可能性があるJリーグ。このご時世、悪いことよりも、良いことに目を向けたい。(内田 知宏)

天皇杯 JFA 第100回全日本サッカー選手権大会大会方式について

今季の天皇杯について公表したJFAである。
Jリーグからは、J1の2チームが参加するとのこと。
なかなか強烈な大会方式の変更と言えよう。
これが記念すべき第100回大会のレギュレーションと思うとかなり思うところがある。
しかしながら、新型コロナウイルスの影響は大きく、平時ではない。
このような事も致し方がないと受け入れるしかない。
この2チームの一つが鹿島であることを願う。
このようなご時世に於いても重要な大会である。

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天皇杯 JFA 第100回全日本サッカー選手権大会大会方式について
2020.04.23(木)

本日、日本サッカー協会より天皇杯 JFA 第100回全日本サッカー選手権大会の大会方式変更について発表がありました。

第100回天皇杯に限って、出場チームを50チームに絞った7回戦ノックアウト方式で9月開幕となり、Jリーグからは、2020明治安田生命J1リーグ上位2チームのみ(決定方法は検討中)が12月27日(日)に予定している準決勝から出場します。

HappyBirthday トニーニョ・セレーゾ

トニーニョ・セレーゾの誕生日を祝うブラジルのterra紙である。
先日の4月21日に65歳の誕生日を迎えたトニーニョ・セレーゾをサッカー史上最高のMFの一人と報じる。
素晴らしい。
この偉大なる名選手が後に極東のクラブの監督としてJリーグ史上初の三冠をもたらしたことも付け加えたい。
HappyBirthday!
これからもお元気で。

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Cerezo completa 65 anos e recebe homenagens pela história no futebol
O meio de campo fez seu nome com as camisas do Atlético-MG, Roma, Sampdoria, São Paulo e até no rival Cruzeiro

Valinor Conteúdo
21 ABR 2020 21h03atualizado às 21h03


Um dos maiores meio de campos da história do futebol completou 65 anos de vida nesta terça-feira, 21 de abril. Toninho Cerezo, tem rica história no futebol brasileiro com passagens emblemáticas pelo Atlético-MG, Roma e Sampdoria, ambos da Itália, São Paulo, onde foi campeão do mundo em 1993, e até no Cruzeiro.

Cerezo jogou duas Copas do Mundo, de 1978 e 1982, fazendo parte do time que ainda embala os sonhos de uma geração que torceu pela seleção canarinho na Espanha.

O ex-jogador, foi vice-campeão da Ligas dos Campeões pelo Roma, em 1984, mas a idolatria dos italianos vem dos torcedores da Samp, onde ajudou o clube de Genoa a conquista seu único Scudetto, em 1991, sendo um dos destaques da equipe.

A Sampdoria, clube que Cerezo defendeu entre 1986 e 1992, homenageou o volante, chamado de "calcio samba" do meia com lances dele na Itália. Veja o vídeo acima.

Com Cerezo, também formavam o maior time da Sampdoria na história outros nomes de peso do futebol internacional como Pagliuca, Vialli, Lombardo, Dossena e Mancini, que também estiveram nas conquistas com o brasileiro de duas Copas da Itália, uma Supercopa Italiana a extinta Recopa da Europa de 1990. Toninho Cerezo também venceu pela Roma, ganhando a Copa da Itália, em 1984 e 1986.


Cerezo se despediu do Galo em 1997, em um jogo contra o Milan, pela Copa Centenário de Belo Horizonte-(Foto: Reprodução)
Foto: Lance!

内田潤、アルビレックス新潟U-15監督を退任

アルビレックス新潟U-15監督を退任した内田潤である。
これは驚きの報。
それだけ新潟のファイナンシャルは窮地ということなのであろう。
新型コロナウイルスの影響がJリーグを蝕んでおることが伝わってくる。
そしてウッチーは新たなる道を見つけることとなろう。
続報を待ちたい。

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アカデミー組織変更のお知らせ
2020/4/22

いつもアルビレックス新潟に温かいご声援をいただきまして、誠にありがとうございます。
当クラブは、アカデミー組織のアルビレックス新潟U-18吉永一明監督がアカデミーダイレクターに就任し、同U-18監督と兼務することとなりましたので、お知らせいたします。なお、森亮太アカデミーダイレクターは、アルビレックス新潟U-18コーチに就任することとなりました。また、本日付(4月22日)でアルビレックス新潟U-18佐枝篤コーチが、アルビレックス新潟U-15監督に就任し、同U-15内田潤監督が退任することとなりましたので、あわせてお知らせいたします。

アカデミーダイレクター就任(アルビレックス新潟U-18監督 兼務)
吉永 一明 Kazuaki YOSHINAGA
■生年月日
1968年3月17日(52歳)

■出身地
福岡県

■資格
日本サッカー協会公認S級指導者ライセンス

■指導歴
1990年4月-1994年 三菱養和サッカースクールコーチ
1995年       福岡ブルックス U-12、U-15コーチ
1996-1999年    アビスパ福岡U-15 監督
2000-2002年    アビスパ福岡U-18 監督(兼サテライトコーチ)
2003年       アビスパ福岡 普及担当コーチ
2004年       アビスパ福岡 管理強化部育成統括
2003-2005年    日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチ九州担当
2005年       清水エスパルス コーチ兼サテライト監督
2006年       清水エスパルス ヘッドコーチ
2007年       サガン鳥栖 コーチ兼育成部統
2008年       サガン鳥栖 育成部統括兼U-18監督
2009年       山梨学院大学附属高校サッカー部 ヘッドコーチ
2010-2015年    山梨学院大学附属高校サッカー部 監督
2016年       ヴァンフォーレ甲府 トップチームコーチ
2017-2018年    アルビレックス新潟・S 監督
2019年1月-4月   アルビレックス新潟 アカデミーダイレクター
2019年4月     アルビレックス新潟 監督
2020年      アルビレックス新潟U-18監督

アルビレックス新潟U-18コーチ就任
森 亮太 Ryota MORI
■生年月日
1980年6月9日(39歳)

■出身地
東京都

■資格
日本サッカー協会公認A級指導者ライセンス
スペインサッカー協会レベル3指導者ライセンス
WORLD FOOTBALL ACADEMY ピリオダイゼーションスペシャリスト
日本コンディショニング協会 コンディショニングインストラクター

■指導歴
2004-2012年 スポルティング・デ・ヒホン(スペイン)アカデミーコーチ
2013-2014年 INAC神戸レオネッサ ヘッドコーチ
2015-2016年 栃木SC ジュニアユースコーチ
2017-2018年 アーセナルSS市川 U-18監督
2019年    FC市川GUNNERS U-15 監督
2019年6月- アルビレックス新潟 アカデミーダイレクター

アルビレックス新潟U-15監督就任
佐枝 篤 Atsushi SAEDA
■生年月日
1987年6月30日(32歳)

■出身地
愛知県

■資格
日本サッカー協会公認B級指導者ライセンス
スペインコーチングライセンスNIVEL2(日本でA級相当)

■選手歴
熱田高→名古屋WEST→アルビレックス新潟バルセロナ

■指導歴
2006-2010年 熱田高校サッカー部コーチ
2011年 一宮興道高校サッカー部コーチ
2012年 佐織工業高校サッカー部監督
2014年 U.E.SANT ILDEFONS Juvenil C (U-18)コーチ
2014-2015年 E.F.GAVA Alevin A(U-11)第二監督
2015-2016年 C.EJUPITER Infantil B(U-13)第一監督
2016年 C.EJUPITER Infantil A(U-13)第一監督
2017年 アーセナルサッカースクール市川 U13監督
2019年3月-8月 アルビレックス新潟メソッドコーチ兼通訳
2019年8月 アルビレックス新潟U-12コーチ兼メソッドコーチ
2020年1月-3月 アルビレックス新潟U-18コーチ

アルビレックス新潟U-15監督退任
内田 潤 Jun UCHIDA
■生年月日
1977年10月14日(42歳)

■出身地
兵庫県

■資格
日本サッカー協会公認A級指導者ライセンス

■選手歴
桐蔭学園高→駒澤大→鹿島アントラーズ→アルビレックス新潟
※J1リーグ戦通算:221試合出場6得点

■指導歴
2014-2016年 アルビレックス新潟サッカースクール コーチ
2016年9-12月 アルビレックス新潟 コーチ
2017年 アルビレックス新潟U-15 コーチ
2017年5月-6月 アルビレックス新潟 コーチ
2018年-アルビレックス新潟U-15 監督

鹿島アントラーズ公式youtube、レオナルドゴール集アップ

鹿島アントラーズ公式youtubeにアップされたレオナルドのゴール集である。
四半世紀以上経った今観ても惚れ惚れする。
貴公子とはまさにこのとこと。
華麗なるプレイに魅了されよう。
家の中でも楽しめるこの企画に乾杯である。

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ザーゴ監督、最強だったのはおそらく(元ブラジル代表)ロナウド

イタリアのラジオにてインタビューの応じたザーゴ監督である。
新型コロナウイルスの影響についてイタリアと比較し、「世界各国と変わらず、ここでも今は難しい時期だ。ただこれまで被害が大きくなかったのは、日本では早くも1月からマスクの使用や手洗いを呼びかけたり、空港や駅など人混みを避けるように注意喚起したりしていたからだと思う。日本人はこういったことを徹底していた。だから、イタリアとは違う状況にあるのだろう」と語った。
日本の対応を評価しておる。
一部の著名人や芸能人がネガティブな事ばかりを発信しておるが、イタリアなどと比べれば、日本は非常によくやっておる。
それは素直に認めるべきであろう。
まだまだこの苦しい状況は続くが、今は耐えるときである。
また、ザーゴ監督が現役時代のセリエAについても言及しておる。
「当時は世界最強の選手たちがイタリアでプレイしていた。(ジョージ)ウェアや(オリヴァー)ビアホフ、(ガブリエル)バティストゥータ、(エンリコ)キエーザ、(フィリッポ)インザーギ、(アレッサンドロ)デル・ピエロ、(ダビド)トレゼゲ、(ジネディーヌ)ジダン。それに(ロベルト)マンチーニもまだ現役だった」と名だたるスターの名を列挙した。
いずれ劣らぬ素晴らしいフットボーラーである。
その中で、「私が最も手を焼いた選手を1人挙げるのは難しいが、最強だったのはおそらく(元ブラジル代表)ロナウドだろう。イタリアでは最高のプレーを見せていたね。それに(クリスティアン)ヴィエリも手強い選手だった。フィジカルが非常に強く、加えてスピードもあった。ボールを上手くキープするので、相手はイライラさせられたものだよ。もしかしたら彼が、最も手を焼いた選手の1人かもしれないね」とフェノーメノ(ロナウド)とボボ(ヴィエリ)の名を挙げた。
この二人が2TOPをインテルで組んでいたのは1999〜2002、セリエAが世界の頂点だった時期である。
そういったスターの一人としてザーゴ監督もプレイしておった。
その経験を鹿島にもたらせてくれよう。
楽しみである。

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鹿島アントラーズ指揮官ザーゴが見た日本人の新型コロナウイルス対策「だからイタリアとは違う」


(C)Getty Images

【欧州・海外サッカー ニュース】鹿島アントラーズ(Jリーグ)のザーゴ監督は、イタリアラジオ局のインタビューで日本人や古巣のローマについて言及した。

鹿島アントラーズのザーゴ監督が20日、イタリアのラジオ局『Tele Radio Stereo』のインタビューに応じ、日本の印象などについて語った。

現役時代は柏レイソルで1年間プレーしたほか、セリエAローマで活躍し、2001年に元日本代表MF中田英寿氏らとともにスクデットを獲得したザーゴ。1月から鹿島の指揮を執るブラジル人監督は、イタリアラジオ局のインタビューに応じると、新型コロナウイルスをめぐる日本の状況について自身の見解を示した。3月上旬から急激に感染が拡大し、2万4000人を超える死者を出したイタリアと比較している。

「世界各国と変わらず、ここでも今は難しい時期だ。ただこれまで被害が大きくなかったのは、日本では早くも1月からマスクの使用や手洗いを呼びかけたり、空港や駅など人混みを避けるように注意喚起したりしていたからだと思う。日本人はこういったことを徹底していた。だから、イタリアとは違う状況にあるのだろう」

また、ザーゴはローマに所属していた1998年から2002年を回想。当時を振り返った。

「当時は世界最強の選手たちがイタリアでプレーしていた。(ジョージ)ウェアや(オリヴァー)ビアホフ、(ガブリエル)バティストゥータ、(エンリコ)キエーザ、(フィリッポ)インザーギ、(アレッサンドロ)デル・ピエロ、(ダビド)トレゼゲ、(ジネディーヌ)ジダン。それに(ロベルト)マンチーニもまだ現役だった」

「私が最も手を焼いた選手を1人挙げるのは難しいが、最強だったのはおそらく(元ブラジル代表)ロナウドだろう。イタリアでは最高のプレーを見せていたね。それに(クリスティアン)ヴィエリも手強い選手だった。フィジカルが非常に強く、加えてスピードもあった。ボールを上手くキープするので、相手はイライラさせられたものだよ。もしかしたら彼が、最も手を焼いた選手の1人かもしれないね」

