黄金世代・小笠原満男
【黄金世代】第3回・小笠原満男「誕生、東北のファンタジスタ」(#1)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年06月16日
小学校時代は、スピード溢れるドリブラーの点取り屋。

謙虚で素朴で実直で、時折少しだけ、内に秘めたる熱い闘志を発露する。どこまで飾らない男、小笠原満男。その素顔がここにある。写真:佐野美樹
いまから18年前、金字塔は遠いナイジェリアの地で打ち立てられた。
1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。
後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。
アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。
今回は鹿島アントラーズの闘将、小笠原満男の登場だ。
サッカーとの出会い、小・中・高の歩み、黄金世代の仲間との切磋琢磨、常勝軍団・鹿島への語り尽くせぬ想い、さらには、光と影が絶えず交錯した日本代表での日々まで──。深みのある独特の言い回しで、数多の金言や名エピソードを盛り込みながら、紆余曲折のキャリアを振り返ってくれた。
焦がせよ、東北人魂!
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およそ3か月ぶりに再会した小笠原満男は、ずいぶんと精悍な顔つきになっていた。
時は1997年の夏、静岡・清水の草薙サッカー場だ。全日本ユースの1回戦、大船渡高校対清水商業高校の一戦がまさに始まろうとしていた。
左腕に巻いたキャプテンマークの位置を確かめながら、チームメイトに発破をかけている。
高3になってすぐ、小笠原は足首を傷め、サッカーボールを蹴れない日々を過ごした。責任感がひと一倍強い男だ。新主将となったもののチームのためになにもできず、もどかしさを抱えるなか、強く自己を律したという。
「いろんなひとに言われた。怪我をする前以上になって戻ればいいんだって。だからリハビリはけっこう頑張ってやったよね」
その期間、上半身を重点的に鍛えたからだろう、身体が一回り大きくなったように見える。華奢でどこかひ弱だったイメージは一変し、短く刈り込んだ髪型もあいまって、ずいぶんとパワフルな印象を与えた。風貌はほぼ、現在のそれと変わらない。
万全を期して復活を遂げ、全日本ユースの初戦に間に合わせてきた。やがて、選手入場。小笠原と並んで入場したのは、相手チームの主将、小野伸二だった。
「当時のキヨショウ(清水商)はシンジを筆頭にすごいタレント集団だった。あんなチームを向こうに回して、俺たちはどうしたら勝てるのか。みんなで何度も話し合った。小野伸二へのマークは1人じゃだめだから2人にしよう。それでも無理だったら? 3人で行く? そりゃさすがに無理だろう、みたいな。作戦会議をやってたね。
スコアは接戦だったけど、内容的にはもうぜんぜん。シンジとは国体やインターハイでも何回か戦ったけど、一度も勝てなかったね。でもさ、東北から出てきてああいう強豪とやれて、すごく充実感があったし、楽しかったのを覚えてる」
そう微笑を浮かべながら振り返る38歳のミツオ。だが、大一番に賭けていたのだろう、18歳のミツオは試合後、目を真っ赤に腫らし、涙がこぼれるのを必死に堪えていた──。
いろんな遊びの中にも、大事な“学び”があった。

初めて“日の丸”に選ばれたのは、1994年のU-16日本代表合宿。中列左から2人目が15歳の小笠原だ。そして同じ列の右から3人目には……。(C)SOCCER DIGEST
1979年4月5日、東北のファンタジスタは岩手県盛岡市で生を受けた。
物心ついた時にはサッカーボールを蹴っていたという。父親が地元の社会人チームでプレーしていたため、練習や試合の際にはくっついていき、大人たちに遊んでもらっていた。
小学生となり、近隣に唯一あったサッカー少年団への入部を切望する。だが、無念にも対象は小学3年生から。父親とこんな会話をかわしたという。
「サッカーを本気でやるなら、最後までやり抜けって言われた。一生懸命やってそれでも入りたいならいいけど、やって途中で辞めるくらいならいますぐ辞めろと。約束したよ、それは。だから小3まではほとんどひとりで練習してた。家の前でね。壁に向かってひたすらボールを蹴って、たま~に大人に相手してもらったり。そんな2年間だった」
壁に蹴って、止める、また蹴る。単純な単複練習だったが、ひたすら繰り返すことで、狙ったところに蹴れるようになっていった。誰に教わるでもなく、自然と身に付いた基本技術。本人は、「完全な天然児。ブラジルのストリートサッカーみたいなもの」と説明する。
「いまはサッカーだったらサッカーだけだったりする。でも俺は、野球もやったし鬼ごっこや缶蹴りも本気でやった。いま思えば、ああいうのってすごく大事だったなと思う。
遊びとはいえ、決められたルールの中でぎりぎりの駆け引きってあるじゃない? 野球だってフライを取るためには落下地点を読まなきゃいけなかったり、ステップワークやら、なにかしら吸収できるものがある。サッカーに熱中はしてたけど、そうしたいろんな遊びの中にも、大事な“学び”があったよね」
晴れて、太田東サッカー少年団に入団する。小笠原は小3ながら、すぐさま試合に出場。上級生たちに揉まれながら、鍛えられていく。「ありがたかった。ぜんぜん通じなかったけど、あれが田舎の少年団のいいところ。すごく技術を大事にしてたし、いいチームに入れて良かった」と懐かしむ。6年時には主将を任され、全日本少年サッカー大会にも出場した。
小学校時代はフォワードで、「いまじゃ想像もつかないだろうけど、スピード溢れるドリブラーの点取り屋」だったという。盛岡市立大宮中に進学すると、中盤にポジションを下げ、「パスを送るところに楽しさを感じるようになった。小学校ではぜんぶ自分で行って点を取ってやるみたいな感じだったけど、アシストの喜びを知り出すのかな」と、ファンタジスタへの布石を敷くのだ。
圧倒的な技巧を誇る小笠原が、青年時代に憧れたプロフットボーラーはいたのか。意外な選手の、意外なプレーに興奮したという。
「あんまりこれっていう選手はいなくて、レンタル屋さんでワールドカップのゴール集を借りてくるくらい。普通にマラドーナとかすごかったけど、ちょうど中2でJリーグが始まったから、もっと身近に見れるようになったよね。
ジーコはすごいなぁとか思ってたけど、一番印象的だったのがラモス(瑠偉)さん。必死にボールを取り返しにいく姿を見て驚いた。あれくらいの選手でもやるんだって。小さい頃から『取られたら取り返せ』っていつも言われてきて、ああ、プロでもするんだと。ああいうプレーがすごく好きだった」
次元が違う。一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた。

全国へ行くなら盛岡商、サッカーを学びたいなら大船渡。ミツオ青年は後者を選び、齋藤重信監督(右)の薫陶を受けるのだ。写真は高3時の高校選手権。(C)SOCCER DIGEST
高校進学は、ひとつの岐路だった。
地元の盛岡には、名門の盛岡商業高校がある。だが小笠原には気になる人物がいた。盛商を強豪に育て上げたのちに大船渡へ転勤した齋藤重信監督で、その名伯楽の薫陶を受けたいとも考えていたのだ。
全国に出るなら盛商、サッカーを教えてもらうなら大船渡。15歳は決断する。
「最終的には巧くなりたいってのがあったから、齋藤先生のお世話になろうと決めた。結果的には全国にも行けたし、大船渡を選んで本当に良かったと思う。まあまあ中3の頃って、なにかと多感じゃないですか。親にも反抗的だったし、親元を離れてみたいとも思ってた。
それが齋藤先生の家に住ませてもらったら、もっと厳しくてさ(笑)。きちんと靴を揃えたり、料理を作ったりとか、当時はきつかったけど、いまとなっては感謝しかない。ひとりでなんでもできるようになったからね」
大船渡は決して強豪校ではなかった。同級生には、中学時代に野球をやっていて、高校でサッカーを始めた初心者も少なくなかったという。そんな選手たちが最終的にレギュラーの座を掴み、ともに成長しながら全国の舞台をも駆け抜けた。ひとつの財産だと、嬉しそうに振り返る。
「もうね、サッカー始めた動機からして、ボウズが嫌だとか、サッカーの方が人気あるからみたいな感じだから。でも、さっきのキヨショウとの試合もそうだけど、本当に楽しかった。レギュラーのうち3人は、中学校までショートとキャッチャーと外野だからね。キャッチャーはやっぱりがっちりしてて当たりに強かったし、ショートはキーパーだったんだけど、横に飛んで捕るのに慣れてるからすんごい巧かった。強いチームで全国に出るのは当たり前。だけど俺らの場合は、そこに至るまでの過程が本当に楽しかった」
高校入学前から、東北のユース年代では知らぬ者がいないほど有名だった。やがて、日の丸に初めて招集される。中3時のU-16日本代表だ。
そこで初めて、小野や稲本潤一、高原直泰らとの出会いを果たす。つまり小笠原は、黄金世代が産声を上げた当初からのメンバーだったのだ。
しかし──。
「とんでもない。次元が違う。一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた」
その代表合宿で15歳のミツオは、いったいなにを目撃したのだろうか。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/505試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月16日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「衝撃のオノシンジ」(♯2)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年06月22日
一瞬にして、いろんなものが打ち砕かれた。

