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ザーゴ監督、感情剥き出しの闘将、今は思慮深い指揮官に

現役時代のザーゴ監督について記すサッカーダイジェストの徳原氏である。
「ピッチでは血気盛んに喜怒の感情を剥き出しにしていた」という言葉からパルメイラス時代の熱い闘将ぶりが伝わってくる。
それが時を経て指揮官となった今は、「感情を前面に出すような姿はほとんど見ることはなかった」とのこと。
思慮深き指揮官に率いられ、チームの改革は進む。
ザーゴ監督は鹿島を再び“常勝軍団”に仕上げてくれよう。
楽しみである。

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【ザーゴ/この一枚】感情剥き出しの闘将、今は思慮深い指揮官に
徳原隆元
2020年05月05日

セレソンでも腕章を巻いてプレー


笑顔を見せるパルメイラス時代のザーゴ(下)とエジウソン(上)。ふたりはのちにJリーグでプレーすることに。写真:徳原隆元

 20年ほどの時を経て、かつて撮影した“選手”に向けて再びシャッターを切る機会を得た。その人物はアントニオ・カルロス・ザーゴ。今シーズン、鹿島アントラーズの監督に就任したブラジル人だ。

 取材ノートを紐解いてみると、現役時代のザーゴをブラジルで撮影したのは20回を数えた。フィルムの中に刻み込まれた彼は、守備の中心選手としてパルメイラス時代では主将を務め、ときにブラジル代表でもキャプテンマークを巻いてプレーしていた。

 彼を最初に撮影したのは1993年4月11日に行なわれたパルメイラス対ポルトゲーザ戦。会場となった州営パカエンブーは、ピッチの外周を囲む金網のすぐ向こう側でサポーターが立ち見で観戦している、試合展開によっては物騒なことになりそうなスタジアムだった。

 ピッチを隔てる金網からスタンドまでの幅数メートルのスペースに、サポーターが陣取っていていいのかは不明であったが、とにかく当時のブラジルのスタジアムはそうしたフレキシブルなところがあった。

 写真は72分、エジウソンがゴールを決め、喜びのあまり金網によじ登って、パルメレンセ(パルメイラスサポーター)にアピールしたところをザーゴが肩車した場面だ。笑顔のふたりは、のちに日本でプレーすることになる。

 ただ、ブラジル時代のザーゴに関しては、写真のような笑顔だけでなく、激しい感情と闘志を前面に出して相手FWと対峙する姿も記憶に残っている。

 94年5月1日、モルンビーでのサンパウロFC対パルメイラスの一戦は、彼が“闘う選手”であることを実感した試合だ。この日はイタリアのイモラで、ブラジル人F1ドライバーのアイルトン・セナがサーキットで散った悲劇の1日でもあった。


コリンチャンス時代には97年のサンパウロ州選手権で優勝。勝利への飽くなき欲望を前面に押し出し、最終ラインを引き締めた。写真:徳原隆元

 試合は、ハーフタイムにオーロラビジョンで告げられた国民的ヒーローの死に対する悲しみと、両サポーターが作り出す強烈なライバル心から生み出される危ういまでの熱狂が相まって、異様な雰囲気で進んでいった。

 試合を支配したのはサンパウロFC。スコアは2-1と僅差ながらリードを得たサンパウロFCがパルメイラスを圧倒し、後半の半ばには張り合いのないライバルを挑発するようにボール回しを始める。パスが繋がるたびに、スタンドのサンパウリーノ(サンパウロFCサポーター)からは「オーレ、オーレ」の大合唱が起こり、ボランチのバウベルはラボーナで味方に繋げる余裕のプレーを見せつけた。

 劣勢に立たされたパルメイラスの選手たちは、次第に苛立ちを深めていく。ピッチの各所で小競り合いが起こり、選手同士が激しく詰め寄るシーンが何度も起こった。荒れた試合は終盤に2得点を挙げたパルメイラスが逆転勝利を飾るドラマティックな結末で幕を閉じるのだが、この90分で最も激しく感情を露わにして戦っていたのが、パルメイラスのザーゴだった。

目指すスタイルの明確化と勝利に対する強い意志


水戸とのプレシーズンマッチの試合前の一コマ。ウインクで応じるなど、遊び心ある一面も垣間見えた。写真:徳原隆元画像を見る

 現役時代のザーゴはキャプテンや守備の要といった、チームにおいて重要な立場であったからか、ピッチでは血気盛んに喜怒の感情を剥き出しにしていた。相手に負けたくないから激しく戦う。相手に勝ったから喜ぶ。こうした高ぶる感情表現は、サッカーにおいて自分が他者より劣ることを極度に嫌うブラジル人の典型とも言える。

 しかし、年齢を重ねて選手から指揮官へと転身したザーゴには、選手時代とは違う印象を受けることになる。撮影取材した今季開幕前の宮崎キャンプでの練習試合や、水戸とのいばらきサッカーフェスティバルでは、感情を前面に出すような姿はほとんど見ることはなかった。

 水戸戦の試合前の練習中にカメラを向けると目が合ったので、こちらが笑顔でウインクをしたら、それに応えるように、ウインクを返してきた。遊び心ある一面さえ垣間見えた。試合でも派手なアクションや檄を飛ばすことなく、思慮深く采配を取っていた。

 チームを束ねる指揮官という立場になった近年は、ザーゴの感情表現にも変化があったのかもしれないが、現役時代に見せていた勝利への熱き思いを忘れたわけではないはずだ。きっと、胸の内に秘めているのだろう。

1999年5月5日 1stStage 第11節

1999年のジュビロ戦を熱筆するNumberWebの斎藤氏である。
何もかも懐かしい。
この年の鹿島は不調であり、強者ではなかった。
しかしながら、このライバルに向かい奮い立ったことが強く記憶に残る。
カシマスタジアムが改修工事中で国立競技場にて行われたこの試合は非常に熱かった。
またジュビロとはこのような戦いをしたい。
J1に上がってくることを待ち望んでおる。

