本田元主将、「強化部に入れてほしい」と言っています

本田泰人が激白!Vol.1「サッカーをやれ。これからはサッカーだ」


プロ野球選手を目指していた本田泰人少年に、父親が唐突にそう言った。この一言がきっかけで、鹿島アントラーズ、日本代表で活躍するサッカー選手、本田泰人が誕生することとなった。

佐久間 秀実 | 2017/05/10

――サッカーを始めたきっかけから教えていただけますか。

本田:僕は福岡県北九州市出身で、小学校低学年の時は野球少年だったんです。当時、プロサッカーリーグがなく、兄がやっている影響もありソフトボールを始めました。

並行してリトルリーグにも入って、プロ野球選手を目指していました。サッカーに関しては、運動神経が良かったので、友人のチームの人数が足りない時に誘われて、遊び感覚でやっていました。

――サッカーを本格的に開始したのはいつからですか?

本田:小学6年生の時です。父親が出張族で家にいないことが多かったのですが、少し落ち着いて、話をする機会が増えてきた頃でした。

その時に「スポーツは何をやってるんだ?」と聞かれたので、「野球。プロ野球選手になりたいんだ」と言うと「お前、今日から野球はやらなくていい。サッカーをやれ。これからはサッカーだ」と言われ、なぜかという理由をまったく理解できないまま、サッカーを始めるようになりました(笑)



――物凄いお父様ですね。

本田:北九州市は野球とサッカーが盛んな地域で、どちらも打ち込むには素晴らしい環境だったんです。僕の両親は共に背が大きくなかったので、父の中には『野球選手は体が大きくないと大成しない』という考えがあったようで、サッカーなら小さくても可能性があるのではと思ったようです。

当時の日本のサッカートップリーグであるJSL(日本サッカーリーグ)には、本田技研、トヨタ、日産、三菱などの大企業のチームばかりだったので、サッカーを頑張れば就職できるという魅力も、父にはあったみたいです。


――本格的にサッカーを始めてみて、どうでしたか?

本田:小6の途中からサッカーへの転向したのと、入ったチームが強豪だったので練習について行くのが大変でした。それから高校(注・名門の帝京高校)に入るまでの約3年半、父はスパルタでした。

ブリーダーをしていた父と、毎朝山頂にある公園までの上り坂3キロを、父が運転する軽トラックの後ろをドーベルマンと一緒に猛ダッシュして行きました。公園につくとサッカーの練習をして、下り坂を走って家に帰ってから、ご飯を食べて学校に行くのが日課になっていました(笑)

――当時、好きなサッカー選手はいましたか?

本田:鮮明に覚えているのは、1982年のW杯スペイン大会でジーコとマラドーナが対戦し、マラドーナが退場したブラジル対アルゼンチン戦です。ジーコは4人のカルテットにより力を発揮し、マラドーナは1人だけずば抜けていました。サッカーを始めたばかりの頃でしたし、2人からは物凄い衝撃を受けたのを覚えています。

――初めて履いたスパイクは何でしたか?

本田:プーマのマラドーナ使用モデルです。サッカーを真面目にやるようになってから、父は僕が履きたいものを買ってくれました。強制的にサッカーをやらせたので、お金をかけてくれたんだと思います。

――マラドーナモデルはどうでしたか?

本田:横幅が広く、足幅の細い自分には紐を強く結んでもフィットしなかったのですが、壊れても同じ物を履き続けました。それを繰り返しているうちに、足に合う物が欲しくなり、お店で試し履きをして「これが合う!」と思ったのがアディダスでした。

そのスパイクは取替え式の白ベースで、赤の三本線が入っているポイント式だったのですが、あまりにカッコ良過ぎて、硬い土のグラウンドでも無理矢理履いていました(笑)



――大のお気に入りだったのですね。

本田:ポイントが6本しかないスパイクだったので、足裏は常に痛かったんですけどね(笑)。その時父は「スパイクの外側が壊れない限り、ポイントを取り替えればずっと履けるな」と言っていた記憶があります。

――サッカーを始めた時のポジションは?

本田:僕は足が速くて器用だということで、最初はスイーパーをやらされました。なかなか点が入らない試合があり、途中から前のポジションに移動してゴールを決めて、それからはFWをやるようになり、どんどんサッカーが楽しくなっていきましたね。

――中学生時代はどうでしたか?

