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N-BOXの夢と浪漫

ジュビロ磐田のN-BOXについて記すSportivaの飯尾氏である。
Jリーグ史上最強のチームを挙げろと言われれば、この2001年のジュビロ磐田に異論はあるまい。
幻となった第2回のCWCにてR・マドリーを倒すために開発されたシステムは、戦術もあるが、選手間の連携と信頼が素晴らしく、魅惑のサッカーが展開された。
敵ながら天晴れと言わざるを得なかった。
このN-BOXはJリーグの歴史に残すべき遺産である。
ただ、この年のリーグ戦は、このジュビロを破った鹿島アントラーズが優勝しておる。
そして、R・マドリーとの対戦も鹿島がいち早く達成した。
このあたりもライバル関係と言って良かろう。
再び熱戦を繰り広げたい。
ジュビロ磐田はリスペクトする好敵手である。

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01年ジュビロに伝説の「N-BOX」誕生。
そこには夢とロマンと儚さがあった

飯尾篤史●取材・文 text by Iio Atsushiphoto by AFLO

Jリーグ27年からチョイス!
『私のベストチーム』
第2回:2001年のジュビロ磐田


 歴代最強といって思い浮かぶのは、史上初の完全優勝を成し遂げた2002年のジュビロ磐田だ。

 よく組織されたディフェンスと、人とボールが高密度で連動するオフェンス。その両方を極めた異能の集団がシーズン中に喫した敗戦はわずか3つ。他の追随を許さず両ステージを制覇し、前人未到の偉業を成し遂げた。


名波浩なくして「N-BOX」は成立しなかった

 だが、それでも2002年より2001年、それも1stステージの磐田に惹かれるのは、そこに夢とロマン、さらには儚(はかな)さがあるからだ。

 この時、磐田は世界でも類を見ない、実にチャレンジングなシステムを駆使し、攻撃的なサッカーを追求していた。

 いわゆる、「N−BOX」である。

 数字で表せば、3人のDF、5人のMF、2人のFWによる3−5−2だが、サイドを担当するウイングバックの選手はいない。

 右の攻撃的MFに藤田俊哉、左の攻撃的MFに奥大介、右ボランチに福西崇史、左ボランチに服部年宏、そして、4人を結んだ四角形の真ん中に、名波浩がいた。

 俯瞰すると5人の並びが「N」に見えること、名波なくしてこのシステムは成立しなかったことから、『週刊サッカーマガジン』によってN−BOXと名付けられたこのシステムは、”白い巨人”を倒すために編み出されたものだった。

 2000年に誕生したクラブナンバーワンを決めるクラブ世界選手権。その第2回大会が2001年8月にスペインで予定されており、1999年のアジア王者である磐田の出場が決まっていた。その初戦の相手が、泣く子も黙る”銀河系軍団”——レアル・マドリードだったのだ。

「当時のジュビロは、遅攻はある程度できていた。だから、いかにボールを奪うか、いかに速く攻めるか、そこにトライする必要があった」

 そう振り返るのは、「戦略家」と福西が評する指揮官の鈴木政一である。

 前年2000年の磐田は従来の3−5−2を採用していた。しかし、このシステムはレアル・マドリードのような格上と対戦して押し込まれると、ウイングバックが最終ラインに吸収され、5バックにさせられる危険性があった。それではボールを奪っても攻撃に転じることが難しい。

「そこで、はじめからウイングバックを置かないのはどうだろうかと考えた。もうひとつ、中盤にいい選手が多かったから、彼らの能力を最大限に生かしたいという思いもあった。だから、ワイドに選手を置くのではなく、中盤をコンパクトにして中央を固め、(相手には)サイドにボールを出させて、チーム全体で一気にプレッシャーをかけて奪い取ろうと」(鈴木監督)

 そんなの、無理に決まっている——と言うなかれ。机上の空論になりかねない戦術を機能させてしまうのが、当時の磐田のすごさだった。

 開幕3連勝で迎えた第4節、ライバル・鹿島アントラーズとの序盤の大一番。ピッチ上では、サイドを含めたあらゆるエリアで磐田の選手が数的優位を作って鹿島の自由を奪う。ボールを回収すれば、ポジションを入れ替えながらボールを動かし、ゴールに迫る。全員が同じ意志のもと、淀みなく動く姿は、チーム全体が一体の生き物のようだった。