日テレジータス、2016CWC放送

2016CWCを放送する日テレジータスである。
これは嬉しい報。
あの激戦と悔しさが再び観ることが出来る。
是非とも録画したい。
楽しみである。

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日テレジータス FIFAクラブワールドカップ2016再放送
2020.04.21(火)

CS放送「日テレジータス」にて、6月1日(月)~7日(日)まで鹿島アントラーズ出場のFIFAクラブワールドカップ2016が再放送されます。

【放送局】
CS放送 日テレジータス

【放送スケジュール】
6月1日(月)17:00~
1回戦  鹿島アントラーズ 対 オークランドシティ

6月2日(火)22:45~
準々決勝 全北現代対クラブアメリカ

6月3日(水)22:45~
準々決勝 マメロディ・サンダウンズ 対 鹿島アントラーズ

6月4日(木)22:45~
5位決定戦 全北現代 対 マメロディ・サンダウンズ

6月5日(金)22:45~
準決勝 クラブアメリカ 対 レアル・マドリード

6月6日(土)
19:15~ 準決勝 アトレティコ・ナシオナル 対 鹿島アントラーズ
22:45~ 3位決定戦 クラブアメリカ 対 アトレティコ・ナシオナル

6月7日(日)19:30~ 決勝
レアル・マドリード 対 鹿島アントラーズ






鹿行の『食』を届けるプロジェクト

「鹿行の『食』を届けるプロジェクト」について報じるニッカンスポーツの杉山記者である。
「不況にあえぐ地元企業や店舗と外出を控える消費者をつなぐ“ウィン・ウィン”の取り組みだ」と伝える。
親会社がメルカリになったからこそ実現したこのプロジェクトは地元密着を打ち出しており非常に素晴らしい。
そしてスピード感も小泉社長だからこそ。
杉山記者が「鹿島の底力」と評するこの力で更にクラブと地元を盛り上げていってもらおうではないか。
そして「鹿行」の次は“新治県”を前面に出して欲しい。
楽しみにしておる。

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鹿島の地域食貢献にメルカリ効果、発案2日で実施
[2020年4月20日7時0分]




鹿島が展開する「鹿行(ろっこう)の『食』を届けるプロジェクト」のページ

新型コロナウイルスの影響でJリーグが中断に入り、まもなく2カ月が経つ。入場料収入という大きな柱を失い、厳しい財務状況と向き合いながらも、各クラブは「今できること」を模索し、実行に移している。サガン鳥栖の「歴代ユニホームでマスク製作」、湘南ベルマーレの「オンラインスカウト活動」など、SNSの普及もあり、各クラブがオリジナリティーある施策に取り組む。試合どころか、練習もできない逆境の中、サポーターのため、地域のため、医療従事者のため、今もJクラブは必死に活動している。

   ◇   ◇   ◇

鹿島アントラーズは地域の飲食・食品業者と消費者を結ぶ「鹿行(ろっこう)の『食』を届けるプロジェクト」を展開している。

“鹿行”とは鹿嶋市や行方市などホームタウンの総称。クラブ公式サイトに特設ページを開き、食材や加工食品の通販を行う企業、また持ち帰りや配達が可能な飲食店を紹介している。新型コロナウイルスの影響で自粛ムードが高まる中、不況にあえぐ地元企業や店舗と外出を控える消費者をつなぐ“ウィン・ウィン”の取り組みだ。

プロジェクトは1日夜にスタートした。記者は同日の夕方頃まで取材のためクラブハウスに滞在しており、小泉社長から「もうすぐステキな取り組みを始めますよ」と“予告”を受けていた。近日中に…という口ぶりだったが、そのわずか数時間後にプロジェクトは始まった。善は急げ、とはこのことか。聞けば、議題に上がってから実質2日弱で運用にこぎ着けたという。メルカリ傘下に入り業務スピードが格段に上がった、鹿島の底力を感じた。【杉山理紗】


フットボールチャンネル選出歴代最強外国籍選手5人

鹿島アントラーズに在籍した歴代最強外国籍選手5人を挙げるフットボールチャンネル編集部である。
まあ、このあたりは個人の主観もあろう。
レオナルドであれば、マジーニョではなかろうかというところが突っ込みどころか。
しかしながら、現役ブラジル代表がこれほどの若さで在籍したインパクト、横浜フリューゲルス戦で魅せたリフティングゴールからこのリストから漏らすことはできなかったようにも思う。
それ以上に各年代の基本先発メンバーに突っ込みどころが多くて困る。
まともなのは2008年だけであろうか。
このあたりがフットボールチャンネル無記名記事の限界なのであろう。
ただ、この中断期間の企画としては面白いと思う。
過去の映像がyoutubeなどにて観ることが出来るので、どの選手がどうだったのかを楽しみながら家で過ごしたい。
不要不急の外出は厳禁である。

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鹿島アントラーズ、歴代最強外国籍選手5人。神様ジーコに続く、常勝軍団を作り上げたブラジル人たち
1993年に開幕したJリーグは、今年で28年目を迎えた。その間、世界的なスター選手や素晴らしい素質を持った外国籍選手たちが活躍している。今回、フットボールチャンネルでは、鹿島アントラーズで活躍した外国籍選手を5人紹介する。

2020年04月20日(Mon)7時10分配信
text by 編集部 photo Getty Images


優勝請負人


1998年の基本先発メンバー

ビスマルク(ブラジル代表)
生年月日:1969年9月17日
在籍期間:1997年~2001年
J1通算成績:137試合出場/33得点

 ヴェルディ川崎では1993年のリーグ初年度から連覇に導き、2年連続のベストイレブンに選出。3年半で5つのタイトルをクラブにもたらしたビスマルクは、97年に鹿島にやってきた。

 ジーコがつけていた10番を受け継いだビスマルクは、1年目から自身3度目のベストイレブンに輝き、チームは2冠を獲得した。98年のジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第2戦では先制ゴールをアシストすると、直接FKを決めてリードを2点に広げた。これを守った鹿島は2年ぶり2度目の年間王者に輝いている。

 敬虔なクリスチャンであるビスマルクが行うゴールセレブレーションは、当時の子どもたちの間で大流行。右足から繰り出される正確無比なキックで幾度となくチームを勝利に導いた。2000年にはJリーグ初の国内3冠を達成。5年間で7つのタイトル獲得に貢献したビスマルクは優勝請負人と呼ばれた。

●1998年の基本先発メンバー

▽GK
28高桑大二朗

▽DF
22名良橋晃
3秋田豊
5内藤就行
7相馬直樹

▽MF
8マジーニョ
4奥野僚右
6本田泰人
10ビスマルク

▽FW
13柳沢敦
11長谷川祥之

友達なら当たり前


1993年の基本先発メンバー

アルシンド(ブラジル代表)
生年月日:1967年10月21日
在籍期間:1993年~94年
Jリーグ通算成績:71試合出場/50得点

 フラメンゴでチームメイトだったジーコに乞われる形で、Jリーグ開幕を控える1993年に鹿島にやってきた。

 スピードとパワーを兼ね備えたストライカーはゴールを量産し、サントリー(第1)シリーズ優勝の原動力となった。頭のトップが薄く、襟足を肩まで伸ばした独特のヘアースタイルも注目を集め、当時のテレビコマーシャルに出演してお茶の間の人気者となった。

 93年は22得点、94年は28得点を挙げたが、2年で鹿島を退団。その後はヴェルディ川崎でもプレーしている。2012年には息子のイゴールが鹿島に加入し、親子2代での鹿島所属が実現したが、2試合の出場に終わった息子は1年で退団した。

●1993年の基本先発メンバー

▽GK
古川昌明

▽DF
秋田豊
杉山誠
大野俊三
賀谷英司

▽MF
本田泰人
サントス
ジーコ
黒崎比差支

▽FW
アルシンド
長谷川祥之

最強ストライカー


2008年の基本先発メンバー

マルキーニョス(ブラジル出身)
生年月日:1976年3月23日
在籍期間:2007年~2010年
J1通算成績:119試合出場/59得点

 東京ヴェルディ、清水エスパルスなどを渡り歩いたマルキーニョスは、2007年に鹿島に加入した。オズワルド・オリベイラが監督に就任したチームは開幕から出遅れたが、9連勝フィニッシュで奇跡の逆転優勝を達成。2トップの一角を務めたマルキーニョスは、自己最多の14得点をマークした。

 08年、チームは開幕から白星を重ねてリーグ連覇を達成した。マルキーニョスは21ゴールを挙げ、得点王、ベストイレブン、最優秀選手賞の個人3冠に輝いている。前人未到の3連覇を成し遂げた09年は13得点を挙げ、11得点を挙げた10年限りで鹿島を退団。その後は横浜F・マリノス、ヴィッセル神戸でもプレーしている。

 外国籍選手としては歴代最多、全体でも5位となるJリーグ通算152得点、9度の2ケタ得点をマークしたマルキーニョス。鹿島では田代有三や興梠慎三、高校を卒業したばかりの大迫勇也ともコンビを組み、自ら得点を狙うだけでなく周りを活かす献身的なプレーが印象的だった。

●2008年の基本先発メンバー

▽GK
21曽ヶ端準

▽DF
2内田篤人
3岩政大樹
4大岩剛
7新井場徹

▽MF
15青木剛
40小笠原満
8野沢拓也
10本山雅志

▽FW
18マルキーニョス
13興梠慎三

貴公子


1995年の基本先発メンバー

レオナルド(ブラジル代表)
生年月日:1969年9月5日
在籍期間: 1994年夏~1996年夏
J1通算成績:49試合出場/30得点

 レオナルドはサンパウロでクラブ世界一、ブラジル代表でも1994年のアメリカワールドカップで頂点に立っている。ジーコとフラメンゴでチームメイトだった縁もあり、1994年夏に鹿島に加入した。

 リフティングゴールはJリーグ史に語り継がれるゴールになるだろう。最初のタッチからシュートまで一度も地面に落とさずに相手DFをかわし、5回目のタッチで鮮やかにボレーシュートをゴールに突き刺した。

 96年夏、パリ・サンジェルマンからオファーを受けて移籍を決断。鹿島の在籍は2年間だったが、華麗なプレーに加えて端正なルックスは、サポーターの記憶に深く刻まれている。

●1995年の基本先発メンバー

▽GK
佐藤洋平

▽DF
奥野僚右
秋田豊
内藤就行
相馬直樹

▽MF
本田泰人
ジョルジーニョ
サントス
レオナルド

▽FW
長谷川祥之
黒崎比差支

世界一の右SB


1996年の基本先発メンバー

ジョルジーニョ(ブラジル代表)
生年月日:1964年8月17日
在籍期間:1995年夏~1998年
J1通算成績:103試合出場/17得点

 フラメンゴからドイツに渡り、レバークーゼンとバイエルン・ミュンヘンでプレー。ワールドカップにはイタリア大会から2大会連続で出場し、94年のアメリカ大会ではブラジル代表の優勝に貢献している。

 鹿島に加入したのは95年、現役バリバリのブラジル代表がJリーグにやってきた。ブラジル代表では右サイドバックでプレーすることが多かったが、鹿島ではボランチが定位置だった。キックの精度が高く、クロスやロングフィードからチャンスを生み出した。

 所属した4年間で4つのタイトル獲得に貢献。初のリーグ優勝を成し遂げた96年には、年間最優秀選手賞とベストイレブンに選ばれた。12年には監督として鹿島に戻ってきたが、リーグ戦は11位に終わり、1年で退任している。

●1996年の基本先発メンバー

▽GK
古川昌明

▽DF
奥野僚右
秋田豊
内藤就行
相馬直樹

▽MF
本田泰人
ジョルジーニョ
サントス
増田忠俊

▽FW
長谷川祥之
マジーニョ

【了】

デポルティボ・柴崎岳、契約は2023年まで

来季の戦力としてカウントされておるとスペイン現地紙にて報じられるデポルティボ・ラコルーニャの柴崎岳である。
契約は2023年まで残っておるとのこと。
来季は主軸としてチームを牽引してくれよう。
活躍の報を待っておる。

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柴崎岳所属デポルティボは来季の戦力安定か 現地紙
2020年4月19日19時25分]

日本代表MF柴崎岳(27)が所属するスペイン2部デポルティボは、来季に向けて安定した戦力を保持していると、スペイン紙アスが19日に報じている。

同紙によると、今季チームに所属する15人が今年6月30日に契約切れ、または期限付き移籍期間終了を迎えることになる。だが、来季以降も17人と契約を結んでいるため、特に慌てている様子はないとのことだ。

来季に向けた戦力の内訳は、トップチーム9人(柴崎、サルバ・ルイス、ムハイド、サビン・メリノ、ケコ、ダニ・ヒメーネス、ボーヴュ、ビセンテ、ボベダ)、期限付き移籍継続予定の2人(ベルガンティニョス、アグボ)となっている。また、他クラブへ期限付き移籍中の6人(カルタビア、ディエゴ・ロラン、フランシス、バレンティン、ボルハ・ガラン、ランプロポウロス)となっており、ほぼ全てのポジションをしっかりとカバーできているという。

この中で昨年夏にヘタフェから入団した柴崎は、契約期間がチームで一番長い2023年までとなっている。入団した際に移籍金は発生しなかった。だが、今季に限り1部へ昇格した場合のみ、ヘタフェに移籍金を支払わなければならない条項が契約に含まれている。

