内田潤、アルビレックス新潟U-15アドバイザー就任
これは驚きの報。
ウッチーは今年の4/22にアルビレックス新潟U-15監督を退任したばかりであった。
当時は経営的判断であったと推測したのだが、政治的なことが大きく絡んでおった様子。
それは、内田潤のみならず是永社長自らがコメントを発しておることからも読み取れる。
いずれにせよ、内田潤は新潟にて新たなるポジションを得た。
この仕事に注力し、良き選手を育成していくこととなろう。
楽しみにしておる。

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内田 潤 氏 アルビレックス新潟U-15アドバイザー就任のお知らせ
2020/5/30
いつもアルビレックス新潟に温かいご声援をいただきまして、誠にありがとうございます。
当クラブは、2020年4月にアルビレックス新潟U-15監督を退任した内田潤氏が、6月1日よりアルビレックス新潟U-15アドバイザーに就任することとなりましたので、お知らせいたします。
アルビレックス新潟U-15アドバイザー
内田 潤 Jun UCHIDA
■生年月日
1977年10月14日(42歳)
■出身地
兵庫県
■資格
日本サッカー協会公認A級指導者ライセンス
■選手歴
桐蔭学園高→駒澤大→鹿島アントラーズ→アルビレックス新潟
※J1リーグ戦通算:221試合出場6得点
■指導歴
2014-2016年 アルビレックス新潟サッカースクール コーチ
2016年9-12月 アルビレックス新潟 コーチ
2017年 アルビレックス新潟U-15 コーチ
2017年5月-6月 アルビレックス新潟 コーチ
2018年-2020年4月 アルビレックス新潟U-15 監督
■コメント
このたびは、アカデミーの選手、保護者、そしてサポーターの皆さまにご迷惑とご心配をおかけしたことをお詫び申し上げます。
アカデミーのU-15アドバイザーとして、再スタートをさせていただくことになりました。今回の再契約にあたって、是永社長をはじめ関係者の皆さまに奔走いただいたこと、心から感謝しております。
また、社長と直接お話する機会をいただき、クラブへの謝罪をさせていただきました。クラブに所属するスタッフとして、反省すべきことがあったと認識しています。ご迷惑をおかけしたことを改めてお詫び申し上げます。
この1ヶ月、クラブととことん話し合いをさせていただきました。その結果、クラブをより良くしたい、一緒にクラブをつくっていこうという想いは、お互いなんら変わらないということを再確認いたしました。
アカデミーの選手とクラブの未来のために、自分の持てる力を最大限に発揮してお詫びに代えたいと思います。
引き続き、アルビレックス新潟への熱いご声援をよろしくお願いいたします。
■代表取締役社長 是永大輔コメント
このたびは、たくさんの皆さまにご心配をおかけしまして、申し訳ございませんでした。世間をお騒がせしてしまいましたこと、お詫び申し上げます。
時間をかけて内田さんとお話をさせていただき、お互いクラブを想うがゆえのすれ違いがあったことも確認できました。そして、改めて手を取り合ってクラブの未来に向かって協力していくこととなりました。今後もスタッフ一丸となってクラブの未来をつくっていきたいと思っています。
引き続き、アルビレックス新潟への熱いご声援をよろしくお願いいたします。
土居聖真、長すぎると精神的に浮き沈みする選手もいると思うので
Jリーグの再開日程発表について選手としての意見を述べる。
「どのチームもどの選手も僕自身も、意気込みを持ってやると思うし、『やってやろう』という気持ちをみんな持っていると思う。個人としては、僕ら以上に(再開を)待ち望んでいる人がいると思うので、楽しんでもらえるような試合を1試合でも多く届けられるような、勢いと盛り上がりを出すような再開にしたい」と語った。
サポの気持ちを汲んでくれておることが嬉しい。
また、再開のメドの立たぬ状況で練習をしておったことについて、「『先が見えないのにやっている意味あるのかよ』という選手もいれば、『チームが新しくなったし、良い準備期間だから俺はむしろ伸びてくれるくらいが助かる』という選手もいて、意見はバラバラだった」と裏話を明かす。
なかなか選手間でも状況の受け止め方が難しかったことが伝わってくる。
ここから5週間は、再開とその後のタイトル制覇に向けて一丸となってくれよう。
期待しておる。

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鹿島土居「やってやろうと」サポーターに勇姿届ける
[2020年5月29日22時25分]

オンライン取材に応じる鹿島MF土居(C)KASHIMA ANTLERS

練習に励む鹿島MF土居(C)KASHIMA ANTLERS
J1が7月4日に再開することが29日、Jリーグ臨時実行委員会で決まった。鹿島アントラーズのMF土居聖真(28)は「どのチームもどの選手も僕自身も、意気込みを持ってやると思うし、『やってやろう』という気持ちをみんな持っていると思う。個人としては、僕ら以上に(再開を)待ち望んでいる人がいると思うので、楽しんでもらえるような試合を1試合でも多く届けられるような、勢いと盛り上がりを出すような再開にしたい」と、サポーターに勇姿を届けることを誓った。
昨年末に右足小指を骨折したが、痛み止めを服用して元日の天皇杯決勝に出場した。休む暇もなく今季が始動し、ACLプレーオフ、ルヴァン杯、リーグ開幕戦の3試合も「チームも結果が出ていなかったし、離脱するよりはできる範囲でやったほうがチームのためになる」と出場。中断期間に入り「完全に2カ月休むことに切り替えた」と、ようやく治療に専念した。
「僕にとっては幸い、けがを良くすることに関しては、ありがたい時期になってしまったかな」と土居。自身の回復と同時にチームも再始動し、「毎日寝るとき、翌日イベントごとがある小学生のようなワクワク感があって、毎日練習を楽しみに夜を過ごしています」と喜びを例えた。
約5週間の準備期間は「長すぎず短すぎず、ちょうどいい期間かと思う」と話す。再開のメドが立たない中で練習をしていたときは「『先が見えないのにやっている意味あるのかよ』という選手もいれば、『チームが新しくなったし、良い準備期間だから俺はむしろ伸びてくれるくらいが助かる』という選手もいて、意見はバラバラだった」。今回の決定でモチベーションが統一され、練習にも張り合いが出てくるだろう。
鹿島・土居、再開されるリーグ戦に抱負「楽しんでもらう試合を多く届けたい」
[ 2020年5月30日 05:30 ]
鹿島のMF土居は再開日程の決定を受け「各チーム、選手がやってやろうという気持ちを持っている。Jリーグを待ち望んでいる人たちに楽しんでもらうような試合を多く届けたい」と決意を新たにした。
再開まで約1カ月という準備期間については「長すぎず短すぎずでちょうどいい。(再開まで)長すぎると精神的に浮き沈みする選手もいると思うので」と理解を示した。
土居聖真、鹿島浮上へのキーマン
骨折の治癒についてのコメントを伝える。
「ケガをしていたことによって、今、痛みがない状態でできる喜びがあります。これまでは痛みによって、自分に言い訳をしていて、それも今となっては悔しい時期でした。今、練習が再開されて『この動きは痛くない!』と、これまでの怖さがなくなり、本来の自分が見えてきました。『明日も練習できる』『楽しみだな』と、寝る時、小学生が翌日ピクニックに行くようなワクワク感が僕にもあります。毎日、練習楽しみにして過ごしています」とのこと。
中断は苦しかったが、聖真の負傷が癒えるなど、良いことも少なからずあった。
再開後には大活躍をしてくれよう。
楽しみである。

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【鹿島】骨折からの復活、土居聖真が“真相”を明かす「今は毎晩、ピクニックに行く小学生のようなワクワクした気分」
サカノワスタッフ2020年5月29日

いよいよ練習再開!鹿島の土居聖真。(C)KASHIMA ANTLERS
結果が出ないことへの責任を痛感する一方、この中断期間の約2か月はむしろ貴重な“有難い”時間にする。
J1リーグの鹿島アントラーズが5月28日にチームでの全体練習を再開させ、MF土居聖真がオンラインでのメディア取材に応じた。21日に28歳の誕生日を迎えたアタッカーは、このほどSNSの自身のインスタグラム(@doi.shoma_official)でファンに報告していた骨折の“真相”について明かした。
土居は20日に更新したインスタグラムで、昨年12月21日の天皇杯準決勝・V・ファーレン長崎戦(〇3-2)で骨折をしていたことを報告。痛みを抱えながら、今季も公式戦3試合に臨んでいたが、中断に突入した3月以降、治療に専念してきたことを伝えていた。
今回のオンラインによる取材で、土居は患部が右足の小指だったと説明。当初は強い打撲だと思っていたという。ただ痛みと腫れがなかなか引かず、検査したところ、骨折していることが判明した。そのうえでチームドクターやスタッフと話し合い、土居はプレーしながら治すという方法を選択した。
実際、あまり患部のことが気にならずプレーできる時期もあった。ただ、痛みが引けばぶり返すなど一進一退で、その「振れ幅が大きかった」。そして今回、新型コロナウイルスによる活動自粛期間が伸びたタイミングで、「ここしかない」と治療とリハビリに専念することにした。
もちろんチームの結果が出ていないことへの責任は痛感している。その一方で、「僕にとっては、ケガを良くするという意味で、有難いと言える時期になったかなと思っています」と、この一連の“流れ”を受け止めた。
約2か月を掛けた。「次につなげる2か月という判断で、指に負荷をかけないように、体幹や筋力トレーニングなどサッカー選手ではないようなトレーニングをしてきました。それによってストレスも溜まり厳しかったです。ただ、良いリハビリができました。僕にとっては有意義な時間だと思っています」と、ある意味、これまで全力で走り続けてきた土居に与えられた、“今は一旦休ませる時だ”という貴重な時間になった。
「ケガをしていたことによって、今、痛みがない状態でできる喜びがあります。これまでは痛みによって、自分に言い訳をしていて、それも今となっては悔しい時期でした。今、練習が再開されて『この動きは痛くない!』と、これまでの怖さがなくなり、本来の自分が見えてきました。『明日も練習できる』『楽しみだな』と、寝る時、小学生が翌日ピクニックに行くようなワクワク感が僕にもあります。毎日、練習楽しみにして過ごしています」
もちろん様々な不安はある。ただ、日本代表にも選ばれてきた攻撃のユーティリティは、リーグ再開の日を心から待ち侘びていた。
鹿島浮上へのキーマン、むしろパワーの増した土居が、全力でピッチを駆け抜ける。
[文:塚越始]
J1リーグ、再開は7/4
J1は7月4日(土)から再開とのこと。
これは素直に喜びたい。
また、2節以降の対戦カードは全て組み直し、それは6月15日に発表する予定。
どのような組み合わせになるのであろうか。
楽しみにして待ちたい。

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2020明治安田生命J1リーグ・J2リーグの再開およびJ3リーグの開幕日について
新型コロナウイルスの影響により試合開催を延期している2020明治安田生命Jリーグについて、7月4日(土)からJ1リーグを再開、6月27日(土)からJ2リーグを再開、J3リーグを開幕することを決定しました
Jリーグは、新型コロナウイルスの影響により試合開催を延期している2020明治安田生命Jリーグについて、7月4日(土)からJ1リーグを再開、6月27日(土)からJ2リーグを再開、J3リーグを開幕することを決定しました。無観客での開催からスタートし、感染拡大状況などに鑑みて、安全にお客さまをお迎えする準備を進めてまいります。
今後開催される試合の対戦カードは全て組みなおし、感染予防の観点から近隣クラブとの対戦を優先的に実施します。再開・開幕後の試合日程、対戦カードなどにつきましては、6月15日(月)の発表を予定しております。
また、6月17日(水)に予定されていた2020JリーグYBCルヴァンカップのプレーオフステージ第2戦は開催を延期します。
大会方式の変更および2020JリーグYBCルヴァンカップの再開日などについては、決定次第お知らせいたします。
非公開練習実施
全体トレーニングを再開してから二日目にて非公開にするということは、ザーゴ監督がチームへ秘策を伝授しようとおると考えられる。
公式戦再開のメドが立ち、チームの形を再構築する段階となっておる。
完成度を上げ、ザーゴ監督の言う「主導権を握ってゲームをコントロールする」サッカーを植え込んでもらおうではないか。
また、写真に写るエヴェラウドであるが、このゴツさは魅力的である。
プレイスタイルと共に日本サッカーに合うタイプのFWと強く感じさせられる。
再開後は大爆発してくれよう。
楽しみである。

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非公開練習

非公開練習を行いました。
鹿島、全体練習再開
その様子を公式サイト・公式Twitterが伝える。
そして名古と永木の競り合いの後方にブエノが写る。
これは一安心。
ブエノは今季の公式戦にはまだ出場しておらず、また、先週からのグループ練習の様子を伝えたTwitter画像にも登場しておらなんだ。
少々不安にさせられておったが、この写真でホッとした。
助っ人CBとして最終ラインを担って欲しい。
期待しておる。

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全体トレーニング再開

本日から全体トレーニングを再開しました。
再開初日から激しく!#antlers #kashima#三竿健斗#伊藤翔#染野唯月#佐々木翔悟#名古新太郎#永木亮太#クォンスンテ#山田大樹 pic.twitter.com/FC7wKVmuCU
— 鹿島アントラーズ (@atlrs_official) May 28, 2020
広瀬陸斗、組み立てでボールを前に運ぶのが得意
再開に向けて、改めて新戦力をピックアップした格好である。
篤人の負傷も癒え、ユキも控える右SBの中でもザーゴ監督の覚えが良く公式戦3試合とも広瀬がレギュラーに抜擢されておる。
再開に向けて、広瀬自身の気持ちも高ぶっておろう。
その広瀬は、Antlers Channelにて「運動量とパス。どっちかと言ったら、組み立て(の場面)でボールを前に運ぶのが得意」と語った。
現代SBとしてプレイすることがよくわかる。
勝利に繋がるパスをつなげてくれよう。
活躍を楽しみにしておる

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【再開後の注目株|鹿島】攻守にアグレッシブな広瀬陸斗がタイトル奪還の“推進力”に
広島由寛(サッカーダイジェスト)
2020年05月28日
「上下運動が基本になってくると思う。それで勝負したい」

中断前の公式戦3試合はいずれも右SBで先発出場。献身的にハードワークし、攻守両面で奮闘した。写真:田中研治
覚悟の移籍だったのだろう。昨季リーグを制した横浜から、無冠の鹿島へ。横浜のチームメイトからは引き止められたようだが、「自分の足りないところを得られる」との思いで、鹿島に新天地を求めた。
昨季の横浜では不動のレギュラーではなかったが、今季はACLとの連戦を考えれば、出場のチャンスは十分にあったはず。「(横浜の選手たちは)みんないい人たち」と居心地も良かったようだ。それでも、広瀬陸斗はチャレンジを選んだ。サッカー選手としてもう一回り大きくなりたいという願いで、鹿島の一員となった。
左右のSBをこなすが、主戦場は右。このポジションでは歴戦の内田篤人や、ポテンシャルに疑いのない伊東幸敏と、強力なライバルが待ち構える。それでも、新加入の広瀬は中断前の公式戦3試合(ACLプレーオフのメルボルン・ビクトリー戦、ルヴァンカップ1節の名古屋戦、J1リーグ開幕戦の広島戦)でスタメンを勝ち取ってみせた。
その3試合すべてでチームは黒星を喫し、広瀬自身も「勝たなければ意味がない」と悔しさを滲ませたが、自身のパフォーマンスにフォーカスすれば、まずまずのプレーを見せていたのも事実だ。
積極的に高い位置を取り、右サイドで攻撃の起点となる働きぶりを披露。中央に絞って中盤の選手のようにも振る舞う横浜時代と同様に、M・ビクトリー戦での「(同サイドの2列目のファン・)アラーノが開いて、自分がインナーラップしてクロスを上げられた」プレーは、特長のひとつでもある。
守備意識も高く、素早く攻守を切り替え、相手のボールホルダーに鋭く寄せる。球際の強さもある。音声配信アプリ「stand.fm」のクラブ公式チャンネルで、広瀬は自らのアピールポイントについて次のように語っている。
「運動量とパス。どっちかと言ったら、組み立て(の場面)でボールを前に運ぶのが得意」
攻撃にも守備にも積極的に関与し、アグレッシブに戦う。「鹿島のSBは上下運動が基本になってくると思う。それで勝負したい」と強い意気込みを口にする。献身的なハードワークでサイドを制圧し、ビルドアップでも存在感を示す。リーグタイトルから遠ざかる鹿島にとり、昨季に横浜でJ1覇者を味わった経験値も見逃せない。
昨年に経営体制が大きく変わり、今季はザーゴ新監督を迎えるなど、鹿島は変革期の真っただ中にある。多くの新戦力も加わった。その中のひとりである広瀬には当然、小さくない期待がかけられている。
生まれ変わろうとしているチームが力強く突き進むためには、新たな力の台頭も必要だ。自らの成長が、タイトル奪還を期する鹿島の推進力になる――そんな活躍を期待したい。
取材・文●広島由寛(サッカーダイジェスト編集部)
三竿健斗、変わった姿を見せられるように
三竿健斗がオンラインで応じ、コメントを発する。
久しぶりの全体練習の手応えや活動休止期間のことなどが伝えられる。
この苦難を乗り越えたことで、学びや成長があった。
一歩前に進んだ三竿に期待大である。

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2カ月ぶり全体練習…鹿島三竿が自粛時感じた新境地
[2020年5月28日13時39分]