黄金世代との邂逅を振り返った小笠原。笑みを浮かべながら、「俺なんかもうぜんぜん」と呟いた。写真:佐野美樹
岩手のみならず東北でも名の知れた存在だった小笠原は、中3で初めて世代別の日本代表に招集される。1994年、U-16日本代表だ。
そこで、とある選手のリフティングを目の当たりにし、頭のてっぺんに雷を落とされたような衝撃を受けた。
「うわ、なんだこれ、すげえ巧いなって。もう次元が違うから。なんて言うか、俺も岩手や東北でじゃそこそこできてたほうで、それなりに自信を持ってやってたけど、あのリフティングを見ただけで一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた。
単純にインステップでやってるだけなんだけど、ボールがぜんぜんブレない。それだけでも巧さが伝わってくるよね。ほかにもインサイドキックの止めて蹴るってのもさ、それを見るだけでも次元が違うの。衝撃を受けた」
誰あろう、小野伸二だった。
その4年後、ナイジェリアのワールドユースで世界をあっと驚かせる黄金世代。まさに彼らの一番初期にあたるのがこの頃で、まだ、小野のほか稲本潤一や高原直泰、酒井友之などほんの限られたメンバーしか選ばれていない。そのなかに、小笠原は名を連ねていたのである。
「当時のことで考えたらとんでもない話で、もう端っこも端っこ。結果的に世界(1995年のU-17世界選手権)には行けなかったし、所詮はそういう位置づけでしかなかった。いまでもあのメンバーを集めて選考したら残れないって思う(笑)。
それまで岩手の田舎で育ってきたから、ずっと指導者の方に『井の中の蛙になるな』って言われてきてた。まあ言葉として耳には入るんだけど、小中学生の時はどういう意味かまでは分からなかった。岩手の中じゃ、なにをやっても勝てちゃうし。でも彼らに初めて会ってさ、思い知ったよ。ああ、こういうことなんだって。身をもって体験した」
たしかにその時点では、小さくない差があったのかもしれない。だが2年後、高2の秋に静岡のつま恋で開催されたU-17ナショナルトレセンでは、小笠原の技巧は際立っていた。この頃からわたしにとって小野、小笠原、そして本山雅志は、黄金世代の三大ファンタジスタなのである。
とはいえ、小笠原自身が直面していた現実は、もっとシビアだったようだ。
「一緒にやれるのは嬉しかったけど、本当に巧いひとばっかりだし、場違いな感じは最初からずっとあった。ここに俺はいてもいいのかって。でも同時に、負けたくないって気持ちはあったし、なんとかこの環境でやり続けたいって想いもあった。いっつも刺激を受けてたよね。岩手に帰ってからも意識してたし、あのひとたちより巧くなるためには練習するしかないと思って、必死に打ち込んでたから。大きな刺激をもらってた」
いまでも俺の前をずっと走ってる選手。

高2の秋、U-17ナショナルトレセンでは猛アピールを続けた。小野や稲本、高原らの存在は大きな刺激だったという。(C)SOCCER DIGEST
とりわけ、小野は別格だった。熱い想いを吐露する。
「最初の頃もそうだし、いまでも俺の前をずっと走ってる選手。ポジション的にも同じで、中盤の攻撃的なところをやっていたから、簡単に言えば、彼が出てて、俺が出れない。18歳でワールドカップに出たり、フェイエノールトに行って活躍したり、常に俺らの世代を先頭で引っ張っていた。イナとタカの3人でね。ずっと意識はしてるけど、どんどん遠い存在になっていく。彼らの活躍が嬉しいし、俺も負けたくないって思わせてくれる存在だね」
高3の春に立ち上がったU-18日本代表では、少しずつステータスを高めていった印象だ。いつもメンバー入りはするが、清雲栄純体制下ではもっぱらベンチスタート。アジアユース選手権は予選でも本大会でも、あまり出番が回ってこなかった。
小野に加えて、のちに鹿島アントラーズに同期入団する本山も急躍進を見せていた。
「もう実力が足りないから。モトとシンジが主力として出るのは、納得するしかなかった。誰がどう見ても巧いじゃない。だから、なんで俺が出れないんだって想いはなかったよ。大したことない選手だったら俺を使えよって思うかもしれないけど、彼らを見てたら出れないのはしょうがない。自分が努力するしかないと。それだけのタレントだからね、あのふたりは」
転機は、フィリップ・トルシエの監督就任である。その後の2000年シドニー五輪、2002年日韓ワールドカップに至るまで、小笠原にとってはかならずしも相性のいい指揮官ではなかったが、いまとなってはその言動に賛同できる部分があるという。
「なにかにつけてワーワー言うし、やかましいひとだった。でもさ、日本人に足りないメンタリティーを呼び起こしてくれたんだなっていまは思うよね。当時はなんでそこまで言うのか、そこまでやるのかって思ってたけど、いまとなっては理解できる。
十代の選手に対して、遠征にコックさんを連れていく必要があるのかとか、日本人に足りない表現の部分を強調したり。俺もそうだけど、日本人は淡々と内に秘めてやるタイプが多いじゃない。でももっと我を出せと。いずれ俺はその大事さをイタリアで痛感するんだけどね。日本人は恵まれすぎだってずっと言ってた。やれホテルがどうだ、水がどうだとか、食べ物がどうとか、テーピングがどうとか。A代表ならまだしも20歳の選手にそこまでは必要ないって、いっつも怒ってたね。いまじゃ理解できるし、いい監督だったんだと思う」
ワールドユース直前、トルシエが黄金世代を連れて遠征したのが、開催地のナイジェリアと同じ西アフリカに位置するブルキナファソだった。
フランス最先端のトレーニング施設であるクレールフォンテーヌに数日滞在し、本場ヨーロッパの格式と伝統を堪能した彼らを待っていたのは、想像をはるかに超える異世界。わたしはその遠征に同行し、彼らと同じホテルに滞在して密着した。
「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」。
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ルキナファソ遠征に参加したU-20日本代表メンバー。ここでの強烈な経験が、2か月後の快進撃に繋がった。「ナイジェリアよりキツかった」と皆が口を揃える。(C)SOCCER DIGEST
首都ワガドゥグのホテルは国内最高級だったが、設備は必要最低限の実に質素なものだった。赤道直下の猛烈な暑さの中でクーラーが効かず、食材はすべて現地調達で、500キロ離れた第2の都市ボボデュラッソーへは、オンボロバスで移動した。
日中は痛いほどの日差しだから、長時間の練習はできない。トルシエは時間さえあれば選手たちを街中の散策に連れ出し、皇帝の謁見や孤児院の訪問、大統領が所有する動物園(ほぼ放し飼い)の見学など、規格外のアトラクションを次から次へと用意した。ちなみに小笠原は、練習に飛び入り参加したブルキナファソ皇帝とPKで対決。装備万全でGKに入った“ハイネス”の裏をものの見事に突いた。
ブルキナファソでの1週間は、小笠原の脳裏にも強烈な記憶として刻まれている。
「普通に現地のものを食べてたよね。ハエのたかってる肉で、びちゃびちゃの黒い米を取って、これ本当に大丈夫なのかよとか言いながら。シャワーは水自体が出ないから、ペットボトルの水で身体を拭いてたな。モトと同部屋だったんだけど、クーラーが効かないから換気扇を回すわけ。それが猛烈にうるさくて、でも止めると息苦しくなる。だから俺もモトもずっと寝不足だった。
でもさ、すべて慣れちゃえばなんてことなかった。サッカーするためには食べなきゃいけないわけで、じゃないと戦えない。朝5時に起きて、ビスケットだけ食べてトレーニングとか、なんの意味があるんだって思ったけど、それをやっちゃえば何時に起きろって言われてもへっちゃらになる。トルシエはそういうのを伝えたかったんだと思う。
あの経験があるから、その後は世界のどの国のどんな場所に行ってもぜんぜん大丈夫だった。いきなりナイジェリアだったらきっとキツかっただろうけど、俺らはブルキナを経験してたから、居心地がいいくらいに感じてたもんね」
ちょっとしたエピソードがある。
そのブルキナファソで、小笠原は播戸竜二と散歩をしていた。すると現地のひとが「こっちに来い」と手招きしてくる。なんと両人は普通の民家にお邪魔したという。怖いもの知らずだ。
「どんな生活してるんだろうって、すごく興味があって。おいあがれよって言ってもらって中に入ったら、いきなりライオンの毛皮が敷いてあって『俺が撃って捕ったんだ』って言うわけ。『ホントかよ!?』って感じだけどさ、なかなか遠征で現地の家になんて入れないでしょ。面白かったね、触れられて。それくらいしか娯楽がなかったってのもある。暇すぎて。テレビもなにを言ってるか分からないし、インターネットとかない時代だから。本当にいい経験をさせてもらった」
2か月後、ワールドユースの檜舞台に立つ。小笠原は自身初の世界大会で、レギュラーポジションを掴んでいた。まるで叶わないと思っていた小野、本山とともに、スタメンを飾ったのだ。
そして大会直前、トルシエは小笠原に驚きの指示を伝える。
「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」
ミツオは呑み込み、黙って受け入れた。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/506試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月22日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「18歳の決断~なぜ常勝・鹿島を選んだのか」(#3)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年06月28日
どことやっても上回れた。大きな自信になったよね。