本田:本格的にサッカーに打ち込みたかったので、小学生の全国大会に出場しているチームの人達が進学する中学校に入るため、北九州市内で引っ越しをしました。サッカー部に入ったのですが、レベルが高くてついて行くのに必死でしたよ。

サッカー部の練習が終わって帰宅してからがまた大変で、一生懸命な父ととにかく練習をしました。父の車がある車庫の中にはゴールネットが張られ、ひたすらボールを蹴っていました。それが毎日でしたから、凄かったですね(笑)

本田泰人が激白!Vol.2「憧れのスパイクだった、ヤスダの帝京モデル」


北九州の中学校から、名門・帝京高校へ進学した本田少年。帝京入りの裏には、父親の大胆な売り込みがあった。

佐久間 秀実 | 2017/05/15

――北九州の強豪中学サッカー部を経て、東京の帝京高校に進学しますが、どのような経緯で帝京に進むことになったのでしょうか?

本田:中学の全国大会に出場した時に、対戦相手の選手を帝京高校の古沼貞雄監督が観に来ていて、その試合中に、なんと僕の父親が「息子を見てくれ」と売り込んでいたんですよ(笑)。

その試合で僕は3点取ってしまい、声がかかり帝京高校に行くことになりました。帝京の同期には礒貝洋光と森山泰行もいました。彼らとはジュニアユースの日本代表として、アジア大会二次予選でも一緒に戦いました。

――礒貝さんについて、数々のエピソードがあるみたいですね。

本田:礒貝は初めて見たとき、言動、行動、プレーがあまりにもスケールが大きく、同い年とは思えず、大人かと思いました(笑)。彼は東海大を中退してガンバ大阪に入り活躍をしていましたが、試合翌日にゴルフをしに行っていましたし、当時からプロゴルファーを目指していたのでしょう。彼の話は尽きないですよ(笑)



――帝京サッカー部の練習はどうでしたか?

本田:5列に並んでブラジル体操を「1、2、3! 2、2、3!」と声を出しながら軍隊のように行っていたので、「帝京ってカッコイイ! 凄いな!」と思いました。

監督がいる時は基礎練習ばかりをやっていました。パス&ゴーであったり、パス&コントロールであったり。監督がいなくなると、なぜかボールから離れてひたすら走り込みばかりをしていました(笑)

――高校時代はどのメーカーのスパイクを履いていたのですか?

本田:古沼先生がアシックスの方とお付き合いがあり、ジュニアユース代表もアシックスを着用していたので、アシックスを履き続けました。

――アシックスがサッカーに力を入れ始めた頃でしょうか。

本田:そうだと思います。サッカー部ではヤスダの帝京モデル(ユニフォームと同色)のスパイクを履いている人が多かったので、羨ましかったですよ。自分も帝京モデルを持っていましたが、アシックスしか履けない立場にあったので、3年間部屋に飾っていました(笑)。アシックスは幅広で革が柔らかく、自分の足には合わなかったですけどね。

――高校卒業後は、どのような道を選んだのですか?

本田:本田技研サッカー部がJリーグ入りを目指していると聞いていたので、高卒後の2年間は本田技研で会社員として働きながら、セミプロのような立場でサッカーをしていました。その後の2年間は会社とプロ契約をして、サッカーに打ち込みました。

F1などスポーツに力を入れていた本田宗一郎氏が亡くなり、社長が交代をしてから会社が方向転換をして、Jリーグ入りを断念したので愕然としましたよ(笑)。自分はプロサッカー選手として生きていきたかったので、Jリーグ入りをする数チームからオファーもあり、どうするべきか考えましたが、様子を観ながら本田に残りました。

――本田技研時代に履いていたスパイクは?

本田:本田技研に入った時はアシックスを履いていたのですが、サッカー部の先輩でアディダスのスパイクを履いていた黒崎久志さん(注・本田-鹿島-京都-神戸-新潟-大宮で活躍した、元日本代表FW)が、担当者を紹介してくれてアディダスと契約をし、支給された物を履いていました。



――数あるJクラブの中から、なぜ鹿島アントラーズに加入したのですか?