全体練習を終えて、オンライン取材に応じる鹿島MF三竿健斗 (C)KASHIMA ANTLERS

全体練習を終えて、オンライン取材に応じる鹿島MF三竿健斗

練習を行う鹿島MF三竿健斗ら (C)KASHIMA ANTLERS
鹿島アントラーズが28日、約2カ月ぶりに全体練習を再開させた。練習後、主将のMF三竿健斗(24)がオンラインで取材に応じ、チームの状況を明かした。
18日からグループ練習を行っていたが、全体での練習は4月3日以来だった。「みんな自粛期間中に練習ができなかったことでパワーがたまっていて、自粛前よりも練習の雰囲気が活気にあふれていて、自発的に声を出すようになっていた。今は自粛期間はプラスに働いているように思う」と手応えを明かした。
“3密対策”として、練習中の給水は、チームから支給されたマイボトルを使用するようになった。練習前には、各自でボトルに水を入れるという。
「今まで自分たちがどれだけ良い環境でやれていたか、すごく感じている。水を入れてくれたり、洗濯をしてくれる人がいることを、再確認させられた。今まで当たり前だったことが当たり前じゃないと感じて、感謝の気持ちがすごくある」と、恵まれた環境をあらためて実感した様子だった。
活動休止当初は「生きがいがなくなった感覚」だったという。三竿はSNSを活用し、サッカーに飢えるサポーターを意識して積極的に発信していたが、「サッカー選手はサッカーだけやっていちゃダメだとすごく感じた」と新たな気づきも得たようだ。
その“生きがい”が戻ってきた。リーグ戦も再開が見えてきた状況に、「自分たちがやるサッカーを追求して、中断明けから変わった姿を見せられるように練習から取り組み、最後にタイトルを取ることはみんなで確認している」と語気を強めた。【杉山理紗】
ルヴァン杯仕切り直し
・消化済みの1節分は無効
・松本山雅は不参加
・15チームを1組3チームずつ振り分け、1回戦制総当たりで1次リーグを行い、各組の1位5チームが決勝トーナメント進出
・ACL参加3チームを加えた8チームにて準々決勝を1回戦制で行う
とのこと。
色々考慮されたとの印象である。
個人的には、未だ再開のメドの立たぬACL組を優遇する必要があったのかという疑問は残るところ。
また、鹿島としては敗戦した第1節が無効となったことは朗報と言えよう。
ただし、松村の出場停止は適用されるのではなかろうか。
いよいよ、再開に向けて様々なことが決まってきた。
楽しみである。

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ルヴァン杯は仕切り直しへ…消化済み1節分を無効、J2松本は不参加 近隣クラブで1次リーグ
2020年5月28日 6時0分スポーツ報知
Jリーグは27日行われた契約担当者会議で、各クラブにルヴァン杯の大会方式の変更についても案内した。消化済みの1節分を無効とし、仕切り直す。リーグ戦消化を優先するためJ2松本は不参加。残るJ15チームを1組3チームずつ振り分け、1回戦制総当たりで1次リーグを行う。各組1位の5チームが勝ち抜け、ACL出場の3チームを加えた8チームで準々決勝から決勝まで1回戦制でトーナメント戦を行っていくもの。1次リーグの振り分けは、新型コロナウイルス拡大防止の観点から、移動距離が少ない近隣クラブを同組とする措置が取られるという。
また、リーグ戦は成立を総試合数の75%消化とし、成立した場合は消化試合数に限らず、勝ち点で順位を決定する方針を示した。
鹿島アントラーズがDMOを立ち上げた理由とは
鹿島アントラーズが地元貢献のために立ち上げた観光事業について伝えてくれる。
鹿島のホームタウンである鹿行を盛り上げることに一役買ってくれよう。
ここまでの施策であれば、ホームタウンを更に拡大し、新治県とすべきではなろうか。
となれば、佐原の街並み、香取神宮、東庄のイチゴ、銚子、筑波山と更に多くの観光資源が有効活用出来るはず。
歴史の狭間に消えたものを掘り下げることも重要なことではないかと感じさせられる。
切なる希望である。

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Jリーグ屈指の鹿島アントラーズがDMOを立ち上げた理由とは? その背景と自走に向けた仕掛け、コロナ禍の今を聞いてきた
2020年05月27日

Jリーグ優勝8回、Jリーグカップ優勝6回、天皇杯優勝5回、ACLチャンピオン1回など数々のタイトルをとってきた鹿島アントラーズ。Jリーグのなかでも屈指の強豪クラブチームだが、そのホームタウンである茨城県鹿嶋市、潮来市、神栖市、行方市、鉾田市の鹿行5市の人口は約27万人(2017年度)にすぎず、全国の地域と同様にさまざまな課題を抱えている。
その地域課題を観光の力で解決しようと、鹿島アントラーズは2018年4月に地域連携DMO「アントラーズホームタウンDMO」を立ち上げた。地域創生に力を入れるJリーグの各クラブチームは、試合の集客だけでなく、ホームタウン活動として地域課題の解決に取り組んでいるが、地元を旅行先として選んでもらうためにDMOを立ち上げたのは「アントラーズホームタウンDMO」が初めてだ。
編集部より:本記事の取材は今年2月中旬、まだ新型コロナウイルスの感染拡大はそれほど深刻ではない時期に行ったもの。記事の最終では、コロナ禍における現状について追加取材を実施した内容を掲載しました。
「アントラーズ」ブランドで地域課題の解決を
鹿行地域は、首都圏からの交通アクセスが悪く、昔は陸の孤島と呼ばていたという。主な産業は、住友金属(現日本製鉄)の製鉄業、農業、太平洋に面した鉾田、鹿島、神栖での漁業だが、Jリーグが発足する前年の1991年に、住友金属サッカー団を母体として鹿島アントラーズが創設されたことで、この地域に新しい文化が生まれた。
鹿行5市は、鹿島アントラーズに7.6%を出資する株主でもある。そのなかで、鹿嶋市が「鹿行でも観光による地方創生をやっていこう」と観光庁が進める日本版DMOに手を上げた。その実働団体として鹿島アントラーズに話が持ちかけられたのが2016年のことだ。アントラーズホームタウンDMO事務局長の岡本文幸氏は「鹿島アントラーズが数々のタイトルを取り、全国的に人気が高まったことで、『アントラーズ』というブランドができあがった。5市がそれぞれで観光促進をやるよりも、ブランド価値を持つアントラーズをハブとして、ひとつにつなげた方が効果的な活動ができる」とDMO設立の背景を説明する。
鹿行地域が抱える地域課題は全国の地域の課題と同じだ。人口減少、少子高齢化、二次交通、経済活性化・・・。そのなかで、鹿島アントラーズは設立以来、外から地域に若い人たちを呼び込む機能を果たしてきた。しかし、1年のうちでホームゲームが開催されるのは多くても30日ほど。民間企業としての鹿島アントラーズの収益のカギは、残りの300日以上でスタジアムをいかに利用してもらうかだ。そのために、スタジアム機能の複合化を推進。整形外科の「アントラーズ・スポーツ・クリニック」、スポーツジム「カシマ・ウェルネス・プラザ」、温浴施設「アントラーズ・トージ」などをつくり、スタジアムの稼働率を上げてきた。
アントラーズホームタウンDMO専務理事の吉田誠一氏は「DMOの発足はその流れのなかにある。さらに人を呼び込む装置として、地域の街づくりや賑わいづくりの役割を果たしていく」と話す。
アントラーズホームタウンDMOは、観光客誘致を進めていくうえで、「今あるものを改めて見つめ直し、ブラッシュアップ」(岡本氏)。スポーツ、アグリ、ヘルス、エコを注力分野として掲げている。そのなかで、鹿島アントラーズというブランドを最大限活かしたスポーツツーリズムで実績を重ねてきた。それには、鹿島アントラーズのホームゲームの集客とサッカーを核とした地域交流人口の拡大が含まれる。
地の利を生かしたスタジアムへの集客策
数々のタイトルを獲得している鹿島アントラーズは全国区の人気チームだが、それでもホームゲームの来場者は一試合平均で2万人ほど。その半数は首都圏など県外からのサポーターだ。逆に言うと、土日の試合は来場者は多いが、平日のナイトゲームになると、アクセスの不便さから、集客に苦労するという。
アントラーズホームタウンDMOは、アクセス改善に向けて、LCCネットワークを広げている成田空港が近いという利点に着目。2018年7月に成田国際空港会社(NAA)とスカイスキャナーの航空券比較検索サービスと連携するスポンサーシップ契約を結び、航空券最安値を随時表示できる特設サイトをオープンした。さらに、成田空港とスタジアム間の移動手段として、千葉交通と京成トラベルサービスと共同でバスの運行も始めた。
「成田からLCCが飛んでいる佐賀、神戸、札幌からの利用者が多く、バス2台を動かすこともあった。アンケートを取ると、サガン鳥栖やヴィッセル神戸などの相手ファンだけでなく、熊本やキャンプ地宮崎のアントラーズファンの利用も多かった」と吉田氏。空港からの二次交通を整備できれば、集客を増やすことができることを実感したという。
また、茨城空港を活用した企画も実施。スカイマークが茨城空港と神戸空港を結んでいることから、カシマスタジアム活用のひとつとして、2019年10月になでしこリーグのINAC神戸レオネッサ対浦和レッドダイヤモンズレディースの試合を企画し、スタジアムツアーなどを組み込む着地型の商品も造成した。「DMOとして、神戸からの旅行者を呼び込む実験的な商品。今年は、航空座席も組み込んだ商品造成にも取り組みたい」と岡本氏は意欲を示す。
このほか、2020年シーズンからはAirXとの協業で、東京・横浜/鹿嶋間のヘリコプター移動とVIPエリアでのホスピタリティ、観戦をセットにしたプレミアムサービス「ヘリコプター観戦プラン」の販売を始めた。専属コンシェルジェによるスタジアムツアー、スタジアム来賓ラウンジでの食事・観戦、お土産などをパッケージ化。アントラーズホームタウンDMOが主催する(新型コロナウイルスのため2月23日以降、試合は中断中)。

鹿行地域の地図(アントラーズホームタウンDM0ホームページより)
スポーツツーリズムを中心に団体誘致
サッカーを核としたスポーツツーリズムの推進も広がりを見せており、たとえば、海外ナショナルチームやクラブチームのアンダー世代のキャンプ誘致や国内の大学生や高校生の合宿誘致なども積極的に進め、実績を重ねているところだ。
神栖市には、芝ピッチのサッカー場が多く、海外からの誘致では成田空港が近いこともアピールになる。さらに、この地域での合宿では、アントラーズのユースチーム、筑波大学、流通経済大学などサッカー強豪チームとのマッチメイクが容易なこともウリにしているという。岡本氏は「たとえば、30人のグループで一週間。合宿は宿泊を伴うものになるため、地域も潤う」とその経済効果を強調。今後も、合宿だけでなく、さまざまなスポーツイベントを企画することで、団体の受け入れに注力していく方針を示す。
スポーツに加えて、昨年からは鹿行地域の主要産業である農業をコンテンツとして活用していくアグリツーリズムの取り組みも始めた。昨年11月上旬、JA行方ファーマーズビレッジとの協業で中国からさつまいもの農業研修を受け入れた。上海と北京から18人が参加。3泊の旅程で行方の大規模農園で収穫体験や研修を実施した。
この農業研修の誘致は、鹿島アントラーズのパートナー企業が中国で農業法人を立ち上げたことがきっかけで実現した。岡本氏は「パートナーもスポンサーとして看板やユニフォームにロゴ入れるだけではもう満足しない。消費者が喜ぶ施策をクラブと一緒にやることを求めている。DMOとしては、地方創生を一緒にやっていくことに興味と理解があるパートナーと組んでいきたい」と話すとともに、「それは、地方創生推進交付金が終了した後、DMOとして自走していくために必要なこと」と位置づけた。
エコとヘルスについては、今後の取り組みになる。鹿島市のもうひとつのキラーコンテンツである鹿島神宮を核とした着地型商品をインバウンドと国内の両方で考えていきたいとしている。

アントラーズホームタウンDMOの吉田氏(左)と岡本氏
稼ぐ力で自走するDMOに
アントラーズホームタウンDMOは、着地型観光事業のほかに、電力事業と地域商社事業も展開している。DMO自走化に向けた収益確保のためだ。岡本氏は「地域で稼ぐ力をつけていくためには、3つの分野を同時に進めていくが、DMOのそもそもの目的である交流人口の拡大という文脈では観光事業が大きい」と話し、そのためにはDMOが地域にしっかりと根ざしていることが大切だと強調する。
今後は、DMOのホームページを拡充し、観光地や観光体験だけでなく、地域の食やイベントなどを紹介していく。さらに、観光誘致のハブとなる鹿島アントラーズのホームページでも地域の魅力を紹介していき、DMOの情報とリンクさせることで相乗効果を狙う。
「まずは、この地域を知ってもらうこと」と岡本氏。「一度来てくれた人が毎年この地域に足を運んでもらえるようにしていく。そこをまず固めて、新規マーケットを開拓していきたい」と吉田氏。交流人口の拡大と、その先にある関係人口の創出に向けて、アントラーズホームタウンDMOは自走していく。
[追記] ポストコロナに向けて、国内需要の取り込み強化にシフト
この取材は今年2月中旬。まだ新型コロナウイルスの感染拡大はそれほど深刻ではなく、インタビューも鹿嶋市のアントラーズホームタウンDMOの事務所まで「外出」して行った。しかし、その後緊急事態宣言が発出されるなど、事態は急激に悪化。Jリーグも開幕戦だけが行われ、2月23日以降は中断が続いた。
その状況のなか、岡本氏に追加取材をしたところ、「事業計画を変更せざるを得ない」との回答。インバウンドでは、実績のある中国サイドと連絡は取っているものの、「今年度の受け入れは難しい」との認識を示した。
一方、国内については前向きだ。「スポーツを軸にしている地域として、コロナ終息後に向けて、大会の造成など着地型による交流人口の拡大に引き続き力を入れていく。また、新たにIT業界など企業研修のセールスも強化していきたい」。このほか、地域課題でもある空家の活用として、アントラーズ戦の観戦客だけでなく、一般観光客向けに民泊施設を立ち上げる計画も明かした。
「観光事業は地域の活性化にとって、非常に大きな要素であることに変わりはない。これまで以上に国内需要を盛り立てる施策を積極的に検討していきたい」。
今後の活動は、Jリーグの再開がひとつのカギになりそうだ。
トラベルジャーナリスト 山田友樹
永木に期待
インサイドキックが美しい。
ボックスツーボックスの運動量で相手を凌駕する永木には頭が下がる。
今季もまたチームに勢いを与えてくれよう。
活躍を楽しみにしておる。

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グループトレーニング

グループに分かれ、時間別にトレーニングを実施しました。
鹿島アントラーズ、全体練習再開
これは朗報。
いよいよサッカーのある日常が近づいてくる。
公式戦に向けてチームを再構築するのだ。
楽しみにしておる。

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トップチームの全体トレーニング再開について
2020.05.27(水)
新型コロナウイルス感染症に対する感染予防対策の一環として、現在グループトレーニングを実施しているトップチームの活動について、茨城県内の休業要請緩和や外出自粛の原則解除などを受け、5月28日(木)より全体トレーニングを再開することになりましたので、お知らせいたします。
トレーニングは感染予防対策を引き続き徹底し、3密の回避、選手個別の飲料用ボトル使用、検温、トレーニング前後のアルコール手指消毒などを継続していきます。
なお、感染症予防および感染拡大防止のため、トップチーム練習見学およびクラブハウス施設への一般立ち入りについては、当面の間、中止対応を継続いたします。
ファン・サポーターの皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。
Jリーグ、7/11より観客動員を検討
政府が示した新型コロナウイルス「基本対処方針」に則り対応するとのこと。
これは気持ちの盛り上がる報。
とはいえ、一ヶ月半も先のことであり、自粛ムードが薄れたこの緊急事態宣言解除後に第二波がどのように来るのかが全く読めぬ。
だが我らとしては、順調に収束していき、試合観戦が出来る日常が来てくれることを強く望む。
また、そうなったときに対応出来るよう準備することが、今、Jリーグのスタッフに求められておる“仕事”である。
収束に向かえば、観客を入れれば良いし、第二波が大きければ、無観客が続く。
いずれにせよ、どのような状況にも対応出来るようにしておくことが大事である。
また、多くのことが未知であり、ストレスがたまるやもしれぬ。
無駄になる作業も多かろう。
しかしながら、一見無駄のような作業も、経験として残るのである。
今季を再開させ、そして終了させる難しいミッションをコンプリートさせるのだ。
労力に感謝しておる。

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Jリーグ 7・11から観客動員へ!無観客開催は2試合程度か
[ 2020年5月27日 05:30 ]
Jリーグが7月11日(土)から観客を動員して公式戦を開催する可能性が26日、高まった。複数関係者によれば政府が示した新型コロナウイルス「基本対処方針」に沿うもので今後、各クラブ運営担当らとの会議、29日の同代表者による実行委員会で検討を重ね、決定する見通しだ。
前日、緊急事態宣言を解除した政府はイベント開催の緩和目安も提示。プロスポーツでは7月10日から入場数の上限を5000人、または収容人数の50%以内の少数の方とし、8月以後は収容50%以内で人数制限もなくなる。Jリーグにとっても動員の目安となり、座席の前後左右を空けるなど「3密」対策も協議される。村井チェアマンは「無観客」は最後の手段という考え。今後、協議の場で観客動員に対して前向きに検討される見通しだ。現在、Jリーグでは無観客で7月4日の再開を第1候補に調整が進む。今後、コロナ流行が収まれば2試合程度の無観客開催を経て観客の制限付き動員が可能となりそうだ。
2001年シーズン、歴史に残る名勝負
記事にある1stステージの苦戦は、相馬直樹の負傷離脱によるものが大きかった。
やはりこれだけ偉大な左SBを欠いては戦力ダウンは致し方のなかったところ。
当時は移籍システムが今とは異なり、国内補強が非常に難しかった。
その穴を十二分に埋めた選手がアウグストであった。
夏の移籍期間に加入すると、デビュー戦にてゴールを決めるなど超攻撃的左SBとして名をとどろかせた。
今でも、歴代ベストイレブンの左サイドバックにアウグストを挙げる者も多い。
そうして2ndステージを制して挑んだCSであるが、第1戦は不本意な内容となってしまった。
当時のジュビロはN-BOXとしてJリーグ史上最強チームであった。
何か見えぬ力が働いたのか、ホールディングしてなぎ倒した福西ではなく鈴木隆行が退場となる摩訶不思議な笛が吹かれた。
未だに憤ることがあるジャッジである。
しかしながら、その不利な状況にて追いついた秋田と平瀬のゴールは本当に素晴らしい。
そうして向かえた第2戦であるが、先日のNHK-BSにて放映されたので、視聴した民が多かったのではなかろうか。
ハイビジョンで放送されたことも嬉しい。
試合内容は強度も高く素晴らしかったと改めて感じさせられた。
改めて、最強のジュビロにも劣らないチームとしてこの年の鹿島が歴史に名を刻んだことを誇りに思う。
良い思い出である。