第3弾となる今回は、ワールドユースでの快進撃を回顧し、鹿島入団にまつわる秘話を明かしてくれた。写真:佐野美樹
ワールドユース開幕を目前に控え、小笠原満男はフィリップ・トルシエ監督の信頼を得て、先発の座を確保していた。
フラット3の前にアンカーを置き、ダブルトップ下と両ウイングバックが横一線に並び、最前線には2トップが構える。その3-1-4-2システムで、小笠原は小野伸二とともに、2列目でコンビを組んだ。
「大会が近づいても、いいのかな俺でって感じだった。もちろん嬉しいんだけど、先発を獲ったって実感はなかったんだよね。で、トルシエはこう言った。『小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ』って。
まあ逆じゃ守備は成り立たないと思ってたし、シンジのチームだから、俺はその周りを動きながらってイメージはできた。ちょうど鹿島で、ビスマルクとやってたしね。彼を押し立てるようにプレーしてたから、同じような関係だなと思って。違和感はなかったし、異議もなかった。チームのためと思って納得してたよ」
U-20日本代表はグループリーグ初戦でカメルーンに逆転負けを喫したものの、その後はアメリカとイングランドを連破し、決勝トーナメントに進出。快進撃は止まらず、ポルトガル、ウルグアイ、メキシコと強豪をなぎ倒し、ついに決勝にまで駒を進めた。
「結果を見てもそうだけど、ボール回しとか試合内容でも上回れたというところで、すごく充実感があった。それまで日本が世界で戦う時って、なんとか耐えて耐えて1点取って勝つってのがイメージとしてあった。アトランタ五輪でブラジルに勝った時とかもそうだったよね。試合内容で勝ったかというとそうではない。それがワールドユースでは、どことやっても内容でも上回れた。あれは俺らにとって本当に大きな自信になったから」
そんななか、小笠原はひとりの選手の振る舞いに感銘を受けていたという。鹿島アントラーズで僚友となっていた曽ケ端準だ。
彼は3番手のGKとして帯同していたが、唯一のバックアップメンバーだった。つまり、榎本達也か南雄太が怪我でもしないかぎり、大会にはエントリーされない。メンタル面で相当に追い込まれていたはずだ。
「ベンチにさえ入れないから、最初は早く帰りたいって感じだったけど、本当によく俺らを盛り立ててくれてさ。準々決勝の前だったかな、『ここまで来たら絶対勝てよ』ってみんなに言ってて。あいつのためにも頑張らないとなって思ったよね。勝てば勝つほどチームがひとつになっていった。勝ってまとまっていくってこういうことなんだって、実感できた」
おめでとうって言われて、すごく違和感があった。

まるで歯が立たなかった決勝のスペイン戦。対戦したシャビについては「イナをもってしても止まらなかった」。写真:ヤナガワゴーッ!
だが、決勝のスペイン戦は惨敗に終わった。
「(出場停止だった)シンジがいればちょっと変わってたかもしれないけど、やっぱり強かったよ。トルシエが『シャビはバルセロナでレギュラー獲ってんだぞ』とか言ってて、みんなで嘘でしょ、どんなもんなのって疑ってた。イナがガッツンガッツン行けばなんとかなるだろうって。大間違いだったね。あのイナをもってしても止まらなかった。身体はどっちかって言うと華奢でしょ。日本人が目ざすプレー像なのかもしれないなって思った。フィジカル勝負じゃなく足も速くないけど、判断と技術が図抜けてたよ。
決勝は、個人としてもチームとしてもなにもできなかった。ただただ圧倒された。トントントンって勝ち続けて、行ける、強いぞって思ってたところで、ガツンとやられた。でもさ、俺らが成長するためには、すんなり勝つより良かったのかもしれない」
大会を終えて、成田空港に降り立った彼らを待っていたのは、熱狂的なファンによる手厚い出迎えだった。健闘を称えてもらうのは、素直に嬉しい。だが、どこかで違和感を覚えていたという。21人のメンバーすべてがだ。。
「まだ決勝で負けた悔しさが残ってて、誰ひとり準優勝で『よくやったな』とは思ってなかったから。おめでとうって言われて、すごく違和感があったのを覚えてる。上には上がいるってのを噛み締めながら、もっとやらなきゃって思ってた。みんな一緒だよね」
あの銀色の進撃から、18年が経った。ナイジェリアで戦った伝説の21名で、いまでも現役を続けているプレーヤーは12名にのぼる。いまでもやはり、気になる存在だ。
「俺らの世代は互いに負けたくないし、意識し合う。いい意味でね。俺なんかはみんなが活躍したら本当に嬉しいし、その一方で、活躍すればするほど俺も負けてられないって気持ちにもなる。ずっと刺激し合ってきた。周りがどう見てるかは分からないけど、俺はみんなをそういう目で見てる」
ドラフトで言えば6人中6位。補欠だよ。

