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全力の男・岩政大樹

すべてに力を抜かずに全力で取り組むことを習慣づけられたことが大きかった
08.7.25 UPDATE
― 小学生時代(大島サッカースポーツ少年団)
サッカーが好きでしたので、小さい頃からボールを蹴ってはいたのですが、住んでいたところにサッカークラブがなかったので、正式にクラブに入ったのは4年生の頃でした。そのクラブは僕が行っていた小学校でやっている少年団ではなく、別の小学校でやっていた少年団だったのですが、他の地域の子も受け入れていることをその小学校に赴任していた母が知ったんです。その話を母から聞いてから、どうしても入りたくなってしまって、入れてもらいました。大島サッカースポーツ少年団は周東リーグにあるチームだったんですが、僕は周東リーグの選抜である周東FCにも選ばれて、周東FCで県大会に出ていました。多い時には、少年団に水、土、日、周東FCに火、木、土、日と練習に出ていました。火水木そして土日は2部練でサッカーばかりしていました。周東地区は日本サッカーリーグだった永大産業サッカー部が数年間あった地域だったんです。そこでフォワードをしていた二人が大島サッカースポーツ少年団と周東FCの監督だったんですね。だから、田舎にしては指導者にすごく恵まれていた環境でした。その二人は技術もありましたので、すごく憧れていました。指導はすごくスパルタでしたよ。2時間の練習だったら6〜7割は走っていました。当時、多々良学園より厳しいって言われていましたからね(笑)。厳しくとも人間的に素晴らしい人でしたので、僕は尊敬していました。