今季、スタートダッシュにつまずいて最下位が続き、2度の監督交代を経て、チーム状態を向上させている。しかし、リーグ戦成績は31試合で8勝11分け12敗の勝ち点35で降格圏内の18位となっており、いまだ厳しい状況が続いている。

柴崎は一時出場の機会を失っていたが、バスケス監督就任後、チームの主力選手の1人となっている。今季のリーグ戦成績は18試合で1399分間出場し、0得点2アシスト。先発出場は17試合となっている。

(高橋智行通信員)

柳沢敦ユースコーチ、いろいろな工夫をしながらコロナウイルスに勝てるようにみんなで頑張っていきましょう

柳沢敦ユースコーチのメッセージ動画を配信した鹿島アントラーズ公式Twitterである。
不要不急の外出を控える緊急事態宣言下に於いては、家に居ることが大事となる。
それを言葉と映像で伝えてくれることを嬉しく思う。
また、後半のゴールシーンには胸を熱くさせられる。
素晴らしいフォワードであった。
このようなプレイをする選手を育てていって欲しい。
楽しみにしておる。

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【鹿島】ユースの柳沢敦コーチが家族でうどん作り挑戦明かす「各ご家庭でいろいろな工夫を」
2020年4月19日 18時42分スポーツ報知

 鹿島は19日、公式ツイッターなどでユースでコーチを務める元日本代表FW柳沢敦氏のメッセージ動画を配信した。

 柳沢コーチは「家にいる時間が長くなるかと思います。我が家では、僕が前からやってみたかったうどん作りを家族でトライしてみました。味はうまくいかなかったですが、今度はそば作りにもチャレンジしてみたいです」と“おうち時間”を有効に使っていることを明かし、「まだまだ先が見えない中、不安もあると思いますが、各ご家庭で、いろいろな工夫をしながらコロナウイルスに勝てるようにみんなで頑張っていきましょう」と訴えた。

 柳沢コーチは1996年~2005年途中、06年途中から07年まで鹿島でプレー。J1通算371試合に出場し108得点を挙げた。




バルセロナB・安部裕葵、途中経過

バルセロナ公式サイトにインタビュー動画がアップされた安部裕葵である。
負傷からの復帰を目指し、厳しいリハビリに励んだことが伝えられる。
完治まではまだ時間がかかるが、元気そうで何より。
来季の大活躍を楽しみにしておる。

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安部裕葵がバルサ公式動画に登場! ケガの状態も報告「動けるのが楽しい」
20/4/19 08:27

 バルセロナは18日、バルセロナBに所属するFW安部裕葵のインタビュー動画を公式サイトに投稿した。2月上旬に右太腿二頭筋を断裂して以来、日本でのトレーニングを続けてきた様子。「走り始めていて、ペースも上がっている。動けるのが楽しい」と喜びの声を語っている。

 2019年夏に鹿島アントラーズからバルセロナBに加入し、スペイン2部B(3部相当)で20試合4得点を記録していた安部。ところが順調に試合経験を重ねていた今年2月2日、第23節プラット戦でドリブル中に右太ももを痛め、手術に伴って全治5か月という診断が下されていた。

 これまで約2か月半、安部は都内のトレーニング施設に泊まってリハビリを続けてきた様子。週1回、バルセロナ側とビデオ通話で話し合っている調整プランも踏まえながら、午前9時から正午まで、午後1時半から6時までしっかりと身体と向き合ってきたという。

 手術後は患部をほとんど動かせず、トレーナーの力を借りてリハビリを行っていたというが、現在はランニングなどもできるようになったとのこと。安部「いまは少しずつ走り始めたりペースも上がっている。動けるのが楽しい」と語っている。

 チームは新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、3月8日を最後に公式戦を行えてない状況。この中断期間については「時間もあるので怪我を治すこともできる。急いで怪我を治すことが怖かったし、焦りも良くないので、いま時間があるのはそうしなさいと言われているようなもの。しっかり体と向き合って、開幕でいいパフォーマンスができるように準備しておきたい」と前向きに語っている。


英国人記者が選ぶJリーグベストイレブン

自身が見てきた選手からJリーグ・ベストイレブンを選出したフットボールチャンネルのショーン・キャロル氏である。
「強烈な活躍が私にとって特に印象的だった選手たちである」と銘打つ。
その11人の中にクォン・スンテと柴崎岳の二人が入っておる。
ショーン・キャロル氏にはACL決勝とCWC決勝という大舞台での二人の記憶が大きかった様子。
二人とも鹿島に於いてとても大きなインパクトを与えた選手であることは紛れもない事実である。
これからも多くの印象的な選手と共にタイトルを争っていきたい。
楽しみである。

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日本在住11年の英国人記者が選ぶ、Jリーグベストイレブン。11年間で最高の11人とは?【英国人の視点】
イングランド出身のショーン・キャロル氏は2009年に来日して以来、日本代表やJリーグの取材を続けてきた。今回、ショーン氏が実際に見てきた2009年から2019年に活躍した選手の中から、独自の視点で11人を選出してもらった。(文:ショーン・キャロル)

2020年04月19日(Sun)10時00分配信
text by ショーン・キャロル photo Getty Images


英国人記者が見たベストイレブン


【写真:Getty Images】

 現在進行中の新型コロナウイルス感染爆発により、依然として世界中が苦難と不安に沈んでいる。未来は不確定であり、これから何が起こるかの予想も難しい状況の中、過去を振り返ることに時間を使う人々も多い。

 サッカーファンも例外ではなく、最近1ヶ月間は過去の出来事の記憶をたぐる「プレイバック」や「今日は何の日」といったコンテンツに溢れていた。

 ノスタルジーの波の中で、私も回顧の時間を過ごしてみることにした。Jリーグを追いかけてきた約10年間を思い出し(先延ばしにし続けてきた、マッチプログラムやメンバー表が積み上がった部屋の片付けも兼ねつつ)、2009年から2019年までに見てきた選手たちの中からベストイレブンを選出した。

 必ずしも、この期間中のJリーグにおける客観的な「ベスト」プレーヤーたちというわけではない。4-2-3-1のシステムで選んだ11人は、ある1シーズンまたは2シーズン続けての強烈な活躍が私にとって特に印象的だった選手たちである。

 再び生のサッカーを観ることができる日がいつ来るのかは分からない。今はひとまずこれまでのスター選手を思い出してみることにしよう。

●GK クォン・スンテ(鹿島アントラーズ、2018年)

 堅固な4バックとその後ろに控えるクォンの存在が基盤となり、アントラーズは2018年についにAFCチャンピオンズリーグ優勝のトロフィーをコレクションに加えることに成功した。

 アザディ・スタジアムでペルセポリスとの決勝2ndレグを取材した際にはゴールのすぐ裏から試合を観戦するよう要請されたが、そのおかげで彼が守備陣にもたらした冷静さと落ち着きを間近で目にすることができた。世界で最も威圧的な雰囲気となるスタジアムでのタイトル獲得だった。


初優勝に貢献した両SB

●右SB 酒井宏樹(柏レイソル、2011年)

 レイソルが2011年にJ1復帰を果たした当初から、酒井は本物だと感じられた。攻守両面にスピードとパワーを発揮することに加え、質の高いクロスもファイナルサードで相手チームの脅威に。シーズン開始時点でまだ20歳という若さだったが、積極性と攻撃参加への意欲を如何なく発揮し、レイソルがJ2優勝の翌年にJ1タイトルも獲得という偉業を成し遂げる上で欠かせない存在となった。

●CB 田中マルクス闘莉王(名古屋グランパス、2010年)

 後味の悪さを残して浦和レッズを後にした闘莉王は、ドラガン・ストイコビッチ率いるグランパスの守備陣の中心に収まった。ボールを奪い合う前から相手選手を威圧するかのような存在感を持ち、この年の夏に中澤佑二と組んでワールドカップでも輝いた彼を突破できるFWはほとんどいなかった。その力は攻撃面でも大きな脅威となり、6回にわたってゴールネットを揺らして名古屋の栄冠を助けた。

●CB 角田誠(ベガルタ仙台、2011-12年)

 実際には守備的MFでプレーしていたため、ここに入れるのは少しズルいかもしれないが、角田はベガルタが過ごした最も厳しく最も成功した時期のスピリットを体現した存在だった。誰もが自分のチームにいてほしいと思い、対戦したくはないと思うタイプの選手だ(この2シーズンで12回の警告も受けている)。

 最終的にベガルタは惜しくもタイトルには手が届かなかったとはいえ、決して諦めない角田は全力を尽くして東北を勇気付けていた。

●左SB 橋本和(柏レイソル、2011年)

 ネルシーニョ監督がまさに好むタイプの選手である橋本は、J1優勝を飾ったレイソルの影のヒーローだった。必死に走り続け、果敢なチャレンジを繰り出し、必要があれば攻撃面で普段と違うプレーにも迷わずトライする。左サイドでの彼のプレーは逆サイドの酒井宏樹と完璧に補完し合っていた。

 タイトルのかかった試合で見せ場も迎えた。シーズン唯一の得点は、タイトルのかかった最終節の浦和とのアウェイゲーム。3-1の勝利の決勝点となる2点目だった。

中盤を支配する2人のボランチ


【写真:Getty Images】

●セントラルMF 中村憲剛(川崎フロンターレ、2017年)

 川崎フロンターレのレジェンドでありJリーグ史上に残る偉大な選手の一人。抜群のビジョンやピンポイントパス、常に自然体で落ち着いてプレーできる力を持つだけでなく、あらゆる層のファンや選手たちを一致団結させる能力にも非凡なものがある。ひとつのクラブにキャリアを捧げてきた彼の才能には誰もが異口同音に賛辞を送る。

 2017年には冷静な戦いを続け、永遠のシルバーコレクターだったフロンターレ初のリーグタイトル獲得を助けた。日本屈指の技巧派の能力が存分に発揮された1年だった。

●セントラルMF 柴崎岳(鹿島アントラーズ、2016年)

 柴崎も極上のボール処理能力に恵まれた選手の一人であり、周囲の動きが常にスローモーションで見えているかのように感じられた。中盤で自分のペースを失うことなくプレーし、2016年にはアントラーズのJ1優勝・天皇杯優勝の2冠を助けた。そしてもちろん、レアル・マドリードとの“あの”試合。世界トップクラスの相手と互角に渡り合える真の力を証明した一戦だった。


無双するアタッカー陣

●右ウイング レアンドロ・ドミンゲス(柏レイソル、2011年)

 2011年の彼はほぼ無敵だった。ピッチ上を闊歩し尊大さすら感じさせるこのブラジル人のプレースタイルは、レイソルが単に優れたチームからチャンピオンチームへ脱皮するために必要だったプラスアルファを加えた。その尖ったプレーが日立台の熱狂的な観客に火を付ける起爆剤となることも多かった。好戦的で創造的、そして周囲の動きを感じ取る鋭敏な感覚を持ち、いつパスを通すべきか、あるいはネットを撃ち抜くべきかを熟知していた。

●攻撃的MF 柿谷曜一朗(セレッソ大阪、2013年)

 2013年の柿谷はまさに力の絶頂期にあり、見ていて楽しかった。セレッソ攻撃陣が生み出すあらゆる好プレーの中心には柿谷がいた。自信に満ち溢れており、ボールを持って走る時には芝の上を滑っていくかのようにスムーズに感じられた。ファイナルサードでは特にその自信が結果に繋がり、このシーズンの年間最優秀ゴールも含めた21得点を叩き出した。

●左ウイング 武藤嘉紀(FC東京、2015年)

 Jリーグでプレーしたのは1年半だけではあったが、2015年の武藤のパフォーマンスは際立っていた。Jリーグにおいて、デビュー時点ですでにこのリーグのレベルを越えている日本人選手の出現を目にした数少ない例のひとつだった。

 そしておそらくそれ以上に重要なのは、彼自身がそれを理解していたことだ。ピッチ外ではあくまで礼儀正しいがピッチ上では傲慢さを感じさせる。FC東京での毎週末の彼のパフォーマンスを観るのは本当に胸が高ぶる楽しみだった。

●CF 佐藤寿人(サンフレッチェ広島、2012-13年)

 完成されたストライカー。紫時代の佐藤のプレーはまさに眼福だった。驚異的な集中力とイマジネーション、そしてどんな場所からでもゴールを奪う力を兼ね備えた11番は、サンフレッチェがリーグ連覇を達成した2年間の全試合に出場して39ゴールを挙げた。

 爆発的なスピードで裏へ抜け出して巧みなフィニッシュを決める形であれ、マーカーを振り切って絶妙なタイミングと位置取りで至近距離から押し込む形であれ、突然強烈なミドルを叩き込む形であれ、彼が触れたボールは全てネットに収まるかのように思えた。

フォーメーション


ショーン・キャロル氏が選ぶJリーグベストイレブン

▽GK
クォン・スンテ

▽DF
酒井宏樹
田中マルクス闘莉王
角田誠
橋本和

▽MF
中村憲剛
柴崎岳
レアンドロ・ドミンゲス
柿谷曜一朗
武藤嘉紀

▽FW
佐藤寿人

(文:ショーン・キャロル)

【了】

日本プロサッカー選手会、6週間の準備期間要望

「6週間の準備期間」を求む要望を提示した日本プロサッカー選手会(JPFA)である。
この要望を考慮すると、6月の再開は難しいとスポニチは報じる。
現状を見れば、5月の活動再開も見えてはおらぬ。
Jリーグ側も8月の再開すら視野に入れておる状況である。
さすがにもう6月再開というのは絵空事のようには感じられる。
まずは、日常生活が戻ることを待ち、それからであろう。
耐える日々である。