大船渡高3年の夏以降は、進路について大いに悩んだようだ。なかなか鹿島入団を決断できなかったという。(C)SOCCER DIGEST
とりわけ小笠原にとって、鹿島で同期の本山雅志と中田浩二は、スペシャルな存在であり続けた。
1998年、鹿島の新卒入団は、後にも先にもないスーパータレント6人衆だった。小笠原、本山、中田はもとより、ユースチームから昇格の曽ケ端、熊本の大津高校からきた天才肌のプレーメーカー・山口武士、そして、奈良育英高校の攻撃的な左サイドバック・中村祥朗という顔ぶれ。いずれも清雲栄純監督が率いるU-18日本代表の常連だった。
わたしは絶対に同意しないが、そこでも小笠原は「6番目だった」と主張する。
「ドラフトで言えば6人中6位。最後に決まったからね。豪華だったのはモトと中田なのであって、俺は注目選手でもなんでもない。補欠が獲れちゃったんだよ」
高校・ユース担当だったわたしは、当時の鹿島の名スカウトコンビと懇意にさせてもらっていた。平野勝哉さん、椎本邦一さんのふたりだ。
20年前のスカウト事情は、いまほど成熟していなかったかもしれない。ヤングタレントの潜在能力と伸びしろを見極め切れず、評判なり知名度、あるいは全国大会や世代別代表での経験を基本情報に、容易くプロの世界に導いていたクラブが少なくなかった。入団から1、2年で放出されるティーンネイジャーを何人も見ていた。
そんななか、鹿島は段違いの価値基準を持ち、高校生たちに個別の近未来設計を提示していたのだ。小笠原はこう証言する。
「正直、何チームかが声をかけてくれた。10番を用意して待ってるとか、レギュラーとして即戦力で迎えるとか、俺の中ではなんでそうなるのかなって不思議だった。でも、鹿島の平野さんと椎本さんだけは、はっきり言ってくれたんだよね。うちは来てもそう簡単じゃないよって。
ただ、きっとやりがいはある。数年かけてこのチームでレギュラーを獲れれば、間違いなく代表にもつながる。それだけのチームで、可能性があるから声をかけたんだって。そこにグッと来たわけ。そういうチームでやりたいって思った」
モトが「みんなで一緒に強くしよう」って言ってきてくれた。

小笠原にとって黄金世代はとても大きな存在だ。なかでも本山と中田、そして曽ケ端の同期入団組には格別な想いがある。写真:佐野美樹
だが、小笠原は決心できずにいた。秋を前に中田が決まり、本山が決まり、「これは試合に出れないなぁ」と考え始めていたからだ。
そんな折、U-18日本代表の合宿で本山に掛けられた言葉が、背中を押したという。
「すごい迷ってて、やっぱり厳しいかなと思ってたところで、モトが『みんなで一緒に強くしよう』って言ってきてくれた。ちょっと軽い感じでね。心が動いたというか、みんなで競争しながら成長していくってのが、イメージできたんだよね。
まさか現実になるなんてあの時は思ってもみなかったけど、結果的にはライバルがいて良かったんだと思う。中田が最初に出始めて、その後でモトが活躍したり。シンジとの関係もそうだったけど、いい距離感、いいライバル心でお互い切磋琢磨できたから、ここまでやってこれた」
みずからを「6番目」と話した男は、やがて、常勝軍団のシンボルになっていく。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/507試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月27日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「栄光の16冠、究極のアントラーズ愛」(♯4)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年07月04日
いまでもずっと忘れられないワンプレーがある。

鹿島アントラーズの栄華とともに歩んできたプロキャリア。積み上げたタイトルは、驚異の16個だ。(C)J.LEAGUE PHOTOS
1998年春、小笠原満男はJリーグ屈指の名門、鹿島アントラーズの門を叩いた。
きっとすぐには通じない、そう覚悟していた。だが、居並ぶタレントもトレーニングの質も、想像をはるかに超えるレベルだった。
「試合に出れるようになるまで、3年がひと一区切りだとは思ってたけど、簡単じゃなかった。中盤にはビスマルクがいて、ほかにも同じポジションには増田(忠俊)さんがいて、もう誰も彼もが日本代表かオリンピック代表だもん。この面子の中で出れないのはしょうがない。でも、ここでポジションを獲れれば、それはイコール代表なんだとも思った。
紅白戦なんて、いつも日本代表とやれてたわけで、楽しくないわけがない。本田(泰人)さんに何回も止められて、秋田(豊)さんに吹っ飛ばされてさ。なんで出れないんだって気持ちより、成長したいって充実感のほうが上回ってた。日本一の選手が集まってくるチームで、日々の練習から得られる確かなものがあった」
少しずつ出場機会を掴み、3年目の2000年シーズンにはついにレギュラーの座を射止めた。21歳にして、Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯の3冠を初めて達成するチームを力強く牽引したのだ。
「まだまだ上のひとたちに引っ張ってもらってる、伸び伸びやらせてもらってる時期だったけど、最終的に3つ獲れたからね。すごい充実感と達成感があった」
今季で在籍20年目。積み重ねたタイトルの数は16にのぼる。当然ながら、(盟友・曽ケ端準とともに)Jリーグの個人最多タイトル保持者だ。「16個? そうなの? もう何個とか数えてなかったからなぁ」と微笑を浮かべる。
例えば、思い入れの強いタイトルなどはあるのだろうか。
「劇的だったのは、メッシーナから夏に帰ってきたシーズン(2007年)じゃないかな。もう無理だろうってところから9連勝かなんかして、最終節でレッズを逆転したという。あれはなんかこう、劇的がゆえに印象がある。本音を言えば、突っ走って勝つのが理想なんだけど、いちばん嬉しかったのはあれかな。鹿島としても久しぶりの優勝だったしね(6年ぶり)」
では、最強チームを選ぶとすれば、いつの時代か。
「そりゃもう、チームとして強かったのは、ジュビロと二強だった頃じゃないかな。まさに俺が入ってすぐの頃の。あれが最強でしょ。めっちゃ強かったもん。まだスタンドから観ることが多かったけど、1点取られようがなにしようが、絶対に負ける気がしなかった。ジョルジーニョ、ビスマルク、マジーニョがいてさ」
ベストゴールやベストゲームといったありきたりな質問を切り出すと、小笠原は「どれがベストとかってなかなか決めれない。そういうのじゃないけど、いまでもずっと忘れられないワンプレーっていうのはある」と、記憶の扉を開いてくれた。
PKは運じゃない。俺は違うと思う。

1999年のナビスコカップ決勝。小笠原はそのPK戦で手痛い失敗をしてしまう。「終わったあとむちゃくちゃ泣いたからね」と振り返る。(C)SOCCER DIGEST
時は、1999年秋。ナビスコカップ決勝、鹿島アントラーズ対柏レイソルの一戦だ。ちょうど同じタイミングでシドニー五輪予選のゲームが国外で開催されていたため、本山雅志と中田浩二が不在。小笠原はベンチメンバーに食い込んでいた。
試合は2-2のまま延長戦に入っても決着が付かず、PK戦に突入。後半頭から出場していた小笠原は6番目のキッカーを任された。
「そこでね、外してしまうわけですよ。俺が外して、次に決められて負けた。もう悔しいとかって次元じゃ片付けられなかった」
たったひとつのキック。それが数え切れない人びとの人生と運命を変えうるのだと、身を持って学んだ。
「すごく大事なんだって思い知った。諸先輩方がいる中で、ジーコが『お前行け』って言ってくれた。嬉しくて、決めてやるぞって意気込んで、止められた。インサイドキックの重要性をあらためて痛感したし、疎かにしちゃいけないんだって。いまでも本当に忘れられない、印象深い試合。綺麗なゴールとかより、そっちのほうがよっぽど覚えてる。サッカー教室とかで子どもたちに話す時にも、よくこの話を使うくらい」
せっかくなのでインタビュー中ながら、当時のプレー動画を一緒に観た。若かりし頃の自分の姿を恥ずかしそうに眺めながら、「明らかにコースが甘いよね」と呟く。
「この時、いったい何万人が悲しんだんだろう。ジーコがよく言ってたもんね。練習してる時は疲れてないから蹴れるけど、延長戦とかやった後で、足がボロボロの状態でも狙ったところに強く蹴れなきゃダメなんだって。いつもと同じ感覚じゃなダメなんだって。本当にその通りだと思った。メンタルも大事だし、ビビってちゃ決めれない。だからPKは運じゃない。俺は違うと思う」
中田は、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。