「相手を挟み込むスイッチは、プレスバックする選手の角度を見極めて、どこから寄せたほうがいいのか決めている。それがハマれば、ボールホルダーの選択肢を数個、減らすことができるからね」とは、ピッチ中央で攻守両面のタクトを振るう名波の弁。

 開始3分で鈴木隆行に出会い頭のゴールを許したが、高原直泰、藤田のゴールで逆転。スコアこそ2−1と僅差だったが、衝撃的とも言えるゲーム内容で磐田が完勝する。

 もっとも、N−BOXが今なお語り継がれているのは、パフォーマンスの高さやネーミングの秀逸さによるものだけではない。

 夢の実現を前にして散るという儚さによっても、このシステムを伝説にしたのだ。

 開幕7連勝で首位を独走していた第8節のガンバ大阪戦で名波が右ひざを負傷し、離脱に追い込まれてしまう。N−BOXは名波なしでは成り立たないため、N−BOXはいったん封印された。

 さらに、その1週間後、運営を任されていたマーケティング会社の倒産により、クラブ世界選手権の延期、さらには中止が決まるのだ。

 名波が復帰するのは、わずか1敗で迎えた第13節の横浜F・マリノス戦。この試合を高原の延長Vゴールで制した磐田は、2試合を残して1stステージ優勝を決めた。

 だが、N-BOXは封印されたままだった。

 ひざが万全ではない名波の守備の負担を軽減させるため、名波をトップ下に置く従来の3−5−2が採用されたのだ。

 そして、封印はついに解かれることがなかった。

 9月末、日本代表の欧州遠征に参加した名波がパリでひざの診断を受けると、重傷だったことが判明。シーズンを棒に振ることが決まったからだ。

 名波を失った磐田は2ndステージでも2敗しか喫しなかったが、同じく2敗だった鹿島に勝ち点1及ばずステージ2位となり、リーグ王者の決定はチャンピオンシップに委ねられることになる。

 第1戦は120分戦って2−2のドロー。第2戦も0−0のまま延長戦にもつれ込んだ激闘は、小笠原満男のFKによってフィナーレを迎えた。最強を誇った磐田は、まさかの無冠に終わる。

 この屈辱を晴らすため、2002年はターゲットを完全優勝に絞り、勝利を追い求める。そして、彼らはその偉業を成し遂げるわけだ。

 2001年と2002年のチームの違いについて、名波はこんなふうに語っている。

「2001年はすべてがMAXという感じ。豊潤さとか、高貴さを漂わせながら、勝負強さや泥臭さも持ち合わせていたんだけど、2002年になると、より円熟味が増した感じ。30歳前後の経験豊富な選手たちの”脂っこさ”で、ひっくり返したゲームがけっこうあるからね」

 福西の解説は、もう少しシンプルだ。

「隙がなかったというか、強かったのは2002年。でも、チャレンジのしがいがあって、やっていて面白かったのは2001年ですね」

 もし、名波が負傷しなければ……。

 もし、レアル・マドリードとの対戦が実現していたら……。

“たら・れば”によって、N−BOXがひとつの伝説に昇華したことは間違いない。

 だが、テクニックとサッカーIQが極めて高い集団が見せたハイレベルなサッカーは、19年経った今でも色褪せることはない。

報知新聞・内田記者、2019年シーズンを振り返る

昨シーズン終盤について記すサッカーダイジェストの広島記者である。
リーグ逸を決定的にしたホームの川崎戦が象徴的であったと述べる。
この試合、内容こそ鹿島のゲームであったが、セットプレイとカウンターに沈み0−2の敗戦を喫した。
鹿島の戦い方を川崎がしたとして、広島記者は「“らしくない”負け方に少なからずショックを受けた」と記しておる。
そう思う者も多かったことは事実であろう。
事実、川崎が実を取り、それまでの戦い方を捨てたこともまた別の視点としてあったように思う。
そして、鹿島の敗因は、今となって思えば、移籍に揺れるセルジーニョが本来の決定力を発揮しなかったことのように感じておる。
結果的に中国2部のクラブに移籍したが、この時点ではブラジルへの帰国を望んでおった。
このあたりのメンタリティがプレイに影響を及ぼしておったのではなかろうか。
シーズン終盤はそういったことの兼ね合いも難しかったように思う。
それはそれとして、実際にリーグタイトルを失い、世間のイメージとはかけ離れたシーズンを送ってしまった。
それもあってか、クラブは新たなチーム作りに手を染めることとなった。
3月の時点では、ザーゴ監督の思い描くチームが出来上がるまでには至っておらぬが、ここはクラブ力を信じるところ。
再開後にはそのベールが脱がされることとなろう。
楽しみにしておる。