本田:本田技研4年目の時に、憧れのジーコがいる住友金属サッカー部(後の鹿島アントラーズ)と対戦することができました。そこで必死にディフェンスをするとジーコはかなり怒っていて、僕のことを覚えてくれるようになりました(笑)。

また、本田の総監督を務めていた宮本征勝さんが、翌年から住友金属サッカー部に監督として移動することが決まり、宮本さんから私を含めた7人に一緒にやろうとお誘いがあったので、移籍を決断しました。

ジーコと同じチームでプレーができますし、サッカー専用スタジアム、クラブハウス、グラウンドが何面も作られて、サッカーに打ち込める。環境の良さもあって、迷いは全くなかったですよ。

――鹿島に入ってみて、どうでしたか?

本田:最初は酷かったです。ボールを蹴る、止める、重要なことが出来ていない選手ばかり。しかも走れない。宮本監督も悩んでしまって、最初の4ヶ月間は走り込みをし、本田技研でやっていた基礎練習を繰り返しました。

宮本さんは本田出身の選手に対して、かつ丼を御馳走してくれて頭を下げながら「申し訳ないけど、基礎練習を一緒にやってくれ!」と仰ったので、チームのためにと我慢しながらやっていたのを思い出します(笑)

――当時、スパイクは何を履いていましたか?

本田:鹿島に移籍して、プロ選手としてアディダスと契約する予定でしたが、チームがユニフォームからスパイクまで全てミズノと契約してしまったので、2年間はミズノを履いていました。

その後、アディダスの方に足型を計ってもらい、オリジナルを履いていましたが、それがなぜか合わないんですよ(笑)。足のどこかがスパイク内部で引っ掛ってダメでした。

それで色々試して、市販の物で踵(かかと)の部分を重くして、足先を若干削って細くした物を履いていました。横にギュッと踏ん張った時に足のズレが無くなり、ターンがしやすくなりましたね。



――ピッチの状態に合わせて、スパイクを履き分けていましたか?

本田:ギュッと強く踏み込みたいので、どのようなピッチでも長めの取替え式のスパイクを履いていました。アディダスのスパイクは幅が細く、自分の要求を満たしてくれるので素晴らしいと思います。

自分とは対照的に、菊原志郎君(注・読売-浦和でプレーした元日本代表MF)は固定式しか履いていなかったですね。しかも、かなり緩めの物を紐を結ばずに履いていたので、シュートを打つと、スパイクがよく脱げていました(笑)。僕は紐に関しては、外側から通していき、緩まないようにきつく縛っています。



――憧れのジーコは、どうでしたか?

本田:ジーコには、とにかくビックリしましたね。ほとんど一緒に練習をしないで、新聞ばかり読んでいましたから(笑)。ジーコは基本的に自分で調整をしていて、週に1、2回、15分ぐらい一緒に練習をしていました。「当たり前だろ!」的な感じでやっていましたよね。

ジーコは日本の文化――例えば5分前行動などが大好きで、ブラジル人っぽくなかったですね。チームの移動着を黒のスーツ、白シャツ、黒の革靴と統一していた時に、シャツや靴の色が違う選手がいると「皆に合わせろよ!」と指摘をするなど規律を重んじていて、全てをサッカーに繋げて考えていたのだと思います。

本田泰人が激白!Vol.3「ジーコはまるで大統領のようでした」


サッカーを始めた時から大好きだったジーコがいる鹿島に入り、世界レベルのチームと試合をするなど、貴重な経験をした本田氏のジーコに対する熱い想いとは。

佐久間 秀実 | 2017/05/16

――Jリーグ開幕前に、鹿島でイタリア遠征をしましたよね。

本田:ジーコのツテでイタリアに遠征しました。イタリア代表のカブリーニョが経営するホテルに泊まり、イタリア3部のチーム、ボバン達がいるクロアチア代表、最終日にスキラッチ達がいるインテルと試合が出来たので、手配をしてくれたジーコは本当に流石だなと思いましたね。

――対戦して、どのような印象を持ちましたか?

本田:テレビで見たことある選手ばかりいて、スピーディーな中でもしっかりボールを蹴る、止めるができるレベルなので、凄かったですよ。プレッシャーがない中では、誰でも蹴れるじゃないですか。それを繰り返して練習しないと、動きながらは絶対に出来ない。

動きながらバチッと蹴れるのは、練習を繰り返してきた証です。もちろんスピードや駆け引きも重要ですけど、蹴る、止めるが何よりも大事なんだとイタリア遠征で感じることができて、素晴らしい経験になりました。



――その後、鹿島はブラジルにも行きました。ブラジルでのジーコはいかがでしたか?