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J選手会、6週間の準備期間要望 6月再開案は困難 7、8月が現実的
[ 2020年4月19日 05:31 ]

 新型コロナウイルス禍の影響で公式戦を中断しているJリーグが再開案の選定にあたり、日本プロサッカー選手会(JPFA)からは「6週間の準備期間」を求む要望を受けたことが18日、分かった。複数の関係者が明かした。現在はクラブの大半が活動を休止。6、7、8月と3パターンの再開案(J3は開幕)を検討するが、6月案は困難となってきた。
 選手会からJリーグに、切実な声が届いたという。「再開まで6週間の準備期間が欲しい」。16日に政府による緊急事態宣言(5月6日まで)は全国に拡大され、J1では全クラブが活動を休止している。外出自粛の状況下、選手は自宅での孤独な自主トレが続く。実戦から離れ、再び試合ができる状態に戻すにはその程度の時間が不可欠なのだ。

 公式戦が中断されてから間もなく2カ月がたつ。その間、再開日程は3度も再延期が繰り返され、選手の疲労、メンタル面のストレスも増す一方。今後、コロナ禍が終息に向かい、仮に緊急事態宣言が予定通りに解かれても、多くのクラブで活動再開は5月6日以後となる見通し。準備期間を考えれば、最短でも公式戦再開は6月下旬以後にずれ込む。

 Jリーグは10日にJPFAと意見交換会を実施した。J1~3まで全56クラブの選手代表が参加。選手側からは心身のコンディションや家族を守ることへの不安、さらに練習再開についても慎重に判断してほしいという声が上がっていたという。村井チェアマンは「選手はJリーグの価値を生む全ての原点」と話す。今後も準備期間を含めた協議を継続していく方針だ。

 依然として終息の見えないコロナ禍。Jリーグでは6、7、8月のいずれの再開案でも最初の1カ月程度は無観客開催の検討を始めている。それでも再開にあたり、最も重要なのは選手の安全とコンディション。緊急事態宣言が解けた上である程度の準備期間を考慮すれば、6月の再開案は極めて困難な情勢。7、8月案を目指すことがより現実的な線と言えそうだ。

伊藤翔、若き「和製アンリ」の苦悩

伊藤翔の欧州チャレンジについて記すフットボールチャンネルの小川女史である。
高卒にてJリーグを経ずに欧州のクラブにてプレイすることを選んだ伊藤翔は、当時大きく取り上げられた。
鹿島にはヤスが入団した2007年のことである。
同世代には香川真司がおる伊藤翔は、高校時代にアーセナル(当時)のベンゲル監督に評価されたことで「和製アンリ」と話題となった。
小川女史によると、実際にアーセナルは獲得に動いておったとのこと。
しかしながら、ワークパーミット(労働許可証)が降りずに断念した。
このイングランドの問題は、三都主であったり、井手口そして宮市亮なども悩まされた。
結果的に伊藤翔はフランス二部のグルノーブルに入団することとなる。
グルノーブルは当時、日本企業がオーナーであり、話題性という意味もあったように思う。
そのような背景もあり、出場機会は限られておったが、伊藤勝利はグルノーブルでのプレイを選んだと小川女史は伝える。
この経験が、サッカー選手として、そして人間として形成に一役買っておることは確かである。
その体験から来る経験を鹿島に与えてくれるのは非常に嬉しい。
タイトルを獲るために鹿島に移籍してきた伊藤翔に栄冠を掲げさせたい。
“ともに”である。

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07年、伊藤翔。アーセナル移籍の夢はなぜ失敗したのか。名将が認めた「和製アンリ」の苦悩【リーグ・アン日本人選手の記憶(4)】
日本人選手の欧州クラブへの移籍は通過儀礼とも言える。これまでにもセリエA、ブンデスリーガなどに多くのサムライが挑戦したが、自身の成長を求め新天地にフランスを選ぶ者も少なくはない。現在も酒井宏樹や川島永嗣がリーグ・アンで奮闘中だ。今回フットボールチャンネルでは、そんなフランスでプレーした日本人選手の挑戦を振り返る。第4回はFW伊藤翔。(取材・文:小川由紀子【フランス】)

2020年04月17日(Fri)10時00分配信
text by 小川由紀子 photo Yukiko Ogawa


アーセナル入団を見据えての獲得


グルノーブル・フット38に加入した伊藤翔。写真右は当時の指揮官であったイヴォン・プリカン【写真:小川由紀子】

 1992年にJリーグが設立されて以降初めて、国内クラブでプレーすることなく海外移籍を実現したことで、当時大きな話題となった伊藤翔。彼は18歳だった2007年1月、愛知県の中京大中京高校から、フランス2部リーグ(リーグ2)のグルノーブル・フット38に移籍した。

 前年、アーセナルでテストを受けてアーセン・ベンゲル監督から「ティエリ・アンリを彷彿とさせる」とお墨付きをもらったことで、伊藤翔には以来『和製アンリ』なる称号がついてまわることになった。実際、アーセナルは獲得に動いたが「自国のA代表で一定数以上のプレー経験」を労働許可の必須条件とするプレミアリーグは特例を許さず、このタイミングでの移籍は叶わなかった。

 グルノーブルのオファーは、将来的にはアーセナル入団が実現する可能性も見据えたものだった。ゼネラルマネジャーを務めていた田部和良氏は「若いうちに海外に飛び出してもまれたほうがいい。アーセナルとも話をしている。彼の将来を長期的に考えれば、ウチでならしてからアーセナルへ、というのは、本人にとっても理想的なはず」と、意図を語っていた。

 伊藤には横浜F・マリノスや2006年のJ1チャンピオンである浦和レッズからも打診があったと言われたが、その中で伊藤はグルノーブルを選んだ。

 1月11日、クラブハウスで行われたお披露目会見で「ショウと呼んでください。早く活躍しているところを見せたいです!」と元気いっぱいに語った彼は、スーツ姿にネクタイ、という正装だったが、まるで高校の制服姿のようなフレッシュさがあふれ出ていたのを覚えている。

 入団会見の数日後に行われたスイス2部リーグのイベルドンとの練習試合が、初の実戦の場となった。後半の30分間プレーし、さっそくシュートを放つなど積極的なプレーでアピールした伊藤に、イヴォン・プリカン監督も「動きがいいし存在感もある」と手応えを得た様子だった。

出場機会は増えず

 2月に入って選手登録が完了すると、まずはリザーブ戦で公式戦先発出場。そして9日、ホームで行われた第24節アミアン戦でリーグ2デビューを飾った。

 0-1と1点を追う状況で、後半34分に投入された伊藤はゴール前で積極的に動いたが得点には結ばず。「もっとコミュニケーションをとってスルーパスの連係をよくしたい」とフランス語の上達を課題に挙げると同時に同点打をあげられなかったことを悔やんだ。

 ここから出場機会を重ねていくものかと思われたが、その試合のあとはベンチ入りすることはあっても出番はなく、リザーブチームの試合やユース世代のフランスカップに出場しながら実戦に慣らす日々が続いた。

 そして5月上旬、右もも裏の肉離れを起こすと、そのままシーズン初年度を終えた。リザーブチームではハットトリックを達成するなどゴールもあげていたが、『前線でのスピードはあるが、ボールのもらい方、フィジカル面にはまだ課題を残す』というのが現地での評価だった。

 翌シーズンは、監督がボスニア人のメフメド・バスダレビッチに交代。前任者のプリカンは「スペクタクルなサッカー」を信条とし、「試合に勝っても、納得のいく内容でなければ良しとしない。たとえ相手がバルサであろうと、受け身にならず、自分たちらしい攻撃的サッカーにこだわる」ことを公言しているような指揮官だったが、バズダレビッチ監督は結果重視の慎重派。リーグ・アン昇格を現実的に見据えた人事だった。

 プレシーズン中は、練習試合で伊藤を2列目で試すなど「トップだけではなくほかのポジションでもやらせる」と話していた新指揮官は若い伊藤に対し、「いろいろな可能性を引き出したい」という構想を持っていた。

 伊藤自身も「今シーズンは試合に出ること」を目標に掲げ、監督の期待に応えるべく毎日汗を流していた。

訪れない出番。それでも…

 当時のグルノーブルでは、33歳のアルジェリア人ストライカーであるナシーム・アクルーが攻撃のキーパーソンで、パリ・サンジェルマン(PSG)のアカデミー出身でフランスU-21代表のフランク・ジャジェジェ、その後バレンシアに引き抜かれたアルジェリア代表のソフィアン・フェグーリら、成長株の若手もいた。

 その中で4番手あたりの位置にいた伊藤は、開幕後はベンチ入りすら叶わない日々が続いたが、リザーブ戦では1試合で4得点を挙げるなど得点力は1年目より目に見えて向上していた。

 ようやく第10節のリブルヌ戦で、2-1とリードしていた試合の88分、ジャジェジェと交代してピッチに上がったが、その後は11月のフランスカップ戦で先発出場したのを最後に、リーグ・アン昇格を決めたあとの最終節まで出番はなかった。

 このシーズンは、前半は一時首位に立つなど昇格圏内をキープしていたものの、後半戦になって5~7位をうろつく微妙な状況となったため、監督としても若い新人を試す余裕はなく、ある程度計算が立つ古参のメンバーに固定した、という事情もあった。

 その状況の中、ジェフユナイテッド千葉が獲得に興味を示しているとも伝えられたが、伊藤本人は試合に出られないながらも着実に成長を感じていた様子で、「リーグ・アンは魅力的なので、やるつもり満々です!」と、翌シーズンへの期待に目を輝かせていた。

 この頃には、入団会見のときからは想像つかないほど体もたくましくなっていて、胸筋もみちがえるほど厚みを増していた。彼の言葉どおり、試合には出ていなくても、着実に成長を遂げていた。

怪我に泣かされチームも降格

 ところが、45年ぶりにリーグ・アンの一員となった2008/09シーズン、伊藤翔の姿はベンチですら見られることがなかった。長期的な怪我に見舞われ、シーズンを通してほとんどプレーできる状態になかったのだ。

 グルノーブルは13位でシーズンを終え、翌2009/10シーズンもリーグ・アンに参戦したが、開幕を迎えても伊藤のコンディションはまだメンバー入りできるまでには戻っていなかった。その間クラブは、開幕から12連敗して第4節終了時点で最下位に転落。その後そこから一歩も動くことなく第32節で早々に降格決定、という不遇の年を送ることになった。

 降格の第一の要因は、怪我人が続出したこと。すでにバレンシア行きが決まっていたフェグーリも負傷でほぼ1年間欠場。加入したばかりの松井大輔も開幕戦で足を痛め、完全復帰した頃にはすでに9連敗中だった。冬の移籍市場でバズダレビッチ監督は各ポジションに一人ずつ補強したいと訴えたが、ワンティエスGMは、降格した場合に備え「リスクは避けたい」と新戦力獲得に消極的だった。

 そんな状況でも、監督がやる気満々の若手を使って活性化、というような策を使わないのは、見ていて疑問だった。熟練プレーヤーがどんなにダレていても、怪我や出場停止以外では彼らを外そうとはしなかった。

 早くから降格が決定的でやる気を失っていたのか、練習ですらFW陣は全くシュートが入らない。単に下手というより、真剣さが欠けているように見えた。それでもバズダレビッチ監督は何も言わずにスルーしている。そんな時こそ、やる気に満ち溢れた若手がカンフル剤になるかもしれないのに、と、もどかしい思いをしたものだった。

伊藤の精神力から滲み出る充実感


グルノーブルでは出場機会に恵まれなかった伊藤。しかし、充実した日々は送れていたのではないだろうか【写真:小川由紀子】

 結局この2008/09シーズンも、伊藤の出番はリーグ閉幕間際の第36節、後半70分からの出場1回に終わった。グルノーブルで過ごした3シーズン半の在籍期間中、トップチームでのリーグ戦出場は5回、0ゴール。ピッチに立った時間は、フル出場1試合分にも満たなかった。

 ただ、彼自身は充実していたのではないかと思う。それは単なる推測ではなく、本人に会うたびに感じたことだ。

 周囲は「出場機会があるところにレンタル移籍してアピールしたほうがいい」と誰もが思っていた。実際、千葉や欧州のクラブからも打診はあった。

 しかし本人は、グルノーブルでやり続けることを選んだ。リザーブチームで得点を重ねていた2年目は「トップチームでもやれるところを見せたい」というジレンマを感じたこともあったようだったが、それでも彼はいつでも明るく、気持ちがいいほどはつらつとしていた。

 元来のポジティブな性格、そして、簡単にはへこたれない強靭な精神力のたまものだろうが、置かれた現状の中で、彼なりに得るものがあったからだと思う。それはピッチの外でも同じで、初の海外生活で苦労もあったはずだが、「フランスじゃインターネットがつながるまで3ヶ月もかかるなんて、驚きましたよ~」とケラケラ笑っていた様子は実に頼もしかった。

 ティーンエイジャーから成人への過渡期、グルノーブルで過ごした日々は、彼の人生にとってかけがえのない時間となったことだろう。

(取材・文:小川由紀子【フランス】)