周東FCは僕の一つ下まで県大会で6連覇している強いチームでした。おかげで、僕は6年生の時によみうりランドの全国大会に出場しました。隣ではプロ選手が練習していたんです。当時はヴェルディがすごい時代で、ちょうどカズさんやラモスさんたちが紅白戦していたんですね。「ああ、すごいなあ」って思った記憶があります。全国大会ではグループリーグの初戦が優勝した浜松JFCだったんですが、その試合に引き分けたので、やや慢心したのか、その後調子に乗れず、敗退してしまいました。
― 中学生時代(大島JSC)
大島JSCは僕が中学校に上がる時に出来たチームです。というのも、大島サッカースポ少に所属する子どもたちが中学校に上がった時にサッカーをする環境がなかったので、指導者の方が作ってくれたんです。僕は中学校に上がる時にサッカーを止めるつもりだったんですけど、大島JSCが出来ると聞いて続けることを決めました。僕がいた地域の中学校では必ず部活に入らなくてはならないので、大島JSCの練習は土日だけでした。僕は陸上部に入りました。…というか、陸上部しかなかったんですけどね(笑)。大島は年に一度、大島駅伝という大会があって、駅伝が盛り上がる地域だったんです。僕がいた中学校は全校で30人くらいしかいない学校だったんですけど、伝統的に陸上が強い学校だったために、男子は強制的に全員陸上部に入るようになっていました。男子が全員入ると言っても、20人もいませんから、誰に勝ったか負けたかという世界なんです。学年の中では僕が一番速かったんですが、僕に勝とうとするヤツが出てくるんですよね。そいつらには絶対に負けられないから、帰宅してから隠れて走ったり、朝も走ったりしていましたね。夏休みとかでも午前中に陸上の練習で走って、午後にサッカーの練習をしてなんてやっていました。とにかく忙しかったです。生徒会長でしたし、陸上部のキャプテンでしたし、サッカークラブのキャプテンでもありました。勉強もしなくてはいけなかったですし。おかげで走る能力というよりは、忍耐力が磨かれました(笑)。
まだ山口県にはクラブチームは10チーム程度しかない時代だったので、チームの順位は上の方でした。大島JSCは土地柄もあってか、頑張るチームでした。他のクラブチームは都市部のチームだったので、上手い選手はいるんですね。でもウチは頑張って勝つチームでした。それで、3年生の時にはなんとか県で優勝できるくらいまでにはなりました。
― 高校への進学
大島の高校にも大島から少し先の高校にもサッカー部がなかったんです。だから、サッカーを続けるのは無理かな、と思っていたんです。そんな時に転機が訪れました。大島JSCが県のクラブチームの大会で優勝したので、中体連の優勝チームと中国大会に出るチームを決める試合に出たんです。相手とは力の差はあったんですけど、その試合での僕の出来が良かったんですね。見にきていた多々良学園の方が好待遇で僕をスカウトしてくれたんです。「多々良がそんなに誘ってくれるんだったら、高校でもサッカーできるだろう」と思い始めたんです。ただ、両親が教師で、その姿を小さい頃から見て育ってきたから、サッカー一本で進路を決めて行くことには違和感がありました。勉強もしっかりやれて、高校サッカーがだめになっても大学に行くという選択肢を残せるところ。岩国高校だったら、片道1時間半あればギリギリ頑張れば通える。ということで岩国高校を志望しました。大島から橋を渡ったところにある駅から電車で通うんですが、その駅まで自転車で40分くらいかかるため、毎日親に送り迎えしてもらいました。こんなに大変だけれど、それでも行くのかと散々言われましたね。僕の気持ちは決まっていたのですが、親を説得するのは大変なことでした。
― 高校生時代(岩国高校)
何にも調べずに入学したのですが、岩国市でサッカーをしている一つ上の世代にいい人材が豊富で、その人たちが運よくみんな岩国高校に来ていたんです。指導者の方も山口県のトレセンに関わっている先生でした。おかげで僕が通った3年間はなかなか強かったですね。先生が厳しかったので反発する人たちもいたんですが、僕の性格上、指導者の声に耳を傾けてしまうタイプなので、ヘディングの仕方から、細かい技術まで、いろいろなこと素直に学ぶことができました。1年上の代では県大会決勝で多々良学園と戦うまでには行っていたんですけど、ちょうど高松(大分)がいたりして多々良も強かったので、結局、その壁は破れませんでした。
3年の時に国体選手に選ばれました。多々良が15人中11人いて、残り4人の中の1人でした。まあ、多々良の選手に遠慮しながらやっていましたね(笑)。でも、彼らはやっぱり目指しているものが違ったんですよね。僕らは多々良を目指していてやっていましたが、多々良の選手は全国を目指していて、質も要求も違いました。そういう意味ではためになったと思います。予選ではメンバーとして出場していたんですが、国体の本大会に出かける前日に中足骨(足の甲の外側)を折ったんです。久しぶりに出る全国大会で自分の力を試して高校サッカーを終えるんだと思っていたのに。登録変更は1週間前までしかできませんでした。痛いし、出られなくて悔しいし。僕は行きたくなかったんですよ。でも、両親も祖父母も県の代表として国体に選ばれたことには間違いないんだから、国体選手として行ってこいと言ってくれたんです。その言葉に背中を押されて行ってきたんですけど、集大成になるはずだったのが見学で終わったことが、その後の進路を変えることになったんです。