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鹿島と磐田2強時代を象徴する激闘と
小笠原、名波、藤田らのトリビア。

posted2020/05/05 11:30


藤田俊哉と本田泰人のマッチアップに、若き日の小笠原満男。1999年の磐田と鹿島の争いは、スペシャルな美しさがあった。

text by
斎藤純
Jun Saito

photograph by
J.LEAGUE


 ナショナルダービーは延長後半に突入していた。5万1575人の大観衆を飲み込んだ国立霞ヶ丘競技場が、揺れる。

 決勝点を決めた藤田俊哉の上に、サックスブルーの選手たちが折り重なった。まだJリーグに延長戦とVゴール方式が存在していた時代だ。1999年5月5日、J1リーグ1stステージ第11節のことだった。

 1996年から2002年まで、Jリーグの優勝は鹿島アントラーズとジュビロ磐田の2チームが分けあっていた。1シーズン制だった96年は鹿島が、2ステージ制に戻った97年は磐田が、翌'98年は再び鹿島が、優勝シャーレを寒空に掲げた。

 この試合でリーグ戦5連勝を飾った磐田は、その勢いのままに1stステージを制し、年間王者に輝くことになる。一方の鹿島は翌年、Jリーグ史上初の3冠を達成。文字通りの2強時代だ。

 ライバル対決にふさわしく、両チームのスターティングメンバーには豪華な顔ぶれが並んだ。

 22人のキャリアを見るとA代表キャップ保持者が15人、ワールドカップ経験者が9人。引退後にJクラブで監督経験を持つ選手も7人にのぼる。令和2年目を迎えたいま振り返っても、あのピッチに立っていた戦士たちの華やかな経歴は全く色褪せることがない。21年前の国立は、やはり特別で幸福な空間だったのだ。

秋田、相馬、名良橋はW杯経験組。

 ホームの鹿島ゴールを守ったのは高桑大二朗。190cmの大型GKは翌年のベストイレブンに選ばれ、A代表デビューも飾った。

 DFは鬼木達、秋田豊、奥野僚右、相馬直樹の4バック。川崎フロンターレをJ1連覇に導いた鬼木をはじめ4人全員がJクラブの監督経験を持ち、相馬(現・鹿島コーチ)を除く3人は、指揮官として今季のJリーグに臨んでいる。

 秋田と相馬、そして磐田戦を欠場した名良橋晃の3人は、前年行われたワールドカップの日本代表メンバーとしてフランスのピッチに立っている。とりわけ秋田はヘディングと激しいマークを武器に、バティストゥータ(アルゼンチン)やスーケル(クロアチア)と渡り合い、3戦全敗に終わった日本にあって大きなインパクトを残した。

黄金世代4人全員が背番号20番台。

 中盤に目を移すと、キャプテンの本田泰人に阿部敏之、お祈りポーズで人気を博したビスマルク、プロ2年目だった小笠原満男の名前が並ぶ。

 FWは前年チーム最多の22ゴールを挙げた柳沢敦と、平瀬智行の五輪代表コンビが2トップを組んだ。1999年の平瀬といえば、12戦全勝で突破を決めたシドニー五輪のアジア予選で計17得点と大爆発した姿を思い出す人もいるだろう。磐田戦は彼がシンデレラボーイとして日本中に名を轟かせる、1ヶ月ほど前の出来事だった。

 小笠原とともに4月のFIFAワールドユース選手権(現・FIFA U-20W杯)で準優勝に輝いたGK曽ヶ端準、MF本山雅志、MF中田浩二もベンチに入っている。実は彼らの当時の背番号は本山が24、中田が26、小笠原が27、曽ヶ端が28。のちに鹿島のさらなる常勝期を築くことになる1979年生まれの「黄金世代」が、エネーレのユニフォームにまだ少し大きな番号を背負っていた時代だった。

「N-BOX」前の磐田の並びは……。

 一方の磐田は、開幕からの8試合を7勝1敗と好スタートを切ると、4月末にイランで行われたアジアクラブ選手権を制して国立に乗り込んだ。過密日程の中でDF鈴木秀人が欠場したものの、桑原隆監督が率いる純国産布陣は充実の陣容だ。

 GKには現在磐田のGKコーチを務める大神友明。DFは背番号11の久藤清一と2大会連続(1998、2002年)でW杯に出場した服部年宏がサイドバックを務め、「男・前田」として愛された前田浩二と田中誠がセンターバックを組んだ。

 服部、田中、欠場の鈴木は1996年のアトランタ五輪に出場。ブラジルを破った「マイアミの奇跡」の立役者が揃う最終ラインは、前述の鹿島にネームバリューでも引けを取らない。また久藤と前田はのちに監督としてJリーグのピッチサイドに立った。鹿島の4人と合わせ、この試合に先発出場した8人のDFのうち6人。監督輩出率が高いことも守備陣の豪華さを物語る。

 MFは福西崇史、奥大介、藤田俊哉、そして日本代表の10番を背負う名波浩の、磐田が誇るレジェンドカルテット。同年夏に行われたコパ・アメリカの日本代表メンバーに4人全員が選出されたことも、「黄金の中盤」を説明するには十分な材料だろう。

 当時は藤田が27歳、名波が26歳、奥が23歳、福西が22歳。この4人に服部を加えた5枚の中盤が「N-BOX」としてJリーグを席巻するのは、もう少し後のことになる。

中山と高原の豪華2トップ。

 FWは“隊長”中山雅史と19歳の高原直泰。中山は前年に4試合連続のハットトリックを記録するなど36得点を叩き出し、得点王とMVPをダブル受賞。高原も2002年に同じくダブル受賞の栄誉に輝いた。2人がJ1で積み上げたゴール数は計234。説明不要の、日本を代表するストライカーの名コンビである。

 フランスW杯の決勝戦も裁いたベルコーラ主審のホイッスルで、国立の一戦は幕を開けた。

小笠原の17年連続ゴールの第一歩。

 リーグ戦2連敗中だった前年王者・鹿島は前半から磐田ゴールに襲い掛かる。柳沢が、平瀬が、鋭い裏抜けからGKと1対1のチャンスをつくるものの、大神が仁王立ちでいずれもストップした。そんな嫌な流れを、のちのミスターアントラーズが振り払う。