本田:またまた凄かったですよ。ジーコは大統領のようでした。フレンドリーマッチで行ったのですが、移動バスの前後を警察の白バイ、車が常時スタンバイしていて、信号が全てストップした道を走って行くんですよね。日本では有り得ないですよ(笑)。

ジーコは前々から凄いとわかっていましたが、ブラジルに行って改めて凄さを実感しました。鹿島に入って、ジーコに出会ってからこそ実現出来たわけですし、そのような人からサッカーを学べたのは、僕の財産となっています。

――ジーコが履いていたスパイクを覚えていますか?

本田:沢山のメーカーの物を履いていたのではと思います。ブラジルの選手は、どのようなスパイクを履いても蹴れる自信があるでしょうし、ジーコもそうだったのでしょう。ジーコも止める、蹴る、ドリブルが本当に上手かったですが、基礎練習を物凄く大切にしていました。

――ジーコは日本代表監督もやりましたよね。

本田:代表監督の時は、日本を代表する選手達の集まりなので、規律などはわかっていて当然という感覚だったはずです。だからシステムだけを決めて、ピッチでプレーするのは選手だからとルールもあまり決めず、ある程度な感じでやっていましたね。

それがマスコミなどから批判をされていましたが、鹿島にいた僕たちからすると「ああ、なるほどな!」と思いましたよ。代表クラスでごちゃごちゃいう必要はないだろうし、選手達を信頼していたからこそでしょうね。ドイツワールドカップの時、やり切った感がある選手は引退しましたしね。

ジーコも選手達に、プライベートも含めて自由にやらせていましたし、試合に出ていた選手達は、思うような結果を残せなくて責任を感じていたはずです。鹿島のような弱小チームを強くするためには、結束を高めることが必要でしたし「ルールを守れ!」と、細かい事まで気にしていたのでしょうね。



――本田さんは、加茂周監督時代に日本代表に選ばれました。デビュー戦はいつでしたか?

本田:26歳の時に代表候補合宿に呼ばれて、正式に選ばれたのは28歳の時でした。1995年のサウジアラビア戦がデビュー戦です。試合前日のミーティングで、監督が自分の名前を忘れていたのには驚きましたよ(笑)。

初めは仕方ないと思いましたけど、代表に定着してから、何度も同じようなことがあったので不思議でしたね。本田って難しい名前じゃないですし、ちゃんと自分を観てくれているのかなと不安でしたよ(笑)

――鹿島ではキャプテンも務めましたね。

本田:25歳の時、ジーコの兄であるエドゥー監督から、ジーコの後継者としてキャプテンの指名を受けたので大変でした(笑)。自分は『どれだけ嫌われるか』と思ってやっていました。

ジーコのキャプテン像、日本代表では柱谷哲二さんの闘将、井原正巳さんの優しさ、色々なやり方があると思いますが、自分はチームのためにどうするべきかと追求をしていたら、非常に厳しいキャプテンになっていました。

――社交的な本田さんからは想像できません。

本田:若い選手には面と向かってダメ出しをしていたので、怖がられていました。選手の寮に住んでいて、風呂に自分が入りに行くと、自分よりも少し前に入ったばかりの選手たちが、一斉に急いで風呂から出て行ってしまうんですよね。

「おい、まだ入ったばかりじゃないか!」と思いましたよ。大体いつも、風呂は貸し切り状態で、自分が1人で入っていると、後からは誰も来ませんでした(笑)。「めんどくせーな。緊張するな」って思われているタイプだったと思いますよ(笑)。

気を遣って仲良くして、何も言えないような関係がチームにはよくないと思っていて、年齢関係なく意見を言い合える状態にしたかったです。サッカーに関しては、攻撃の選手は発想を自由にするべきだし、守備の選手は役割をきちんと行うべきだとも考えました。それから10年もキャプテンをやりましたね。

――日本代表での役割は、どうでしたか?