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歴史に残る名勝負。小笠原の劇的Ⅴ弾で鹿島が連覇を達成!【Jリーグヒストリー:2001年】

鹿島を優勝へ導いた小笠原はMVPに選出された
前年王者として2001年シーズンをスタートさせた鹿島だったが、開幕からよもやの苦戦を強いられた。5節までにわずか1勝しか挙げられず、7節からは3連敗も喫した。8得点を記録した柳沢 敦が気を吐いたものの、6勝1分8敗と1stステージは11位に終わった。
一方で力強い戦いを見せたのは磐田だ。開幕8連勝と圧倒的な強さを示すと、9節に清水に敗れたものの、その後に再び5連勝を達成。名波 浩と藤田 俊哉を中心とした攻撃が冴え渡り、高原 直泰と中山 雅史の2トップもゴールを量産。2位の市原に勝点9差をつける圧巻の戦いで、ステージ優勝を決めた。
ところが2ndステージに入ると、鹿島が息を吹き返す。開幕7連勝とスタートダッシュに成功。8節に同じく連勝中の磐田に0-2と敗れ首位から陥落したが、それでも調子を落とすことなく再び連勝街道を突き進むと、11節に柏に敗れた磐田を交わして首位に再浮上。そのまま逃げ切りを果たした。
2ndステージから加入したアウグストがフィットし、小笠原 満男がハイパフォーマンスを披露。ふたつのⅤゴールを記録した本山 雅志も、スーパーサブとして存在感を放った。わずか2敗で2ndステージを制した鹿島は、磐田とのチャンピオンシップに臨んだ。
当時のJリーグを牽引した2強による頂上決戦は、まさに歴史に残る名勝負となった。エコパスタジアムで行われた第1戦は、ホームの磐田が優位に試合を進めた。11分に服部 年宏が先制点を決めると、37分には鹿島の鈴木 隆行が退場となり、数的優位も手にする。そして54分には中山が追加点をマークし、そのまま勝負を決するかと思われた。
ところが、終盤に鹿島が意地を見せる。79分に秋田 豊が執念のゴールを叩き込むと、83分に平瀬 智行が値千金の同点ゴールをマーク。数的不利をものともせず、2-2の引き分けに持ち込んだのだ。
第2戦も高次元の戦いとなった。お互いにチャンスを作るも、両チームは高い集中力を保ち、身体を張った守備でゴールを与えない。緊迫とした空気が漂い続けた90分は、結局互いにゴールが生まれず、スコアレスドローで終了した。
2試合を終えて2-2のタイスコアとなった戦いは、Ⅴゴール方式の延長戦に突入。ここで魅せたのが小笠原だった。延長前半の100分、エリア手前で得たFKを直接叩き込み、決勝ゴールをマーク。GKが見送るしかなかった鮮やかな一撃で、磐田の息の根を止めた。
劇的な展開で勝利した鹿島が、見事に連覇を達成。しかし磐田もシーズンを通じて高い機能性を保ち、鹿島にも引けを取らない戦いを見せた。ハイレベルなシーズンを過ごした両チームこそがこのシーズンの主役であり、ベストイレブンのうち10人が、この2チームから選出されている(鹿島5人、磐田5人)。
マチの飛躍に期待
曽ケ端とマチの姿が写る。
ベテランGKの存在は非常に重要である。
その価値は今季は特に感じさせられよう。
また、そこから若きCBは学ぶことも多い。
左利きで高身長、昨季は左SBとしてプレイの幅を広げた。
今季は指揮官も替わり感じるものも多かろう。
町田浩樹の更なる飛躍を期待しておる。

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グループトレーニング

グループに分かれ、時間別にトレーニングを実施しました。
Jリーグ、「3ブロック」案を検討
移動のリスクを軽減する施策である。
鹿島は、「北海道コンサドーレ札幌、ベガルタ仙台、浦和レッズ、柏レイソル、FC東京」のブロックになる模様。
スタジアムに向かえる近郊クラブになってしまうことは残念ではあるが、これも致し方のないところ。
Jリーグは今、日程くんを駆使し、新たなる日程を組んでおることであろう。
どのような対戦になるのであろうか。
楽しみに発表を待っておる。

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J1が地域別3ブロックで再開検討 移動リスク軽減
[2020年5月26日8時0分]
2月下旬から中断中のJリーグが、J1を「3ブロック」に分けて再開日程を編成する案を検討していることが25日、分かった。
「北海道コンサドーレ札幌、ベガルタ仙台、鹿島アントラーズ、浦和レッズ、柏レイソル、FC東京」「川崎フロンターレ、横浜F・マリノス、横浜FC、湘南ベルマーレ、清水エスパルス、名古屋グランパス」「ガンバ大阪、セレッソ大阪、ヴィッセル神戸、サンフレッチェ広島、サガン鳥栖、大分トリニータ」と地域別にまとめ、再開後当面のカードはそのブロック内で組んでいく方式。再開日程を決める予定の29日の臨時実行委員会までに各クラブに提案し、協議を重ねていく運びだ。
再開後のポイントの1つとなる「移動時のリスク」軽減の1手になりうる。22日の臨時の実行委員会後、村井チェアマンは「感染が完全に収束していればいいが、危険と並走しながら試合を開催するタイミングでは、なるべく隣接する地域のマッチメークを多くする考慮をしたい」との意向を示していた。この日、首都圏の1都3県と北海道の緊急事態宣言が解除。感染拡大は沈静化してきたもののリスクはゼロとはいえず、県またぎの移動は危険が潜む。3ブロック案は最小限の移動で試合を開催でき、クラブの安全性をより高めることが可能になる。
Jリーグは7月上旬の無観客試合での再開を視野に、29日に向けて協議を重ねている。全都道府県で緊急事態宣言が解除されたことで、遅くても6月第1週には全クラブが全体練習を再開する状況が整う。再開までの準備に要する各クラブの全体練習期間と想定する「4~5週間」を経て、待望の時を迎えることになる。
セレソン3ショット
ジーコ・レオナルド・ジョルジーニョの3ショットについて大きく取り上げられておる。
非常に懐かしい。
この豪華な写真は鹿島アントラーズだからこそ実現したもの。
日本サッカーを牽引するクラブが鹿島町に存在する。
素晴らしいことである。

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鹿島の元ブラジル代表“レジェンド”3人も集結 90年代の秘蔵ショット10枚公開に大反響
2020.05.26

ブラジル代表時代の(左から)レオナルド、ジーコ、ジョルジーニョ【写真:Getty Images】
鹿島公式インスタグラムで95~97年に行われたブラジルキャンプの貴重ショット10枚をアップ
新型コロナウイルスの感染拡大により、Jリーグは2月下旬から公式戦を中断している。各クラブや選手たちは連日、SNS上で自宅でのトレーニング風景や過去の貴重写真などを投稿しているが、J1鹿島アントラーズは公式インスタグラム上で1995年~97年に行われたブラジルキャンプの秘蔵ショット10枚をアップ。クラブのレジェンドである元ブラジル代表MFジーコ氏、同MFレオナルド氏、同DFジョルジーニョ氏が並ぶ貴重な3ショットもあり、ファンからは「懐かしすぎる」「やばっ」などの声が上がっている。
現在中断中のJリーグは6月27日、または7月4日を再開日の候補として最終調整を進める見通しと報じられており、政府による緊急事態宣言が解除された地域のクラブから、厳重な感染予防の下、トレーニングを再開。鹿島も茨城県の緊急事態宣言の解除と、県内の休業要請や外出自粛が段階的に緩和されたことを受け、18日からグループトレーニングを開始している。
そうしたなか、クラブは公式インスタグラムに10枚の写真をアップ。「今日は1995年、1996年、1997年に行われたブラジルキャンプより、秘蔵画像をお届けします!」と綴られた投稿には、J開幕当初に前線を牽引した元日本代表FW黒崎久志氏、同FW長谷川祥之氏をはじめ、ともに97年に加入し、2000年のJリーグ初となる三冠獲得に貢献した元ブラジル代表MFビスマルク氏、元日本代表DF名良橋晃氏ら、懐かしの面々がキャンプに参加した際の写真が収められている。
10枚の写真のうち、とりわけ目を引くのがジーコ、レオナルド、ジョルジーニョの元ブラジル代表トリオによる3ショットだ。「サッカーの神様」と称され、セレソンの10番を背負ったジーコ、1994年アメリカ・ワールドカップ優勝経験者のレオナルド、ジョルジーニョと、レジェンド3人が揃い踏みとなった写真は、滅多に目にできない貴重なもの。コメント欄では「懐かしすぎる」「やばっ、この3人」「ジョルジ様、レオ様帰って来て!!」「ブラジル代表チームですか?」といった声が上がっており、古くからクラブをサポートするファンの心をしっかりとつかんでいた。
2000年シーズン、三冠の思い出
この年は、リーグタイトルの加え、ナビスコ杯、天皇杯を獲り史上初の三冠を達成した。
これはJリーグ史に残る偉業と言えよう。
しかしながら、年間勝ち点という意味では鹿島に後れを取り、ナビスコ杯の決勝は当時エレベータークラブであった川崎が相手であり、天皇杯も延長戦までもつれ込んだ薄氷を踏むタイトルであった。
こう振り返って、三冠は運の要素も大きいと感じさせられる。
とはいえ、歴史に名を刻んだことは紛れもない事実である。
シーズン途中でレンタルから復帰した鈴木隆行の大ブレイクが今でも思い出される。
ただ、相馬直樹が天皇杯準決勝にて左膝外側半月板損傷の重傷を負った痛手は、後のシーズンに暗い影を落としたことも忘れられぬ。
この年は、Jリーグに鹿島ありと名を上げたシーズンであった。
思い出である。

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“黄金世代”が台頭した鹿島が、史上最多三度目の王者に! 史上初の三冠も達成【Jリーグヒストリー:2000年】

鹿島が、史上最多となる三度目の優勝を達成。この年、ナビスコカップ、天皇杯も制して、史上初となる三冠も成し遂げた
2000年代最初のシーズンは、各チームの力が拮抗し、1stステージ、2ndステージともに、最後まで優勝チームが読めない展開となった。
1stステージを制したのは横浜FMだ。オズワルド アルディレス監督の下、アグレッシブな戦いを展開すると、中村 俊輔、柳 想鐵ら攻撃陣が躍動。9節にG大阪を破り首位に立つと、その後も着実に勝点を積み重ねた。しかし、同じく優勝を争うC大阪との直接対決に敗れ、最終節を前に首位から陥落。そして迎えた運命の最終節。C大阪が川崎FにⅤゴールで敗れたのに対し、横浜FMは市原に快勝。土壇場で再逆転し、ステージ優勝を成し遂げた。
しかし2ndステージに入ると、横浜FMは突如低迷。代わって勢いを見せたのは1stステージで8位に終わった鹿島だった。トニーニョ セレーゾ監督を迎えたこのシーズン。小笠原 満男、中田 浩二、本山 雅志と“黄金世代”の若手が主軸へと成長。秋田 豊、ビスマルクらベテランもハイパフォーマンスを保ち、安定した戦いを続けた。
開幕6連勝とスタートダッシュに成功し、その後は4戦勝ちなしと勢いを失いかけたが、シドニー五輪中断明けの11節から再び調子を取り戻し、4連勝と加速した。そして首位で迎えた最終節、勝点1差で迫る柏との直接対決をスコアレスドローで乗り切り、そのままステージ優勝を果たした。
チャンピオンシップでも際立ったのは、鹿島の勝負強さだった。アウェイでの第1戦をスコアレスドローとすると、国立競技場で行われた第2戦では、横浜FMを圧倒。24分に鈴木 隆行、39分に名良橋 晃、44分に中田 浩二がゴールを奪い、前半のうちに勝負を決めた。
2戦合計3-0とした鹿島が、史上最多となる三度目の優勝を達成。この年鹿島は、ナビスコカップ、天皇杯も制して、史上初となる三冠も成し遂げている。
関川郁万、練習中
ルックアップする姿は、ビルドアップに参加する関川のプレイスタイルに合致する。
ザーゴ監督の下、攻撃の起点として大きく成長してくれよう。
また、心なしか体つきがガッシリしてきたように見える。
二年目としてポジションを得る準備は十分に出来た。
再開が楽しみである。

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グループトレーニング

グループに分かれ、時間別にトレーニングを実施しました。
1998年シーズン、前年のリベンジを果たし二度目の戴冠
この年は、ジュビロというよりも中山雅史がもの凄かった。
4試合連続ハットトリックは世界の誇る偉業と言って良かろう。
ただ、その影に隠れて柳沢敦が自身のキャリアハイである22得点を記録しておる。
通常であれば得点王が取れたゴール数であった。
この得点力を持つ稀代のセンターFWを仏W杯に連れて行かなかったことは、二版サッカーの大失敗の一つであろう。
しかしながら、落選の悔しさを2ndステージ、CSにぶつけた結果がリーグタイトルであった。
ただ、この年の天皇杯では、準決勝にて横浜フリューゲルスと対戦し敗退しておる。
消滅が決まっておったフリューゲルスに「空気を読めよ」的な雰囲気が漂っておったことは否定出来ぬこと。
そのフリューゲルスは、決勝でも勝利し、ロウソクの炎が最後に大きく燃え上がるようにして消えた。
1998年は仏W杯と共にフリューゲルス消滅の年として記憶された。
これもまた歴史である。

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驚異的な勝負強さを示したシーズン。前年のリベンジを果たし、二度目の戴冠!【Jリーグヒストリー:1998年】

磐田とのチャンピオンシップに勝利した鹿島が、前年の雪辱を果たすとともに、二度目のリーグ王者に輝いた
前年に初優勝を成し遂げた磐田が、このシーズンでも力を発揮した。異次元のペースでゴールを量産するエースの中山 雅史に導かれ、1stステージの優勝争いを牽引。同じく快進撃を続けた清水を最終的に得失点差で上回り、王者としての力を誇示した。
一方、前年のチャンピオンシップで磐田に敗れた鹿島は、巻き返しを期してこのシーズンに臨んだ。1stステージ前半は優勝争いに名を連ねたが、ワールドカップ中断期間中にジョアン・カルロス監督が辞任。再開後は関塚 隆コーチが監督代行を務めたが、終盤に失速し、5位に終わった。
しかしゼ・マリオ新監督を迎えた2ndステージは、序盤こそやや苦しんだが、5節の福岡戦に快勝を収めると、一気に勢いに乗った。秋田 豊、名良橋 晃、相馬 直樹の日本代表トリオが形成する最終ラインは強固さを保ち、エースに成長した柳沢 敦がゴールを量産。15節に磐田との大一番をものにして、そのまま優勝へと上り詰めた。実に5節から13連勝を達成する驚異的な勝負強さを示してのステージ制覇だった。
そして迎えた磐田とのチャンピオンシップ。前年のリベンジを果たすべく臨んだ鹿島は、第1戦を室井 市衛のⅤゴールで2-1とものにすると、第2戦でも秋田とビスマルクのゴールで2-1と勝利。2戦合計4-2とし、前年の雪辱を果たすとともに、二度目のリーグ王者に輝いている。
名古屋グランパスエイト、最多失点試合は
1997年8月9日の鹿島戦(カシマスタジアム)であり、結果は0−7であったとのこと。
そして、「シュート数は鹿島の24本に対し、グランパスは2本。後にレアル・マドリードやイラン代表を率いたポルトガル人のケイロス監督は『私は失望している。(鹿島に)いくらかやれるのでは、と思っていたが』と嘆いた」と綴る。
当時の鹿島アントラーズの強さが良く伝わってくる。
それほどにこの1997年のチームは強かった。
その強大なチームもCSに敗れれば、単なる敗者として記録から葬り去られる。
それがJリーグと思い知らされたのがこのシーズンであった。
だからこそ、タイトルを積み重ねておるのだ。
1998年も、2000年も、2001年も、そして2016年もその経験が成し得たタイトルであったと言える。
また、この名古屋グランパスエイトに大岩剛が選手として所属しておった。
このチンチンにやられた記憶はどのようなものだろうか。
そしてこの後に最強ジュビロのDFラインを形成することとなるのも面白い運命と言えよう。
何もかも積み重ねである。

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J1名古屋1試合の最多失点は1997年8月9日アウェー鹿島戦の7失点…シュート数も2-24の大差
2020年5月23日 11時19分
◇グランパスレコード8