 リーグ戦525試合出場69得点。手にしたタイトルは17冠。2018年に引退した小笠原満男が鹿島で残した功績はバンディエラと呼ぶにふさわしい。

 現在はフットゴルフの日本代表選手として活躍するレフティー阿部から送られた丁寧な浮き球のパス。その先には、小笠原がいた。

 以後のプレースタイルを考えれば、いささか意外に思えたかもしれない。鹿島で、そして日本代表で。正確なパスとプレースキック、ボール奪取を武器にプロの世界を生き抜くことになる司令塔のJ1初得点は、ヘディングによるものだった。控えめに喜ぶ寡黙な20歳に、28歳の秋田が自陣から駆け寄って抱きつく。

 現在もJリーグ記録となっているJ1での17シーズン連続得点。1999年5月5日に刻まれた先制点は、その1ページ目となった。

名波がセリエA移籍前最後のFK弾。

 後半に入り、1点を追う磐田ベンチは先に動く。高原に代えて清水範久、福西に代えて川口信男とスピード豊かなアタッカーを投入した。それでもスコアは動かない。中山が秋田と競り合いながら放ったヘディングシュートもバーに嫌われる。残り時間10分を切ったところで、磐田は鹿島ゴール前でのFKを獲得した。

 ボールの前に立ったのは右利きの藤田と、左利きの名波だった。右の10番か、左の7番か。藤田が踏み込みのフェイクを入れた直後、名波の左足が振り抜かれた。放物線を描いたボールは対角線の右ポスト内側に直撃し、ネットを揺らす。

 Jリーグ史に残る、あまりにも美しいFK。夏にセリエAヴェネチアへ移籍することになる名波にとっては、このシーズン磐田で最後に挙げたゴールだった。

 ベルコーラ主審が長い笛を鳴らす。試合の行方はVゴール方式の延長戦に持ち込まれた。

VゴールのJ記録を持つ男・藤田。

 中山や柳沢も名を連ねる、J1通算100ゴール以上をマークした14選手の中で、FWを本職としていない選手が2人いる。1人は遠藤保仁(現・ガンバ大阪)、もう1人が藤田俊哉だ。

 藤田は、流動的なパスサッカーで黄金期を築いた磐田におけるキープレーヤーだった。シーズン2桁得点を達成すること4回、2001年にはMVPにも輝いている。W杯優勝キャプテンのドゥンガから、元オランダ代表のファネンブルグから薫陶を受け、決定機を演出することも仕留めることもできる選手へと成長した。高い技術もさることながら、質の高いフリーランニングで危険なエリアへ顔を出し続けてチャンスをうかがい、得点を重ねた。

 国立では15分ハーフの延長戦に入っても白熱した攻防が続いていた。延長前半には柳沢と鬼木が強烈なシュートを放ち、後半には一本のロングパスにまたも柳沢が抜け出す。しかし、いずれの決定機も大神が阻んだ。シュート24本を浴びながらも最少失点で切り抜けた。

 最前線の中山を目がけ、ロングボールが入る。中山が競り合う前から、藤田はボールの行方を信じてスプリントをかけていた。

 時計の針は延長後半5分をさしていたが、藤田の足は止まらない。秋田の背後を取ってペナルティーエリア内に入ると、中山が落としたボールがこぼれてきた。飛び出した高桑より一瞬早く、インサイドキックで流し込む。

 小笠原の初ゴールが驚きを含んだものであり、名波のFKが彼の代名詞の1つであるならば、熱戦に終止符を打った藤田の決勝点もまた、“らしさ”を凝縮したものだった。余談だが、藤田はのちに福田正博と並んでVゴールのJリーグ記録(9得点)を樹立する。

「鹿島と素晴らしい試合ができて」

 磐田の桑原監督は「勝ったこともうれしいが、鹿島と素晴らしい試合ができて良かった」と試合後に振り返っている。あの日、あの試合を見た人なら、その言葉がリップサービスでないことはすぐにわかるだろう。

 21年の月日が経った。国立競技場も新しく生まれ変わった。それでもきっと、宿命のライバル対決は多くの人の脳裏に残り、語り継がれていくはずだ。Jリーグを彩った名選手たちの、甘美な記憶とともに。

岩政大樹が語る“アントラーズ黄金時代”

岩政大樹氏を取材したSportsnaviの飯尾氏である。
2007年の鹿島アントラーズを上手に解説してくれておる。
あの劇的優勝の裏に何があったかがよく分かる。
DAZNにて清水戦を観直して、色々と感じることが多かった。
またこのような黄金期を迎えたい。
この時代も今も鹿島アントラーズが好きである。

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岩政大樹が語る“アントラーズ黄金時代”
「07年にリーグ優勝していなければ……」

飯尾篤史 2020年5月5日(火) 11:00


2007年に鹿島アントラーズが果たした大逆転優勝は、今でも語り草となっている【写真:アフロスポーツ】

 温故知新――故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る。


 新型コロナウイルスの影響でJリーグが中断して2カ月が経った。Jリーグのない日々が続き、明るい未来はいまだ見えてこない。それでも……Jリーグには27年の歴史がある。こんな状況だからこそ、レジェンドたちの声に耳を傾けたい。新しい発見がきっとあるはずだ。


 第5回に登場するのは、元鹿島アントラーズの岩政大樹さんだ。常勝軍団との印象の強い鹿島だが、2003年〜06年の4年間はタイトルを1つも獲れなかった。だが、オズワルド・オリヴェイラを新監督に迎えた07年、リーグ9連勝を成し遂げ逆転優勝を果たす。07年の鹿島にいったい何が起きていたのか。DAZNで放送中の最終節・鹿島対清水エスパルス戦の解説を務める岩政さんが、振り返る。

過渡期にやってきたオリヴェイラ新監督

――2007年シーズン、鹿島アントラーズはオズワルド・オリヴェイラを新監督として迎えました。03年から4年間タイトルを獲れず、6シーズン指揮を執ったトニーニョ・セレーゾ監督が05年限りで退任。後任のパウロ・アウトゥオリ監督のもとでも無冠に終わり、チームは過渡期でしたね。