本田:代表のときは「自分が代表選手として生き残るために、どうするべきか?」を中心に考えていたので、自分に集中することができましたし、鹿島よりは考えることも少なかったですね。

――日本がW杯初出場を決めたイラン戦(1997年)は、あまりにも衝撃的でした。

本田:ジョホールバルでのあの試合は凄かったですね。その後のフランスW杯の直前に、カズさん(三浦知良)とキーちゃん(北沢豪)も代表メンバーから外れてしまったので、かなり驚きましたよ。「え~!なぜ、このタイミングで!?」って。



――三浦知良選手は、今でも活躍されていますね。

本田:サッカーへの情熱や得点感覚は今でも物凄いですよ。カズさんのピーク時を知っていますが、あれだけのコンディションを今でも維持して、試合数が多くて厳しい日程のJ2では、フィジカル的なコンタクトがJ1よりも多いでしょう。

「ここぞ!」という所で得点を決めるので凄いですよ。J1の強いチームに入って、周りに上手な選手が沢山いたらもっと点を取るはずです(笑)

――まさにキングですよね。

本田:初めはキングって聞いた時に「えっ? 何がキング?」って思いましたけど、こうやって今でも選手としてプレーしているんですから、本当にキングだと思います。

僕とかはレジェンドって言われますけど、キングはレジェンドなんて次元を超えていますし、違いすぎますよね。カズさんは、日本の誇りです。まだまだ現役を続けるでしょうし、今後の日本サッカー界を盛り上げる存在となっていくでしょうね。

本田泰人が激白!Vol.4「鹿島以外でプレーするイメージが沸かず、ユニフォームを脱ぐ」


現役引退がよぎり始めた頃、三浦知良、柱谷哲二など、交遊のあるレジェンドに相談した本田氏。一度は他チームに行くことも考えたが、最終的に鹿島一筋でユニフォームを脱ぐことを決めたのは、帝京時代の同級生、礒貝洋光の一言だった。

佐久間 秀実 | 2017/05/18

――本田さんは2006年シーズンを最後に、現役を引退することになりました。引退の理由はなんだったのでしょうか?

本田:その頃の鹿島は内田篤人選手達が加入し、世代交代が進んでいました。クラブからまず半年間の契約を打診され、他のチームからも話がありましたが、結局1年残り、その後は交渉の余地もなく、選手を続けるかどうかという話となってしまいました。

他のチームに行くことも含めて、ここら辺に住んで、練習場に行って、ユニフォームを着て…とシミュレーションしたのですが、まったくイメージが湧かなかったんですよね。



――そうだったのですか。

本田:プロ選手を続けるか、続けないかと言われても、体力的に衰えもなかったですし、結局自分には鹿島アントラーズしかないという考えに至りました。カズさん(三浦知良)や哲さん(柱谷哲二)達に相談すると「自信があるんだったら、続けたほうが良いよ。評価してくれるチームがあるんだから、そこで自分を表現していけばいいじゃん」と言ってくれました。

でも「引き際が大事だね。アントラーズだけで終われることは素晴らしいし、後にも続くんじゃないかな」という礒貝(洋光・帝京校時代の同級生)の言葉を聞いたら、スッキリした気持ちになり、引退を決めました。

――引退してから、どのようなキャリアを歩むことになったのでしょうか。

本田:今では若い選手達に『引退後の準備、イメージだけはしておいたほうが良い』と言っていますが、自分が選手の時は先輩達に言われても、まったく考えられませんでした。

なので、鹿島を辞めるのがほぼ決まってから「どうしようかな?」と考え始めました。クラブからは「コーチとして残るか?」と言われましたけど、コーチだけには興味が持てなかったんですよね。ジーコにも強く勧められたのですが、自分に向いているとは思えなかったので。

その後「アントラーズのアドバイザーとしてどうか?」という話があり、2年間アドバイザーを務めました。アドバイザーは、子供達のサッカークリニックを観に行ったり、試合前のイベントに出たり、ピッチとスタンドで解説や選手インタビュー等を行っていました。

裏方になると、選手時代に見えていなかったことが見えたので、改善したほうが良い事を色々言っていましたね。



――他にやろうとした事はありましたか?