鹿島に0ー7で敗れ落胆するグランパスのストイコビッチ(10)、大岩(3)ら
J1名古屋グランパスがクラブワースト失点で敗れたのは、1997年8月9日の鹿島戦(カシマスタジアム)。第1ステージ優勝の相手に0―7でたたきのめされた。前半6分にFW黒崎比差支に先制点を奪われると前半だけで4失点。グランパスは後半23分にDF飯島寿久が退場した影響もあり、その後も3ゴールを奪われた。
シュート数は鹿島の24本に対し、グランパスは2本。後にレアル・マドリードやイラン代表を率いたポルトガル人のケイロス監督は「私は失望している。(鹿島に)いくらかやれるのでは、と思っていたが」と嘆いた。カシマスタジアムでは7連敗となった。

グランパスが5点以上奪われた試合は18度あり、そのうち無得点試合は7度。チーム別では横浜MとG大阪の3度が最多となっている。
1997年シーズン、最強チームが完成し2冠を得るも
この年の悔しさが、改めて蘇ってくる。
1997年の鹿島アントラーズには、ビスマルクと名良橋晃が加入した。
ピースがピタッとハマった格好であった。
鹿島史上最強チームの完成である。
リーグ戦でもナビスコ杯でも連戦連勝であったことが記憶に強く残る。
ただ、2ステージ制が復活しており、2ndステージは苦手のフリューゲルス戦やアウェイの清水戦、セレッソ戦などを落としたことで完全制覇が出来なかったことが後々に響いてくる。
そして、CSの前週に開催されたナビスコ杯決勝戦でジュビロに圧勝しており、楽勝ムードが流れておったことも事実である。
CS第2戦のあのバックパスミスさえなければと、今でも頭によぎる。
しかしながら、サッカーに「たられば」はない。
悔しい記憶だけが残った形である。
この1997年はナビスコ杯・天皇杯を制しておる。
しかし、最も重要なリーグタイトルを逃したことで、周囲から評価されていおらぬこともまた悔しい。
2001年のジュビロもそうであるが、そのクラブの最強チームがタイトルを得られぬこともサッカーではよくある話。
1954年スイスW杯のハンガリー代表、1974年西ドイツW杯のオランダ代表、1982年スペインW杯のブラジル代表などが名を連ねるその年の最高チームがワールドカップで優勝出来ぬと言うジンクスも有名である。
これもサッカーの妙であろう。
こう考えると、この1997年のチームが最強であることも納得がいく。
いずれにせよ、記録には残らなかったが、記憶に残るチームであったのが1997年の鹿島アントラーズである。

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“オリジナル10”以外から初の王者に! 鹿島との2強時代に突入【Jリーグヒストリー:1997年】
神戸が昇格し、17チームで行われた1997年のJリーグ。前年の1シーズン制から、再び2ステージ制で争われることとなった。
1stステージを制したのは、前年王者の鹿島だった。V川崎から加入したビスマルクが攻撃を牽引。若きストライカー柳沢 敦がエース格に成長を遂げ、秋田 豊を中心とした堅い守りも光った。開幕から順調に勝点を積み重ねると、9節からは5連勝を達成。パトリック エムボマの活躍で、躍進を遂げたG大阪を振り切り、1stステージ優勝を成し遂げた。
一方でハンス オフト監督が退任し、ルイス フェリペ スコラーリ監督のもとでリスタートを切った磐田は、1stステージで6位に終わった。中山 雅史、名波 浩ら実力者に加え、ブラジル代表のドゥンガも在籍し、優勝候補の一角に挙げられていたが、1stステージ途中にフェリペ監督が突如退任。代わって桑原 隆監督が指揮を執ったが、ステージ終盤に連敗を喫するなど大事な試合をものにできなかった。
しかし2ndステージに入ると、快進撃を披露する。開幕5連勝と勢いに乗ると、その後に連敗を喫したが、8節から連勝街道をひた走った。終盤はワールドカップアジア最終予選の影響で、主軸の名波が不在となったが、ドゥンガが圧倒的な存在感でチームを牽引。奥 大介、福西 崇史ら若手が台頭し、エースの中山もコンスタントに得点を積み重ね、9連勝フィニッシュで一気にステージ優勝を成し遂げた。
その勢いは鹿島とのチャンピオンシップでも衰えることはなく、第1戦は延長にもつれ込みながらも清水 範久のⅤゴールで3-2と勝利。第2戦では押し込まれながらも終盤に中山 雅史が決勝弾を叩き込み、1-0でモノにした。
1994年にJリーグに参戦した磐田は、いわゆる“オリジナル10”以外で初めて優勝を成し遂げたチームとなった。
MVPにはドゥンガが輝き、ベストイレブンにはドゥンガ、中山、名波に加え、リーグ最少失点に貢献した守護神の大神 友明が選出されている。
Jリーグ、日程はすべて見直し
「日程は全て見直され、再開初戦は『近隣カード』が中心の見通しとなった」とのこと。
今季の当初に組み立てられた日程は、平時のものであり、金曜開催やアウェイの連戦などが考慮されたものであった。
しかしながら、このような状況なっては以前の日程に、中止となった試合を組み込むよりも、全面的に見直すことは悪くない決定であろう。
また、今季より導入されたVARは見送りになったとのこと。
狭い部屋での3密が危ぶまれておったこともあるが、J1・J2・J3が同日開催となり、審判の動員にも影響がある。
これも受け入れるしかないように思う。
首都圏の緊急事態宣言解除が来週にも発令されると噂されており、いよいよJリーグの再開が現実味を帯びてきた。
“中の人”は大忙しで、日程であったり、大会プランであったりを検討し、作り直しておる。
我らは、それを待ち、受け入れて行きたい。
サッカーのある日常を心待ちにしておる。

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Jリーグ 再開初戦「ダービー」中心 日程はすべて見直し
[ 2020年5月23日 05:30 ]
新型コロナ禍の影響で公式戦を中断中のJリーグは22日、実行委員会を実施。村井満チェアマンは移動リスク軽減の観点から「隣接した地域のマッチメークを多くして再開を迎えたい」と明かした。従来の日程は全て見直され、再開初戦は「近隣カード」が中心の見通しとなった。
専門家からはこの日、移動のリスクが改めて指摘された。Jリーグでは換気に優れた飛行機、新幹線だけでなく多くのバス移動も伴う。県をまたぐ移動を不安視する声も予想され、まずは移動距離の短縮から始める。全てが長距離移動となる札幌は一時的に拠点を移す計画もある。再開カードは火花散るダービー戦が増えそうだ。
再開日程は7月4日を第1候補に準備が進む。29日の実行委員会で決定の運びで情勢次第で6月末に早まる可能性もあるという。各クラブとも準備期間は全体練習の開始から少なくとも4週間は設けることで合意。当面、全国一律無観客で開催する方向となったが、反論は出なかったという。Jリーグで「無観客試合」は制裁処分を意味するため、新たな呼称を検討していく方針だ。
また、専門家からは選手、スタッフが事前にPCR、抗原、抗体などの検査を受けることも推奨された。村井チェアマンは国民の需要を優先することを前提としながらも「陰性を証明する一助となるのなら導入したい」と話した。Jリーグ再開の足音は確実に強まってきた。
《VAR見送り》今季からJ1で導入したVAR(ビデオアシスタントレフェリー)の実施は判断が見送られた。村井チェアマンは「再開方針を決めるタイミングで結論を出したい」と話した。複数人が狭いオペレーション室で作業を進めるため、3密が危ぶまれていた。
Jリーグ・実行委員会、ルヴァン杯の仕切り直しを検討
既に一試合を消化しておるが、近隣クラブの3チームで5グループに分け、上位1位とアジア・チャンピオンズリーグ出場3クラブで決勝トーナメントを行う新たなプランについて話し合われたとのこと。
グループ分けから編成する方針となった。
ここまで再開時期が延びた状況とあっては、大会プランの大幅変更も致し方のないところ。
そして、移動リスクを減らした大会としようとすることも頷ける。
鹿島アントラーズとしては、1敗がノーカンとなるのは朗報。
仕切り直した大会にてタイトルを目指す。
気持ちの切り替えである。

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ルヴァン杯、仕切り直し…移動リスク考慮、近隣クラブで組分けも
[ 2020年5月23日 05:30 ]
リーグ再開が「近隣カード」中心の見通しになったことで、ルヴァン杯も仕切り直しになることが分かった。同杯は既に1試合消化しているが、この日の実行委員会では近隣クラブの3チームで5グループに分け、上位1位とアジア・チャンピオンズリーグ出場3クラブで決勝トーナメントを行う新たなプランについて話し合われた。
同杯は当初、4チームによる4グループでスタート。プレーオフを含めて最大13試合が予定されていた。新型コロナが拡大していた4月下旬にはグループ分けはそのままで、全6試合(1次リーグ3試合、準々決勝から1試合ノックアウト方式)の簡略化で話し合いが進められた。だが移動リスク軽減を考慮する中で再び見直す選択肢が生まれ、もう1度グループ分けから編成する方針となった。
今後は強化者担当会議や日本プロサッカー選手会との会議を経て正式決定される見通し。リーグ戦同様、29日に新しいルヴァン杯の大会方式も発表する見込みだ。
小泉慶・上田綺世、オンライントレーニング体験
非常に面白い試みである。
首都圏などでは自粛生活が続いており、こうして身体を動かすプログラムは需要があろう。
小泉慶も綺世もポジティブなコメントを出しており、ユーザーにも効果があるであろうことが伝わってくる。
今後も選手が参加するとのことなので、是非とも多くの民に参加して欲しい。
楽しみである。

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鹿島上田&小泉がタイの「ルーシーダットン」挑戦
[2020年5月22日21時4分]

「ルーシーダットン」に挑戦する、鹿島MF小泉(左)とFW上田 (c)KASHIMA ANTLERS
鹿島アントラーズFW上田綺世(21)とMF小泉慶(25)が22日、カシマスタジアム内にあるクラブ直営フィットネス施設「カシマウェルネスプラザ」のオンラインプログラムを受講し、ファンと一緒に汗を流した。
同施設では新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、5月1日から「アントラーズ・コネキタール」と題したオンラインプログラムを展開しているが、選手の受講は今回が初めて。2人はオンライン上でファンの前に登場し、インストラクターの指示に従いながら、タイの自己整体法「ルーシーダットン」に挑戦した。この整体法には、呼吸法とともに体を整える効果があるという。上田は「呼吸法を変えるだけで自分の代謝が変わってくるし、こういう状況の中で、自宅で体を動かせるとても良いプログラムだと思います。他にもさまざまな内容が楽しめるので、是非アントラーズコネキタールに参加してみてください」、小泉は「普段なかなかしない動きで、自分の体の硬さを痛感しました。こういうプログラムを自宅でやるだけでも、体の調子が変わってくると思うので、皆さんもウェルネスプラザのオンラインプログラムに参加してもらえるとうれしいです」とクラブを通じてコメントした。
鹿島・小泉&上田がオンライントレーニング体験「体の硬さを痛感しました」
[ 2020年5月22日 17:21 ]

オンライントレーニングに参加した鹿島のMF小泉(左)とFW上田(クラブ提供)
Photo By 提供写真
鹿島のMF小泉慶(25)とFW上田綺世(21)がカシマスタジアム併設の「カシマウェルネスプラザ」が提供するオンラインプログラム「アントラーズコネキタール」に参加し、オンライン上で参加者とともにパーソナルトレーニングを体験した。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増え、室内で簡単にできるトレーニングの需要が高まる中、この日行われた約45分間のトレーニングではタイ式ヨガとも言われる「ルーシーダットン」に挑戦。約40人の参加者とともに体をゆっくりとほぐした。
トレーニングを終えた小泉は「普段なかなかしない動きで、自分の体の硬さを痛感しました。こういうプログラムを自宅でやるだけでも、体の調子が変わってくると思うので、皆さんもウェルネスのオンラインプログラムに参加してもらえるうれしいです」と呼びかけ、上田は「呼吸法を変えるだけで、自分の代謝が変わってくるし、こういう状況の中で、自宅で体を動かせるとても良いプログラムだと思います」と振り返った。
クラブ関係者によると今後も同プログラムには選手のゲスト参加を予定しているという。
【鹿島】上田綺世と小泉慶がクラブ配信オンラインレッスンを体験 一般参加者と同画面で45分
2020年5月22日 15時53分スポーツ報知

鹿島のMF小泉慶(左)とFW上田綺世(クラブ提供)
鹿島のFW上田綺世とMF小泉慶が22日、カシマスタジアム(茨城県鹿嶋市)内の「カシマウェルネスプラザ」が提供するオンラインプログラム「アントラーズコネキタール」に参加した。
同プログラムは、インストラクターによるスタジオレッスンやストレッチなどを特設サイトから配信。運動不足の解消や、在宅でも気軽に出来るエクササイズを提供している。
選手2人はタイに古くから伝わるパーソナルトレーニング「ルーシーダットン」に参加。特別ゲストとして、他の参加者と同じオンラインの画面上で45分間のプログラムを体験した。
上田は「呼吸法を変えるだけで、自分の代謝が変わってくるし、こういう状況の中で、自宅で体を動かせるとても良いプログラム。他にも様々な内容が楽しめるので、是非、アントラーズコネキタールに参加してみてください」、小泉は「普段なかなかしない動きなので、自分の体の硬さを痛感しました。こういうプログラムを自宅でやるだけでも、体の調子が変わってくると思うので、皆さんもウェルネスのオンラインプログラムに参加してもらえる嬉しいです」とコメントした。
クラブによると、同プログラムは今後も選手のゲスト出演を計画。自宅で過ごす「おうち時間」の中で、運動不足解消のプログラムを提供していく。鹿島は新型コロナウイルスの感染拡大による公式戦中断期間中、「#いまできることをみんなで」をテーマに様々な企画を実施しており、同プログラムは5月1日からスタートした。
1996年シーズン、大混戦のタイトルレースを制し、悲願の初優勝
偏ったジャッジにて失った1993年シーズンから三年後の1996年についに我らが鹿島アントラーズが悲願の初タイトルを手にした。
それもJリーグ初の年間通してのシーズンを行った年に得た栄誉であった。
素晴らしい記憶と言えよう。
このシーズンは夏にレオナルドが移籍するも、ルーキーであった柳沢敦が台頭し、長谷川祥之も健在であった。
シーズンMVPはジョルジーニョ。
初タイトルにふさわしいメンバーだったのではなかろうか。
この一歩より周囲から“常勝軍団”と呼ばれるようになっていくのである。
自ら名乗るものではない。
これが歴史である。

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大混戦のタイトルレースを制し、悲願の初優勝! “常勝軍団”の歴史の幕開けに【Jリーグヒストリー:1996年】

鹿島が悲願の初優勝!安定したパフォーマンスを披露したジョルジーニョがMVPを獲得
福岡と京都が昇格し、16チームによって争われた1996年のJリーグは、初めて1シーズン制で行われた(全30節)。
開幕から勢いに乗ったのは、横浜Fだった。ブラジル代表トリオ(サンパイオ、ジーニョ、エバイール)をはじめ、前園 真聖、楢崎 正剛、山口 素弘、三浦 淳宏と実力者を多数擁するチームは開幕8連勝を達成。アトランタ五輪のために設けられた中断期間前(第15節)まで12勝3敗とし、首位を独走した。
一方、鹿島もまた粘り強く勝利を積み重ねた。ジョアン カルロス新監督の下で初優勝を目指すチームは、レオナルド、ジョルジーニョと同じくブラジル代表を揃え、攻守両面で安定した戦いを実現する。
中断期間中にエースのレオナルドがフランスのパリSGに移籍するも、高卒ルーキーの柳沢 敦が台頭。長谷川 祥之、相馬 直樹ら中堅も質の高いパフォーマンスを保ち、接戦をものにする勝負強さを示していく。
中断明け後は横浜Fが失速した一方、鹿島と名古屋が調子を上げ、次第に優勝争いはこの3チームに絞られていった。
そして迎えた29節、鹿島は名古屋との大一番を迎える。開始早々に先制されたものの、真中 靖夫の2ゴールで逆転に成功。後半にもマジーニョと相馬が追加点を奪取し、4-2と快勝を収めた。直接対決をものにした鹿島はこの勝利で、事実上の優勝を確定。最終節はV川崎に大敗を喫したものの、悲願の初優勝を成し遂げている。
最終成績は鹿島、名古屋、横浜Fの3チームが21勝9敗で並んだものの、9敗のうち3つがPK負けの鹿島が勝点で他の2チームを上回る大混戦だった(当時、PK負けには勝点1が与えられた)。
1993年のサントリーシリーズで優勝を成し遂げて以降やや苦しんでいた鹿島だったが、この初優勝をきっかけに、“常勝軍団”の道を歩んでいくことになる。
なおこの年は、終始安定したパフォーマンスを披露したジョルジーニョがMVPを獲得している。
エヴェラウド、練習中
相変わらずゴツい身体をしておる。
この体躯にてJリーグを席巻するのだ。
再開後が楽しみである。

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グループトレーニング

グループに分かれ、時間別にトレーニングを実施しました。
野沢拓也プレイ集
惚れ惚れする。
若き日の野沢や2007年の優勝を引き寄せたアウェイ浦和戦でのゴール、2008年の優勝を決めたアウェイ札幌戦のゴールも素晴らしいが、2009年アウェイ名古屋戦のスルー三連発後のゴールが収められておることが嬉しい。
このゴールは連携の極まった三連覇時だからこそのプレイであり、永久保存版であろう。
これだけのクラッキを育てられたことを誇りに思う。
幸せである。