 セレーゾが6年やっていましたから、どうしてもマンネリ化する部分がありました。自分が抜てきしたゴールデンエイジの選手たち(=1979年生まれの選手たち)や自分がブラジルから連れてきたフェルナンドなどがいましたしね。いろいろと難しくなっていたのだと思います。


 一方、パウロは指導者としてポルトガルで経験を積んだ方なので、ブラジル人監督には珍しく、非常に戦術的だった。つまり、チームとしてやるべきことが明確でした。加えて、チームに対する献身性や競争の部分で非常に厳しくて、1、2試合の不出来も許さないぞという感じで、突き放すようにメンバーから外したり。それによってかなり締まったんですけど、委縮する選手もいたんです。


 そんな時期にオズワルドが来た。オズワルドもバサッと行くときは行くんですけど、主力として期待している選手に対しては対話をしながら、我慢してくれる。その辺りのバランスを取れる監督だったので、セレーゾとパウロの中間というか、あの頃のチームにとってちょうど良い監督でしたね。


――07年シーズンを迎えるにあたって、岩政さんは「今年は数字を残そうと思っている」と公言しています。


 日本人にありがちなんですけど、僕も理屈っぽいタイプなので、過程をすごく大事にしたがるんですよね。サッカーは毎試合必ず勝てるわけではないから、まずは過程においてやるべきことをやらないといけない。


 ただ、僕が鹿島に入って3年間、一度もタイトルを獲れていないのも事実。それでその頃、ただ結果から逃げているだけなんじゃないかという感覚があって。結果を出さなきゃ意味がないという捉え方をしないと、たどり着けない世界があるような気がしたんです。


 それで、「結果で示します」と宣言して、自分を追い詰めていこうと。いいプレーをしても結果が出なければダメだというところに目を向けられれば、悔しさが原動力になって、次の課程に取り組めるサイクルを作れるんじゃないかと思って挑んだ。そういう意味で07年は、結果として自分の殻を破れたシーズンになったと思います。ただ、シーズン序盤のナビスコカップで、オズワルドの信頼を一度失っているんですよ。


――何があったんですか?


 アルビレックス新潟戦の残り10分、負けていたのでセットプレーの流れでそのまま前線に残り、パワープレーを狙ったら、5分後に交代させられてしまった。セットプレーの可能性を考えても、僕を残しておいたほうが得策だと思ったので、通訳を介して交代の理由を確認しようと思いました。


 ところが、通訳とうまくコミュニケーションが取れず、結果としてオズワルドと握手しないままベンチに戻ることになり、オズワルドが激昂(げきこう)した。僕としては交代に対して不満を表したわけではないので、誤解なんですけどね。


 これはもう、ピッチの上で信頼回復に務めるしかないなと。こうした覚悟が奏功したのか、5月から6月に掛けて4試合連続ゴールを決めるんです。ブラジル人監督は勝利につながるゴールを奪った選手をすごく評価する。もちろん、守備面でも貢献していたので、僕は失った信頼を取り戻すことができました。


――その4ゴールとも、野沢拓也さんのアシストによるものでした。この頃の野沢さんについては、どんな印象を持っていますか?


 その前年、06年の夏に(小笠原)満男さんがヨーロッパに旅立った週の頭だったと思うんですけど、パウロが「代わりに野沢を使う」とみんなの前で宣言したんです。パウロは厳しい監督でしたから、こんなことを言うのは珍しい。これは野沢自身にとっても衝撃的だったんじゃないかな。それまでは満男さんや本山(雅志)さんといった少し上の人たちがいたから、どうしても甘えがあった。ところが、満男さんがいなくなり、自分が後継に指名されて責任や自覚が増したんだと思います。そこからプレーが一気に変わりましたからね。

悔しさをきっかけに、書き始めた日記


この年に就任したオリヴェイラ監督(写真中央)。J1リーグ3連覇の偉業を成し遂げるなど、黄金時代を築き上げた【写真:アフロスポーツ】

――一方、07年の夏には小笠原さんがイタリアから戻ってきます。小笠原さん自身は「イタリアに行って、どこが成長したの?」「イタリアで試合に出られず、衰えて戻ってきたんじゃないの?」という視線を感じ、プレッシャーを感じていたそうです。


 僕たち選手は、たった1年でそんなに力が落ちるとは思っていません。あのときの満男さんはまだ20代後半、衰える年齢でもなかったですから。だから、能力に対して疑いの目はなかったですけど、「出来上がりつつあるチームに対してフィットできるのかな」という思いはありました。


 一方で、満男さんの覚悟や危機感は、練習の中で確かに感じましたね。特にボールを刈りに行くところは、大きく変わっていた。実際、それまでは2列目の選手でしたけど、帰ってきてからはボランチになりましたし。


――小笠原さんが復帰した夏以降、鹿島はなんとか上位に食らいつき、25節では名古屋グランパスに0-3で敗れましたが、次の試合から連勝が始まります。


 名古屋戦のあとから(田代)有三がスタメンになるんですけど、彼には高さという明確な武器がある。満男さんが戻ってくる前までは、まず守備から入ってソリッドに戦いながら勝機を見出していたんですけど、満男さんの復帰後は、後ろからつないで地上戦で崩せるようになった。そこに有三が加わって、今度は上からも攻められるようになって攻撃に幅が生まれた。有三が競ったこぼれ球をマルキ(マルキーニョス)や本山さん、野沢が拾って2次攻撃、3次攻撃につなげられるようになったから、これは確かに強いですね。


――リーグでは勝利を積み重ねていきますが、その間、ナビスコカップの準決勝でガンバ大阪にアウェーゴールルールによって敗れました。しかも、岩政さんがシジクレイのマークを外してしまい、ゴールを奪われたのが敗因でした。