【了】

トップチーム、活動休止期間延長

活動休止期間を延長した鹿島のトップチームである。
日本全国に緊急事態宣言が発令され、その期間に合わせた格好である。
これは致し方がない。
今は耐えるとき。
いずれ明るい兆しがあるはず。
それをチームと共に待っていこうではないか。
地球的危機である。

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トップチーム活動の休止期間延長について
2020.04.17(金)

新型コロナウイルス感染症に対する感染予防対策の一環として、4月7日(火)~4月19日(日)まで休止しているトップチームのトレーニングについて、政府から日本全国へ発出された緊急事態宣言などを踏まえ、5月6日(水)まで休止期間を延長することになりましたのでお知らせいたします。

5月7日(木)以降の活動につきましては、政府見解や社会情勢、感染症の発生状況を考慮しながら対応を検討し、活動休止期間に変更がある場合は、決定次第、あらためてご案内いたします。

何とぞご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

【活動休止延長期間】
2020年4月20日(月) ~ 2020年5月6日(水)

Jリーグ、再開後1ヶ月無観客試合を検討

再開後の公式戦1ヶ月を無観客にて行うことを検討するJリーグである。
現時点では再開時期は見えておらぬが、緊急事態宣言が全国に拡大され国として収束を目指しておること、また台湾では新規感染者0と封じ込めが成功したとの報が入り、そして死者2万人が超えたイタリアでは感染症専門家であるイタリア国立衛生研究所(ISS)の感染症局長ジョバンニ・レッツァ氏が「セリエAは1ヶ月以内に再開できる」と発言しておる。
こういった背景を考慮すれば、無観客であれば再開の兆しが見えたと考えても良かろう。
気を緩ませることは出来ぬが、こうした話題は素直に喜びたい。
無観客にて厳重注意を払えば、サッカーがある日常がやってくる。
小さく大きな一歩である。
また無観客試合の例として2014年の浦和ー清水戦が挙げられておる。
これは浦和のサポーターが「JAPANESE ONLY」の応援団幕を張った事件への処分であった。
これは、行為もそれに対する対応も含めて浦和レッズというクラブの体質が表れておる。
自浄作用のないクラブとサポーターたちであろう。
このJリーグを汚す歴史的事件と同様に今回の無観客試合が報じられることを恥じる。
Jリーグは世界に誇れるサッカーリーグでありたい。
その為にも、今回の再開は成功させねばならぬ。
全クラブが結束し、コロナを排除して再開させようではないか。
応援しておる。

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Jリーグ 再開後1カ月程度「無観客試合」プラン 6、7、8月の3パターン検討中いずれの場合も
[ 2020年4月17日 05:30 ]


14年3月、無観客で行われた浦和ー清水戦
Photo By スポニチ


 新型コロナウイルス禍の影響で公式戦を中断しているJリーグが、再開から1カ月程度を「無観客試合」とする案を検討していることが16日、分かった。現在は6、7、8月と3パターンの再開案を検討中。関係者によれば「安全性」の観点から、いずれの場合も無観客でのスタートを視野に入れているという。
 Jリーグでは座席の前後左右を空け、アウェー観戦は自粛、入場は収容率50%以下を基準に再開することが大前提。だが、大規模スタジアムでは50%以下でも2万~3万人に達する。入退場時や移動時の公共交通機関で3密(密閉、密集、密接)を避けるのは困難と指摘する関係者も多い。

 観客の声もサッカーの一部であり、各クラブの重要な収入源だ。だが最優先は観客の安全。3月には鹿島―札幌、名古屋―横浜FCなどが無観客で公式戦に近い形の練習試合を実施しており、万全なコロナ対策でリスクを大幅に抑えた実績もある。前日、村井チェアマンは「(再開案は)1カ月タームで考え、どんな手を打てるか、検討している」と話した。まだ先の見えないコロナ禍。過去の無観客試合は14年3月、一部サポーターの不適切な横断幕掲出を受けて行われた浦和―清水戦(埼玉)の1度だけ。一斉無観客開催となれば極めて異例だが、段階的に観客動員を進めることも再開への近道の一つとなりそうだ。

鹿島取材中に大震災と遭遇

東日本大震災の被災を鹿嶋にて体験した記憶を綴るニッカンスポーツの塩谷記者である。
あの記憶が呼び起こされて辛い。
この被災により鹿島はスタジアムを破損し、フェリペ・ガブリエルや野沢などの選手を移籍にて失うこととなった。
大きく観客数を減らした暗黒時代の訪れである。
立ち直るには多くの月日が必要であったことも記憶に残る。
今また、今度は地球規模にて危機が訪れておる。
この状況を乗り切った先にまた鹿島の“復興”が心の支えになろう。
その日を静かに待つときである。

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鹿島取材中に大震災と遭遇/記者が振り返るあの瞬間
[2020年4月16日11時0分]


鹿島の練習場からは、黒煙を吹き上げる住友金属の工場が見えた(2011年3月11日撮影)


鹿島練習場に隣接したトラクター車庫では、1メートル程の段差ができていた(2011年3月11日撮影)


地下の下水道管が破損し、水があふれ出した鹿島ユースグラウンド(2011年3月11日撮影)


<サッカー担当記者 マイメモリーズ>(9)

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。

生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

   ◇   ◇   ◇

鳴り響く警報器、はがれ落ちる天井の壁と電球、身を寄せ合って悲鳴をあげる女性スタッフ。

11年3月11日午後2時46分、私は茨城・鹿嶋市の鹿島アントラーズのクラブハウス内で東日本大震災と遭遇した。最初に強い揺れが起き、その後弱い揺れが続いた。時間にすれば約2分程度。だが、ものすごく長い時間に感じ、「このまま揺れが収まらないのでは」と鈍感な私でも恐怖感を覚えた

チームは翌12日のアウェー清水エスパルス戦に向けてすでにバスで移動しており、選手は不在だった。クラブスタッフは「こんな状況は初めて。とにかく、ここにいては危険。社員は帰宅させます」と緊急避難命令を出した。ただごとではない事態。電球の破片や崩れた壁が散乱するクラブハウス、水道管が破裂し水があふれ出しているユースグラウンド、亀裂が入った道路、近隣の工場から噴き上がる黒煙。手持ちのカメラで必死に撮りまくった。

このとき、1万5000人を超す犠牲者を出す未曽有の津波が東北地方を襲うことなど、知るよしもなかった。福島第1原発事故による放射能漏れで、避難せざるを得なくなった周辺住民は4万7737人(昨年9月時点)…

当時ルーキーで遠征メンバーに帯同していなかった元日本代表DF昌子源(27=ガンバ大阪)は鹿嶋市内の自宅で昼寝していたところ、大きな震動で目を覚ましたという。「兵庫に住んでいた3歳のころに阪神大震災を経験した。あのときは自宅のタンスが倒れてきたのをうっすら記憶している。それ以来の衝撃だった」と振り返っている。

震災後、Jリーグは約1カ月間中断した。プロスポーツは非日常を提供し、夢や感動を与える。だが、日常が非日常化した際、その基盤がいかに脆弱(ぜいじゃく)かを思い知った。あの年、被災地の復興支援活動を始めた元鹿島MF小笠原満男氏は「被災者の方々にこちらが励まされる。ぼくらはプレーで恩返しすることしかできない」と、よく口にしていた。7月、なでしこジャパンが世界一に輝いた。そして10月、鹿島は「復興」を合言葉にナビスコ杯(現ルヴァン杯)で優勝を飾った。

今、世界中が未知のウイルスへの対応に追われ、収束はいつになるかわからない。人類がこの困難を克服したとき、アスリートたちの躍動はさまざまな思いと感動を私たちに与えてくれるだろう。そのときが一刻も早く訪れることを願ってやまない。【塩谷正人】

フットボールチャンネル選出、Jリーグ歴代最強外国籍選手ベストイレブン

Jリーグ歴代最強外国籍選手ベストイレブンを選出したフットボールチャンネル編集部である。
鹿島ゆかりの助っ人にはジョルジーニョ、ビスマルク、マルキーニョスの三人が選ばれておる。
いずれも鹿島にリーグタイトルを齎せた素晴らしいブラジル人であった。
ジョルジーニョとマルキーニョスはMVPも受賞しておりJリーグの歴史にも名を刻んだ事で知られる。
ただビスマルクこそがJリーグを代表する助っ人であったことをここで大きく言いたい。
これまで、多くのJリーグ特集に於いて外国人特集が催されるたびにストイコビッチであったり、ジーコであったり、そしてイニエスタにスポットが当てられる。
いずれ劣らぬ素晴らしい外国人であったことは認めよう。
しかしながら、タイトルを齎せる“助っ人”という意味ではビスマルクこそが最高の外国人であった。
これを無視するような番組や特集が多く寂しい限りである。
また、この記事ではDF登録となっておるジョルジーニョであるが、鹿島ではボランチでの出場がメインであったことを付け加えておきたい。
昨季より5人までの同時出場が可能になり、助っ人を当てることがJリーグ制覇の方法となった。
当たり外国人が数多く来日するようになって、特別一人が目立つことは少なくなっていくやもしれぬ。
それも含めてJリーグの変化なのであろう。

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Jリーグ歴代最強外国籍選手ベストイレブン。レジェンドたちに割って入る現役選手は…
1993年に開幕したJリーグは、今年で28年目を迎えた。その間、世界的なスター選手や素晴らしい素質を持った外国籍選手たちが、Jリーグを舞台に活躍している。今回、フットボールチャンネルでは、Jリーグ歴代外国籍選手から、最強ベストイレブンを選出する。

2020年04月16日(Thu)7時20分配信
text by 編集部 photo Getty Images


GK

シジマール(ブラジル出身)
生年月日:1962年6月13日
所属クラブ:清水エスパルス(93年~94年秋、95年)
J1通算成績:61試合出場/0得点


 ブラジルのサンパウロやグレミオなどでプレーしたシジマールは、93年に来日した。当初は清水エスパルスのGKコーチを務める予定だったが、現役復帰して活躍している。

 1年目には足掛け8試合、731分の連続無失点記録を樹立。身長183cmはGKとしては大柄ではないが、193cmの長いウイングスパンを活かしたプレーでビッグセーブを連発し、「クモ男」の相性で親しまれた。94年秋に一度は退団したが、95年に復帰。3年間でリーグ戦61試合に出場した。

 現役引退後も日本に残り、さまざまなカテゴリーの指導者ポストを歴任した。2009年にGKコーチに就任した柏レイソルでは11年のリーグ優勝に貢献。17年からトップチームを指導する藤枝MYFCでは、GKの負傷離脱が相次いだことを受けて一時的に現役に復帰。4月16日のグルージャ盛岡戦では54歳にしてベンチ入りを果たして話題を呼んでいる。

DF

ギド・ブッフバルト(西ドイツ代表)
生年月日:1961年1月24日
所属クラブ:浦和レッズ(94年夏~97年)
J1通算成績:127試合出場/11得点

 西ドイツ代表でイタリアワールドカップ優勝に貢献したブッフバルトは、1994年に行われたアメリカワールドカップ後に日本にやってきた。シュトゥットガルトから浦和レッズに移籍し、3年半プレーしている。

 闘志を前面に出すプレーで、下位が定位置になりつつあった浦和の最終ラインを支えた。95年から2年連続でベストイレブンに選出。ファーストネームの「ギド」と呼ばれ、多くのサポーターから愛されたレジェンドだった。

 97年限りで浦和を退団したブッフバルトは、カールスルーエで1年半プレーしたのちに現役引退。2002年には浦和のテクニカルアドバイザーに就くと、04年には監督に就任した。初年度の2ndステージで初のステージ優勝にチームを導くと、05年には天皇杯優勝。翌年は初のリーグ優勝と天皇杯連覇を達成して、浦和の黄金期を築き上げた。

シジクレイ(ブラジル出身)
生年月日:1997年5月13日
所属クラブ:京都パープルサンガ(99年~00年)、大分トリニータ(00年)、ヴィッセル神戸(01年~03年)、ガンバ大阪(04年~07年)、京都サンガ(08年~09年)
J1通算成績:289試合出場/26得点

 1997年、24歳のときにブラジルから来日したシジクレイは、当時JFLに所属していたモンテディオ山形に加入して日本でのキャリアをスタートさせた。99年にJ1の京都パープルサンガに移籍して定位置を確保すると、大分トリニータ、ヴィッセル神戸への期限付き移籍を経て、02年に神戸に完全移籍。毎年のようにチームを変えたが、すべてのクラブで定位置を掴んでいる。

 04年には西野朗が監督を務めるガンバ大阪に移籍。翌年、キャプテンを任されたシジクレイは、チームを初のリーグ優勝に導いた。天皇杯を制覇した07年限りでG大阪を退団し、9年ぶりに京都に復帰。京都では2年間で53試合に出場した。

 187cmの体躯を誇り、的確な判断と高いリーダーシップでチームを統率。足下の技術も高く、ボランチとしてプレーしたこともあった。13シーズンに渡って日本でプレーし、ほぼすべてのシーズンでチームの中心選手として活躍。J1・J2・JFLを合わせたリーグ戦出場373試合に上る。