本田:選手時代よりも経営者の方々と会う機会と考えながら学ぶ時間が多くなり、やりたいことが見えてきました。毎年アントラーズのスポンサーパーティーがあるのですが、選手の時は人見知りが激しくて、会場では静かにしていたんですよね。

現役の頃はサッカーのことしか考えられないし、パーティー会場にいるのが苦痛でしたね。自分とは対照的に、秋田豊君は積極的に沢山の人達に話しかけて、サインをして輪を広げていたので凄い人だなと思いましたよ。

僕の場合は現役を離れてから「あ、こういうのが必要なんだな!」とわかり、アントラーズと関わる、応援してくださるスポンサーの方々との交流がかなり増えていき、お酒を飲んでいると大体サッカーの話になります。あのプレーが、チームが、選手が…と始まりますが、僕はお酒が入るとサッカーの話をしたくないんですよ。

今までずっと、これでもかというぐらいにサッカーの話をしてきたので、お酒を飲む時くらいはサッカーから離れたい(笑)。でも、他の方々は僕と一緒にいるとサッカーの話をしたくなるじゃないですか。

――本当に、そう思います。

本田:それで話すと盛り上がるんですよ。「それ凄いです! 素晴らしいです! 本田さんのサッカー教室をやりましょう!」と話がどんどん進むわけですよ。

それで、翌日の昼間に電話やメールをしてみると反応が悪いんです(笑)。「あれ? そうでしたっけ?」みたいな感じで、何事もなかったかのように。「酒の力か!」って思い知りましたね(笑)

――私も似たような経験があります。仕事の話はいつしていますか?

本田:日中やランチミーティングの時にするようにしています。お酒が入ると本音が出て良いのですが、仕事の話をする際にお酒があると、話が進まなくてダメだとわかったので (笑)。

経営者でゴルフをやっている人が多いので、仕事のためにゴルフにも行っています。球技は何でも得意でしたが、ゴルフだけはどうにもならず、やり始めた頃は物凄く嫌でしたね。

でも、やり続けたら上達しましたし、ゴルフをしながらミーティングをするべきだと学びました。



――どれくらいのペースでゴルフをしていますか?

本田:去年は週2、夏は週3ペースでやりました。プライベートではなく、完全に仕事として割り切っていました。僕は広告会社の役員を務めているのですが、ゴルフをしている時に仕事が決まったりもしました。

現役引退間近の選手達がゴルフをやると、今後が見えてきて良いかもしれません。それこそ、鹿島にはゴルフ場が沢山ありますからね(笑)

――本田さんが会社を立ち上げるきっかけを教えていただけますか。

本田:大手芸能プロダクションの人に芸能界の話を聞いていたら面白そうに思えたので、芸能プロダクションに務めました。さすが芸能界だなと思うことが多くて、良い経験となりました。

それから、スポーツマネージメントの事務所を立ち上げたいというオーナーが僕に『会社を一緒にやらないか』と声をかけてくれたので、芸能プロダクションを辞めて、プロ野球選手やバスケット選手が在籍するスポーツマネージメントの会社に役員として入りました。

そこで2年間経験してから、現在は僕が代表取締役として運営する株式会社HY6(社名の由来は本田泰人6番)を自分で設立しました。ほかにも飲食店では「ステーキハウスUS6」を経営しています。

――Jリーグ選手OB会の副会長も務めていますよね。

本田:『JOB』(会長:柱谷哲二)で副会長をやっていまして、サッカー界に貢献することを目的に、無償でサッカー教室を開催する活動等を行っています。サッカーや他にできる事を通じて、サッカー界に恩返しができればと思っています。

――素晴らしいですね。

本田:Jリーグの新人研修では、OBとしてアドバイスをしに行くんですよ。 これからプロ選手としてやっていく人達は、夢がある一方で浮かれていたりもします。

そんな彼等に対して、「怪我や病気をするかもしれない。試合に出られないかもしれない。クビになるかもしれない」という話をしても、なかなか受け入れてもらえないんですよね。

僕も現役時代に先輩からそのような話を聞いた時に「今から辞めた時のことを考えるの?」と思いました。どうすれば説得力ある話ができるのか、今後の課題です。

本田泰人が激白!Vol.5「子ども達の育成を続けながら、クラブのGMをやりたい。自分から売り込みに行きます」


インタビューの最後は、育成年代の子ども達を指導する上で感じたことやクラブ経営について。そしてシニアカテゴリーでプレーする、現役選手としての視点から、スパイクに対するこだわりを聞いた。

佐久間 秀実 | 2017/05/19

――本田さんは経営者、JリーグOB会の業務以外にも、指導者をされていますよね。

本田:北九州市内に小、中学生のチーム「Honda Yasuto Football Academy」を立ち上げて子供たちに直接指導を行っています。

2017年の4月からは、偉大な大先輩である釜本邦茂さんから依頼があり、都内の高校サッカー部でも週1のみですがコーチとして就任しました。

他に後輩が運営しているサッカースクールでも指導をする予定です。大変ではありますが、育成が大好きだからこそできると思っていますし、サッカー界のために可能な限り携わっていきたいです。



――指導者として、どのようなことを心掛けていますか?