ワールドユースから帰国した直後の同期4人組(左から曽ケ端、中田、小笠原、本山)。ミツオはコウジを「真のリーダーシップがある男」と称える。(C)J.LEAGUE PHOTOS
鹿島のクラブハウスを訪れたのは、およそ8年ぶりだった。
インタビュールームには過去の対戦相手のペナントやチーム歴代の集合写真が所狭しと張り巡らされ、クラブの重厚な足取りに圧倒される。建物すべてを覆う例えようのないパワー、自信と誇りがみなぎる選手たち、そして、小雨の中でもあしげく練習場に通い、声援を贈り続ける生粋のサポーター。なにもかもが変わっていなかった。
そして、何度来ても思う。ここは、日本サッカーの宝なのだと。
ジーコスピリット、そして鹿島イズムとは? 現チームにおいて、この男以外の誰に訊けばいいだろうか。
「俺らのロッカールームの入り口にさ、ジーコスピリッツと題して、3つの言葉が書いてあるの。献身、誠実、尊重。それがすべてを物語ってるんじゃないかな。チームのために戦う献身さ、素直に意見を言い合う誠実さ、お互いをリスペクトし合う尊重の心。チームはファミリーなんだってこと。いちいち言葉で語る必要はないし、試合で一生懸命やる姿勢を見せるだけ。若手とかに、『ジーコはこうだったんだよ』とか言うんじゃなくてね」
長くキャプテンマークを巻いてきた。継承者としての気概は、並大抵ではない。
「ここはクラブ自体がそこを大事にしている。俺がキャプテンになった時、本田さんや秋田さん、ヤナギ(柳沢敦)さんがなにをやっていたか、どう振る舞っていたか、なにを話していたかをよく思い起こした。最高の見本があるわけだから、それを真似してきただけ。
あの時こう言ってくれたな、こういう姿勢で臨んでたなって。決して練習では手を抜かないし、少々のことでは練習を休まないし、チームはひとつになって戦うんだって姿勢を見せてくれてた。結果を出してきた、勝ってきたって実績があるから、すべてが正しかったと思える。中田(浩二)もヤナギさんもそうだけど、最後の去り際が素晴らしかった。試合にあまり出れなくなっても文句ひとつ言わず練習を一生懸命やるし、ほかの選手にアドバイスを送ってね」
同期入団でずっとともに切磋琢磨してきた中田に対しては、さらに熱が込もる。
「きっと悔しい想いはしてたと思うんだけど、最後までやり切ってこのチームを去って行った。中田は引退した年、一回も練習を休んでない。俺の記憶が正しければ。ほとんど試合に出てないのにああいう姿を見せられるって、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。恥ずかしいから、面と向かっては言わないけどね(笑)」
レアル? あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない。

昨年末、日本中のサッカーファンを熱くさせたレアル・マドリーとの大一番。ミツオはいたって冷静に、あの「世界一決定戦」を総評した。(C)REUTERS/AFLO
昨年末、鹿島はクラブワールドカップで快進撃を続けた。決勝ではレアル・マドリーをあわやというところまで追い詰めたが、一歩及ばず準優勝に終わる。
あの試合後、小笠原がどこか満足げな表情を浮かべていたのが印象的だった。名だたる強豪クラブと渡り合い、広く世界に鹿島イズムを発信できたと──。
で、訊きたかった。ぶっちゃけ、マドリーはどうだったの??
「本気じゃなかったと思うよ、あれでも。それでも勝てるくらい強かった。いつでも点を取れるんだって、あのレベルは。必要最小限で勝たれちゃったなぁって思うもん。いい勝負したねとか、もう少しで勝てたかもしれないとか言われたけど、差はあったよ。差はある。
バルセロナとやってる時のレアル・マドリーじゃないんだから。そこを勘違いしちゃいけない。俺らだって天皇杯で格下とやる時みたいに、難しさがあったんだと思うよ、レアルにしても。あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない」
酸いも甘いも噛み分けたレジェンドがそう言うのだ。
こればかりは、謙遜ではない。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/507試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月4日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「ジーコジャパンの真相と、セリエA挑戦の深層」(♯5)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年07月10日
あの4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ。

鹿島での順風満帆な日々とは裏腹に、日本代表でのキャリアはまさに波乱万丈。「思い出はたくさんある」と話し、レアなエピソードを披露してくれた。写真:佐野美樹
日本代表における小笠原満男のハイライトは、はたしてどの時期だろうか。
国際Aマッチの出場記録は、55試合・7得点。この数字を本人に伝えると、少し驚いたような表情を見せ、「そんなに出てたの? びっくりだね」と目を丸くした。
「代表に選ばれるって本当に光栄なこと。みんなが行きたくても行けない場所だし、限られたひとしか行けない。なかなか出れなかったから、悔しい想いをしたなぁってのはあるけど、思い出はたくさんある。55試合も出たって実感はないけどね」
1999年のワールドユースで眩いばかりの輝きを放った小笠原だが、その後のシドニー五輪代表では一度もメインキャストとはなれず、フィリップ・トルシエ監督との間にあった微妙な距離は、一向に縮まらなかった。
ところが、2002年日韓ワールドカップ目前の3月に、急転直下の展開を見せる。親善試合のウクライナ戦に初招集され、A代表デビューを飾ったのだ。そしてなんと本大会の登録23人枠にも食い込んだのである。
本人も周りも、あっと驚くサプライズ選出だった。
「正直、2002年は行けると思ってなかった。冷静に見たら難しいと。だから驚いたよね。なんで呼ばれたのかは……いちいち(トルシエに)訊いてないから分からない(笑)。なんでだったんだろ。とくになにも言われなかった。
試合はチュニジア戦(グループリーグ第3戦)にほんのちょっと出ただけだけど、日本の国中が応援してくれたから、嬉しかったよね。サッカーの力ってすごいなって実感した。ホテルから会場に行くまでの道路沿いで、ずらっと並んで日の丸を振ってくれてさ。いい経験をさせてもらった」
そして、恩師ジーコが代表監督に就任する。ミツオ中盤に欠かせない存在となり、ドイツ・ワールドカップまでの4年間、すべての試合や遠征に招集された。
だがそれは、自問自答を続ける葛藤の日々でもあった。
「トルシエさんの頃に比べたら割と使ってもらえるようにはなった。でも、海外でやってる選手が帰ってくると出れない、いなければ出れるっていう構図。なんとか覆して自分のポジションを確立したいと思ってたけど、ヒデ(中田英寿)さん、(中村)俊輔さん、シンジ(小野伸二)、イナ(稲本潤一)の4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ」
あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない。

ジーコジャパンではメモリアル弾をいくつか決めたが、2005年のW杯最終予選・北朝鮮戦でねじ込んだこのFK弾も、格別だった。(C)SOCCER DIGEST
そんな中でも、ひとたびピッチに立てば、小笠原は印象深い働きを披露した。その最たるゲームが、2005年6月3日のドイツ・ワールドカップ最終予選、敵地でのバーレーン戦だ。圧巻のパフォーマンスを示し、鮮やかなミドルシュートを蹴り込んで1-0の快勝に貢献。3大会連続出場をグッと引き寄せる、貴重な3ポイント奪取だった。
このバーレーン戦の前日、小笠原は生涯忘れることのない出来事に遭遇する。
「あの試合は、シンジが直前の練習で骨折して、俺に出番が回ってきただけ。急きょ出ることになったわけだけど、あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない」
日本でのキリンカップで散々なパフォーマンスに終始し、ジーコジャパンへの風当たりは日増しに強くなっていた。チーム内にも不穏な空気が立ち込め、中東入りしてからもムードが高まってこない。そこで危機を察した主将の宮本恒靖が呼びかけ、選手たちだけで話し合いの場を設ける。上も下も関係なく大いに意見をぶつけ合った。
大事な2連戦(バーレーン戦と北朝鮮戦)を前に、チームはなんとか一枚岩となれた。いわゆる「アブダビの夜」だ。
その翌日だった。バーレーンに移動した直後の練習で、小野が右足の甲を骨折してしまう。2日後のバーレーン戦はおろか、長期離脱を懸念されるほどの大怪我だった。
ミツオはよく覚えているという。
「シンジ自身、出れなくなってそうとう悔しかったと思う。それだけ大事な試合だったからね。でもさ、怪我した後なのに心配させまいと、食事の時とかでも、みんなの前でニコニコしてて……。その直後、俺が代わりに出るような雰囲気になって、声をかけてくれた。『頑張れよミツ、応援してるからな』って。このひと、本当にすげぇなと思った。
ずっとシンジが出てて俺が出れなくて、多少なりとも悔しいとか思ってた自分が恥ずかしくなった。バーレーン戦は、シンジに頑張ってくれって言われたから、頑張っただけだよ。シンジの代わりを果たしただけ。自分の感情を抑えて笑顔で振る舞って、代わりに出るヤツに頑張れって……。感じるものはすごくあったし、いまでも忘れられない」
鬼気迫るプレーで中盤を牽引し、決勝点も挙げる奮迅の働き。ゴールを決めた後には、めずらしく雄叫びを上げた。
友に捧げる、会心の一撃だった。
すべて一回ぶち壊して、勝負してみたいってのがあった。