 その夜は悔しくて、泣きましたよ。すっかり忘れていたんですけど、その日から日記をつけていたんです。さらっと読み返してみたら、この試合のあと、トレーニングの仕方を大きく変えているんですよね。当時、南原清隆さんの『ナンだ!?』(テレビ朝日系列で放送されていたスポーツ・バラエティ番組)という番組があって。交流のあった中西哲生さんも番組に出演されていたから、他の競技のスペシャリストに連絡してもらって、一緒に練習させてもらえないかと。新しいことにチャレンジして、自分の幅を広げようとしていたんです。結局、その後長く付き合うことになるトレーナーを紹介してもらいました。


 あと、ガンバ戦から次のジュビロ磐田戦までの1週間は、練習で自分の感覚があまり良くなかった。でも、ジュビロ戦でゴールを決めることができて、そこを境に吹っ切れたんです。タイトルを獲るまでは満足しちゃダメだと、次のフェーズに入る感覚もあって。あの1週間というのは、僕にとって大きな転機となる1週間だったな、と日記を見返しながら思い出しましたね。


――この悔しさを忘れちゃいけないという思いが、日記をつける行為につながった?


 その少し前くらいに、南原さんや哲生さんから「書くことをしたほうがいいよ」と言われたんですけど、やってなかったんです。というのも、プロ1年目の秋からレギュラーになり、2年目はシーズンを通して試合に出て、3年目はパウロから信頼されて、フィールドプレーヤーの中では一番長い出場時間だった。順調にステップを踏んでいる感覚があって、この流れでタイトルが獲れれば、と自分の中で少し楽観的に考えるところがあったんでしょうね。だから、日記を書くという新しいことに踏み出さなかった。ところが、ナビスコカップで敗退して、このままではいけないと。

天王山で浦和に完封勝ち、そして“涙の優勝”


優勝を争う浦和との大一番。「いくら走っても疲れを感じなかった」と絶好調の岩政を中心に、直接対決を制した【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

――その後、鹿島はリーグ戦で連勝を続けて2位に浮上し、33節では首位・浦和と直接対決を迎えます。野沢さんのゴールでこの大一番を制したわけですが、この試合は岩政さんにとってベストマッチだそうですね。


 この日の僕は、いくら走っても疲れを感じず、飛んでくるボールがゆっくり感じられるような感覚すらありました。とはいえ、サッカーはチームスポーツなので、いくら自分の調子が良くても、自分と関係のないところで失点し、敗れることもある。ところが、この試合では不思議と危険なシーンが自分の近くで起き、僕が防げることが多かった。


 例えば後半、ショートカウンターを浴びて相馬(崇人)に抜け出され、ワシントンに横パスを出されたシーンがあったんですけど、僕が間に合ってスライディングでカットできた。自分のコンディションが良いだけでなく、いわゆる“当たり日”でもあったんです。この2つがそろうことって、なかなかないんですけど、優勝を争う大一番で2つがそろった。しかも、最後までゼロで抑えるという結果まで付いてきたんです。今振り返っても、自分にとって自信となるゲームだったと思います。


――首位・浦和と勝点1差の2位という状況で、最終節の清水エスパルス戦を迎えます。オリヴェイラ監督の雰囲気作りや岩政さん自身の心境はどうだったのでしょうか?


 浦和戦の前には、オズワルドがレッズサポーターの映像を僕らに見せたんです。「すげえ応援だな」と感じるような映像をずっと。「これ、何の意味があるんだろう?」と僕たちの頭の中には、はてなマークが付いていたんですけど、要は「これだけの雰囲気の中で戦うんだぞ、彼らのスタジアムに乗り込んで戦う覚悟をここで決めろ」ということだった。


 一方、清水戦の前は特別なことはしなかったんですね。ミーティングで「10年後、自分たちが成し遂げた劇的な優勝をきっと思い出す。まさに、その日が今日だ。みんなで歴史を作ろう」という、有名な話はされたんですけど、1週間の準備の中で記憶に残っているものはない。だから、緊張しすぎず、いつもどおりの気持ちで臨めたんだと思います。


 僕自身の心境としては、レッズ戦の勝利でACL出場が決まったんですね。僕らとしてはまずACL出場権獲得が目標だったので、目標をひとつクリアしたという感覚だったと思っていた。でも、日記を振り返ってみたら、「ここ、獲り切らなきゃいけない」と書いてあったんです。意外とタイトルを意識していたんだなと。日記に書くことで、自分に言い聞かせていたのかもしれないですね。


――最終節の清水戦はDAZNのRe-Liveで放映されますが、どんな印象がありますか?


 先制するまでは非常に厳しい試合だったんですけど、そのあとは追加点も取れて、比較的落ち着いてゲームを進められたんです。3-0で勝ったんですけど、すごく覚えているのは、試合後ですよね。試合中は何も知らされていなかったんですよ。後半に入っても何も言われないから、レッズが勝っているんだろうなと。ただ、落ち込むこともなく、最後まで気持ちを切らさず3-0で勝ち切ることだけに集中していた。


 それでタイムアップを迎えたんですけど、その瞬間にオズワルドが突然、ピッチに飛び出してきたので、「えっ?」と思って。「もしかして、これは」と思って隣を見たら、(大岩)剛さんが泣き崩れて。「え、そういうことなの?」と思ったら、他の選手たちもピッチになだれ込んできて、そうなのかと。その瞬間に僕も涙が溢れてしまって。そうしたら、突然、オーロラビジョンにレッズの試合が映って、「え? 終わってないじゃん」って(笑)。


――横浜FCに0-1で負けてはいたけれど、まだ終わっていなかった(笑)。


 この涙、どうしてくれるのって(笑)。これで優勝しなかったらどうしようかな、と思いながら見ていたら、レッズが負けて優勝が正式に決まった。まあ、レッズが引き分けでも、うちの優勝でしたから、優勝はほぼ間違いなかったんですけど、あのタイミングで飛び出さないでほしかったですね(笑)。

次のサイクルに進めたのは「この年があったから」


岩政は「この時に優勝したことで、自分たちのマインドが変わった」と語る【飯尾篤史】

――優勝を決めた後、岩政さんは「この2年でいろんなことを吸収してくれた。彼とプレーするのが、どんどん楽しくなっている」と言っています。誰についてのことか覚えていますか?