ジョルジーニョ(ブラジル代表)
生年月日:1964年8月17日
所属クラブ:鹿島アントラーズ(95年~98年)
J1通算成績:103試合出場/17得点

 フラメンゴではジーコとチームメイトで、その後に渡ったドイツではレバークーゼンとバイエルン・ミュンヘンでプレーした。ワールドカップにはイタリア大会から2大会連続で出場し、94年のアメリカ大会ではブラジル代表の優勝に貢献。鹿島アントラーズには、ジーコが現役を退いた翌年の95年に加入した。

 鹿島は96年に初のリーグ優勝を達成。年間最優秀選手賞とベストイレブンをダブル受賞したジョルジーニョは、優勝の立役者となった。所属した4年間で4つのタイトル獲得に貢献し、98年限りで鹿島を退団した。ブラジル代表では右サイドバックだったが、鹿島では元日本代表の本田泰人とボランチでコンビを組むことが多かった。

 03年に現役を退いたジョルジーニョは、06年に監督業を開始。同年夏からはドゥンガ監督率いるブラジル代表のヘッドコーチを務めている。12年には古巣・鹿島の監督に就任してリーグカップを獲得したが、リーグ戦は11位に終わり、1年限りで退任となった。


ドゥトラ(ブラジル出身)
生年月日:1973年8月11日
所属クラブ:横浜F・マリノス(01年夏~06年、12年~14年夏)
J1通算成績:試合出場/得点

 ドゥトラはかつて、ロベルト・カルロスと将来のブラジル代表を争うといわれていた。しかし、ブラジルではキャリアを築けず、レンタル移籍で2001年に横浜F・マリノスに加入した。

 28歳の誕生日にJリーグ初出場を飾ったドゥトラは、マリノスの左サイドバックに定着。03年からはチームの連覇に貢献し、岡田武史監督からは「替えが利かない存在」と評された。しかし、チーム事情から06年限りで退団。ドゥトラはブラジルへ帰ることになった。

 5年ぶりのマリノス復帰となったのは2012年だった。このとき既にドゥトラは38歳となっていたが、この年は29試合、13年も33試合に出場。13年には9年ぶりのタイトルとなる天皇杯優勝に貢献している。14年もプレーしたが、41歳の誕生日を前に契約満了をもって現役を引退した。

MF

ドゥンガ(ブラジル代表)
生年月日:1963年10月31日
所属クラブ:ジュビロ磐田(95年~98年)
J1通算成績:99試合出場/16得点

 ブラジル、イタリア、ドイツでプロキャリアを築いたドゥンガは、ブラジル代表の中心だった。1994年のアメリカワールドカップではキャプテンとしてブラジル代表の優勝に貢献すると、その数か月後にジュビロ磐田にやってきた。

 Jリーグ参戦2年目の95年に加入したドゥンガは、若き日の藤田俊哉、名波浩、福西崇史らとともにプレーした。97年には2ndステージ優勝、チャンピオンシップを制してクラブ初の年間優勝を達成し、ドゥンガは年間最優秀選手賞を受賞。世界の頂点を経験したセレソン(ブラジル代表)の主将は、闘将の愛称を体現するかのうようにピッチでリーダーシップを発揮して、黄金期の礎を築き上げた。

 98年にはブラジル代表としてフランスワールドカップに出場。Jリーグでは2年連続となるベストイレブンに輝いたが、このシーズン限りで磐田を退団した。現役を引退した1999年にはアドバイザーに就任し、磐田の黄金期を支えている。

ビスマルク(ブラジル代表)
生年月日:1969年9月17日
所属クラブ:ヴェルディ川崎(93年夏~96年)、鹿島アントラーズ(97年~01年)、ヴィッセル神戸(03年9月~03年12月)
J1通算成績:283試合出場/69得点

 ブラジル代表のビスマルクがヴェルディ川崎に加入したのは、Jリーグ開幕初年度の1993年夏のこと。18歳でブラジル代表に選ばれ、2年後にはイタリアワールドカップに選出された逸材は、憧れのジーコがプレーする日本に23歳のときにやってきた。

 豪華なメンバーを擁したヴェルディは初年度からリーグ連覇を達成した。ビスマルクも94年から2年連続でベストイレブンに輝き、3年半で5つのタイトルタイトル獲得に貢献している。

 97年に移籍した鹿島アントラーズではジーコがつけていた10番を継いだ。リーグカップと天皇杯の2冠に輝いた同年に3度目のベストイレブンに輝くと、2000年にはJリーグ初の国内3冠に貢献。ヴェルディと鹿島で獲得したタイトルは12個に及び、優勝請負人と呼ばれた。

 01年限りで鹿島を退団してブラジルに戻ったが、03年9月にヴィッセル神戸に加入。チームを降格の危機から救ったが、その年限りでチームを去った。およそ9年間で283試合に出場し、69得点を挙げている。敬虔なキリスト教徒だったビスマルクが行うゴール後の祈りのポーズは、当時の子どもたちがこぞって真似をしていた。


アンドレス・イニエスタ(スペイン代表)
生年月日:1984年5月11日
所属クラブ:ヴィッセル神戸(18年夏~)
J1通算成績:37試合出場/9得点

 アンドレス・イニエスタはスペイン代表の南アフリカワールドカップ優勝、EURO連覇に貢献。バルセロナを9度のリーグ優勝と4度のUEFAチャンピオンズリーグ制覇に導いたレジェンドは、ロシアワールドカップを終えた18年夏にヴィッセル神戸にやってきた。

 90年代に来日したスターたちと同様に、イニエスタは日本でもその卓越した技術を披露した。イニエスタ見たさに試合はホーム、アウェイ問わずに満席に。イニエスタ加入後のチームは度重なる監督交代などに揺れたが、トルステン・フィンク監督が19年夏に就任すると、天皇杯優勝に貢献。イニエスタは19年のベストイレブンに選出されている。

 神戸での現役引退を望んでいるとも報じられており、契約は2022年まで残している。1年半で37試合に出場したのみで、他のレジェンドたちに比べるとJリーグでの実績は劣る。だが、イニエスタがJリーグでのキャリアを終えた時、このベストイレブンに相応しい数字を残しているに違いない。

FW


マルキーニョス【写真:Getty Images】

ドラガン・ストイコビッチ(ユーゴスラビア代表)
生年月日:1965年3月3日
所属クラブ:名古屋グランパス(94年夏~01年夏)
J1通算成績:184試合出場/57得点

 ユーゴスラビア代表の中心選手だったストイコビッチは、母国の強豪レッドスター、マルセイユなどでプレーし、1994年夏に名古屋グランパスに加入した。

 加入当初は半年の契約だったが、翌年にアーセン・ベンゲルが監督に就任したこともあり、契約は延長された。翌年から2年連続ベストイレブンに選出。96年10月にアーセナルの監督に就任したベンゲルはストイコビッチをロンドンに連れていこうとしたが、ストイコビッチはこれを断ったという。

 Jリーグで残した成績は、184試合57ゴール。雨中のリフティングドリブルやヒールパスなど、華麗なプレーが印象的だった。ピクシーの愛称で親しまれたファンタジスタは名古屋で7年間プレーし、2001年の1stステージを以って現役を引退した。

 現役引退後はユーゴスラビアサッカー協会やレッドスターの会長といった要職を歴任したのち、2008年に名古屋グランパスの監督に就任。田中マルクス闘莉王、ジョシュア・ケネディなどを擁して、2010年にクラブ初のJリーグ制覇を成し遂げた。

マルキーニョス(ブラジル出身)
生年月日:1976年3月23日
所属クラブ:東京ヴェルディ(01年夏~02年)、横浜F・マリノス(03年)、ジェフユナイテッド市原(04年)、清水エスパルス(05年~06年)、鹿島アントラーズ(07年~10年)、ベガルタ仙台(11年)、横浜F・マリノス(12年~13年)、ヴィッセル神戸(14年~15年)
J1通算成績:333試合出場/152得点

 マルキーニョスは2001年夏に、本拠地を川崎から東京に移したヴェルディに加入した。03年に移籍した横浜F・マリノスではケガの影響もあって8得点に終わったが、2ステージ完全制覇のリーグ優勝に貢献。その後はジェフユナイテッド市原、清水エスパルスと渡り歩いた後、鹿島アントラーズに07年に加わった。

 鹿島はマルキーニョスが加入した07年から3連覇を達成。マルキーニョスも08年に年間MVP、得点王、ベストイレブンの個人3冠に輝いている。既に30歳を過ぎていたが、高い技術と献身的なプレーでチームに多くの勝利をもたらした。

 11年にはベガルタ仙台に移籍したが、東日本大震災の影響もありブラジルに帰国。翌年からマリノスに復帰し、14年からはヴィッセル神戸でプレーした。15シーズンで9度の2ケタ得点をマークしたマルキーニョスは、外国人としては歴代最多の152ゴール、全体でも歴代5位という数字を残した。まさに歴代最強外国籍ストライカーにふさわしい選手と言えるだろう。


エメルソン(ブラジル出身)
生年月日:1978年12月6日
所属クラブ:コンサドーレ札幌(00年)、川崎フロンターレ(01年)、浦和レッズ(01年夏~05年)
J1通算成績:100試合出場/71得点

 サンパウロの下部組織出身のエメルソンは、21歳のときに岡田武史監督率いるコンサドーレ札幌に加入した。札幌では31得点、J2に降格した川崎フロンターレでは半年で19得点をマークし、01年夏に浦和レッズに移籍した。翌年から10番を背負ったエメルソンは、3年連続ベストイレブンに選出され、04年には27ゴールで得点王を獲得。2ndステージではクラブ初のステージ優勝に貢献した。

 05年も引き続き浦和でプレーしたが、カタールのアル・サッドが高額な移籍金と年俸を支払ってエメルソンを獲得。その後はフランスのレンヌやUAEのアル・アイン、ブラジル国内のクラブを渡り歩き、18年に現役を引退した。

 爆発的なスピードで相手DFを幾度となく置き去りにし、高い決定力でゴールを積み重ねていった。通算成績で見れば他の選手に比べれば少ない数字だが、残したインパクトは大きかった。

ベストイレブン


Jリーグ歴代最強外国籍選手ベストイレブン

▽GK
シジマール

▽DF
ジョルジーニョ
ギド・ブッフバルト
シジクレイ
ドゥトラ

▽MF
ドゥンガ
ビスマルク
アンドレス・イニエスタ

▽FW
ドラガン・ストイコビッチ
マルキーニョス
エメルソン

【了】

鹿島アントラーズFC、全職員の在宅勤務実施

全職員の在宅勤務を実施する鹿島アントラーズFCである。
茨城県内での外出自粛要請に応じたもの。
このクラブの対応は素晴らしい。
また小泉社長のtweetによると、2月下旬から在宅勤務の準備をしておったとのこと。
このあたりの迅速さ、そして用意周到なところはメルカリ効果であることがよく分かる。
まさに“かわる”であった。
この体制にてこの危機を乗り切っていこうではないか。
結束である。

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クラブ職員の在宅勤務について
2020.04.15(水)

新型コロナウイルス感染症に対する感染予防対策の一環として、本日より当面の間、原則として全職員の在宅勤務を実施することになりましたのでお知らせいたします。政府から発出された緊急事態宣言および茨城県からの県内全域を対象とした外出自粛要請などを踏まえ、クラブとして感染拡大防止を最優先するための措置となります。

在宅勤務期間中のお問い合わせについて、コールセンターでは人員規模を縮小して電話受付を継続いたします。このため、電話がつながりにくくなりますことをあらかじめご了承ください。

皆さまにはご不便をおかけしますが、何卒ご理解、ご協力の程よろしくお願い申し上げます。

サッカー産業崩壊の危機、Jリーグはどう生き残るか

日本も含む世界のサッカー界について記す日本経済新聞の大住氏である。
サッカー産業の危機について伝えておる。
未曾有の危機であることはサッカー界においても同様であり、破産するクラブやサッカーに纏わる業種が出てくることは必至であろう。
ただ、大住氏は欧州でのコロナ収束後は静かに平常化して行くであろうと述べる。
欧州サッカーは世界的コンテンツであり、映像収益は大きい。
再開を多くの民が待ち望んでおり、注目度が高い。
しかしながら、「ダゾーンとJリーグの契約は、日本という市場への将来性への先行投資という面が大きく、欧州のビッグクラブと放映権料との関係とは少し違う。コロナウイルス禍を機にダゾーン側から契約見直しの提案があってもまったく不思議ではない」と記すように日本サッカーの打撃は計り知れぬところ。
そこでJクラブは「プロサッカークラブの基本」に戻るしかないと大住氏は述べる。
これには同意する。
足下をしっかりし、そのクラブを愛する者のために良いフットボールを提供し続けるのだ。
この危機に各クラブは苦しみながら模索しておるであろう。
このときに自分たちの足下がなんなのであるかを常に立ち返って考えて欲しい。
トップが経営手腕を発揮するときである。

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サッカー産業崩壊の危機、Jリーグはどう生き残るか
サッカージャーナリスト 大住良之
2020/4/16 3:00

21世紀にはいって急速に膨張した「サッカー産業」が、崩壊の危機にある。

4月10日、国際サッカー連盟(FIFA)のインファンティノ会長は、全世界の211の加盟協会に向けてビデオメッセージを送り、「どんな試合、どんな大会、どんなリーグも、ただ一人の人間の生命には代えられない」と述べて、再開の準備を急ぐリーグに自重を求めた。