傍から見ればイタリアでの10か月間は苦難の連続に移ったが、小笠原に言わせれば「だからこそ濃厚だった」。守備に対する価値観が一変したという。写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)
1年後、ジーコジャパンはドイツに降り立った。結果は、グループリーグを1分け2敗で終える惨敗。小笠原はクロアチア戦(第2戦)とブラジル戦(第3戦)で先発を飾った。
「いろいろ言われたけど、俺はすごくいいチームだったと思うし、もっと勝てるチームだった。海外でプレーする選手が多くて経験値もあんなに高かったのに、なんで勝てなかったんだろうって。なんかバラバラだったみたいな意見もあったらしいけど、単純に結果として負けただけで、実際はすごくまとまってたんだよね。
よく言われた海外組と国内組、世代間がどうとか、まるでなかった。ツネ(宮本)さんとヒデさんを中心に、なにかあればよく話し合ったし。ものすごくいいチームだったと思う」
ワールドカップが終わってほどなく、小笠原は自身初の欧州挑戦に乗り出した。セリエA、メッシーナでの10か月間だ。
とかくこの挑戦を、失敗だったと見る向きが少なくない。それもそうだろう。リーグ戦には6試合(1得点)しか出場できず、コッパ・イタリアなどを合わせても、公式戦で10試合しかプレーしていない。ベンチ外だったゲームがほとんどだ。
だが、それでも、ミツオにとってはかけがえのない充実した日々だった。
「まあ、よそから見たらほぼ活躍できずに終わった1シーズンかもしれないけど、俺の中では本当に濃かった。鹿島でずっと試合に出させてもらって、代表にも常に呼んでもらってたところで、なんとなくマンネリ化じゃないけど、そういうのをすべて一回ぶち壊して勝負してみたいってのがあった。
行ってみたら、実際そうなのよ。おまえは誰だってところから始まって、ただの日本人じゃねえかって。なにもかもを一から証明しなきゃいけない。プレーもそうだし、言葉もそうだし、いろんなものを一から築き上げていく作業が全部面白かった。試合に出れなかったのはすごく悔しい。だからこそ出たい、絶対に使ってもらいたいと必死に取り組めたのが、本当に新鮮に感じられた。
それこそ清雲(栄純)さんが監督の時のユース代表や、鹿島に入ったばかりの頃と同じ感覚。それを感じられたのが、なによりの財産になった」
冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。

メッシーナから帰還した小笠原は、鹿島を6年ぶりのJ1制覇に導く活躍。マイナーチェンジ後の「新生ミツオ」がそこにいた。(C)SOCCER DIGEST
磨き上げられたのは、イタリア仕込みの守備センス。やがてフットボーラー小笠原はマイナーチェンジを完成させ、さらなる進化を遂げるのだ。
「それまでは攻撃的な選手としてやってたけど、メッシーナで初めてボランチ気味にプレーした。強いチームじゃないから守備の時間がすごく長いわけですよ。いかに相手からボールを奪うかが一番大事なところで、とにかくそこの強さを求められた。
守備で魅せるような選手じゃなかったじゃない? それまでの俺は。でもメッシーナではすごく学んで、鹿島に戻ってきてからもいちばん表現したいのがそこだった。相手からボールを奪うってところ。得るものが多かったし、本当に濃い時間だった」
本音を言えばもっと欧州でプレーしたかったが、メッシーナがセリエBに降格し、そもそも鹿島とはレンタル契約だった。「ほとんど試合に出れてなかった俺に、(鹿島は)帰ってこいと言ってくれた。素直に嬉しかったよね」と、復帰を決意した。
「もしスペインとかでプレーしてたら、本来の攻撃なところに磨きを掛けられたのかもしれないけど、オファーがなかったからね。でも、イタリアだからこそ学べたものがある。俺に足りない守備力を高めてくれたし、人間としても成長させてくれた。いいチームに行ったのかなって思うね、いまとなれば」
イタリア南部の島には、奥さんと娘たちも連れていき、ともに充実した日々を過ごした。
「ぜんぜん苦じゃない。むしろ楽しかった。町ゆくひとには、ヤナギ(柳沢敦)さんもちょっと前までいたから、冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。食事はおいしいし、言葉を覚えて買い物に行ったり、いろんなとこ旅行に行ったり。子どもは地元の幼稚園に入ったんだけど、最初は泣きながら通ってたのが、いつしかイタリア語で『水ちょうだい』とか言えるようになったりね。家族みんなで頑張って成長しながら、言ってみれば、苦労を楽しめた」
帰国して鹿島に戻ると、愛着のあった8番は野沢拓也が着けていた。そこで小笠原はなにを思ったか、背番号40を選ぶ。以後、現在に至るまでずっと、チームにおける“最大ナンバー”が代名詞だ。
「何番にしようかなーと。なんか一桁って誰かのイメージがあるじゃない。だから誰も付けたことがない番号がいいなって。海外だと99番とかもあったから『マックス選べるの?』って訊いたらダメで、40までだって言われた。だから、深い意味とかまるでない(笑)」
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※7月17日配信予定の次回は、フットボーラー小笠原満男の真髄と、その内面にぐいっと切り込みます。深すぎるサッカー観に迫りつつ、東北人魂の「これから」、引き際のビジョン、さらにはサッカーを始めた実息への想いまで──。最終回も、ぜひお楽しみに!
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/508試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月9日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「美しき東北人魂~これが俺の生きる道」(♯6)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年07月17日
いつまでも淡々と黙々ではダメだったんだと思う。

長編となった連載も今回が最終回。38歳となった小笠原満男の「いま」を切り取る。写真:佐野美樹
小笠原満男とは、いったいどんなフットボーラーなのか。
本人にそのまま訊いてみたのだが……。
「なんだろ。サッカーが好きで、ただ勝ちたくてやってて、でも不器用で……。いやいや、上手く説明できないな。あんまり考えたことないから」
と、やや難易度が高かったようだ。では、これまでのキャリアでサッカーに対する価値観はどのように変わってきたか。それなら大丈夫だろう。
「えっとね、若い頃は点取りたい、アシストしたいだったのが、いまはとにかく勝つためのプレーってのを一番に考えるようになった。やりたいプレーをやるんじゃなくて、チームに必要なプレーだよね。それって時間帯や試合の状況によって違うし、対戦相手によっても変わってくる。そこのところを深く考えられるようになった。
だから、狙った通りの試合運びをできたときとかは、喜びを感じるよね。チームに必要なプレーって、ときに守備だったり、ファウルして止めるだったりもあると思う。基本、いまはそこしか考えてないかな」
初めてミツオに会ったのは、彼が高2の時だった。表情はいつもニコヤカだが、基本的に黙して多くを語らずで、とてもシャイな若者だった。
それがいつから変わったのだろう。いま現在の凄みが半端ない。鹿島アントラーズでは闘将のイメージが定着しているし、その言動には、常に強いメッセージが込められている。
「やっぱり俺は岩手、東北の人間だから、黙々と淡々としていたい。いまだってそのまま行けるならずっとそうしていたいけど、立場が変わっていく中で、発しなければいけない必要性が出てきたりでね。やっぱり言葉で引っ張らなきゃいけない、若い選手たちに声を掛けなきゃいけないときってあるからさ。いつまでも淡々と黙々ではダメだったんだと思う。もともとはそのほうが性に合ってるんだけどね。楽だし。だから頑張って、演じてます(笑)」
活動の中から、未来のJリーガーが育ってくれたら嬉しい。