 (内田)篤人ですよね。パウロのときの06年に篤人が入ってきたわけですが、キャンプの段階で、パウロが「内田を開幕戦で使う」と僕に言ってきたんです。「開幕まで、お前が面倒を見ろ」と。それで、サイドバックのカバーの仕方とか、立ち位置の取り方とか、僕が最低限譲れないものを伝えたんですけど、篤人はやるときはやりながら、うまく流すタイプで。


 先輩に言われると、それを忠実にやろうとして自分のリズムを崩しちゃう選手がけっこういるんですけど、彼はその辺がすごくうまい。やっている風に見せながら、自分は自分でこれをやります、みたいな感覚を失わないんですよ。しかも、「やりません」ではなく、やる余裕ができたときにはチャレンジして、少しずつ自分のモノにしていく。それで2年目の07年には、僕の要求をプレーで再現できるようになっていた。まだ、高卒のプロ2年目、19歳でしたから素晴らしかったですね。


――今回、DAZNで07年の最終節、鹿島vs清水戦がRe-Liveされますが、改めて、この試合のどんなところを見てほしいですか?


 鹿島のことを常勝とか、勝負強いとおっしゃってくださる方がたくさんいるんですけど、07年のリーグ優勝がなければ、そう言われることもなかったんじゃないかと思います。本田(泰人)さんや秋田(豊)さん、相馬(直樹)さんたちを中心に90年代後半に黄金期を築き、2000年には3冠を達成しましたけど、03年から4年間はタイトルを1つも獲れなかった。僕が加入してからの04〜06年頃は、自分たちが勝負強いなんて全く思っていなかった。むしろ、勝負弱いとすら思っていて。


 この清水戦は浦和の結果次第でしたから、まずはホーム最終戦ということでサポーターとの空気をとにかく大事にした試合だった。当時は優勝経験のない選手がたくさんいましたから、それが、ちょうど良かったんだと思います。


 この時に優勝したことで、自分たちのマインドが変わったし、世間の見る目も変わった。逆に、このときにリーグ優勝していなければ、リーグ3連覇は当然ないわけですし、自分たちに自信を持てなかったと思います。3連覇のあとも、何かしらのタイトルを獲り続け、次のサイクルへと進めたのは、間違いなくこの年のリーグ優勝があったから。ここから勝負強いと言ってもらえるようになっていくので、そういった目で見ていただけたらな、と思います。

ベベット、アントラーズのほうが魅力あるチーム

ベベットについて記すSportivaのリカルド・セティオン氏である。
生い立ちやブラジルでの成功、セレソンでの栄光について伝える。
その中で鹿島移籍秘話としてイングランドのサンダーランドからのオファーを蹴った逸話が語られる。
「アントラーズのほうが魅力あるチームだったからだ」と明言したとのこと。
これは嬉しい。
そして、わずか8試合の出場にて日本を去ることとなったが、「日本で暮らせば暮らすほど、きっとこの国が好きになるよ」と余印象を持ってくれたことが伝えられる。
これもまた鹿島アントラーズの力が影響しておろう。
現在のベベットは政治の世界に身を置いているとのこと。
ブラジルをより良くするため尽力しておるのであろう。
それには鹿嶋での生活もまた影響しておるはず。
ステーツマンとしてのベベットの活躍を期待しておる。

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ジーコの抜けた穴を埋めたベベット。
W杯で見せた「悪童」との友情

リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

あのブラジル人Jリーガーはいま

 1983年、ジーコは12年間プレーしたフラメンゴから、イタリアのウディネーゼへの移籍を決めた。最大のスターを失い、フラメンゴのサポーターは世界の終わりが来たかのように悲しんだ。「フラメンゴに未来はない」と、メディアも信じ込んでいた。

 しかし、フラメンゴ幹部は隠し玉を持っていた。彼の名前はベベット。まだ19歳の少年だったが、ジーコの抜けた穴を埋めてくれると彼らは確信していた。当初、サポーターは彼にブーイングを浴びせた。ベベットは痩せっぽちで小さく、こんな若造にジーコの代わりが務まるとは思えなかったからだ。引退したばかりのペレを引き合いに「代表にペレの代わりがいないように、フラメンゴにジーコの代わりは存在しない」と彼らは抗議した。


1994年、アメリカW杯でブラジルの優勝に貢献したベベット photo by Yamazoe Toshio

 だが、すぐにサポーターは彼にブーイングしたことなど忘れてしまった。ベベットはジーコに比べても遜色がなかったからだ。考えてみれば、ジーコも昔は小さく痩せていた。そしてどちらもサポーターに夢を見させてくれた。

 ベベットはいつも笑顔で温和だ。ピッチの中でも外でもその性格は変わらない。ベベットの本名はジョゼ・ロベルト・ガマ・デ・オリヴェイラ。しかし子供時代、ロベルトという名前が発音できず、自分のことをベベットと呼んでいた。それが彼のニックネームとなった。

 ベベットが成功できたのはその出自もあるかもしれない。彼が生まれたのはブラジルで最もアフリカ色の濃いバイーア。ベベットの両親はポルトガル系だったが、彼のハート、そして生きざまはまさにバイーアの人間そのものだ。穏やかで、常に微笑みを忘れず、フレンドリーで、他人を助ける。バイーアの人は皆そうだ。

 ベベットはバイーアの州都サルヴァドールでサッカーを始めた。友達とサッカーをしていた彼を地元のナンバー1チーム、エスポルテ・クラブ・バイーアが目をつけた。しかし何度か練習に参加したものの、彼は同じ町のヴィトーリアに入団した。ベベットの父がこのチームの大ファンだったのだ。

「16歳の時、ヴィトーリアにテストを受けに行ったが、その時の僕は身長170センチで体重は49キロしかなかった。だから僕を見たヴィトーリアの監督は、始めは僕を参加させたがらなかった。『こいつはあまりにも軽すぎる、強風が吹けば飛んでいき、二度と見つけられないだろう』ってね。でも10分プレーする間に、僕は2ゴールを決めた。監督はその午後、すぐに僕をトップチームの練習に合流させてくれた」