それまでは大学に入ったらサークルとかではやろうと思うくらいで、本格的なサッカーはやめるつもりだったんです。そうやって自分の気持ちを抑えようとしていたんだと思います。国体の2週間後に選手権予選があったんですけど、もやもやしていて、まだ骨はくっついていないのにギプスをつけたまま出てしまったんです。そしてかなり上まで行くだろうと思っていた僕の代は2回戦で負けてしまったんです。国体に出られなかったこと、選手権予選の結果。自分が全力を出したかったことがこんな結果になってしまった。これで終わるのか。そう思って、翌日の模試の日に、親が校門まで送ってくれたんですけど、その模試を受けずに一人で考えこんてしまったんです。その帰りの車に乗った瞬間に「やっぱりサッカー続けるわ」と言ったことを覚えています。最初は中国地方にあって教師になるという自分の希望が達成できる大学に行くつもりだったんですけど、関東の大学に行くということを決めました。
東京学芸大を選んだのは教師になりたいという希望に即した大学だったこと、行こうと思っていた大学とほぼ同じレベルにあったこと、関東一部リーグだったことが大きな理由です。筑波大学という選択肢もあったんですが、体育学部に入るつもりはなかったんですね。体育学部じゃなくて筑波でサッカーできるのだろうか、と思ったんです。それで普通に受験をしました。センター試験次第では私立も考えなきゃなと思っていたんですけど、センターがなかなか良かったんです。また学芸大の場合、数学科だと後期は数学だけでいいんです。私立の場合、2〜3科目必要だったので、それよりも数学に集中した方が行けるかなという気持ちもありました。
― 大学生時代(東京学芸大)
初めてアパート暮らしをするんですが、今思うとひどかったですよね(笑)。僕のところが学校に一番近いアパートだったんです。それがいけなかった。1年の時は完全にみんなのたまり場になってしまいました(笑)。僕の部屋のカギがサッカー部の仲間の中で出回っているんです。おかげで授業の合間には必ず誰かがいました。炊事、洗濯、掃除も慣れなかったですし、人もいっぱいいたから、どんどん汚くなっていましたね。部活の方は、高校卒業の日に中足骨骨折を再度やってしまっていたので、プレーできるようになったのは5月からだったんです。だから練習は見学していましたし、学部もみんなと違ったので、なかなか仲間に入れなかったんですね。みんなはお昼を学食で食べるんですが、僕だけアパートに戻って、インスタント食品を食べて、午後の授業を受けていました。1〜2 か月は寂しかったですね。
チームにはいい選手がたくさんいました。ただ、全体のレベルは高くはあっても、集めているわけではないので、驚くほどではありませんでした。僕は中足骨骨折から復帰して1週間でスタメンに入りました。センターバックをしていた方が卒業したため、最初は真ん中が安定しなかったんですね。それで僕を試す形で使ってくれたんです。僕もなかなか安定していなかったと思います。最初の練習試合でオウンゴールをしてしまい、終わったな…って思ったんですが、それでも我慢して使ってもらえたんです。そんな状況だったので、僕自身ここで生き残っていきたいという気持ちでプレーをしていましたから、周囲を見回す余裕はありませんでした。
学芸大はサッカーをいろいろと考えるチームでした。学芸大よりもタレントが揃っている筑波や国士舘にどうやって打ち勝っていくかを考え、それが瀧井先生のゾーンプレスだったので、ゾーンプレスに関してはすごかったですね。監督は卒業生の方だったこともあって、受け継がれたものをさらにみんなで話し合って擦り合わせていました。特に全体での守備の動かし方は高校まではあまり考えていなかったことでしたし、考えすぎて、むしろ頭でっかちになるような感じでもありました。