2012年夏、震災復興支援マッチで緊急参戦したデル・ピエロとがっちり握手を交わす。『東北人魂』での地道な活動は、これからも続く。(C)SOCCER DIGEST
現在の小笠原を語るうえで欠かせないのが、「東北人魂」での活動だ。きっかけとなったのは言うまでもなく、2011年3月11日の東日本大震災だった。
「清水でJの試合があるんで、東京駅に向かう途中、高速道路のバスの中だった。寝てたから揺れは感じてないけど、気づいたらバスが路肩に停まってて、なにがあったんだろうって。テレビを付けてようやく状況を把握した。岩手の親とか知り合いとか連絡がつかなくて、鹿島も被災地だったから、すごく心配したよね」
震災発生から1週間が経った頃だった。すでに親族の安否は確認できていたが、居ても立ってもいられず、現地に向かうことにした。新潟や秋田を周るルートであれば入れるという情報を掴んだからだ。小笠原が車を運転し、家族全員で一路東北へ。
「辿り着くまではなにもかもが普段と変わらない景色だったけど、津波が来たところからはもう一気に……。言葉では言い表せないくらいで、頭の中が真っ白になった。買ってきたものを身内や近所に配るくらいしかできなくてね。個人で届けるだけって、やっぱり限界があるなと感じた」
鹿島に戻ってすぐに、あるサッカー関係者から、被災地でサッカーボールを蹴れなくなり、辞める子どもが増えていると聞かされた。スパイクもボールもユニホームも流され、経済的な余裕もなくなったからだ。「じゃあそういうのを届けてあげよう」と思い付いたのが、活動の始まりだった。
東北出身のJリーガーに声を掛け、宮城出身の今野泰幸(ガンバ大阪)や秋田出身の熊林親吾(当時・ザスパ草津)らを発起人とし、「東北人魂を持つJリーガーの会」を発足させるのだ。
「熊林とか、『僕らは被災地じゃないけど手伝わせてください』と言ってくれて、じゃあちゃんとした連絡網を作って会でやろう、東北出身みんなでやろうって空気になって。東北人魂は、俺がチャリティーマッチのときにTシャツに書いた言葉。一発でメッセージを伝えたいって考えたときに、分かりやすいのがいいと、パッと思い浮かんだのがそれ。
東北のひとにはお互いを助け合う優しさだったり、黙々と我慢しながらでも困難に耐えられる強さがある。その気持ちがあれば乗り越えられる。だからこその、『東北人魂』。東北のひとにはきっと伝わる、復興にもいいメッセージになると思った」
会の活動も今年で7年目。やり続けることが大切だと感じている。
「まだまだだけど少しずつ復興はしてるし、発信し続けないと風化の速度は早まる。当初は物資を届ける、子どもたちとサッカーをするのがメインだったけど、これからは長年続いていく大会形式のイベントを定着させたい。もしその中から、未来のJリーガーが育ってくれたら嬉しいよね。
ただ楽しかったで終わるんじゃなくて、震災があったから頑張れただったり、触れ合ったプロの選手たちに刺激を受けて『僕もプロになりたい!』と思ってくれたり。そうなれば嬉しいし、すごく期待してますよ」
小笠原の実息もサッカーをしている。「巧くなりたかったら努力しろ、やるなら最後までやれとは話した。俺が父親に言われたのと同じことだね」と、少し頬を緩ませながら、やりとりを明かしてくれた。
バトンを渡す日が来たら、スパッと辞めるかな。

J1連覇に向け、好位置に付けている鹿島。その中盤には今季も、背番号40の雄姿がある。写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)
さて、黄金世代のみんなに訊いて回っている酷な質問だ。
現役を退く日がそう遠くない。鹿島の生ける伝説は、どんな終わり方をイメージしているのだろうか。
「すごい先ではないよね。どれだけ延ばせるかで、ノープランと言えばノープラン。何歳までやりたいと思ってても、いらないって言われたら終わりの世界だからね。行けるとこまで行きたいってのが本音かな。ボロボロになる前に、スパっとね。
目標が達成されたとかじゃなく、もう次に託すときだって感じられたタイミングかもしれない。俺はこのチームが好きだから、ずっとここでプレーしていたい。でもいつかは次にバトンを渡す日が来ると思う。そのときが来たらスパッと辞めるかな。いまはなんとなくそう思う」
最後に、雑談で飛び出したエピソードを紹介しよう。「どういうゴールが究極なの?」と尋ねたところ、かなり奇想天外な答が返ってきた。
「中学校くらいが俺のゴールの全盛期だった。スピード溢れるドリブラー時代ね。実は、ゴールに関してはいまでも変わらない美学がある。ゴールネットを揺らさずにゴールするのが究極の目標」
は??
「なにそれ、でしょ? ドリブルでディフェンダーをかわして、キーパーもかわして、そのままドリブルでゴールラインも割って、また戻る! シュートを蹴り込むんじゃなくてね。これに優る究極のゴールはないでしょ。中学時代に何度かやって、すごく満足してた。え? 感じわるい?(笑)」
これもまた、フットボーラー小笠原満男の真理なのだ。
また鹿島に来ればいい。ミツオはいつだって、ここにいる。

闘将が言うところの「バトン」は誰の手に渡るのか。心の底から愛するクラブのため、「行けるところまで行きたい」と力を込めた。写真:佐野美樹
練習場のピッチで写真撮影を終え、別れ際にこう語りかけた。「次はJの試合をカシマまで観にきますから」と。すると社交辞令を見抜いたのか、言われ慣れているのか、小笠原はこう突き放した。
「俺はね、そういうのは信じないよ。だいたいみんな来ないから。口だけなんだよ」
なんとも手厳しい。そして、鋭い。笑って別れたが、言われっぱなしも悔しい。
困った。昔ならまだしも、いまのわたしはJの担当チームを持っているわけではないので、気軽に週末のJリーグ取材には赴けない。いや、待てよ。直近の平日にACLのホームゲームがあるじゃないか。しかも相手の広州恒大にはパウリーニョが! 彼は我が愛するトッテナム・ホットスパーの元選手で、訊きたいことが山ほどある。
そして試合当日。ゲームが終わり、ミックスゾーンを素通りしてそそくさとバスに乗り込むパウリーニョを目撃し、「降りて来てくれ」とジェスチャーをしている間に、ミツオさんはすたこらと帰ってしまった。来ていたことを伝えようと曽ケ端準と中田浩二を必死に探したが見つからない。ベテラン記者とはとうてい思えない、豪快な空振りである。
でも、また来ればいい。鹿島に来ればいい。
小笠原満男はいつだって、ここにいるはずだから。
<了>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/508試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月16日現在。
満男について取材したサッカーダイジェストの川原氏である。
黄金世代の小笠原満男がどのように育ち、どう考え、今に至るかが伝わってきて読み応えがある。
これだけ数多くのエピソードが並ぶように、満男の凄さは抜きん出ておる。
これからも鹿島の、そして日本サッカーの歴史に名を刻んでいって欲しい。
また、これだけの記事を寄稿してくれた川原氏にも感謝したい。
有り難いことである。

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川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年06月16日
小学校時代は、スピード溢れるドリブラーの点取り屋。