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トップチームに昇格した2000年から2011年、2013年、2014年に在籍した野沢拓也選手の過去プレー集をお届け!#antlers #kashima #野沢拓也
— 鹿島アントラーズ (@atlrs_official) May 22, 2020
FAMÍLIA ANTLERS
何度見ても上手い!#いまできることをみんなで#OneFamily
OB選手たちのプレー集はYouTube公式チャンネルで!https://t.co/h2RGmIAuWw pic.twitter.com/WAoSD1Flde
6月末にJリーグ再開か
来週の5/25に残り5都道県の緊急事態宣言解除がなされれば、可能性があると伝える。
これはテンションが上がる報道である。
しかしながら、「解除可能か25日にも『判断』」であって発令されるわけではない。
このあたりのミスリードが、メディアらしい飛ばしである。
このところ地上波テレビの撮り鉄や原宿の人混みなどのねつ造を見るにつけ、日本メディアのフェイクニュースには嫌気がさす。
旧来メディアの民への扇動には乗らぬことこそ肝要。
従軍慰安婦問題や南京虐殺など、なかった歴史を造りあげてしまった罪も重い。
正しい情報を得て、真実を知っていきたい。
ただ、この報に関しては、5/25に判断されれば、26日には解除される可能性は非常に高い。
そうなれば、Jリーグの再開も見えてこよう。
そのためにも気を緩めず、陽性患者を増やさぬ努力を続けるところ。
あと一歩である。

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Jリーグ、6月末に無観客で再開も 25日緊急事態宣言解除なら
[ 2020年5月22日 05:30 ]
公式戦を中断しているJリーグが、残る5都道県の緊急事態宣言が25日に解除された場合、6月末に無観客で再開(J3は開幕)する可能性が出てきた。
Jリーグは練習再開後、公式戦実施までの準備期間を4週間設定する方針。現在は7月初旬の再開を目指し、準備を進めてきた。しかし、宣言が解除されたエリアでは既に練習を再開。政府は21日、J1勢だけでも8クラブが所在する首都圏1都3県と北海道も25日の解除を示唆した。
解除の前倒しが実現すれば、6月末までに全国56クラブが準備期間を確保できる見込みとなる。Jリーグは22日のNPBとの対策連絡会議と実行委員会を経て、29日にも再開の指針を示す予定としている。
Jリーグ「オリ10」吸収合併の舞台裏 フリューゲルス消滅
これは、Jリーグ版の、そして日本企業の悪しきやり方であるので、記憶に残すべき事件と言えよう。
クラブを残す手立てを講じず、闇の中で合併を進め、決定後にサポに知らせたという行いは、企業ならまだしもサポーターの存在するサッカークラブとしてはあり得ないことであった。
今でも、Jリーグに暗い影を落とす事件である。
このような事件は二度と起こらぬよう、Jリーグは各クラブのファイナンシャルには強く警鐘を鳴らす。
しかしながら、今年の新型コロナウイルスの影響はそれでは管理しようも無い状況を生んだ。
経営基盤の弱いクラブ、親会社の大きなダメージなどで、存続に不安を覚えるクラブもあるのではなかろうか。
フリューゲルス消滅の悲劇以上のことが起こるやもしれぬ。
それも踏まえて、この事件を思い起こしておきたい。

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Jリーグ「オリ10」吸収合併の舞台裏 フリューゲルス消滅…書くべきか書かざるべきか
[ 2020年5月22日 05:30 ]

99年元日の天皇杯決勝で熱いメッセージを送るサポーター
Photo By スポニチ
【忘れられない1ページ~取材ノートから~大西純一記者】横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併し、横浜F・マリノスとなって21年の年月が過ぎた。93年に開幕したJリーグが始まって以来の大きな事件、あと一歩でスクープを逃した苦い思いがある。早く書けば合併が成立しない可能性があり、タイミングを間違えると誤報となる難しい取材だった。結局は横一線での報道となったが、当時の川淵三郎チェアマンとのやりとりなど、その後の記者生活の糧となったシーンを振り返ってみたい。
日本代表が初めてW杯の舞台に立ったW杯フランス大会からまだ3カ月ほどしかたっていなかった。日本中が熱狂した舞台の陰で、Jリーグの未来を左右する案件が進行していた。98年10月28日。トルシエ新監督の初陣となるエジプト戦が大阪で開催された日、私が追っていたのは「横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併する」というニュースだった。Jリーグ開幕時の10チームの一つ、横浜Fが事実上消滅する衝撃的な展開だった。
予兆はW杯直後からあった。横浜Fの親会社である全日空と、パートナー企業だった佐藤工業はともに経営が厳しくなり、Jリーグからの撤退が噂されていた。10月に入り「佐藤工業の撤退が決まり、全日空は新しいパートナーを探しているが、難航している」という情報が飛び込んできた。さっそく横浜Fに取材したが、はぐらかされるばかりだった。
だが、10月26日夜までに、ほぼ全容はつかめた。「日産と全日空の判断で横浜Mと横浜Fが合併する。29日にJリーグの臨時理事会が日時非公表で開催され、この問題が審議される」というものだ。ただし「事前に漏れると合併がまとまらなくなる」とし、完全に根回しが終了していない段階で表面化することを懸念した関係者の口は重かった。
横浜Fの親会社であった全日空に「市民クラブとして再出発」の選択肢はなかった。もし、合併が成立しなければチームは消滅する。横浜F関係者は合併に違和感を覚えながら、親会社が決めたことをどうすることもできなかった。
「新聞記者はネタをつかんだらちゅうちょしてはいけない」と、先輩から教わった。特ダネのはずが翌日他紙にも載っていたこともある。逆に、早く書きすぎて話を破談にしてしまったこともあった。つかんだ日に書けば特ダネ。だが、深夜で最終確認ができなかったこと、「事前に漏れると…」と関係者に言われたことが頭にあった。横浜Fの一部関係者にとっては合併がつぶれていいかもしれなかったが、Jリーグとしては合併以外に横浜Fを救う道はない。私も「この合併をつぶすと日本のサッカー界への影響が大きすぎる」と感じてしまい、ついにこの日、記事を書くことはできなかった。
臨時理事会前日の28日夕方。リミットだった。Jリーグ事務局があったビルの玄関で、川淵チェアマンをつかまえ「横浜Fの件ですが…」と切り出した。チェアマンは「どこから聞いたんだ」と言ったが、取材した内容を当てると「書くなと言っても無駄だろう。せめて悪く書かないでくれ」と事実関係を認め、車に乗り込んだ。どんな時でも堂々と取材対応してきたチェアマンだが、この時は苦悩していることがよく分かった。
会社に戻ろうとタクシーに乗ると、携帯電話が鳴った。Jリーグの木之本興三常務理事からだった。「ちょっとこっちに戻ってきてくれ」と言って切れた。事務局に戻ると、横浜Fの取締役もいた。「書かないでくれ」「それは無理…」の押し問答は1時間以上続いた。結局、午前0時30分すぎに通信社が配信。特ダネではなくなった。スポニチは日本代表の試合が1面で「合併」は3面だった。
翌日の臨時理事会で合併は承認され、その後サポーター有志が横浜FCを立ち上げた。横浜F・マリノスの背中の「ANA」は消えたが、チーム名に「F」はまだ残っている。いま考えれば、1日早く書いても合併が白紙になることはなかっただろう。だが、書けなかったのはこの時だけ。チーム消滅回避に必死だった横浜FやJリーグ関係者の葛藤に、私も記者としての立場を忘れさせられていた。
≪横浜F“消滅”まで≫
▼98年10月29日 Jリーグ理事会で横浜Mと横浜Fの合併承認。横浜Fの山田恒彦社長が全選手に状況説明。
▼同31日 C大阪戦(横浜国)の試合後、サポーターが合併撤回を求めてスタジアムで座り込み。
▼11月5日 山田社長が再度、選手に説明。
▼同7日 ホーム最終戦(三ツ沢)で福岡に2―1で勝ちヒーローインタビューでGK楢崎正剛が男泣き。
▼同16日 前田浩二選手会長らが川淵チェアマンに合併撤回を直訴。
▼12日2日 日産と全日空が極秘で合併に調印。
▼同3日 サポーターが羽田の全日空本社に集まりガードマンともみ合い。
▼同8日 サポーターが横浜フリューゲルス再建協議会を設立。
▼同25日 横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)設立。
▼99年1月1日 横浜Fが天皇杯で優勝。
▼2月8日 条件付きで横浜FCのJFL参加が承認される。
▽横浜フリューゲルス 正式名称は全日空佐藤工業サッカークラブ。1964年に横浜市中区スポーツ少年団として設立。Jリーグ参加を機に92年名称変更。天皇杯優勝2度(93、98年度)、97年Jリーグ第1ステージ2位など。元日本代表GKの楢崎正剛、現G大阪MFの遠藤保仁らが在籍した。
21日の練習の様子
ゴールマウスを守る山田の姿が写る。
ルーキーの真剣な眼差しは将来の正GKのポジションを見据えているように感じさせる。
また、レオ・シルバが練習に復帰しておることが伝えられておる。
これは朗報。
中盤が強化され、チーム力が一気に増すこととなろう。
再開が楽しみである。

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グループトレーニング

グループに分かれ、時間別にトレーニングを実施しました。
パス交換からのシュート練習!#antlers #kashima
— 鹿島アントラーズ (@atlrs_official) May 21, 2020
レオさんも元気にグラウンドでランニング!#永木亮太#山本脩斗#内田篤人#レオシルバ pic.twitter.com/UFGu63lsjJ
担当記者が見た鹿島18年ACL初V
特筆すべきは、1997年のリーグ戦との同日開催というJリーグの鹿島に与えた所業を明記しておることであろう。
これは、時が経っても許しがたい。
結果的には、別の人気クラブのためには日程を優遇し、補助も与えてタイトルへの道筋を取ったことも含めて、未だに腹立たしい。
こうした歴史を経て、先人たちの血のにじむような努力があってこそのアジアタイトルであった。
この喜びから早二年。
来年は再びこの舞台に立つよう国内タイトルに集中する。
新たな歴史を作るのである。

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昌子源が絶叫「ミツ!ミツどこ?」欧州挑戦を半年封印 現役最終年の小笠原主将へトロフィー…担当記者が見た鹿島18年ACL初V
2020年5月21日 8時0分スポーツ報知

ACLで初優勝を果たし、トロフィーを掲げる鹿島の小笠原(手前=共同)
「221人対10万人」―。大アウェーのイラン・テヘランで、鹿島は悲願のACLタイトルを獲得した。
2018年11月、8度目のACL挑戦で決勝第1戦を2―0で先勝し、敵地に乗り込んだ。国内19冠を誇りながらアジアでは8強止まり。「内弁慶」と揶揄(やゆ)されていた鹿島を、10万人のサポーターが待ち受けていた。221人の鹿島サポーターが現地入りしたが、入場者数は公式発表で10万人ジャスト。一部区域を規制した会場は8万人収容だったはずだが…。開始4時間前には既に超満員。密、密、密。現地アーティストが熱唱し、盛大な花火が打ち上げられるお祭り騒ぎだった。
試合中は、民族楽器・ブブゼラによるけたたましい雑音が鳴り響いた。試合後、DF昌子源はかすれ声で言った。「なんせ声が聞こえない、全く。(左隣のポジションの)脩斗くん(DF山本)を10回呼んだけど、見向きもされなかった」。それでも鹿島は動じなかった。タイトル獲得への執念が、耳をふさぎたくなるほどの歓声と騒音を上回った。

鹿島時代の昌子源鹿島時代の昌子源
1997年、リーグ戦と同日にシンガポールでアジアクラブ選手権(ACLの前身)の試合が組まれた。当時は事実上の罰ゲームのような大会。それから長年、鹿島はACLへの支援体制や日程面の配慮を怠るリーグ側に抗議を繰り返した。「鹿島さん、うざいよ」と言われたことは一度ではない。説得が実りサポート体制が整ったかと思えば、浦和(07、17年)とG大阪(08年)に先を越された。リーグ3連覇(07~09年)など国内タイトルを積み重ねながらも、アジアの舞台では無残に散ってきた。
ACLを2度制したGK権純泰、この日の試合前に「サポーターがピッチに入ってくるわけではない。何も気にするな」とチームを鼓舞したMFレオシルバら、経験ある助っ人を獲得。予定を半年早めた同年夏のジーコ氏のチーム復帰。W杯で名を上げた昌子の欧州挑戦半年封印。全てはACL獲得のためだった。

ACL決勝第1戦。鹿島・ペルセポリス。後半13分、鹿島のレオシルバ(右)が先制ゴールを決めるACL決勝第1戦。鹿島・ペルセポリス。後半13分、鹿島のレオシルバ(右)が先制ゴールを決める
10万人を黙らせる試合終了の笛が鳴り、アジアの頂に達した。涙を流すクラブスタッフと握手を交わし、ピッチに目を移すと、負傷退場したFW鈴木優磨、当時65歳のジーコ氏までもが跳びはねて狂喜乱舞。選手、コーチ、監督として何度もアジアの壁にはね返されてきた大岩剛監督は、この年が現役最終年となったMF小笠原満男と抱き合い、肩をふるわせて泣いていた。
迎えた優勝セレモニー。「ミツ! ミツどこ?」。ゲームキャプテンとして優勝トロフィーを受け取った昌子が叫んだ。逃げ隠れする小笠原を若手らが強引に引っ張り出す。首を横に振りながらも笑顔が隠せない主将が歓喜の中心へ。サポーターの音頭に合わせ、小笠原がトロフィーを掲げた。悲願のタイトルでの通算20冠目。2階席の一角に押し込まれた221人のサポーターから、10万人の声量に勝るとも劣らない大歓声が響き渡った。(岡島 智哉)
◆Jと過密4戦11日間で3勝 鹿島はホームで行われた決勝第1戦を2―0で先勝した。この試合はリーグ戦から中2日で行われ、息もつかぬまま、中2日でリーグ戦。そしてイランへの移動を含む中3日で決勝第2戦を戦った。決勝2試合とリーグ終盤の大事な2試合の計4試合を11日間で消化する過密日程に屈せず、4試合中3試合に勝利し、最後のイランでの激闘は0―0。2戦合計2―0で悲願のVを果たし、Jクラブでは前人未到の主要タイトル20冠目を勝ち取った。
◆岡島 智哉(おかじま・ともや)福岡県生まれ。28歳。2016年入社。17年横浜M、18~19年鹿島担当。20年は遊軍。
ACLで初優勝を果たし、トロフィーを掲げる鹿島の小笠原(手前=共同)
鹿島時代の昌子源
ACL決勝第1戦。鹿島・ペルセポリス。後半13分、鹿島のレオシルバ(右)が先制ゴールを決める
ファン・アラーノ、練習中
活動休止中もブラジルに帰国することなくこの日本にてJリーグのサッカーになじむことを選んだ。
その成果が再開後には現れるであろう。
攻撃の中心選手として活躍してもらおうではないか。
期待しておる。

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グループトレーニング

グループに分かれ、時間別にトレーニングを実施しました。
土居聖真、骨折を報告
昨年末の天皇杯・準決勝・長崎戦にて骨折しており、決勝戦は痛み止めを摂取して途中出場したとのこと。
今季の公式戦も完治はしておらず、痛みを抱えてのプレイだったことが報告された。
そして、公式戦の中断が決定したことで治療に専念した結果、先日のチーム再始動時には復帰出来たことが綴られておる。
辛かったであろうことは想像に難くない。
そしてその時期は過ぎ去った。
公式戦再開時には、大いに躍動してくれよう。
楽しみにしておる。

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大迫勇也ゴール集
これは胸がときめく。
豪快な一発あり、流し込みありと多彩なゴールシーンが流れる。
これほどの逸材を欧州に旅立たせ、日本代表の主軸へと育て上げた鹿島の育成力を誇りたい。
いずれ戻ってきて欲しい。
その日を心待ちにしておる。

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2009年から2013年まで在籍した大迫勇也選手の過去プレー集をお届け!#antlers #kashima #大迫勇也
— 鹿島アントラーズ (@atlrs_official) May 19, 2020
FAMÍLIA ANTLERS
やっぱり、半端ない!#いまできることをみんなで#OneFamily
OB選手たちのプレー集はYouTube公式チャンネルで!https://t.co/h2RGmIS6l6 pic.twitter.com/aAd0ECwKQr
Jリーグ・村井チェアマン、5/29に再開指針を発表
いよいよ再開の兆しが見えてきた。
多くの都道府県にて緊急事態宣言が解除され、大阪や神戸も今週にも解除される見込み。
鹿島アントラーズを含めて活動を再開したチームも多い。
公式戦再開まであともう一歩となった。
ここは我らが更に自粛を強化し、新たな陽性患者を増やさぬことこそ肝要。
気を引き締めるときである。

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Jリーグ、再開日程は29日めどに指針 “7月から無観客”現実的
[ 2020年5月20日 05:30 ]
Jリーグの村井満チェアマン(60)は19日、理事会後にオンラインで会見し、Jリーグ再開日程の指針を29日をめどにまとめる意向を示した。21日の政府見解、22日のNPBとの連絡会議を経て、選手会や各クラブ強化担当、実行委員らと協議する予定という。
緊急事態宣言の解除されたエリアでは既に練習も再開。Jリーグでは4週間の準備期間を設ける予定で現時点では7月に無観客での再開が現実的だ。理事会では試合中に選手が使用するペットボトルも“マイボトル”にすべきなど開催に向けて具体策も出た。
選手から要望も多いPCR、抗原、抗体検査の部分的な導入も示唆した。既に抗体検査の提案なども受けており、国内の検査体制や精度などを調査中。現時点では全選手の検査は物理的にも困難で、2週間の徹底した行動と健康管理が何よりの健康のエビデンスとなるとし「検査とセットで考えていくべき」と話した。
また親会社やスポンサー企業のクラブ支援が宣伝広告費として認められるなど税制上の優遇が確認された。新型コロナ禍の影響で試合数が減少した際のスポンサー料減額の辞退、親会社のスポンサー料追加もプロ野球同様に全額損金算入される。Jリーグが国税庁に照会し、回答を得た。
アレックス・ミネイロ氏、アトレティコ・パラナエンセ時代を振り返る
アトレティコ・パラナエンセ在籍時代を振り返って話しておる。
キャリアの上で最も重要であったのはブラジル全国選手権制覇をなし得た2001年であったことなどを語る。
現在は、ラジオ番組などに出演しておるとのこと。
アレックス・ミネイロと言えば、鹿島を退団した後にガンバ大阪からのオファーを「日本では鹿島以外ではプレイしない」と蹴ったことで記憶に残る。
華麗なるポストプレイと決定力で2005・2006年のチームを牽引してくれた。
05年の前半は野沢と2TOPを組み二列目の本山・満男とのコンビネーションが美しく、06年の後半は田代との相性の良さが光った。
良いゴールを決めてくれたこと感謝しておる。