本田:多くの指導者を目にしますが、子供の長所を生かそう、伸ばそうとしないで、型にはめてしまい、成長を止めているようにも見えます。

例えば、小学生でドリブルが得意な選手がいたら、とことんドリブルをやらせようと私は思うのですが、それを「今はパスを出せよ!」と言って、その子の長所を制限してしまうんですよね。ネガティブな、駄目な所だけを指摘している指導者を見かけます。

――育成年代の指導者としては、難しいところですね。

本田:試合に勝ちたいからと言って、チームで一番足が速くて上手で、攻撃が得意な子をDFにすれば失点をせず、負けにくくはなりますが「育成の段階で、それはどうなのかな?」と思います。僕は子供には、楽しみながら長所を伸ばしていく指導をしたいです。



――本田さんは飲食の事業もされていますが、子供たちに食事のアドバイスをすることはありますか?

本田:昔はとにかく量を食べさせられましたが、今はたくさん食べることができない子が多いので、食育も行っています。月に一回、免許を持つ栄養士とトレーナーを呼んで、話をしてもらっています。

食事は非常に大切です。「好きなもの、何でもいいから食べよう」と言いますが、「たんぱく質や炭水化物を、試合前日や当日にこれだけ食べよう」とまでは、なかなか言えないんですよね。

親にも準備がありますから。夏場になると食べられない子が多く、そう麺やざるそばを持ってきたのには困りましたね。

――それだと試合で力が出ませんね。

本田:流石に麺類は禁止にして、おにぎりを2、3個持って来させています。焼き肉弁当を持ってくる子がいれば、褒めて見本にもします。やっぱり肉を食べるべきですよね。僕は、肉ばかりを食べていましたよ。

今ですと、野菜も必要になっていますが、僕の場合は肉だけで、野菜はほとんど食べませんでしたね。僕は背が小さかったですがハンデを感じなかったですし、肉とトレーニングでどうにかしていましたよ。

――トップチームの監督に興味はありますか?

本田:育成は大好きではありますが、監督よりもチームの運営やGM(ゼネラルマネージャー)の方に興味があります。限られた予算の中で、どれだけの選手を集められるか。給料をいくらにするかなどのマネジメントをしてみたいです。

――鹿島では、本田さんと同時期にプレーした石井正忠さんが、監督として活躍されていますね。

本田:石井さんはチームを強くし、去年はクラブワールドカップでレアル・マドリードと死闘を繰り広げました。アントラーズの人たちはジーコから「監督、スタッフ、選手と互いにリスペクトをするように」と教わり、確実に結果を出していると思います。今年もどこまでやってくれるのか。楽しみでなりません。

――今後、やりたいことはありますか?

本田:いまは育成が楽しいので、未来のJリーガーや日本代表を育てていきたいです。その上でGMが出来たら嬉しいです。クラブの内部に入らないとわからない事だらけだと思いますが、予算の中で強化費がどれぐらいなのかとか、GMに関する色んな話を聞いたりして、勉強を続けています。オファーはないので、自分から売り込んでGMになれればと思っています。

――その姿勢が素晴らしいですね。

本田:僕は鹿島への愛が強く、チーム強化に関する勉強をしたいと思い、強化部に入りたかったのですが、実現はしませんでした。今でも試合を観に行った際には「強化部に入れてほしい」と言っています。ハードルは物凄く高いですが、自分にとっての夢なので挑戦し続けようと思います。

帝京高校時代の後輩が強化部にいるので、彼の下に入れてもらえたら良いですね(笑)。クラブにGM職があれば、より良い運営ができると思いますよ。仮にチームが成績を残せなければ、GMが責任を取れば良いわけですし。

――本田さんは町田ゼルビアの強化部にもいましたよね。

本田:秋田(豊)君が町田の監督時代に、1年いました。素晴らしい経験だったので、またぜひやりたいです。



――インタビューの最後に、改めてスパイクへのこだわりを聞かせてください。本田さんはアディダスと契約されていて、子供の頃はアディダスの取替式のスパイクを大事に履いていたそうですが、現代のスパイクについて、どう思いますか?