「安全が保証されないなかでの再開は無責任」と訴えるFIFAのインファンティノ会長=ロイター

■リーグ再開を急ぐ欧州5大リーグ

欧州の「ビッグ5」と言われるイングランド・プレミアリーグ、ドイツ・ブンデスリーガ、スペイン・リーグ、イタリア・セリエA、そしてフランス・リーグのなかで、いま、リーグ再開に向けた動きが出始めている。厳しい外出制限が継続するなか、練習再開などの動きが起こっているのだ。それに対しインファンティノ会長は、「100パーセントの安全が保証されないなかで再開するのは、無責任極まりない行為だ」と非難している。

巨大な放映権契約の上に成り立っている巨大リーグほど、新型コロナウイルスによるリーグ中断の影響は大きいといわれる。もし現在のまま2019/20シーズンが終了という事態になれば、欧州5大リーグの総損失は40億ドル(約4320億円)にものぼるだろうと、米監査法人デロイトは報告している。

現代のプロサッカークラブの収入は、3つの柱で成り立っている。第1は「入場料などホームゲーム開催による収入」、第2は「スポンサー収入」、そして第3は「テレビ放映権収入」。そのなかで、21世紀の最初の20年間で急速にふくらんだのが放映権収入である。


世界のスターを集める欧州リーグの放映権料はこの20年で莫大に膨れた。バルセロナのメッシはアルゼンチン出身=ロイター

1995年12月にベルギーのプロサッカー選手が欧州司法裁判所で勝訴したことで各国リーグの「外国人制限」が崩壊した。そのタイミングは、欧州各国のテレビ放送の「デジタル多チャンネル化」の時期と重なっていた。視聴可能チャンネルが一挙に何十倍にも増えたなか、視聴者獲得戦争に勝つには、多くの人を引きつける「キラーコンテンツ」が必要だ。サッカーの放映権が急騰するのは当然のなりゆきだった。そして「外国人制限解除」にこれまでとはケタ違いの放映権料が注ぎ込まれて生まれたのが、世界のスターを根こそぎ集めるプレミアリーグのような怪物であり、「ビッグ5」の巨大クラブだった。

■コロナ後も放映権収入はスムーズに確保か

1980年代に欧州のサッカーに吹き荒れた「フーリガン」騒ぎに嫌気がさしてサッカーから距離を取っていたスポンサーが戻ってきたのも、競争の激しいテレビ放映のレベルアップによってサッカーのイメージが急速に上がり、そこに「ブランドイメージ強化」の道があることを見たからだった。ウエア契約、ユニホームの胸や背中につけるロゴ契約、スタジアム内の広告看板契約などで、現在では、年に400億円を稼ぐクラブもある。

こうしたリーグやクラブがいま「再開」を急いでいるのは、収入の大きな部分を占める放映権契約とスポンサー契約をまっとうするためにほかならない。入場料収入など「第1の収入源」を失っても第2、第3の収入源であるスポンサー、テレビ放送との契約義務を果たせば、クラブを保つことはできるからだ。


ユニホームのロゴ契約もクラブにとっての重要な収入源。写真はレアルマドリードのルカ・ヨヴィッチ=ロイター

では、「コロナウイルス後」にはどうなるか。試合が完全な形でできるようになれば、放映権収入は比較的スムーズに従来のレベルに戻るだろうといわれている。キラーコンテンツ争いはまだ続いており、放映権収入については、どのくらい試合ができない期間が続くかが主要な懸念となる。その期間に経営破綻するクラブは当然ある。

スポンサー収入はそう簡単な話ではない。今回のコロナウイルス禍は、多かれ少なかれほとんどの産業にダメージを与え、産業界は生き残りをかけた構造改革を強いられる。「ブランドイメージ強化」というモチベーションは企業要素のなかでは強いとは言えず、どちらかと言えば真っ先に切られる運命にある。バブル経済崩壊後の日本の企業スポーツがどうなったか思い起こせば、容易に想像がつく。放映権とスポンサー、両翼のエンジンで空高く飛んでいた現代のプロサッカーという産業は、その「片肺」を失い、大きく崩れる危険性をはらんでいるのだ。

欧州のトップリーグの話を中心にしてきたが、構造としてはJリーグも例外ではない。「収入の3本柱」も変わらない。とくに2017年以降、英パフォームグループのスポーツ動画配信サービス「DAZN(ダゾーン)」との放映権契約がリーグとクラブの収益を伸ばし、活気につながってきた。


Jリーグのキックオフカンファレンスを終え、神戸・イニエスタ(左)と言葉を交わす横浜FC・三浦=共同

ただダゾーンとJリーグの契約は、日本という市場への将来性への先行投資という面が大きく、欧州のビッグクラブと放映権料との関係とは少し違う。コロナウイルス禍を機にダゾーン側から契約見直しの提案があってもまったく不思議ではない。

■クラブの根っこはホームタウン

そしてスポンサーについては、私は大きな危機感をもっている。日本経済の先行きがまったく見えないなか、Jリーグを支えるスポンサー企業がコロナウイルス禍の後始末に精力を割かなければならない状況に、リーグもクラブも小さからぬ影響を受けることになるだろう。

そうした状況は、この後にも起きるに違いない。スポンサーだけでなく、放映権収入が思うようにはいらない時期(ほんの数年前までがそうだった)もくるかもしれない。

そのときに生き残るには何が必要か――。「プロサッカークラブの基本」に戻るしかないと私は思っている。ホームゲームの開催による収益を中心にクラブを運営していくことだ。ホームタウンと、ファン・サポーターとのつながりをより強固なものとし、ホームタウン、ファン・サポーターのためにプレーし、戦うクラブであることを示し続けることだ。もうひとつ言えば、ホームタウンとのつながりが強いことこそ、企業にスポンサーとなる意欲を増すはずだ。


2月にJリーグが開幕し、選手を迎える湘南のサポーター。新型コロナウイルス感染予防のため、マスク姿の観客が目立った=共同

「ホームタウンのためにプレーし続ける」という絶対的なベースさえ見失わなければ、クラブ存続のための道もおのずと見えてくるだろう。

Jリーグ、8月再開を検討

実行委員会にて6、7、8月の再開案を提示したJリーグである。
収束の兆しの見えぬ新型コロナウイルスの影響を考慮し、最悪でも8月からの再開をも視野に入れておる事が伝わる。
これを機に秋春制への移行を声に出す輩が多く出てくると思われる。
しかしながら、今季・2020年シーズンは既に開始されており、それに伴う放映権の契約を履行せねばならぬ。
特にリーグ戦は外資であるDAZNとの大型契約となっており、不履行条項は非常に厳しいものであろう。
となると、経営への影響は計り知れぬところ。
無理をしてでも今季を冬に終わらすことを目的とすることを理解せねばならぬところ。
とはいえ、この新型コロナウイルスについては、地球規模の災害であり、思惑だけでどうにかなるものでは無い。
今は、収まることを祈り、医療関係者・研究者への感謝を続けていくところ。
緊急事態である。

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Jリーグ「8月再開」案 3パターンをシミュレーション
[ 2020年4月15日 05:30 ]

 Jリーグが「8月再開」案の想定を開始したことが14日、分かった。新型コロナウイルス感染拡大のため、公式戦を中断されている中、ウェブによる実行委員会を実施。複数の関係者によれば6、7、8月と3パターンの再開案がシミュレーションされたという。
 75%消化のリーグ成立条件を考えれば「8月」はギリギリの線。日本協会の田嶋会長は天皇杯の大会方式の変更を明言し、ルヴァン杯も縮小を迫られそう。それも断続的な週2試合が大前提。1月末が契約期限の選手も多く、シーズン終了が越年する可能性を指摘する関係者もいる。もはや秋春制の様相だ。

 当初、17日に予定されていたNPBとの新型コロナ対策連絡会議は23日に延期されたが、Jリーグでは専門家の見解を聞いた上で23日に再度、実行委員会を実施予定。3日に早くても6月以後の再開を目指すことで各クラブが合意したが、次回は6、7、8月の再開案3パターンを本格検証する見通しだ。

 関係者によればリーグ戦70%以下の消化では10年2100億円というDAZNとの放送権契約にも問題が生じる見込み。この日はコロナ対策に特化した融資制度や大幅減が濃厚な賞金、10日に行われた日本プロサッカー選手会との意見交換会の内容も議論された。

 Jリーグが直面する未曽有の危機。3パターンも想定された再開案が、コロナ禍の深刻さを物語っている。

Jリーグ8月再開も…リーグ戦成立の試合数75%消化を最優先、ルヴァン杯トーナメント方式案も
2020年4月15日 6時0分スポーツ報知

 新型コロナウイルスの感染拡大で公式戦を中断しているJリーグが、4か月先となる8月再開まで含めたシミュレーションに取りかかっていることが14日、関係者の話で分かった。この日のウェブによる実行委員会で6、7、8月の再開案を提示した。中断再開がずれ込めば、ルヴァン杯をトーナメント方式に変更、J1リーグ戦の最終節(12月5日予定)を12月27日まで延ばす案などが出ている。新型コロナが終息した際には、リーグ戦が成立する総試合数の75%消化を優先することを軸に日程を再編する考えだ。

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で先行きが見えない中、Jリーグは4か月後の8月再開まで視野に入れ始めた。関係者の話を総合すると、この日の実行委で6、7、8月の3パターンの再開プランが示されたという。これまでは政府の見解、日本野球機構(NPB)との「新型コロナウイルス対策連絡会議」による答申を受け、1か月単位で再開の時期を探ってきた。近い時期だけではなく、数か月先まで見据えるのは公式戦中断から初めてになる。

 Jリーグは感染拡大の影響を受けて、2月23日の公式戦を最後に中断に入った。当初は3月18日の再開を目指したが、事態が収束することはなく中断期間を延長。4月3日再開案も見送られ、J3が4月25日、J2が5月2日、J1が同9日と段階的に再開する道を探ったが、実現には至らず。6月6日再開を目指した矢先に7都府県に緊急事態が発せられ、いったん「白紙」となっていた。

 関係者によると、今後はリーグ戦が成立する総試合数75%以上の消化を最優先に日程を組んでいく考えだという。7月に再開した場合、2月にグループステージが開幕したルヴァン杯をトーナメント戦で開催し、日程短縮する案がある。8月までずれ込んだ場合は、年末にかけて佳境を迎える天皇杯との日程調整を要するが、J1リーグ戦最終節を12月最後の週末(26、27日)まで延ばすことで、開催日程を確保することが検討されている。

 総試合数の75%を消化できない場合は、スポーツチャンネル「DAZN(ダゾーン)」からJリーグに支払われる放映権料が大幅に減額されるなどの影響が出るとの見方があり、Jリーグ、各クラブともにリーグ戦の消化を優先することで一致している。また、この日の実行委では、クラブがJリーグに支払う選手登録料の免除が伝えられるなど、一枚岩でこの難局を乗り越える姿勢だ。

 今後は、22日に政府の専門家会議が開かれ、23日にはNPBとの連絡会議に臨む。正式な日程案はその後にまとまる見通しだが、コロナ終息が見えない状況に、Jリーグは夏場再開という苦渋の決断を下す可能性さえ出てきた。

 ◆今季のJリーグ大会成立条件 J1~J3のリーグ全体の試合数の75%を消化し、かつ各クラブがリーグ戦の50%以上を消化すること。これを満たせず、大会不成立となった場合は順位、昇格、賞金、各種表彰などは行わない。局地的な感染拡大や選手に感染者が出た場合、クラブによって試合数が異なる事態も想定されるが、3月27日の実行委員会後にJリーグの担当者は「試合数で単純に割ると、34試合全勝と17試合全勝のチームが同じになる。勝率がいいのか、その他の方法がいいのか。検討していきたい」とコメントしていた。

 ◆2011年のナビスコ杯(現ルヴァン杯) 同年3月の東日本大震災による中断を受け、予選リーグを取りやめてトーナメント制で実施。1、2回戦はホーム&アウェー方式で行い、準々決勝と準決勝は一方のチームのホームで一発勝負の形式。ACL出場の4チームは準々決勝から登場した。決勝は当初の予定通り10月29日に行われ、延長戦の末に鹿島が浦和を1―0で下し9年ぶり4回目の優勝を果たした。

松村優太、どんなストーリーをどんなスピード感で描いていくのか

松村優太について記す高校サッカードットコムの小室氏である。
「ギラギラした姿勢がいちばんの魅力だろう」と松村を評す。
この強気なメンタルがプレイにも表れており、観る者を魅了する。
この先更にファンを増やしていくことであろう。
また小室氏は高校選手権での松村を観て、「意外に、華奢なんだな。それが個人的な第一印象だった。次に、目力があるなと感じた。困難にぶち当たったとしても、そこを乗り越えていこうとする意志の強さが目に表れているような気がした。自分の考えを明確にいうし、聡明だ」と感じたとのこと。
松村のうちに秘めた能力を見いだしているように思う。
強気な松村が、どのように鹿島で成長していくのであろうか。
楽しみである。

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高速ドリブラーの異名を持つ松村優太が プロの世界で描くストーリーとは?
2020.04.14


高校時代のMF松村優太

 前を向いてボールを受けたら、まず仕掛ける。ときには強引とも思えるようなシチュエーションであっても果敢に挑んでいく。少々粗削りながら、そんなギラギラした姿勢がいちばんの魅力だろう。