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Herói em 2001, Alex Mineiro relembra título brasileiro pelo Athletico: “O mais importante"
GloboEsporte.com inicia a série de matérias especiais sobre o título brasileiro do Athletico, que você vai ver na RPC, no próximo domingo. Artilheiro conta histórias do grupo campeão
Por Monique Silva e Nadja Mauad — Curitiba
18/05/2020 09h00 Atualizado há um dia
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Alex Mineiro comemoração Atlético-PR x São Caetano 2001 — Foto: Arquivo / Agência Estado
Oito gols em quatro jogos decisivos. Dois hat-tricks consecutivos. Não é exagero falar que Alex Mineiro foi o nome do Athletico na conquista do título do Campeonato Brasileiro em 2001. Predestinado, viu sua estrela brilhar no mata-mata e foi peça fundamental na conquista da tão esperada estrela dourada.
O camisa 9 marcou 17 gols na competição e foi o artilheiro do time no campeonato, ao lado do companheiro Kleber. Decisivo na campanha, Alex Mineiro foi protagonista, mostrou faro de gol apurado e virou heroi.
Em entrevista ao GloboEsporte.com, o ex-jogador relembrou a conquista em 2001 e colocou o título como o mais importante em seus 15 anos de carreira no futebol.
- Foi um momento muito importante na minha carreira quando conseguimos esse título. Foi um marco, impulsionou e fez dar um salto muito grande.
Além do Furacão, Alex jogou no Cruzeiro, Vitória, Atlético-MG, Palmeiras e Grêmio, entre outros. Fora do Brasil, passou pelo Tigres-MEX e Kashima Antlers-JAP.
- Eu tive outro título importante, a Libertadores em 1997 pelo Cruzeiro. Mas lá eu era o primeiro reserva e costumava entrar no segundo tempo. Então, jogando, o mais importante foi com o Athletico em 2001.
Sob o comando de Geninho, que assumiu o time na 11ª rodada, a campanha do título teve 19 vitórias, seis empates e apenas seis derrotas, um aproveitamento de 67%. Alex destacou o respeito dentro do elenco que chamou a atenção do Brasil.
- Tinha muito respeito entre todos e isso era o mais importante dentro de campo. Um sabia cobrar o outro no momento certo. Era muita qualidade técnica individual. Então, ficava fácil tirar algo de alguém no momento de dificuldade. E tudo se sobressaiu em campo – lembra.
- Foi uma fase muito boa. A gente se preparou bem para aquele momento. Os treinos, a concentração... ficamos o tempo todo concentrados, só pensando nos jogos. A folga era só na segunda. A gente se preparava só pensando que era possível conquistar o campeonato, como acabou sendo possível.
Kleber & Alex Mineiro: “Uma dupla imbatível”
Alex Mineiro fez dupla com Kleber (que ainda não era Kleber Pereira) em 2001. Juntos, eles escreveram seus nomes na história do Athletico e formaram o eficiente ataque rubro-negro na campanha do título.
Eficientes e oportunistas, eles marcaram 17 gols cada e só ficaram atrás de Romário (então no Vasco, com 21 gols) e Washington (ex-Ponte Preta, com 18).
- Tivemos a oportunidade de jogar juntos no Athletico, e depois passamos uma temporada no México. Depois ainda brigamos pela artilharia em São Paulo, ele pelo Santos, e eu pelo Palmeiras. Temos um carinho muito grande pelo outro. A gente se completava dentro de campo, com gols e jogadas. E acabamos com o mesmo número de gols. Realmente foi uma dupla imbatível.
Kleber e Alex Mineiro fizeram 17 gols cada no Brasileirão 2001 — Foto: Lucimar do Carmo
Apelidado de “Incendiário”, Kleber terminou em 2001 com 50 gols marcados na temporada. Ao todo, foram 124 gols em 185 partidas em quatro anos pelo Athletico.
- O Kleber era a nossa referência e a gente trabalhava as jogadas em prol dele, para ele finalizar e fazer os gols. A nossa intenção era fazer dele o artilheiro do campeonato. A primeira opção era sempre servi-lo. Aconteceu de aparecer as oportunidades nas finais e eu fazer oito gols em quatro jogos, acabou sobrando pra mim essa responsabilidade. Eu estava bem preparado e consegui fazer os gols necessários para a conquista do título.
“O time jogava por música”, diz Alex Mineiro, que relembra a preleção de Geninho na final
No dia da decisão do título, em São Caetano, a preleção de Geninho mexeu com o brio dos jogadores, segundo Alex Mineiro. Convicto que a taça ficaria com o Athletico, ele abriu uma caixa e nela haviam várias faixas de campeão.
- Ele deu uma para cada um e perguntou se a gente ia deixar eles tomaram a faixa de nós. Ali foi uma frase bacana. Tivemos uma motivação a mais para buscar o título. Ele mexeu com o brio dos jogadores. Mas naquele time estava fácil de mexer. O time jogava por música. E felizmente fizemos uma grande partida e conquistamos esse título maravilhoso.
Geninho assumiu o comando do Furacão na 11ª rodada, após a saída de Mario Sérgio, com o time na 13ª colocação e uma campanha irregular. Aos poucos, o treinador foi colocando a ordem na casa e encaixando o time, que passou a conquistar resultados e subiu na tabela.
- Ele foi fundamental. Chegou num momento complicado da equipe, que não estava conseguindo render, e fez a transformação. Ele é um psicólogo como treinador e sabe mexer com a cabeça do jogador muito bem. Trabalhamos juntos antes no Vitória, em 1999, e tivemos alguns problemas lá. Quando ele chegou ao Athletico, ele veio direto falar comigo, resolvemos e ele me deu uma nova oportunidade. E eu correspondi dentro de campo. Ele fez um trabalho primoroso no Athletico, o grupo estava abalado psicologicamente. E ele conseguiu virar a página e caminhamos juntos para o título.
Aposentado desde 2010, o ex-jogador disse que a retransmissão do jogo da final contra o São Caetano, pela RPC e pelo GloboEsporte.com, no domingo, será uma grande oportunidade para ver, rever e se emocionar com o título do Furacão.
- Vai ser importantíssimo, principalmente para quem não viu poder ver o que nos fizemos no passado. Foi uma temporada muito boa de todo mundo. O torcedor vai gostar de ver uma equipe aguerrida, com qualidade técnica grande e que jogava pra frente, sempre para fazer gols e conquistar as vitórias.
Veja outros trechos da entrevista exclusiva com Alex Mineiro:
Preparação
“A preparação era a mesma de sempre, bastante treinamento, de estudar bem o adversário. O Geninho passava vídeos do São Caetano, era uma equipe com bons jogadores. A gente procurou estudar ao máximo o time para saber os pontos fracos e fortes deles”.
União como diferencial
“O grupo aproveitava bastante dentro e fora de campo. Havia uma união muito grande. E isso com certeza foi um fator importante pra gente ter conquistado o título. Foi um período de muito trabalho e dedicação Tinha churrasco às segundas e terças-feiras, que o Geninho fazia para relaxar o grupo. Só não dá para contar as histórias porque senão complica pra muita gente! (risos)”.
Gol no Anacleto Campanella
“Não lembro se havia sido um escanteio ou falta a favor do São Caetano, quando pegamos o rebote. Aí não sei se foi o Kleber que tocou para o Fabiano na esquerda, ele levou até a entrada da área e bateu cruzado. O Silvio Luiz soltou e eu estava no momento certo, na hora certa, para fazer o gol do título. Um gol importante que deu o primeiro título ao Athletico, que vinha lutando por isso há muito tempo”.
Jogo complicado em São Caetano
“A gente sabia que seria, mesmo com a vitória na ida por 4 a 2. O São Caetano era uma equipe muito boa, competitiva, de qualidade, com jogadores experientes. A gente tinha um certo receio de jogar no Anacleto, mas felizmente deu tudo certo”.
Furacão letal
“Nosso time sempre jogou pra frente, era bem ofensivo, mesmo jogando com três zagueiros. Tinha o Cocito, Gabiru e Kleberson, e na frente, eu e o Kleber. Era uma equipe muito rápida, técnica, com um meio-campo de qualidade. Não tinha como a gente jogar defensivamente, sempre procurávamos o gol, e isso era o mais importante, a procura pelo gol”.
Grito de campeão
“Foi uma loucura danada. Demorou para cair a ficha. Muitos dali conquistavam um título brasileiro pela primeira vez. Foi uma felicidade muito grande”.
Torcida atleticana
“O meu relacionamento com os torcedores sempre foi ótimo, perfeito, não tem como ser melhor. Sempre que vou a Curitiba sou muito bem recebido. É um carinho e gratidão enormes, e da minha parte recíproco e verdadeiro”.
A fervura da Baixada
“O apoio era indescritível. O barulho que a torcida fazia quando estava cantando, chamando o nome dos jogadores, sempre foi o diferencial da Arena da Baixada, incentivando quando o time está perdendo ou, ganhando, nem se fala. É um espetáculo à parte. Tive a oportunidade de ver o jogo na Arena nova. Eu trocaria o título de 2001 para voltar a jogar valendo um título nessa Arena nova”.
“Ele era nosso capitão, o nosso chefe, o cara que cobrava a equipe. Só que ele era o que mais fazia besteira e o que queria cobrar a equipe (risos). Mas sempre foi um zagueirão. Ele também estava numa fase espetacular e nos ajudou dentro e fora de campo”.
Nostalgia e Galvão Bueno
“De vez em quando entro na internet e vejo algumas gravações dos jogos. Também tenho algumas coisas guardadas em DVD’s. É muito legal. É emocionante ver a narração do gol do título pelo Galvão Bueno, um dos maiores narradores da história do nosso futebol”.
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Alex Mineiro brilhou no mata-mata com oito gols em quatro jogos da reta final — Foto: Arquivo/ Gazeta do Povo
トレーニング再開
ソーシャルディスタンスを保ち、グループトレーニングを行っておる。
その姿を伝える鹿島アントラーズ公式Twitterには奈良竜樹の姿が写る。
これは朗報。
リーグ再開時には元気にプレイしてくれよう。
その奈良本人の声をメディアには報じて欲しいと願う。
何はともあれ、練習再開を喜びたい。
平時への第一歩である。

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グループトレーニング
2020.05.18(月)

4つのグループに分かれ、時間別にトレーニングを実施しました。
午後は、雨が降る中でのトレーニング!#antlers #kashima
— 鹿島アントラーズ (@atlrs_official) May 18, 2020
雨でもみんな笑顔です!#白崎凌兵#永木亮太#永戸勝也#奈良竜樹 pic.twitter.com/QlkY6We40F
鹿島三竿「少人数だがとても楽しかった」練習再開
[2020年5月18日19時9分]

グループトレーニングを再開した鹿島のMF三竿(C)KASHIMA ANTLERS
鹿島アントラーズは18日、関東のJクラブで初めて練習を再開した。4月3日以来、1カ月半ぶりのトレーニングは、最大8人のグループを4つ作り、午前に2組、午後に2組と、グループごとに時間差で実施した。1組あたり約1時間半、ボールも使ったメニューを消化。飲料ボトルは共用しない、1メートル以内の近距離で会話をしない、マッサージは必要最低限とするほか、クラブハウス滞在時間も練習を含めて2時間半と制限を設け、再開の日を迎えた。
主将のMF三竿は「少人数でのトレーニングだが、チームメートとクラブハウスで一緒にサッカーができて、とても楽しかった。みんなでコミュニケーションを取りながら、ボールを使った練習で、すごくいい雰囲気の中でトレーニングができた」とクラブを通してコメントを発表した。
茨城県内では5月5日を最後に新型コロナウイルスの新規感染者は出ておらず、緊急事態宣言も解除されている。報道陣の取材やファンの練習見学は引き続き禁止されているが、鹿島は大きな1歩を踏み出した。
J1鹿島、練習再開 4グループで体動かす 三竿「楽しかった」

約1カ月ぶりのクラブハウスでの練習に取り組むJ1鹿島の三竿(手前)(©KASHIMA ANTLERS)
J1鹿島は18日、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、先月6日から休止していたトップチームの活動を再開した。この日は鹿嶋市のクラブハウスで感染予防の対策を徹底して非公開で実施された。4グループに分かれての軽めの練習となったが、三竿主将はクラブを通じて「チームメートとクラブハウスで約1カ月ぶりに一緒にサッカーができて、とても楽しかった」とコメントした。
練習は1グループ最大8人までとされ、クラブハウス滞在時間も区切られた。クラブによると、早速ボールを使ったメニューも行われ、三竿主将は「みんなでコミュニケーションを取りながら、すごくいい雰囲気の中でトレーニングができた」と振り返った。
ザーゴ新監督を迎えた今季は公式戦3戦未勝利で中断中。三竿主将は「今季は公式戦で勝つ姿をファン・サポーターの皆さんにまだ見せることができていない。『勝つ』ことにフォーカスしていく」と決意を新たにした。その上で、「1対1や球際、ゲームから、常に勝つために何をすればいいかを考えながらやっていきたい。チーム戦術の中で、自分の良さを出していけるように、そして、ピッチで良い姿を見せることができるように取り組んでいく」と語った。
クラブによると、当面は非公開のグループ別の練習が続くという。
【鹿島】トレーニング再開!三竿健斗「『勝つ』ことにフォーカスして考えながらやっていきたい」
サカノワスタッフ2020年5月18日

トレーニングを再開させた鹿島のファン・アラーノら。コーチ陣はマスク姿だ。(C)KASHIMA ANTLERS
当面は約8人ずつ4グループで。22日にJリーグから再開に向けて何かしらの発表。
J1リーグの鹿島アントラーズは5月18日、新型コロナウイルス感染症の影響により発出されていた茨城を含む39県での緊急事態宣言が解除されたことを受けて、グループトレーニングを開始した。当面のトレーニングは、感染予防対策を徹底したうえで、1グループ最大8人ずつ4グループに分けて、クラブハウスでの滞在時間を区切って実施する。
また、今後の活動について変更がある場合、決定次第、改めて発表される。中断前から引き続きトップチームの練習見学とクラブハウス施設への一般の立ち入りは、当面の間、中止となる(メディア取材も)。
クラブは「ファン・サポーターの皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします」と呼び掛けている。
キャプテンの三竿健斗は中断明け最初のトレーニングのあと、次のようにクラブ広報を通じてコメントしている。
「少人数でのトレーニングでしたけど、チームメートとクラブハウスで約1か月ぶりに一緒にサッカーができて、とても楽しかったです。みんなでコミュニケーションを取りながら、ボールを使った練習で、すごくいい雰囲気のなかでトレーニングができました。
今シーズンは、公式戦で勝つ姿をファン・サポーターの皆さんにまだ見せることができていないので、『勝つ』ということにフォーカスして、今後の練習の中で1対1や球際、ゲームから、常に勝つために何をすればいいかを考えながらやっていきたいと思います。
チームの戦術のなかで、自分の良さを出していけるように、そして、ピッチでいい姿を見せることができるように、取り組んでいきます」
現在中断中のJリーグは、5月21日の政府専門家会議の見解に伴う安倍晋三首相からの発表を受けて(9都府県の緊急事態宣言の解除など)、22日にプロ野球(NPB)との合同による新型コロナウイルス対策連絡会議、さらにJリーグの実行委員会を実施して、今後の方向性を定める。
誰も先が読めない状況ではあるが、その5月22日にもリーグ再開に向けた具体的な発表がある予定だ。

指示を出すザーゴ監督の姿も。距離を保っての練習に。(C)KASHIMA ANTLERS

鹿島の三竿健斗。(C)KASHIMA ANTLERS
土居聖真、収束後どこ行きたい?
聖真は、新型コロナウイルスの影響が収束したら行きたい場所としてアンパンマンミュージアムとTDRの写真をアップしておる。
幸せのカタチである。
平和であった時期が懐かしい。
茨城県は非常事態宣言が解除され、今日からはチームも再始動する。
こうした平穏な日々も戻ってこよう。
もう一息である。