本田:昔はカンガルー革や合成の革でも、厚みのある物を履いてボールを蹴っていました。その時の感覚で育ってきているので、現代の軽量化を追求した、薄い紙というか布のような物にはビックリしています。

自分が現役の頃から軽量化が始まっているのですが、踏まれると物凄く痛いですし、ボールの芯に正確に足を当てないと飛ばないんですよね。

――スパイクはキックに大きな影響がありますよね。

本田:僕が現役の頃はインサイドやインフロントなど、大体の感覚で蹴ってもパスが正確に繋がっていました。ところが、最近のスパイクを履いてボールを蹴ると、ちゃんとミートしてくれなくて、思った所にボールが飛ばなかったり、ズレたり、弱かったりするんですよね(笑)。

だからスパイクは進化しているようで、退化している感じがします。フリーキックをインフロントで蹴る時に、ボールにあまり回転がかからないんですよね。もちろん、筋力の衰えもあると思いますが、このペラペラなスパイクでどうやって正確に蹴れば良いのかと考えさせられます。



――最近は、アディダスのどのシリーズを履いていますか?

本田:ACE、X、COPAなど、色々試しています。COPAは昔のスパイクに近い感じがしますが、革が柔らかくて、2回履くと緩くなってしまいます。新しいシリーズではXが合いますね。

足首までかかるスパイクは、足首を守っているのだとは思いますが、履き始めは違和感がありました。何回か履くと、慣れましたけどね。革がペラペラなスパイクは、パチーンと蹴れた感触がありません。

現役の選手達の声を聞いて、このようなタイプの物に変わってきているのだとは思いますが、正直、僕には良いのか悪いのか、わかりません。



――本田さんがシニアサッカーを始めるキッカケを教えていただけますか?

本田:帝京の先輩と会った時に、「ちょっと写真いい?」と言われ、よく分からないままスマホで撮られて免許証も渡したんですよね。すると、いつの間にか帝京サッカー部OB主体の40歳以上のシニアチーム「Tドリームス」に登録されていて試合に行くようになったのがキッカケです。あれにはビックリしましたよ(笑)

――40歳以上のサッカーをやってみて、どうですか? .

本田:ありがたいことに40歳を過ぎてもサッカーが大好きとサッカーに携わっている人達が多いなって実感しています。理想のプレーに対しての考えは、現役時代と根本的には変わらないですが、自分も含め皆シニアの選手ですからスピーディーなサッカーとはならないですよね。

先輩や後輩達が集まったメンバーの中で、チームとして1プレーヤーとして何ができるのかを常に考えています。 きちんとしたボールを蹴りたいので、アディダスショップに行って、試合で履く物をこだわって選んでいます。自分は選手でもあり、監督でもあるから大変ですけどね(笑)。

フリーキックやコーナーキックを蹴る時に「このタイミングで入ってきて」と指示をするので、正確に蹴って説得力を持たなければなりませんから。



――では最後に、本田さんにとってスパイクとはどのようなものでしょうか?

本田:サッカーをしていくうえで欠かせないもの。蹴るための道具であり、重要な履物です。イメージ通りのキックをするために「これ!」というスパイクを探し続けています。まだ旅の途中ですし、まだまだ増え続けるでしょうね。

いまも選手時代に僕を担当してくれた人がアディダスにいまして、何かあればすぐ伝えています。引退してからの方が、スパイクに対するこだわりが強くなっているのかもしれません(笑)


本田元主将にインタビューを行ったKING GEARの佐久間氏である。
サッカーを始めるきっかけ、鹿島入団、ジーコのことなど興味深いエピソードが並ぶ。
特に父親の影響は大きいように感じさせられる。
偉人をつくるにはその親は重要であるということが伝わってくる。
また、鹿島強化部入りの夢を強く持っているとのこと。
難しいポジションであり、並大抵のことでは入閣は難しいであろうが、ハードルが高ければ高いほど燃えるもの。
実現のための努力を続けて欲しい。
引退後のサッカー選手の一つの形を垣間見ることが出来た。
ありがとう。

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