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【鹿島|回顧録】象徴的だった19年11月の川崎戦。お株を奪われる完敗が分岐点に
広島由寛(サッカーダイジェスト)
2020年05月07日

ポゼッションとパス成功率で川崎を上回ったが…


昨季の31節、ホーム川崎戦で敗れて首位から陥落。その後も不甲斐ない戦いが続き、リーグ優勝を逃した。写真:徳原隆元

 今年1月1日の天皇杯決勝で神戸に0-2で敗れた後、土居聖真は言葉に詰まりながら、こう言った。

「個人的には、“常勝鹿島”って言われるのも終わりだと思っています」

 昨季は一時、4冠の可能性があったが、最終的には、ひとつのタイトルも取れなかった。連覇を目指したACLはベスト8で敗退。ルヴァンカップは4強入りも川崎に決勝進出を阻まれ、J1リーグは3位でフィニッシュ。最後の望みをかけた天皇杯も、先述したとおり、準優勝に終わっている。

 これまで憎らしいほどの勝負強さを見せつけて、断トツの20冠を成し遂げてきた鹿島だったが、どこで歯車が狂ったのか。象徴的だったのが、昨季11月のJ1リーグ31節、ホーム川崎戦だった。

 首位で迎えた大一番、試合のペースを握っていたのは、どちらかと言えば鹿島だった。リーグ屈指のパスワークを誇る川崎に対し、その数値は僅差だったが、ポゼッションとパス成功率で上回る内容だった。シュート本数も17対7。相手を押し込む時間は長かった。

 だが、結果は0-2の完封負け。川崎の粘り強い守備の前に攻めあぐねていると、62分、セットプレーから失点、さらに71分にはカウンターから致命的な2失点目を喫する。

 内容が悪くても、堅実なディフェンスで敵の攻撃をしのぎ、のらりくらりとゲームを進めながら、一瞬の隙を突いてゴールを陥れる。そんな試合巧者ぶりが、鹿島のひとつの強みだったはず。それを、そっくりそのまま川崎にやられてしまった。お株を奪われるような完封負け。この1敗でリーグ優勝の芽がなくなったわけではないが、あまりにも“らしくない”負け方に少なからずショックを受けた。

 しかも、相手は17、18年とリーグ連覇中で、19年はルヴァンカップ初優勝を成し遂げている川崎だ。3季連続でタイトルを手中に収めるなど、文字通り“常勝”の道を歩み始めたライバルに、ここぞという勝負どころで屈した事実が、大げさかもしれないが、ひとつの時代の終わりと、メインキャストを入れ替えた新たな時代の始まりを暗示しているかのようにも映った。

 あの時、鹿島と川崎を隔てていたものはなんだったのか。鹿島の内田篤人も、川崎の谷口彰悟も、「紙一重の差」と言った。

 では、その差を埋めたものとは? 谷口は「言葉で説明するのはなかなか難しい」と言ったうえで、次のように見解を述べた。

「結果が先なんだよ。勝たないと強くならない」(内田)


天皇杯決勝は神戸に敗れて、準優勝。永木(6番)は「ほとんど何もできないまま終わってしまった」と悔しさを滲ませた。写真:山崎賢人(サッカーダイジェスト写真部)

「ここは逃してはいけないポイントだとか、そういったところを一人ひとりが分かってきているのかなとは、試合をしていても感じますね。今日もすごく球際に行ったりとか。でも、熱くなりすぎず、冷静にいなしたりもできている。頭はクールにというか」

 そうした部分が鹿島の選手たちに欠けているとは思わないが、それを結果に結び付けられていないのが、もどかしい。今季もリーグ戦が中断に入る前の公式戦3試合(ACLプレーオフ、ルヴァンカップ初戦、リーグ開幕戦)で、いずれもノーゴールで敗戦を喫している。ザーゴ新監督を迎えて新たなスタートを切ったが、再興の糸口は掴めていない。