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鹿島MF土居聖真が同僚2人との“夢の国”秘蔵ショットを公開! 「収束後どこ行きたい?」との問いに…
サッカーダイジェストWeb編集部
2020年05月17日
ディズニー好きをアピール!
鹿島アントラーズのMF土居聖真が5月17日に自身のブログを更新。新型コロナウイルスが社会問題となるなか、「収束後に行きたいとこ」と題し、チームメイト3人とディズニーランドで撮った秘蔵写真を公開した。
鹿島のアカデミー出身の27歳は、2011年のトップチーム昇格以来、一筋を貫き、2017年のE-1サッカー選手権ではA代表に初選出。クラブ在籍9年目となった昨季はリーグ戦32試合に出場し5得点を記録している。
そんな土居は、自身のブログをほぼ毎日更新しており、サッカーの話題のみならず、自宅で料理に挑戦している様子などプライベート写真も積極的に発信している。17日には、「収束後に行きたいとこ」とのタイトルで新たにブログを更新した。
「アンパンマンミュージアムとディズニーランドかシーは絶対行くし速攻行きたい!!」
投稿にはアンパンマンミュージアムで楽しむ土居の写真と、ディズニーリゾートで同僚のDF犬飼智也、MF小泉慶とともに撮影した3ショットを公開。土居は犬飼の誕生日を祝った12日の投稿でも、ふたりで夢の国を満喫したプライベート写真を3枚公開しており、Jリーガー屈指のディズニー好きをアピールしていた。
「皆さんはどこ行きたいですか~?」との土居からの問いにファンは「カシマスタジアムで試合がみたいに決まってる!」「試合に行きたい」「ディズニーランドとJリーグ!」などのコメントが多く届いており、深刻な“サッカー不足”を感じているようだ。
1日でも早くコロナ禍で収束し、気兼ねなくテーマパークやJリーグに足を運べる日が来るのを願うばかりだ。
構成●サッカーダイジェストWeb編集部
【写真】ディズニー愛をアピール!土居が夢の国で撮った同僚との3ショット!
「投げ銭」はJリーグを救えるか?
この試みをライブ感漂わせて伝えてくれる。
そして、この投げ銭というキーワードが村井チェアマンの口から出た日についても報じる。
4月23日であったとのこと。
その日からわずか23日間で実行実現した鹿島アントラーズFCのスピード感には敬服しかない。
この感覚を大事にし、失敗も成功も積み重ねて成長していくことであろう。
今後が楽しみである。

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「投げ銭」はJリーグを救えるか? 鹿島の投げ銭企画を記者が体験
2020年5月17日 17時0分スポーツ報知

出演した(上段右から時計回りに)GK曽ケ端準、柳沢敦氏、小笠原満男氏、河村アナウンサー、中田浩二氏
Jリーグの村井満チェアマンから「投げ銭」という言葉が発せられたのが、4月23日のこと。ウェブ上で行われた会見で「最近は『投げ銭』という、バーチャルの試合環境でもいいプレーに関して、お客様が支援できるようなデジタル上の環境が整っているようです。そうした新しいチャレンジに対しては、積極果敢にアイデアを出していこうとしています」と語った。
あくまで検討の段階であり、例え話の1つとして提示されたに過ぎないが、鹿島が早速トライした。16日に行った約5時間のトークイベント「鹿ライブ」内で、投げ銭企画を実施した。
同イベントは、スポーツエンターテイメントアプリ「Player!」内で行われ、Jリーグ公式YouTubeで配信された「93年第1ステージ第1節名古屋戦」、NHK BS1で放送された「01年チャンピオンシップ第2戦磐田戦」の中継時間に生配信された。
プロの俳優は人を殺したことがなくても殺人者役を見事に演じるが、(おそらく)大根役者の自分はそうはいかない。正しい記事を迫真の書きっぷりでお届けするため、同アプリのWEB版を利用し、投げ銭にトライしてみた。
ページ内の「サポートする」をクリックすると、すぐに金額入力欄へ。1人500円から最大9999万9999円までの範囲で選択できるようだ。決済はクレジットカード。情報を入力すると、「サポートありがとうございました!」と表示され、チームからのメッセージと、支援者特典のジーコ氏&小笠原満男氏のデジタルサイン入り限定フォトのダウンロードURLが提示された。「サポートする」のクリックからここまで、およそ2分で完了した。
放送内ではいつでも「投げる」ことが可能だった。ジーコ氏のハットトリックに「投げる」こともできたし、磐田戦の中継中、GK曽ケ端準のチームを救うファインセーブを「キャッチだな」と突き放した小笠原満男氏のコメントに対して投げることもできた。
* * *
公式戦で運用するためには、関係各所との調整が必要不可欠。ふがいない試合での「金返せ!」というサポーター感情は数倍にも膨らむ可能性がある。支援金の使用用途はあらかじめアナウンスした方がいいかもしれない。また、500円を投げたサポーターと9999万9999円を投げたサポーター、さらに言えば金銭的事情あるいはデジタルへの対応レベルで支援ができないサポーターに、上下関係が生じてはならない。
一方、仮に試合での運用が無理だとしても、トークライブなどのファンイベントや選手の引退会見などへの展開は障壁が少ないはずだ。各所との調整がうまくいけばという成立条件こそあるが、コロナ禍で数億規模の減収が見込まれる各クラブを救う新たな収益構造の1つになり得るのではないだろうか。(記者コラム「〇日後に再開するJリーグ」担当・岡島 智哉)
ファン・アラーノ、ブラジル現地紙にて発言
アラーノは日本サッカーについて公式戦3試合を戦い把握した旨を語る。
“速い”サッカーは新鮮だった模様。
また、いつかは古巣であるインテルナシオナルへ戻りたいとのこと。
鹿島にタイトルをもたらし、そして凱旋帰国するのだ。
活躍を期待しておる。

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Juan Alano revela que tinha desejo de permanecer: “Queria fazer carreira no Inter”
Por Revista Colorada Em 17 Maio, 2020
Foto: Mateus Bruxel
Destaque do Coritiba em 2019, o meio-campista Juan Alano concedeu entrevista para o Uol Esportes e falou sobre o momento vivido no Kashima Antlers, clube japonês que o comprou do Inter no começo da temporada.
O meia começou falando sobre a família e a situação do Japão quanto ao combate do novo coronavírus.
“Meu pai vai ao mercado e volta com todas aquelas coisas, né? Deixar a roupa na rua e tal. Eu fico com o coração um pouco apertado? Eles podem só estar falando que estão se cuidando, né?”, comentou Alano.
O jogador foi buscado no Inter no começo da temporada. Para isso, o seu atual clube desembolsou cerca de 2,5 milhões de dólares.
Mesmo que tenha jogado apenas três partidas com a camisa do Kashima Antlers, ele já entende o modelo que a equipe japonesa atua.
“É um jogo muito rápido. Joguei contra um time da Austrália e dois contra times japoneses. O jogo é muito intenso, rápido, mas no final do jogo o ritmo cai bastante. A partir de 20, 25 minutos do segundo tempo o jogo fica lá e cá. O Léo, volante que está aqui, me alertou? O time que está perdendo começa a se atirar e quem está vencendo não segura. Não sei se é coisa de japonês, que é ansioso, mas o time que está perdendo se joga. Se atira mesmo e o jogo vira lá e cá. Eu reparei isso, o final do jogo é bem aberto”, revelou.
Segundo Alano, a principal diferença no estilo para o futebol brasileiro está na velocidade do jogo.
“A dinâmica do jogo, a velocidade é muito maior, sem dúvida alguma. Os japoneses são velozes pela genética deles. Mas o jogo é rápido. O domínio e passe deles são muito, muito bons. Quando cheguei, fiquei impressionado com a qualidade técnica deles. Em umas coisas eles são mais atrasados, tipo taticamente, mas a dinâmica de jogo eles são bons. Eles executam muito bem. O japonês é muito concentrado e consegue ir bem nos fundamentos”. Se alguns fundamentos são dominados pelos companheiros nipônicos, existe um atributo do jogo que segue longe dos pés e pernas asiáticos. “Não vejo improviso nos japoneses, isso é muito diferente no brasileiro. Aí no Brasil tem muita gente que improvisa”, completou ele.
Depois, Alano falou sobre a saída do Inter, onde foi destaque na base por vários anos.
“Peguei um dos anos mais difíceis do clube. Subi em 2017 e peguei o clube no ano da Série B, foi um ano conturbado e que no início o time não andava? Depois aconteceu de eu jogar, subir e no seguinte a gente ficou em terceiro lugar no Brasileiro, algo que ninguém esperava. Mas eu queria sair para jogar, mas também tinha um pé atrás. Queria fazer carreira no Inter, foram oito anos no clube e tenho identificação enorme com o clube. Me dei bem com todo mundo, todos os treinadores da base ao profissional. Mas na vida a gente tem que tomar decisões e eu precisava jogar. Precisava ter minutos”, afirmou.
Para finalizar, ele lembrou que optou por deixar o Inter visando atuar mais, mas que a intenção era voltar ao clube gaúcho para ser aproveitado neste ano.
“Em dois anos e pouco de profissional de Inter, eu tinha oito jogos e isso é muito pouco. Muito pouco? A circunstância? Tinha muita qualidade (no elenco), a gente entende o lado de ser difícil botar o moleque para jogar, mas optei por ser emprestado. Fui emprestado com aquele pé atrás, mas minha cabeça era sair e depois voltar ao Inter para jogar no clube. Aconteceram coisas no caminho que me trouxeram para o Japão”.
アルシンドはとにもかくにも速かった
アルシンドの速さについて説明する。
個人的には加速力の凄さが印象深い。
このブラジルではMFであった選手をJリーグでえあればFWで活躍すると呼んできたジーコの慧眼も含めて素晴らしい。
懐かしい思い出である。

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【オヤジのためのサッカー塾】元鹿島アントラーズFW・アルシンド 心の底からたまげました…とにもかくにも速かった!
2020.5.16
この選手とのマッチアップでは心の底からたまげました。「なんだ、これは?」という驚きしかなかった。ハイ、Jリーグのスタート時に鹿島に在籍したFWアルシンド(54)です。
1994年3月19日、前期第3節(三ツ沢)で対戦したのですが、何がすごいかって、とにかくプレーのスピードがとんでもなく速かった。過去に対戦した選手の中でも感じたことのない速さ。この試合は0-1で負けちゃったんですけど、その1得点がアルシンドのゴールだったので、悔しさもあって今でもはっきり覚えています。
まず足の速さでいえば、「野人」の愛称でおなじみの岡野雅行(現J3鳥取GM)より間違いなく速かったですね。そしてスピードが乗ってくると、あの長髪が実にきれいになびくんです。サラサラヘアがね。プレースタイルは「颯爽」というのがぴったりでした。
足の速い選手というのは概してシュートはあまりうまくない。でもアルシンドは違いました。両足、ヘディングと実にうまくこなすんですよね。しかもゴールを決めるまで、そのスピードが全く緩まない。おまけに鹿島で組んでいた大先輩、ジーコ(元日本代表監督)にも器用にアシスト。実に万能型のFWでした。
もうひとつのすごさというか、ポイントは“キャラが立つ”ということでした。「ともだちならあたりまえ!」という滑舌も完璧な日本語を駆使した、かつらメーカーのCMは皆さんも覚えていますよね。Jリーグが始まって、みんなプロ選手になった。魅せて稼ぐというのもとっても大切なことなんだと、アルシンドを見て思いましたね。
日本に来たのは27歳のとき。鹿島にいた2季で71試合50得点はものすごい数字です。ゴールを決めて、人気も出て、CMにまで出た。彼にとって日本は、まさにジャパニーズドリームを成し遂げた国ですから、一生忘れられないはずです。
(元J1横浜監督・水沼貴史)
鹿島が“投げ銭”配信イベント、小笠原満男の威力
OBや選手の裏話は非常に楽しかった。
このようなイベントはこの先も開催して欲しいと思う。
また、参加者の投げ銭では多額もあったとのこと。
この世界的規模の危機にこうしてクラブを支援出来ることは嬉しい。
良いコンテンツを生み出し、上手に乗り切っていきたい。
楽しみにしておる。

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鹿島が“投げ銭”配信イベント、1万円超の提供者も
[2020年5月16日23時20分]

鹿島オンラインイベントの様子
鹿島アントラーズは16日、約5時間にわたるオンラインイベント「鹿ライブ」を開催した。
93年の開幕戦と01年のチャンピオンシップ磐田戦が、それぞれJリーグ公式Youtubeチャンネル、NHK-BS1で放送されるのに合わせて、スポーツエンターテインメントアプリ「Player!」上で配信した。OBであり現在も鹿島でアカデミーを指導する黒崎久志氏や柳沢敦氏、小笠原満男氏、クラブ職員の中田浩二氏、01年の試合に出場していたGK曽ケ端準らが、試合を見ながらトークを繰り広げた。
やりとりの中では、小笠原氏と曽ケ端がスマホ向け通信アプリ「LINE」を利用していないことが発覚。理由を問われると、曽ケ端は「もう手遅れです」、小笠原氏は「必要性を感じない」とあっけらかんと話した。中田氏を含めた同期3人で食事に行く際は、それぞれ夫人経由でスケジュールを調整するという。
2試合の間には、MF遠藤康、MF土居聖真、DF町田浩樹ら現役選手も出演した。鹿島は4月7日から練習を休止していたが、週明け18日からグループ練習を再開させることが決定している。土居は「サッカーをやれることに感謝しないと。いつ(リーグ戦が)再開するかは重要じゃない。体を動かせることに幸せを感じてやりたい」と練習再開の喜びをかみしめた。
イベントにはクラブ初の“投げ銭”システムが導入された。1万円を超える高額の投げ銭をするファンも多く、司会者は「(ラスト1時間で)小笠原さんが参加してから、投げ銭が増えた」と話していた。
【鹿島】Jクラブ初の「投げ銭」動画企画…過去の名場面でトーク展開
2020年5月17日 8時0分スポーツ報知

試合を振り返る中田浩二氏(上段右)、柳沢敦氏(下段右)、GK曽ケ端(下段左)。上段左は河村アナウンサー
鹿島は16日、Jクラブ初の試みとして視聴者参加型の「投げ銭」企画を実施した。Jリーグ公式YouTubeで配信された「93年第1ステージ第1節名古屋戦」、NHK BS1で放送された「01年チャンピオンシップ第2戦磐田戦」の中継時間に、スポーツエンターテインメントアプリ「Player!」上でトークライブを開催。同アプリ内で支援を募った。
「投げ銭」はネット上で寄付を募集するシステムで、アプリ内の中継ページから可能。1人500円から最大9999万9999円までの範囲で選択できる。クレジットカードによる引き落としでの決済。クラブは支援者数や支援額を非公表としたが、アプリ内のコメント欄には「ジーコのFKがすごすぎて投げ銭しました」「2万円投げました。素晴らしい企画をありがとうございます」などといった投稿が並んだ。
投げ銭制度はコロナ禍で減収に苦しむJリーグクラブの新たな収益構造の一つとして注目されており、Jリーグの村井満チェアマン(60)も導入を検討する意向を示している。
J1鹿島、サポーターとOBら一緒に観戦 「鹿ライブ」で歴史振り返る

「鹿ライブ」に出演した(右下から時計回りで)里内猛元コーチ、OBの黒崎久志さん、名良橋晃さん、司会の河村太朗アナウンサー
J1鹿島は16日、サポーターとクラブOBらが一緒に過去の試合映像を観戦するオンラインイベント「鹿ライブ」を開催した。当時を懐かしみながら、鹿島の歴史を振り返った。
イベントは、動画投稿サイト「ユーチューブ」の配信と、NHKBS1で放送された試合映像に合わせて、スポーツ実況アプリ「Player!」上で実施された。
ユーチューブでは27年前の開幕戦となった名古屋戦が配信された。OBの黒崎久志アカデミーテクニカルコーチは「最初にジーコに会った時は本当に緊張した。雰囲気、オーラは他の選手と全然違って近寄れなかった」と回顧した。
ユーチューブには原博実Jリーグ副理事長と、開幕戦に出場した長谷川祥之アカデミー担当スカウトらが出演。スタジアム上空からの当時の映像が流れると、原副理事長は「鹿島(町)にプロチームができるわけないって言われていた。みんな鹿島を知らなかった」と語り、長谷川さんは「アルシンドが自由に動くから、それに合わせていた」と述べた。
その後も、MF土居聖真がサポーターからの質問に答える企画や、NHKBS1で放送された2001年Jリーグチャンピオンシップ第2戦磐田戦をGK曽ケ端準と、柳沢敦ユースチームコーチが解説する企画が行われた。
ブレーメン・大迫、これからですね
あの“半端ない”大迫も三十路を迎える。
ここまで欧州にてプレイし続けられるのは、本人の節制と努力があってこそ。
「早いですね、30歳。これからですね」という言葉通り、ベテランの域とは言えまだまだやってくれよう。
更なる活躍の報を楽しみにしておる。

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ブレーメン・大迫 再開初戦の18日に30歳「早いですね、これからですね」
[ 2020年5月17日 05:30 ]
ドイツ1部ブレーメンの日本代表FW大迫勇也が16日、テレビ朝日「サタデーステーション」に出演した。
約2カ月の中断期間中は「体幹トレーニングを毎日欠かさずやった。中断する前よりも体の切れとコンディションが上がった」と自信の表情。再開初戦でレーバークーゼンと対戦する18日は30歳の誕生日で「早いですね、30歳。これからですね」と意気込んだ。
鹿島アントラーズFC、J屈指のアイデアマンの一手から今後も目が離せない
「メルカリ体制となって以降、ビジネス面でもJを代表し、牽引するリーディングクラブとなった」と報じる。
ベンチャーマインドがクラブに浸透し、スピード感のある経営にて、アイデアを次々と実現しておる。
これは素晴らしい。
DAZNを通じた練習試合の配信に始まり、地域の飲食店を救うプロジェクト、音声メディア参入、カシマスタジアム敷地内のドライブスルー式PCR検査センター設置と新たな試みで話題を振りまいておる。
そして今日のアーカイブ配信・放送に合わせて、「Player!」を通じた投げ銭制度にて新たな価値の提供・収益システムの構築を行っておる。
日本のサッカーシーンが生まれ変わろうとする中で、新たな試みで牽引して行く。
これが鹿島アントラーズFCというクラブであり、企業なのである。
今後も楽しみである。

