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ジーコと日本の物語

リヴァプール戦で始まったジーコと日本の物語
2014/11/27 18:36:00



1981年トヨタカップで伝説的な活躍

1981年、ボブ・ペイズリー率いる伝説的なリヴァプールは、トヨタをスポンサーとして新たに生まれ変わったインターコンチネンタルカップでの勝利を予想されて東京に乗り込んでいた。

パリでのチャンピオンズカップ決勝でレアル・マドリーを下してこの大会の出場権を得ていたリヴァプールだが、不運だったのはその相手がフラメンゴだったことだ。コパ・リベルタドーレスを制したブラジルのチームとの戦いは、前半を終えた時点で0−3のリードを許す展開となった。

この試合以降も長年にわたって日本との関係を維持し続けたジーコは、鹿島のスタジアム外に銅像も建てられた。トヨタカップの10年後に日本でプレーすることになり、後に代表監督も務めた「サッカーの神様」は、日本サッカーの恩人の一人としてその業績をたたえられている。

ジーコの足にかかれば、リヴァプールの主力だったアラン・ハンセンもグレアム・スーネスもすっかり並の選手のようだった。ハンセンは華麗な浮き球パスで頭上を抜かれ、ヌネスによるフラメンゴの先制ゴールを許した。


トヨタカップから日本との長い関係をスタートさせたジーコ Photo: K.K.Kyodonews

86分に生まれたヌネスの2点目、フラメンゴの3点目のゴールの場面でも再びジーコがお膳立て。もう1点もジーコが生み出したものだった。でこぼこのある固いピッチから放たれたFKをGKブルース・グロベラーはキャッチしきれず、こぼれ球をアジーリオが押し込んだ。

スーネスは必死に止めようと試みていたが、ジーコは別次元にあった。スコットランドの戦士は後にこう語っている。「フィジカルチャレンジに対して彼がどう対応するのか見てみたいと思ったが、そうするために彼に近づくことすらできなかった」

1960年後半以来暴力がこの大会に影を落としてきた歴史があり、チームメートたちはフィジカル勝負を恐れていたとスーネスは話しているが、それは過ちだった。「相手にやりたいことをやらせてしまった」と彼は語る。

リヴァプールのボブ・ペイズリー監督は敗戦に肩を落とし、ブラジル人選手がワンタッチでやれるプレーに対して彼の選手たちには3タッチが必要だったと述べた。「技術で上回る、より優れたチームに敗れた」とペイズリー。ケニー・ダルグリッシュはほとんどボールに触ることもできなかった。

ジーコは1981年コパ・リベルタドーレスで11ゴールを挙げて得点王。チリのコブレロアと対戦した決勝の3試合では、フラメンゴの全4ゴールを記録していた。その1年後にはスター軍団のブラジル代表を率いて活躍するが、1982年ワールドカップではイタリアに2−3でまさかの敗戦。「フットボールが死んだ日」だと彼は語った。

その後1991年に、ジーコは選手として日本に戻ってくる。ここでも彼はすぐに英雄となった。後に鹿島アントラーズとなる住友金属と契約を交わすと、65試合で45ゴールを記録。旧JSL(日本サッカーリーグ)で10試合連続ゴールも記録した。

1994年に現役を引退した彼は、1995年10月には鹿島対フラメンゴのカードによる引退試合に出場。ジーコがテクニカルアドバイザーに就任した鹿島は1996年にリーグ初優勝を成し遂げ、現在に至るまで7度の優勝を誇る。ジーコは2002年から2006年まで日本代表監督も務めた。



現在ジーコは、また新たなリーグで道を切り開こうとしている。インドのISL(インド・スーパーリーグ)だ。ゴアを率いる彼はリーグで最も名高い監督であり、インドサッカーを発展させるために彼の助言は歓迎されている。ジーコは日本がいかに発展を成し遂げたかを説き、インドサッカー協会にその後に続くことを求めている。

少年サッカーコーチとして広く知られる知られるトム・バイヤー氏は、現在中国の学校サッカーのテクニカルアドバイザーを務める。ジーコをよく知る同氏は、Goalのインタビューに対して次のように語った。

「ジーコはおそらく、日本のサッカー界が海外から迎えた最大のビッグネームでした。彼は日本で行われたあのリヴァプール戦で戦ったこともあり、この国のクラブでプレーすることになるとビッグスターとして迎えられました。彼はほかにも、大勢のスター選手たちの日本への移籍を助けています」

8月にブラジルを訪問した安倍晋三首相は、ジーコや、日本でのプレーを経験したその他のブラジル人スター選手たちに会い、日本のスポーツ発展に寄与してくれたことへの感謝を伝えた。そのスタート地点となったのが、ジーコの出場した1981年のトヨタカップだった。


By ブライアン・オリバー&ジム・フラートン




ジーコと日本との関係を伝えるGOAL.comのブライアン・オリバーとジム・フラートンである。
1981年のトヨタカップに端を発したジーコとの縁は深く強くなっていく。
この極東の地に立ったスーパースターが、これほどこの国のサッカーに貢献してくれることになろうとは。
感謝を言葉では表しきれない。
本当にありがとう。

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鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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