 当時を振り返って、ベベットはこう語る。

 ベベットが17歳になった時、ヴィトーリアは自分たちが金の卵を持っていることに気が付き、彼をセレソン(ブラジル代表)のドクターのもとに連れて行った。しかし、ドクターは、「彼には何の薬も必要ない」と言った。よく練習し、よく食べれば、ちゃんと成長すると診断し、実際その通りになった。

「1年もしないうちに僕は5センチ背が伸び、体重も8キロ増えた」

 1年半後、彼の人生は一変した。名門フラメンゴが彼を望んだのだ。冒頭にも述べたようにジーコの抜けた穴を埋めるためだった。

 父親は、ベベットがサルヴァドールを去るのを快く思っていなかった。彼は将来、ベベットに自分の不動産会社を譲ろうと考えていた。しかしフラメンゴが本気で彼をチームのスターにしようと考えていると知った時、事業を継がせることを断念した。息子の未来は別のところにあると悟ったからだ。

 ベベットはジーコを尊敬している。その一方で、ディエゴ・マラドーナの大ファンでもあった。インタビューでは、いつもこう言っていた。

「ディエゴは偉大だった。でもボールを持った彼はとてもエゴイストだった。彼はジーコが持っていた知性の50%しか、ピッチでジーコが見せた優しさの10%しか持ち合わせていなかった」

 おそらくベベットはスターひしめくブラジル代表のなかで、唯一、監督が実際に試合を見ることなく招集を決めた選手だろう。1985年、カルロス・アルベルト・パレイラ監督は、一度もプレーを見ることなく、彼をオリンピック代表に招集した。その後、ベベットは代表を引退する1998年まで、セレソンの選から漏れることはなかった。

 彼の人生を大きく変えたのはまぎれもなく1994年のアメリカW杯だろう。ブラジルは24年間夢見てきたタイトルを手に入れ、ベベットは一躍世界的スターとなった。彼の名を有名にしたのは大会中に決めた3つのゴールだけではない。サッカーファンの心に残る2つのエピソードを残したからだ。

 決勝トーナメントで、ブラジルが最初に当たったのは開催国アメリカだった。地元の声援を背にしたアメリカは予想以上に強く、レオナルドがファウルで退場になるとブラジルは10人となり、敗退の危険も出てきた。しかし、セレソンは負けなかった。ロマーリオが天才的なプレーで敵を抜き去り、柔らかなボールを前方に送ると、ベベットが勝敗を決めるゴールを決めた。それまでブラジルの猛攻に耐えてきたアメリカのGKのトニー・メオラも地面に倒れていた。ブラジルは10人で開催国を破ったのだ。

 ゴールを決めたあと、ベベットはロマーリオに向かって走り、こう叫んだ。

「愛しているよ、兄弟!」

 2人が抱き合ったシーンは、ブラジルがひとつにまとまっていることを現していた。

 準々決勝のオランダ戦は、大会中、最も難しい試合のひとつだった。2点目のベベットのゴールは本物のゴラッソというやつだった。ベベットの喜びは最高潮だった。なぜならその数日前に3人目の子供、次男・マテウスが生まれていたからだ。

 彼の妻はブラジルで出産したため、ベベットはまだ息子をその手に抱いてはいなかった。そこで生まれたのが、かの有名な”ゆりかごダンス”だ。ロマーリオ、マジーニョとともに赤ん坊を抱き、左右にあやすよう動かし、この様子は全世界に放送された。そのマテウスは今、プロサッカー選手になっている。

 そして、ベベットのもうひとつの有名なエピソードは日本で生まれた。

「ゆりかごダンス」のベベットは政治家に。
秋葉原で買ったPCの思い出

リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

あのブラジル人Jリーガーはいま

 1994年、アメリカW杯でブラジルを優勝に導いたベベット。ロマーリオとの友情や、準々決勝オランダ戦で得点を決めたあとの”ゆりかごダンス”のパフォーマンスは、今も語り草になっている。

 1997年、ブラジルのクルゼイロは、その年のコパ・リベルタドーレスを制して、日本でトヨタカップ(現在のクラブW杯)を戦うことになった。対戦相手はドイツのドルトムント。なにがなんでもタイトルがほしかったクルゼイロは、前代未聞の行動に出た。たった1試合のために選手をレンタルし、その選手がベベットだった。残念ながらクルゼイロは0-2で敗れてしまったが、それでもクルゼイロは日本滞在中、話題を独占した。


現在は政治家になったベベット。ブラジルW杯開催にも尽力した photo by Getty Images

 この時、私自身にもベベットとの間にちょっとしたエピソードがある。私は日本に取材に行った数少ないブラジル人記者だった。トヨタカップの2日前、私は宿泊するホテルの廊下でベベットとすれ違った。私が記者だと知って、彼はこう尋ねてきた。

「昨日のヴァスコ・ダ・ガマ戦の結果を、君の社に電話して聞いてくれないか?」

 私が「電話するよりもいい方法がある」と言うと、彼は私を部屋に招いてくれた。私は仕事用に小さなパソコンを持っていた。私は彼の部屋でモデムを使い、インターネットにつなぎ、パソコンの画面にブラジルの新聞を呼び出して見せた。ヴァスコ・ダ・ガマは勝利していた。

 ベベットが大喜びしたのは、その結果よりも、インターネットのほうだったかもしれない。なぜなら、その後たっぷり2時間、彼はネットについて私を質問攻めにし、数日後、秋葉原に行ってノートパソコン2台を購入したのだ。その時の友情は今もまだ続いている。

 1989年のコパ・アメリカ、1994年のW杯、1997年のコンフェデレーションズカップのほか、ベベットはブラジルで唯一、2つのオリンピックでメダルを勝ち取っている。1988年のソウル五輪での銀メダルと1996年のアトランタ五輪での銅メダルだ。