 神戸との天皇杯決勝戦後、内田は“強者の定義”について持論を述べる。

「強くなって勝つんじゃなくて、勝って強くなる。俺が思うに、結果が先なんだよ。勝たないと強くならない。強いから勝つんじゃなくて。勝たないと強くならない」

 そんな内田も、昨季開幕前には「資金力のある神戸とかがネームバリューのある選手をどんどん補強して、戦力を高める時代になっているような気がする。そのなかでどう対抗していくか」と危惧していた。図らずも、その神戸に目の前でタイトルを奪われたことも象徴的な出来事だった。

 リーグ再開後、とにかくまずは1勝。勝って、勝って、勝ちまくって、「常勝」の肩書を取り戻してほしい。

取材・文●広島由寛(サッカーダイジェスト編集部)

ジーコ、謎のサイン

ジーコTDのブラジルでのエピソードを伝える東スポWebである。
ジーコがサイン攻勢に会いサンドラ夫人を呆れさせたことは面白い。
そして日本代表監督時代には、「1009」とサインした逸話も、ジーコならではのジョークであり興味深い。
東スポはおやじギャグと伝えるが、これを理解することもメディアの記者には求められる。
ウィットを含蓄すべきである。

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神様・ジーコが記者のノートに書いた「1009」の意味とは?
2020年05月07日 16時40分


日本代表監督時代、子供たちにサインするジーコ氏

【多事蹴論(2)】「サッカーの神様」と呼ばれた元ブラジル代表MFジーコ氏(67=現J1鹿島テクニカルアドバイザー)は、現役時代に世界的なスーパースター選手として大活躍し、その名を知らしめた。

 ブラジル代表の10番を背負ってソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、パウロ・ロベルト・ファルカンとともに形成した中盤は「黄金のカルテット」としてサッカー界を席巻。イタリア1部ウディネーゼ時代にはフランス代表エースのFWミシェル・プラティニと激しい得点王争いを繰り広げた。1989年に引退するも91年に現役復帰。Jリーグ入りを目指す住友金属(現鹿島)入りし、世界を驚かせた。

 そんなジーコ氏は主にブラジル1部フラメンゴで活躍した。推定3500万人ものサポーターがいるという同国最大の人気クラブだが、ジーコ氏は引退した今でもファン全員にサインを書くことが目標なのだという。だからこそ、どんな場面でも求められれば、ほぼ断らない。あるとき、サンドラ夫人とともにショッピングセンターに買い物へ出掛けたときに“事件”は起きた。

 熱心なフラメンゴファンからサインを求められると、周囲にいた買い物客もジーコ氏の元へ殺到し、あっという間に黒山の人だかり。パニック寸前となると「みんなに書くから、邪魔にならないようにきちんと並んで」と、ジーコ氏は一人ひとりに“神対応”。そのまま1時間が経過したが、取り残されたサンドラ夫人はあきれ果てて1人で帰宅したという。結局、約2時間半もサインに費やしたところで夫人の不在に気付き、家に帰って平謝りしたそうだ。

 ジーコ氏は2002年の日韓W杯後、日本代表監督に就任。中田英寿や中村俊輔、小野伸二、稲本潤一とスター選手をチームの中心に置き、人気を集めたが、その中でも指揮官の存在感は別格。当時世界的スーパースター、イングランド代表デービッド・ベッカムがジーコ氏にサインをもらいに来たほどだ。

 日本代表の海外遠征でも、選手を差し置いて地元ファンからサインを求められることも珍しくなかったが、04年の英マンチェスター遠征でのこと。現地に在住する日本人の子供たちが大挙して練習を見学に訪れ、引き揚げる際、監督を務めるジーコ氏にサインを求めていた。ひと通り書き終えて待ち受ける報道陣の前で足を止めると、記者のノートとペンを取り上げて「1009」と数字を書いた。

 意味不明な数字に考え込んでいる記者たちを見て、ジーコ氏は不敵な笑みを浮かべながら「日本人は何でセンキューと言うんだ?」とひと言。子供たちが発した言葉が気になっていたそうで「ありがとう」ではなかったことが疑問だったそうだ。ちなみに「1009」はジーコ氏ならではのブラジリアンジョークだったわけだが“サッカーの神様”のおやじギャグにメディアも戸惑うばかりだった。
プロフィール

Fundamentalism

Author:Fundamentalism
鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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