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アイデア軍団・鹿島の“快進撃”に脚光 メルカリ体制のスピーディーな実行力でJクラブ先導
2020年5月16日 17時0分スポーツ報知
鹿島の“快進撃”が続いている。
もっとも、Jリーグが再開しない限り順位表の一番下から脱することはできないのだが(もう3か月近くも単独最下位)、脚光を浴びているのはビジネス・経営の側面。コロナ禍でスポーツ業界が苦境に立たされる中、他クラブを先導する形で、地域のため、サポーターのため、新たな収益構造確保のためのアイデアを次々と世に送り出している。
そのサッカースタイルから、「堅物」「頑固」「古風」なイメージが先行するクラブだが、ベンチャー企業のようなスピード感でアイデアを実行に移している。獲物へ飛びつくレオシルバや三竿健斗らボランチ勢の初速もかなり速いが、経営判断も同様のスピーディー感。昨年9月にメルカリ体制となって以降、ビジネス面でもJを代表し、牽引するリーディングクラブとなった。
3月には札幌との練習試合をDAZN(ダゾーン)を介して異例の生配信。営業収入で神戸、浦和に次ぐ3位(2018年度)の実績を持ちながら、地方に本拠を置く街クラブとしての側面を生かして地域の飲食店を救うプロジェクトを始動し、他クラブが一斉に模倣した。
「stand・fm(スタンドエフエム)」への公式チャンネル開設による音声メディア参入、「Player!」を通じた投げ銭制度の導入など、アプリを通じた新たな価値の提供・収益システムの構築にも積極的。本拠地・カシマスタジアム敷地内のドライブスルー式PCR検査センター設置快諾も話題を呼んだ。サッカー離れを防ぐための地元紙への一面広告掲載、経営陣とファン・サポーターをつなぐトークセッションの開催なども簡単にできることではない。
「オリジナル10」としての歴史と伝統、地方クラブとしての側面、メルカリのノウハウ。それぞれの「強み」を組み合わせることで、私の自宅に布マスクが届くよりも早く、数多くのアイデアを企画・実行している。
行動様式、生活様式が変容する中、あらゆる業界が知恵を絞り、試行錯誤しながら新たな施策を生み出そうとしている。しかし実行できるかどうかは別の話。
小泉文明社長は「アントラーズは日本全国にサポーターがいるので、今後取り組んでいく必要があったデジタル施策を前倒しでやると前向きに捉えることが重要だと思っています」と話している。
コロナ禍により数億単位の減収が各クラブで見込まれる中、優れた施策をクラブ間で共有していく動きも広まっている。J屈指のアイデアマンの一手から今後も目が離せない。(記者コラム「〇日後に再開するJリーグ」担当・岡島 智哉)
27年前の5月16日、Jリーグ初のハットトリックはこうして生まれた
ジーコのことがよく伝わってくる。
ジーコの魂を込めて取り組んだ証が1stステージの優勝であった。
初代優勝チームにさせられなかったことが本当に悔しい。
偏ったジャッジにずっと悩まされ、それが今でも続くとは、この当時は思いも寄らなかった。
とはいえ、ジーコの成果は何一つ曇らぬ。
誇らしい偉人である。

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27年前の5月16日、Jリーグ初のハットトリックはこうして生まれた【名勝負の後日談】
加部 究
2020年05月16日
短期集中連載『名勝負の後日談』vol.7 Jリーグ開幕戦・鹿島vs名古屋|序盤の判定次第ではコントラストが入れ替わる可能性もあった?

鹿島で初めて10番を背負ったジーコ。Jリーグでは初のハットトリックを達成した。写真:サッカーダイジェスト
歴史に残る名勝負、名シーンには興味深い後日談がある。舞台裏を知る関係者たちが明かしたあの日のエピソード、その後の顛末に迫る。今回はJリーグ元年となった1993年の開幕戦、鹿島アントラーズのジーコが達成したリーグ初のハットトリックとそこへ至るストーリーを紐解く(文:加部 究/スポーツライター)
――◆――◆――
1993年5月16日、鹿島スタジアムのピッチ上で柔らかい笑みを湛えて握手をかわすふたりのスーパースターの明暗は、まだ誰にも見えていなかった。もちろんこの小さな街で誕生した鹿島アントラーズが、29冠(※リーグ、リーグカップ、天皇杯、ACLで20冠ともカウント)を積み上げJリーグ史で独走する未来など想像も出来ていない。
鹿島vs名古屋は、そのまま「白いペレ」の異名を取るジーコと、7年前のワールドカップ得点王ガリー・リネカーの対決としてクローズアップされていた。
もしかすると試合序盤の判定次第では、両雄のコントラストが入れ替わる可能性もあったのかもしれない。記念すべきプロ開幕戦で最初にビッグチャンスを掴んだのは、アウェーの名古屋だった。右から江川重光のクロスを中央で沢入重雄がダイレクトで落とすと、ガリー・リネカーがマークする奥野僚右とすれ違うように飛び出す。この時、鹿島側ではサイドバックの賀谷英司が最後尾に残っていた。リネカーは角度のない位置から逆サイドのネットへと叩き込む。鹿島ゴールを守る古川昌明も「やられた」と思った。
ラインを見極め、絶妙のタイミングで抜け出すリネカーの真骨頂だった。だが副審は旗を上げ、オフサイドの判定を下した。おそらくVARが採用された今なら覆っていた判定だったはずだ。
その後の展開は、まさに両チームを天国と地獄へと選別していく。ジーコは自らの縦パスで混乱を誘うと、こぼれ球に反応し中央から豪快に蹴り込み先制。続いて石井正忠が左サイドを単独で強引に切り裂きFKを獲得すると、ジーコが鮮やかなカーブをかけて内側のポストを叩きゴールネットを揺する。鹿島が2点をリードして前半を終えた。
現場の関係者にとってはアンドレアス・イニエスタの来日を凌駕する激震だった

開幕戦で爆発を見せたジーコ。衝撃的な活躍で鹿島を勝利に導いた。写真:サッカーダイジェスト
「ジーコは、いつもゴールの角に的をつけ、必ず人で壁を作ってFKの練習をしていましたが、10本蹴れば8本くらいは(的に)当ててしまっていました」
現在鹿島の強化部長を務める鈴木満が述懐している。
とにかくジーコは本気だった。一度引退をしたとはいえ、長年セレソン(ブラジル代表)の10番を背負い、フラメンゴを世界一に導いた極めつけのファンタジスタがやって来たのは、日本リーグ2部で戦う住友金属である。土のグラウンドで佇むジーコに赤とんぼが止まるのを見た通訳の鈴木圀弘は、いたたまれなくなって尋ねたという。
「こんなところでプレーしていてむなしくないんですか?」
しかしジーコは平然と答えた。
「最初からこういうものだと思って切り替えてきたから大丈夫なんだ」
むしろ発展途上国への伝道は自分の使命だと考えていたようで、それは日本代表監督を退いた後のイラク、ウズベキスタン、インドでの指導と符合する。
鹿島の前身に当たる住友金属のジーコ獲得交渉は、極秘裏に進められた。クラブに通訳として雇われた鈴木圀弘も、誰につくのかは一切明かされていなかった。
鹿島でのジーコは日本代表監督時代とは別人だった

ジーコの鮮烈な3発は今なお語り草となっている。開幕戦勝利の勢いに乗って、鹿島はサントリーシリーズを制覇する。写真:サッカーダイジェスト

Jリーグ開幕戦の鹿島のスターティングイレブン。ジーコのほか、サントスやアルシンド、古川、大野といった面々が名を連ねた。写真:サッカーダイジェスト
鹿島はJ創設メンバーの中では最後発のチームだったが、ジーコは優勝しか考えていなかった。1992年にはJリーグの開幕に先駆けてナビスコカップが行われ、鹿島はベスト4に入り驚かせた。しかしジーコは、王者ヴェルティに敗れたことに切歯扼腕した。
大きな転機になったのが、Jリーグの開幕を控えた1993年4月のイタリア遠征だった。
当初2戦目にはジーコの古巣ウディネーゼとの試合が予定されていたが、リーグ戦で好調だったために対戦を渋られた。そこでジーコ自らが交渉に乗り出し、ちょうどウディネで合宿中だったクロアチア代表とのマッチメイクを決めてしまう。
まだ日本はプロ開幕前で、ワールドカップにも出場していない。キリンカップでナショナルチームを招待するようになったのも前年からで、逆に日本の単独チームが代表チームと試合を組むことなど考えられなかった。一方クロアチアは、日本が初出場する5年後のワールドカップで3位になる強豪である。鹿島が先制し彼らの闘争心に火をつけたこともあり、終わってみれば8ゴールを叩き込まれていた。
「クロアチアはベストメンバー。試合が出来るだけでもラッキーな相手。敵うわけがない。ところがそれでもジーコは激高しました。白板をバーンと叩きマグネットが飛び散る。僕もそれを拾い集めながら一緒に怒鳴りました。いつもジーコからは、スタッフも同じユニフォームを着るんだ、と言われていましたから」(鈴木圀弘)
クロアチア戦の翌日から、ジーコは笛を持ち完全にチームを指揮するようになる。監督は宮本征勝だったが「チームが良くなるならそれでいい」と、快くジーコの進言を受け入れた。
鹿島でのジーコは、日本代表監督時代とは別人だった。
「ポジショニングもセンチメートル単位で細かな指示を徹底していました」(鈴木圀弘)
「戦術も本当に細かく積み上げていった。個人戦術からグループへと繋げていき、駆け引きに長け、テーマを意識させるのが上手かった」(鈴木満)
クロアチア戦後の怒髪天を衝くジーコのミーティングを経て、チームは開幕へ向けて引き締まっていく。帰国してブラジルの強豪フルミネンセを迎えるが、2戦して1勝1分けだった。
「相手のエドゥ監督も鹿島の戦いぶりには驚いていました」(GK古川)
◇ ◇
後半に入ると、さらに鹿島が加速する。59分、サントスのフィードをジーコが頭で繋ぎ、アルシンドがマークするDFの股間を抜いて冷静に3点目。そして63分には、アルシンドへパスを出したジーコが、再びゴール前に顔を出して左足ボレーでハットトリックを完成。最後はアルシンドの華麗なループも決まって鹿島は5-0で大勝した。
古川は言う。
「ジーコはクラブの象徴。みんながこの人のためにやらなきゃ、と引き締まり、勝つためには何が必要なのか。それをフロント、サポーターも巻き込んで、基礎から作り上げていったんです」
またリネカーと対峙した大野俊三も、無失点に抑えることに成功した。
「とにかく前を向かせたら、小刻みなドリブルと振りの速いシュートがある。でもまだ、ここにくれ、と動き出しても、パスを出せるのがジョルジーニョしかいない様子でした。だからこちらは常にジョルジーニョを視野に入れながら、リネカーをしっかりマークするにしたんです」
ジーコは不思議そうに答えた。「怒る?オレはおまえを怒ったことなど一度もないぞ」

名古屋戦ではアルシンド(中央)の2ゴールも加わり、5対0の大勝を収めた鹿島。写真:サッカーダイジェスト
結局開幕戦で弾みをつけた鹿島は、ファーストステージで優勝を果たし、ここからJ随一の名門クラブへの道を邁進していく。鈴木圀弘は一度ジーコに訴えたことがある。
「もう辞めます。こんなに毎日怒られるのは、もう耐えられない」
するとジーコは不思議そうに答えた。
「怒る?オレはおまえを怒ったことなど一度もないぞ」
そう言われて観察してみると、ジーコは自分の子どもたちやブラジル人スタッフなど、誰に対しても同じ態度で接していた。いつも怒っているように見えたのは、それだけ魂を込めて取り組んでいる証だった。
「それに怒っても一生懸命やっている人間には必ずフォローを入れる。そこに人間味を感じる。だから愛されるんです」(鈴木満)
逆にリネカーは、2年間でわずか4ゴールに終わり寂しく名古屋を退団した。キリンカップでトッテナム・ホットスパーの一員として来日した際にも、日本代表に0-4の完敗。残念ながら日本との相性は良くなかった。
名古屋でファンが心から誇れるチームが生まれるのは、アーセン・ヴェンゲルがピクシーの再生に成功する2年後のことになる。
文●加部 究(スポーツライター)
小泉社長、現状について語る
新型コロナウイルスの影響下に於けるサッカークラブ経営について語っておる。
非常に興味深い。
この世界的規模の危機は、日本サッカー界に大きく影響を及ぼしておる。
鹿島アントラーズFCだけが生き残るように考えておっては埒が明かぬ。
Jリーグ全体で考えていくべきである。
そして、その器を小泉社長からは感じさせられる。
我らとしては、ユニフォームを購入し、投げ銭して支えていくところ。
選手や監督を応援し、メディアなどに出た際も素直に耳を傾けていきたい。
新しいことにチャレンジした際は、失敗もあることを考慮して、大きな心で見守るのだ。
支え合ってこの危機を乗り切るのである。

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ジーコ、重要なことは私が日本で成し遂げた仕事だ
「重要なことは、特定の試合の結果ではなく、私が日本で成し遂げた仕事だ。彼らが私を信じてくれたこと、そして私が日本のプロフェッショナルサッカーの発展と、認知に貢献できたことだ」
「私は日本にピッチ上で素晴らしい活躍を見せるために行ったわけではなかった。結果的にそれも達成することができたがね」
「日本のプロサッカーが今ではアジアでNo.1だと言えることは最高だ」
「Jリーグの発足以来、日本は常にW杯に出場している。喜ばしいことに、私は日本代表監督として4年間チームを率いることができたし、今日まで私は日本代表サッカーの歴史の中で最も勝利した監督なんだ」
と語った。
ジーコが日本サッカーに大きく貢献したことは紛れもない事実である。
ジーコのプロフェッショナリズムがそれまでアマチュアであった日本サッカーを大きく前進させた。
責任感と自信を持たせ、当時アジアでの弱小国であった日本がアジア最強国にまで育ったのである。
また、ジーコの口から聞くまで知らなかったことは不勉強であったが、「日本代表サッカーの歴史の中で最も勝利した監督」とのこと。
素晴らしい実績と言えよう。
ジーコが日本代表の監督であった時期は、この勝利数もあったが、強豪国との対戦が多く、非常に楽しみであった。
ドイツW杯本戦こそ、田中誠の負傷離脱、加地亮へのシュバインシュタイガーの悪質なファール、中村俊輔の体調不良と、選手側の不備が重なったため結果に結びつかなかったが、良いチームであった。
事実、ドイツW杯にてブラジルから流れの中で得点を奪ったのはジーコ・ジャパンだけである。
選手時代、ブラジル代表TDも含めてW杯との運命のように感じさせられる。
こういうことも含めて、“縁”とは不思議なものと言えよう。
鹿島では、選手時代、テクニカル・アドバイザー、総監督時代、テクニカル・ディレクターと実績を積み上げてくれておる。
今季はジーコTDと共にタイトルを得たい。
頼もしい人物である。

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Jリーグ開幕から27年…ジーコ氏が古巣フラメンゴのインタビューで日本での活躍を回顧
2020.05.15 19:33 Fri
photoGetty Images
選手、監督として日本サッカーに大きく貢献したブラジルのレジェンドであり“神様”としても崇められるジーコ氏が、自らの日本での活躍を振り返った。フラメンゴ公式サイトが伝えている。
現役時代、ブラジルの名門フラメンゴやセリエAのウディネーゼで活躍したジーコ氏。ブラジル代表として3度のワールドカップ(W杯)に出場した他、日本でも1991年に住友金属(鹿島アントラーズの前身)に加入し、Jリーグでも1年半でプレーした。
Jリーグ発足間もない日本のサッカー界に、ピッチ上だけでなく、ピッチ外においてもプロの選手とはなんたるかを自らの姿勢をもって示し、鹿島では“ジーコ・スピリット”として、その後に在籍した選手たちが今でも受けづいている。
また、現役引退後も日本サッカーに様々な形で貢献。特に2002年から2006年にかけては日本代表監督として、ドイツW杯で代表の指揮を執った。ジーコ監督に率いられた日本代表の国際Aマッチの通算成績は、72試合37勝。この成績は現在でも日本代表の歴史の中で最多勝利数を誇っている。
現在も鹿島アントラーズのテクニカル・ディレクターを務めるジーコ氏だが、フラメンゴのクラブ公式インタビューに応え、日本での活躍について振り返り、自らの功績について誇りに思っていると語った。
「重要なことは、特定の試合の結果ではなく、私が日本で成し遂げた仕事だ。彼らが私を信じてくれたこと、そして私が日本のプロフェッショナルサッカーの発展と、認知に貢献できたことだ」
「私は日本にピッチ上で素晴らしい活躍を見せるために行ったわけではなかった。結果的にそれも達成することができたがね」
「日本のプロサッカーが今ではアジアでNo.1だと言えることは最高だ」
「Jリーグの発足以来、日本は常にW杯に出場している。喜ばしいことに、私は日本代表監督として4年間チームを率いることができたし、今日まで私は日本代表サッカーの歴史の中で最も勝利した監督なんだ」
トップチーム、グループトレーニング開始へ
茨城県の緊急事態宣言解除に伴うものである。
これは嬉しい。
再開への第一歩と言えよう。
トレーニングの見学こそ出来ぬが、チームが活動しておれば、そのニュースだけでも嬉しいもの。
これからが楽しみである。

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トップチームのグループトレーニング開始について
2020.05.15(金)
新型コロナウイルス感染症に対する感染予防対策の一環として、休止中のトップチームのトレーニングについて、茨城を含む39県での緊急事態宣言解除および、県内の休業要請や外出自粛が段階的に緩和されたことを受け、5月18日(月)よりグループトレーニングを開始することになりましたので、お知らせいたします。トレーニングは感染予防対策を徹底したうえ、1グループ最大8名を4つに分け、それぞれクラブハウス滞在時間を区切って実施します。
今後の活動について変更がある場合は、決定次第、あらためてご案内いたします。
なお、引き続き、トップチーム練習見学およびクラブハウス施設への一般立ち入りについては、当面の間、中止とさせていただきます。ファン・サポーターの皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。