 ベベットはそのサッカー人生で、ヴィトーリア、フラメンゴ、ヴァスコ・ダ・ガマ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ(スペイン)、セビージャ(スペイン)、クルゼイロ、ボタフォゴ、トロス・ネサ(メキシコ)、鹿島アントラーズ、アル・イテハド(サウジアラビア)の10のチームでプレーしている。合計で387本のゴールを決め、その多くが重要なもので、これらチームに多くのタイトルをもたらした。

 彼が来る前は小さなチームだったデポルティーボ・ラ・コルーニャは、ベベットの加入により、バルセロナやレアル・マドリードを脅かすチームとなり、ラ・コルーニャには、彼の名前を冠した道がある。

 2000年、彼は鹿島アントラーズ行きを決めた。この時はイングランドのサンダーランドからのオファーもあったが、日本行きのためこの誘いを断った。

「アントラーズのほうが魅力あるチームだったからだ」

 その理由を彼は私にそう教えてくれた。

 ただ、日本でのベベットは、残念ながら本領を発揮することなく終わってしまった。わずか8試合に出場しただけで鹿島を去ることになってしまったが、彼自身はもう少し残っていたかったようだ。日本について彼はこう語っていた。

「日本で暮らせば暮らすほど、きっとこの国が好きになるよ」

 プロになって20年目の2003年、39歳でベベットは引退を決めた。セレソンでは15年プレーし、3回のW杯に出場している。

 現在、ベベットはロマーリオと同様に政治の世界に身を置いている。2010年にリオデジャネイロ州議会議員選挙に立候補して当選、その後も2回再選されており、2度目の選挙では6万票も集めた。また彼はブラジルW杯組織委員会にも参加していた。

 リオに住み、妻のデニセと暮らしている。彼女はベベットの3人の子供の母であり、15年間、ベベットのエージェントを務めている。長男のニュートン・ジュニオールは残念ながら選手としては芽が出なかった。末っ子のマテウス・オリベイラは先にも述べたようにスポルティング・リスボンのプロ選手だ。娘のソフィアはモデルをしている。

 見た目は、56歳になる今も現役の頃とあまり変わらない。引退後、体型が膨らんでしまう選手が多いなかで、相変わらず華奢で小柄だ。一見、レジェンド級のサッカー選手とは思えないが、まぎれもなくブラジルの歴代トップ30に入る選手である。

Jリーグ、6月再開を事実上断念

6月の再開を断念したJリーグである。
緊急事態宣言期間の延長を受け準備期間を考慮した形である。
これは支持せざるを得ない。
今は国民として自粛を続け、新型コロナウイルスが広がるのを極力低くすることに協力する以外にない。
耐え時である。

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Jリーグ、6月再開を事実上断念 5月中は全体練習不可…準備期間足りず

国内サッカー界・コロナ関連の主な動き

 新型コロナウイルスに対応するための緊急事態宣言が4日、5月末まで延長された。これにより、2月下旬から全公式戦を中断しているJリーグの6月再開は事実上不可能となった。J1、J2、J3の全56クラブは既にトップチームの全体練習を休止。仮に再開が決まっても準備期間が必要なため、最短でも再開は7月以降となる。

 Jリーグ再開を巡る状況が、ますます厳しくなった。今月31日までの延長が決定した緊急事態宣言。最短で6月中旬の試合実施に“いちるの望み”を持っていたが、延長を受けてJリーグ関係者はこう断言した。

 「6月中は(再開は)ない。これで、5月中は全体練習すらできなくなった」

 各チームは現状、クラブハウスや練習場でのトレーニングを控え、「オンライントレーニング」などウェブでの筋トレなどでコンディションを調整している。再開となれば全体練習は必須。それが5月中はできないとなれば、“6月再開”の選択肢は消える。

 村井満チェアマン(60)は先月23日、最短で6月2週目の週末から試合を行うとすれば、海外主要リーグで再開までに3週間の準備期間を設定している例を挙げて「5月23日頃に再開の判断が必要」との見解を示していた。

 J1は2月下旬に開幕したが、その後のコロナ禍で延期が繰り返された。今月9日の再開を目指した時期もあったが、感染拡大は終息の気配を見せず、再開時期は白紙になっている。

 今後は、7月か8月の再開を模索しながら、9月以降の再開も想定。再開当初の無観客試合も視野に入れている。天皇杯はJリーグの2チームが12月下旬の準決勝から参加することが決まり、過密日程になるリーグ戦に配慮した。8月再開となれば、ルヴァン杯の大会方式変更も検討される。

 終わりが見えないウイルスとの戦い。5月31日で宣言が解除されるかどうかも不透明だ。今は終わりが来ることを信じて、準備を進めていくしかない。(宇賀神隆)

Jリーグ6月再開案は事実上消滅 緊急事態宣言延長で準備期間の4週間が確保困難
[ 2020年5月5日 05:30 ]

 新型コロナ禍の影響で公式戦を中断しているJリーグの再開は最短でも7月以降になる見通しとなった。政府が4日、緊急事態宣言を5月末まで延長したことで、各クラブの活動自粛も延長が濃厚だ。期限内の宣言解除の可能性は残っているが、当初、目指した6月13日の再開は事実上、消滅した。
 既に中断から2カ月以上が経過。先月28日には各クラブ運営、強化担当によるウェブ会議が実施され、活動再開後の準備期間を「4週間」は設けることで合意した。現時点では全国56クラブがそろって練習再開できるのは早くても6月。今後はまず7月以降の再開を目指すことになる。

 元々、Jリーグは6、7、8月に無観客での再開案を想定、中でも7月再開案が現実的とされていた。J1では既にルヴァン杯が当初の最大13試合から同6試合に簡略化される見通し。まずはリーグ戦と合わせ1クラブ最大「40試合」を目指すが、さらに削減の可能性も出てきた。

 リーグ戦消化が70%以下となれば、10年2100億円というDAZNとの放送権契約に問題が生じる見込み。一方で、来年は東京五輪も控え、各クラブともシーズン終了の越年には反対している。仮に8月再開なら中2日での開催が連続する可能性もあり、もはや史上まれにみる過密日程は避けられない。
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鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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