1 年のリーグ戦終了時に大学選抜に選出されました。監督が瀧井さんだったので、将来性を見込んで入れてもらっていたんだと思うんです。だから、ひどかったですよ。ヘディングに関してはリーグ戦で巻さん(千葉)や曽田さん(札幌)のような高さに強いという人たちと競っていく中で、多少はできていたので、けっこう自信がついていたんです。でも大学選抜に行くと、周りは市船や帝京というサッカー有名校出身の上手い選手ばかりで、ミスとか全然しないんですよ。ミスしないことが当たり前の世界に、全国初心者の僕がポンと入ってしまったんです。コーチからも集中攻撃を受けて。いやあ、落ち込みましたよ。合宿から帰ってきて「絶対にみんなのレベルの追いつくんだ」と徹底的に練習をしました。その後、大学選抜には入ったり入らなかったりしましたが、大学選抜の練習に追いつくために次はなにをしよう、ということの繰り返しでした。僕たちの頃は大学選抜に入っている選手がJに行けるという世界でしたので、なんとかそこに入っていけるようにすればプロ選手になれるんじゃないかと思いながらやっていました。そういう意味で大学選抜がひとつの目標であったし、ものさしでもあったと思います。
ユニバは2年生の時に、最後の合宿まで連れて行ってもらって、最後に落とされる3人の中に選ばれました(笑)。今思うと、落ちて当然なんですけど、落ちると悔しいので、落ち込んでいましたね。特に上手い人たちを見て、こういうこともしなければいけないんだ、ということを考え始めていた時期でした。また、落ちてすぐに3度目の中足骨骨折をして、リーグ戦に復帰したと思ったら4度目の中足骨骨折をしたので、リーグ戦にはほとんど出場できていないんです。だから 2年生の時は厳しかったですね。1学年下にいい選手がどんどん出てきていて、周りの評価が落ちてきたように思えていたんです。ああ、やばいな…って思っていました。ライバルは戸川(横浜FC)でした。すごいなって思っていて。選抜で一緒にやっていても、こいつはすごいなって思っていました。新しい大学選抜が発足した時に僕らの代が一番上だったんですが、僕が最初にキャプテンになったんですね。僕の中では戸川がふさわしいんじゃないかなって思っていたくらいです。そこに村山(大宮)とか、下だと深谷(大分)とか江添(C大阪)とか長野(福岡)とか、僕らの代と1学年下にはいい選手がたくさんいましたね。
3年の5月に大学選抜のスイス遠征があったんです。U-20で1学年下だったんですが、僕は早生まれだったので入れたんです。その遠征で掴めたことがあったんです。自信を取り戻したというか。20分ハーフの試合を一日何本もやっていく大会だったんですけど、自分が良かったこともあるし、監督とコーチが僕のことを信頼してくれて、あとはお前に任せたぞ、と言ってくれたことが大きかったと思います。そこからプレーが落ち着いてきたのは自分でもよくわかりました。
後期リーグは、巻さんと深井さんが二人で高得点をあげて、駒沢大学がダントツだったんです。駒大は巻さんにどんどん上げて深井さんが拾うというスタイルだったんですが、僕が巻さんに勝てるかどうかが大きなポイントになったんです。そんな駒大に学芸大は2連勝したんです。これで周囲の目も変わってきたんです。おかげでプロの誘いもいただくようになりましたし。3年生の秋はすごく良かったと思います。
3年生の秋に山本昌邦監督のU-22代表候補に入りました。その1月の合宿でJ所属の選手たちとプレーをして距離をすごく感じてしまったんです。質も要求もレベルも技術も違ったんですね。でも、一番違ったのは大学生に対しての見る目が違うんです。僕が何かを言ったとしても「いや、お前は大学生だから出来るんじゃないか」って言われました。ムッと来たけれど、言い返せなかった自分がいたんです。そこで、もしJに行くんだったら早めに慣れておいた方がいいなと思って、瀧井先生にどこかのチームに練習に行かせてほしいとお願いをして、いろいろなチームの練習に参加させてもらいました。

鹿島に決めた理由としては、正直、鹿島というチームが好きだったんです。ジーコも好きでしたし、小さいころには鹿島のユニフォームとかも持っていたんです。それで鹿島に入れたらいいなって思っていたんですが、3年の終わりの天皇杯で鹿島と対戦して0-4で負けてしまったんです。ああ、これで鹿島はないな、とあきらめていたら、4月に呼んでいただいたので、この時点で「行くなら鹿島だな」と思ったように記憶しています。だから話が来た時にははしゃいだり、ガッツポーズをしたりしていたと思います。夏に練習に参加しました。思ったとおり、すごいメンバーでした。僕は左のセンターバックで出たんですが、右が秋田さんで、左が相馬さんだったんです。このお二人が練習中けっこう言い合うんですよ(笑)! 鹿島はやっぱりすごいなあって思ったことを覚えています。こんな勝者のメンタリティを持っているチームに入れば、人間としても学べるものがあるんだろうなって思いました。
― プロになれた一番のポイントは?
プロになれたということだけではなく、プロで試合に出場し続けていられるのは、中学校の頃にすべてに力を抜かずに全力で取り組むことを習慣づけられたことが大きかったと思います。生徒会、勉強、陸上部、サッカー…。本当に時間が足りなかったんです。朝練で走って、昼休みにはサッカーの練習をして、授業を終わって生徒会の練習をして、遅れて陸上部の練習をして、帰ると真っ暗で、夕飯を食べると疲れてどうしようもなくなるんですけど、少しでも勉強をしなくちゃいけないから勉強をして。何にも負けたくないという精神です。おかげですべてに100%全力を尽くせるようになりました。それはセレーゾ監督もアウトゥオリ監督も強調していることで、プロになったこと、プロになってから、双方において良かったことだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

岩政がどのような半生を歩んできたのかが良く伝わってくる。
単なるサッカー人生は歩んでおらぬ。
努力することを怠らぬよう幼少の時期から培われてきたのであろう。
これは周囲のサポートがあってこそである。
よほど人間との出会いに恵まれてきたのだと思う。
これからもそうであって欲しい。
人材登用に積極的な長州ならではである。

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深い愛。
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