 Jクラブ最多の20冠を誇る鹿島アントラーズで、プロのキャリアをスタートさせた松村優太は生粋のドリブラーだ。しかもそこに“高速”がつく。そうした所見に違わぬプレーを、公式戦で、トレーニングマッチで、日々の練習のなかで、披露している。

「プロの選手としてやっていけるのは10年ちょっと。そう考えたら、1年目だからといって遠慮などしていられない。どんどん試合に絡んで結果を出していきたい」と、ふだんから繰り返しているが、同時に「自分にはまだまだ足りないところばかりなので、日々、吸収していかなければいけない」と、しっかり足元も見ている。

 公式戦の出場チャンスはいきなり巡ってきた。

 今季のJリーグ開幕を1週間後に控えていた2月16日、ルヴァンカップ第1節の名古屋戦で、早々にプロデビュー。81分、プロ10年目を迎える大先輩の土居聖真に代わり、ピッチに飛び出した。

1点のリードを許す展開のなか、3枚目の交代カードとして登場。慣れ親しんだ右サイドハーフのポジションに入った。試合の残り時間を考えたら、アディショナルタイムを含め、10分あまりだ。エンジンはすでに温まっていた。ピッチに入ると、すぐにトップギアだ。

ボールを要求し、積極的にゴールに向かった。まずは同点に、できれば逆転を。そんな思いでプレーしていたであろうことは容易に想像がつく。

 ところが、勝利への飽くなき情熱が裏目に出てしまった。

 試合終了間際の90分。自慢のドリブルでペナルティエリアに進入すると、相手選手に挟まれる形でゴチャとなり、ボールが大きく前方にこぼれていく。必死に足を伸ばした松村は、その先にいた相手GKと激しく交錯し、一発レッドを受けてしまったのだ。

 プロの第一歩は苦い記憶とともに胸に刻まれた。

“松村優太”の名が全国に広まるきっかけになったのは、やはり先の第98回全国高校サッカー選手権だろう。“シズガク”こと静岡学園(静岡)の攻撃のキーマンとして24年ぶりの大会制覇に貢献。背番号はもちろん10番だ。

 準決勝の矢板中央(栃木)戦では、試合終了間際に自らのドリブル突破から得たPKを冷静に決め、決勝進出の立役者となった。たとえ相手2人に挟み込まれてもスピードに乗ったドリブルで、その間をグイグイいく姿に歓声が上がった。

 意外に、華奢なんだな。それが個人的な第一印象だった。次に、目力があるなと感じた。困難にぶち当たったとしても、そこを乗り越えていこうとする意志の強さが目に表れているような気がした。自分の考えを明確にいうし、聡明だ。

 お笑いの街・大阪出身だからかもしれない。無茶ぶりされてもすぐに一発芸で返せる引き出しをいくつか持っているのだとか。

 プレースタイルそのままに負けん気が強く、向上心にあふれ、笑いの感性も持ち合わせる松村は、4月13日に19歳になった。“まだ”ではなく、“もう”というはずだ。

 高速ドリブラーの異名を引っ提げてプロの世界に飛び込んできた高卒ルーキーが、これからどんなストーリーを、どんなスピード感で、描いていくのか、心底楽しみでならない。

(文=小室功)

ザーゴ監督、夢はローマを率いること

イタリア紙『Corriere dello Sport』のインタビューに応じたザーゴ監督である。
「日本では人々に家にいることを義務付けられないんだ。政府はそういった指示を遵守するように求め、みんながそれをしている。素晴らしいマナーがあり、それが助けになる」と新型コロナウイルスの影響についてイタリアの民に伝える。
日本の法では強制力が小さく、一般人を押さえつけることが出来ぬ。
それを為政者は守っており、人々もそれを理解し自ら律することを選んでおる。
これが日本人の美徳と言えよう。
また、鹿島にて指揮を執ることについて、「わたしにとっては指導者キャリアにおける重要な一歩だ。欧州にたどり着く道となるかもしれないからだよ」と本心を語る。
野心を隠さぬ意気込みにむしろ好感を覚える。
是非とも欧州へのステップアップとして鹿島でのキャリアを使って欲しいところ。
そして、「わたしの夢はローマを率いることだ。だが、欧州でもっと名を上げることができるかもしれない。ブラジルでは監督として良い結果を残してきた。イタリアでは(ズデネク・)ゼーマンのローマ、ウクライナでは(ミルチェア・)ルチェスクと仕事をした。シャフタールは重要な経験だったよ。チャンピオンズ・リーグの対戦相手を見に行っていた。欧州最高のチームたちをチェックしたよ」と願望を語る。
ローマはトニーニョ・セレーゾが所属したことで有名であり、鹿島とは小さからぬ縁がある。
是非ともその夢を叶えて欲しい。
その為にはこの鹿島を欧州トレンドに準ずる素晴らしいチームを造りあげ、そしてCWCにて実績を示すのだ。
期待しておる。

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「素晴らしいマナーがある」鹿島のザーゴ監督が“コロナ禍”における日本人の振る舞いに賛辞
ワールドサッカーダイジェスト編集部
2020年04月14日


「鹿島はユベントスやミランのよう」


今季から鹿島で指揮を執るザーゴ監督がイタリア紙のインタビューに応じた。写真:滝川敏行

 日本でプレーしたのは、柏レイソルでの1年だけだった。それから23年。ザーゴは鹿島アントラーズの指揮官としてJリーグの舞台に戻ってきた。

 4月14日付のイタリア紙『Corriere dello Sport』のインタビューで、ザーゴは日本サッカー界への復帰について「25年前もすでに選手としてここにいた。日本の文化をよく知っている」と述べた。

「日本人はとても秩序だった民族だ。わたしはすぐに仕事をする場所に適応しようとする。情熱とともに戻ることを受け入れた」

 気合十分で臨むはずだったシーズンは、新型コロナウイルスの感染拡大のためにお預けとなっている。ザーゴは日本での状況を「ここではすべてを閉鎖していない。店やレストランは開いている」とイタリア・メディアに伝えた。

「日本では人々に家にいることを義務付けられないんだ。政府はそういった指示を遵守するように求め、みんながそれをしている。素晴らしいマナーがあり、それが助けになる」

 インタビュアーから「ピッチに戻ったら鹿島は優勝候補のひとつ」と振られると、ザーゴは「イタリアのユベントスやミランのように、もっとも重要なクラブなんだ。もうひとつのもっとも強いチームは横浜F・マリノスだよ」と述べている。

 鹿島とブラジル人の縁は深い。ザーゴは「ここにはジーコ、セレーゾ、ジョルジーニョやそのほかにも多くがいた」としたうえで「わたしにとっては指導者キャリアにおける重要な一歩だ。欧州にたどり着く道となるかもしれないからだよ」と話した。

「わたしの夢はローマを率いることだ。だが、欧州でもっと名を上げることができるかもしれない。ブラジルでは監督として良い結果を残してきた。イタリアでは(ズデネク・)ゼーマンのローマ、ウクライナでは(ミルチェア・)ルチェスクと仕事をした。シャフタールは重要な経験だったよ。チャンピオンズ・リーグの対戦相手を見に行っていた。欧州最高のチームたちをチェックしたよ」

 ザーゴは鹿島に栄光をもたらし、いずれ欧州へと向かい、夢であるローマを率いることができるのか。今はまず、サッカーができる日の到来が待たれるが……。

構成●ワールドサッカーダイジェスト編集部

内田篤人、凍えるような寒さの中やるなら、夏にやればいいじゃないですか

内田篤人にインタビューを行ったREAL SPORTSの岩本編集長である。
開口一番、篤人はJリーグを欧州に合わせて秋春制にしてはと提案する。
選手の現場らしい意見である。
やる側、指揮する現場側としてはもっともとしか言いようがない。
そして、「もしくは、ヨーロッパがアジアに合わせればいいとも思います。なぜヨーロッパは冬に(リーグ戦を)やるんですかね。凍えるような寒さの中やるなら、夏にやればいいじゃないですか。アジアの秋みたいな気候」と続ける。
非常に理にかなっておる。
欧州こそ、春秋制に移行すべきであろう。
それはそれとして、現場だけで動いているわけではないことが世の中の仕組みである。
ここで論じたところで、そう容易に移行出来るものでは無い。
また、篤人はこの中断期間についても言及する。
選手としてのことはもとより、若い人々には「勉強しろ」とはっきり言う。
「変な話、サッカーより(頭の良さは)裏切らない」という言葉には人生の経験が裏付ける含蓄がある。
多くのことを学ぶのだ。
多くの年寄りが勉強せず、考えることを怠ったが故の人生を悔やんでおる。
“人間老い易く、学成り難し”
篤人の言葉に耳を貸すべきである。

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内田篤人がコロナ禍で提言「ヨーロッパがアジアに合わせれば」「リフティングだけじゃなくて…」
2020.04.14

内田篤人がドイツからJリーグの舞台へ帰ってきて、3年目のシーズンとなる2020年。「無冠からのリスタート」を胸に新体制で挑む鹿島アントラーズだが、新型コロナウイルスの影響で公式戦が延期となり、先行きが不安な状態に置かれている。内田は、現状の日本サッカーが置かれている状況についてどう捉えているのか。また、これまでケガの苦難を乗り越えてトップきた経験から、練習ができない時の過ごし方について語ってもらった。

(インタビュー=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=大竹大也)

コロナ禍を機にシーズン期間を欧州と一緒にしてしまえば……

今、世界はコロナウイルスという、これまでにない未曽有の脅威にさらされています。サッカーにおいても、3.11の東日本大震災の時と違って今回は、まったく見通しが立たない状況です。

内田:僕、思うんですけど、半年シーズン期間を遅らせて、ヨーロッパと一緒にしちゃえばいいんじゃないかと。

なるほど。

内田:ACL(AFCチャンピオンズリーグ)とかの関係で難しいというのもわかるんですけど、それは置いておいて、言いたいことが言えるのなら。もしくは、ヨーロッパがアジアに合わせればいいとも思います。なぜヨーロッパは冬に(リーグ戦を)やるんですかね。凍えるような寒さの中やるなら、夏にやればいいじゃないですか。アジアの秋みたいな気候ですし。そういう提案、出てこないじゃないですか。

このような状況の中で、選手たちはどのように過ごしているのですか?

内田:ヨーロッパとかは外出禁止ですし。正直、選手の間ではオフですよね。だって、いつ再開するかわからないし、練習したってケガのリスクしかないですし。

ケガと感染のリスクもありますし。

内田:はい。そうなったら、何のための練習かわからなくなる。でも、さすがに「休みたい」とは言えないですから。チームから、この期間は給料なしって言われたら「じゃあ休ませてください」って思うけれど、給料もいただいているし。Jリーグの再開時期も延びているじゃないですか。今シーズン、どうやってやるんですかね。僕としては、ファーストステージだけでよくない?って思うんですけど……。

選手としては、最初にルールが決まっていない中でやるのはきついですよね。

内田:そうですね。降格がないなら、優勝もなしでいいじゃんって思います。

でも、優勝なしだったら、何のためにやるのかわからなくなりそうです。

内田:結局、そうなるんですよね……。

それでも、今の内田選手は楽しんでやれそうですけどね。

内田:そう。楽しいかもしれない。

選手として、こんな状況の中、モチベーションは落ちてないですか?

内田:みんな、落ちてると思いますよ。練習試合を週1で入れてはくれてますけど。しかも、鹿島は監督が代わったばかりなので、いろいろスムーズにはいかないです。



自宅待機中の学生は、とにかく「勉強しろ」

練習ができない期間が長くなればなるほど、プロ選手はもちろん、サッカーをやっている学生にとってもとんでもないことだと思います。

内田:そうですね。例えば、ケガで1年ほど練習できなくなった時も同じで、学生だったら、部活期間がほぼ終わっちゃうんですよね。それでもサッカーがやりたいって思うなら、頑張ってリハビリすればいいけれど、サッカーだけが人生ではないので。だめだと思ったら、他のことをやればいい。僕はプロで契約しているし、未練たらしいので、体が動くかぎり頑張ってやろうと思います。鹿島の活動で小学校に訪問する時にも、生徒たちにまずは「勉強してください」って話しています。

内田選手は、親御さんが先生なんですよね。

内田:はい、父が先生です。なので、僕も小学校に訪問した時に、まずきちんと勉強をしようと伝えた後に「サッカー選手になりたい人~?」って手を挙げさせるんですが、その後に「全員なれないよ」って言います。そんなに甘くないよって(笑)。

(笑)。現実を教えるんですね。

内田:はい。それで諦めるようなら、仕方がないです。「あ~、なんか内田言ってるな~」くらいの気持ちじゃないと、プロサッカー選手にはなれない。

そういう意味では、今回の新型コロナウイルス感染拡大対策などで外に出られない間、子どもたちにとっては勉強するチャンスですよね。

内田:勉強しろって思います。最近よく、サッカー選手がリフティングをやっている動画を配信しているじゃないですか。
はい。

内田:リフティングじゃなく、勉強させろよって思います(笑)。

(笑)。

内田:僕がリフティング下手なので、よりそう思うのかも(笑)。漢字ドリルやっているところを見せろよって思いますもんね。勉強をやったほうがいいと思う。勉強しておかないと、行きたい高校にも行けないし。スポーツ推薦とかもありますけど、変な話、サッカーより(頭の良さは)裏切らないって思いますけどね。

<了>
プロフィール

Fundamentalism

Author:Fundamentalism
鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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