謙虚で素朴で実直で、時折少しだけ、内に秘めたる熱い闘志を発露する。どこまで飾らない男、小笠原満男。その素顔がここにある。写真:佐野美樹
いまから18年前、金字塔は遠いナイジェリアの地で打ち立てられた。
1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。
後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。
アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。
今回は鹿島アントラーズの闘将、小笠原満男の登場だ。
サッカーとの出会い、小・中・高の歩み、黄金世代の仲間との切磋琢磨、常勝軍団・鹿島への語り尽くせぬ想い、さらには、光と影が絶えず交錯した日本代表での日々まで──。深みのある独特の言い回しで、数多の金言や名エピソードを盛り込みながら、紆余曲折のキャリアを振り返ってくれた。
焦がせよ、東北人魂!
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およそ3か月ぶりに再会した小笠原満男は、ずいぶんと精悍な顔つきになっていた。
時は1997年の夏、静岡・清水の草薙サッカー場だ。全日本ユースの1回戦、大船渡高校対清水商業高校の一戦がまさに始まろうとしていた。
左腕に巻いたキャプテンマークの位置を確かめながら、チームメイトに発破をかけている。
高3になってすぐ、小笠原は足首を傷め、サッカーボールを蹴れない日々を過ごした。責任感がひと一倍強い男だ。新主将となったもののチームのためになにもできず、もどかしさを抱えるなか、強く自己を律したという。
「いろんなひとに言われた。怪我をする前以上になって戻ればいいんだって。だからリハビリはけっこう頑張ってやったよね」
その期間、上半身を重点的に鍛えたからだろう、身体が一回り大きくなったように見える。華奢でどこかひ弱だったイメージは一変し、短く刈り込んだ髪型もあいまって、ずいぶんとパワフルな印象を与えた。風貌はほぼ、現在のそれと変わらない。
万全を期して復活を遂げ、全日本ユースの初戦に間に合わせてきた。やがて、選手入場。小笠原と並んで入場したのは、相手チームの主将、小野伸二だった。
「当時のキヨショウ(清水商)はシンジを筆頭にすごいタレント集団だった。あんなチームを向こうに回して、俺たちはどうしたら勝てるのか。みんなで何度も話し合った。小野伸二へのマークは1人じゃだめだから2人にしよう。それでも無理だったら? 3人で行く? そりゃさすがに無理だろう、みたいな。作戦会議をやってたね。
スコアは接戦だったけど、内容的にはもうぜんぜん。シンジとは国体やインターハイでも何回か戦ったけど、一度も勝てなかったね。でもさ、東北から出てきてああいう強豪とやれて、すごく充実感があったし、楽しかったのを覚えてる」
そう微笑を浮かべながら振り返る38歳のミツオ。だが、大一番に賭けていたのだろう、18歳のミツオは試合後、目を真っ赤に腫らし、涙がこぼれるのを必死に堪えていた──。
いろんな遊びの中にも、大事な“学び”があった。

初めて“日の丸”に選ばれたのは、1994年のU-16日本代表合宿。中列左から2人目が15歳の小笠原だ。そして同じ列の右から3人目には……。(C)SOCCER DIGEST
1979年4月5日、東北のファンタジスタは岩手県盛岡市で生を受けた。
物心ついた時にはサッカーボールを蹴っていたという。父親が地元の社会人チームでプレーしていたため、練習や試合の際にはくっついていき、大人たちに遊んでもらっていた。
小学生となり、近隣に唯一あったサッカー少年団への入部を切望する。だが、無念にも対象は小学3年生から。父親とこんな会話をかわしたという。
「サッカーを本気でやるなら、最後までやり抜けって言われた。一生懸命やってそれでも入りたいならいいけど、やって途中で辞めるくらいならいますぐ辞めろと。約束したよ、それは。だから小3まではほとんどひとりで練習してた。家の前でね。壁に向かってひたすらボールを蹴って、たま~に大人に相手してもらったり。そんな2年間だった」
壁に蹴って、止める、また蹴る。単純な単複練習だったが、ひたすら繰り返すことで、狙ったところに蹴れるようになっていった。誰に教わるでもなく、自然と身に付いた基本技術。本人は、「完全な天然児。ブラジルのストリートサッカーみたいなもの」と説明する。
「いまはサッカーだったらサッカーだけだったりする。でも俺は、野球もやったし鬼ごっこや缶蹴りも本気でやった。いま思えば、ああいうのってすごく大事だったなと思う。
遊びとはいえ、決められたルールの中でぎりぎりの駆け引きってあるじゃない? 野球だってフライを取るためには落下地点を読まなきゃいけなかったり、ステップワークやら、なにかしら吸収できるものがある。サッカーに熱中はしてたけど、そうしたいろんな遊びの中にも、大事な“学び”があったよね」
晴れて、太田東サッカー少年団に入団する。小笠原は小3ながら、すぐさま試合に出場。上級生たちに揉まれながら、鍛えられていく。「ありがたかった。ぜんぜん通じなかったけど、あれが田舎の少年団のいいところ。すごく技術を大事にしてたし、いいチームに入れて良かった」と懐かしむ。6年時には主将を任され、全日本少年サッカー大会にも出場した。
小学校時代はフォワードで、「いまじゃ想像もつかないだろうけど、スピード溢れるドリブラーの点取り屋」だったという。盛岡市立大宮中に進学すると、中盤にポジションを下げ、「パスを送るところに楽しさを感じるようになった。小学校ではぜんぶ自分で行って点を取ってやるみたいな感じだったけど、アシストの喜びを知り出すのかな」と、ファンタジスタへの布石を敷くのだ。
圧倒的な技巧を誇る小笠原が、青年時代に憧れたプロフットボーラーはいたのか。意外な選手の、意外なプレーに興奮したという。
「あんまりこれっていう選手はいなくて、レンタル屋さんでワールドカップのゴール集を借りてくるくらい。普通にマラドーナとかすごかったけど、ちょうど中2でJリーグが始まったから、もっと身近に見れるようになったよね。
ジーコはすごいなぁとか思ってたけど、一番印象的だったのがラモス(瑠偉)さん。必死にボールを取り返しにいく姿を見て驚いた。あれくらいの選手でもやるんだって。小さい頃から『取られたら取り返せ』っていつも言われてきて、ああ、プロでもするんだと。ああいうプレーがすごく好きだった」
次元が違う。一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた。

全国へ行くなら盛岡商、サッカーを学びたいなら大船渡。ミツオ青年は後者を選び、齋藤重信監督(右)の薫陶を受けるのだ。写真は高3時の高校選手権。(C)SOCCER DIGEST
高校進学は、ひとつの岐路だった。
地元の盛岡には、名門の盛岡商業高校がある。だが小笠原には気になる人物がいた。盛商を強豪に育て上げたのちに大船渡へ転勤した齋藤重信監督で、その名伯楽の薫陶を受けたいとも考えていたのだ。
全国に出るなら盛商、サッカーを教えてもらうなら大船渡。15歳は決断する。
「最終的には巧くなりたいってのがあったから、齋藤先生のお世話になろうと決めた。結果的には全国にも行けたし、大船渡を選んで本当に良かったと思う。まあまあ中3の頃って、なにかと多感じゃないですか。親にも反抗的だったし、親元を離れてみたいとも思ってた。
それが齋藤先生の家に住ませてもらったら、もっと厳しくてさ(笑)。きちんと靴を揃えたり、料理を作ったりとか、当時はきつかったけど、いまとなっては感謝しかない。ひとりでなんでもできるようになったからね」
大船渡は決して強豪校ではなかった。同級生には、中学時代に野球をやっていて、高校でサッカーを始めた初心者も少なくなかったという。そんな選手たちが最終的にレギュラーの座を掴み、ともに成長しながら全国の舞台をも駆け抜けた。ひとつの財産だと、嬉しそうに振り返る。
「もうね、サッカー始めた動機からして、ボウズが嫌だとか、サッカーの方が人気あるからみたいな感じだから。でも、さっきのキヨショウとの試合もそうだけど、本当に楽しかった。レギュラーのうち3人は、中学校までショートとキャッチャーと外野だからね。キャッチャーはやっぱりがっちりしてて当たりに強かったし、ショートはキーパーだったんだけど、横に飛んで捕るのに慣れてるからすんごい巧かった。強いチームで全国に出るのは当たり前。だけど俺らの場合は、そこに至るまでの過程が本当に楽しかった」
高校入学前から、東北のユース年代では知らぬ者がいないほど有名だった。やがて、日の丸に初めて招集される。中3時のU-16日本代表だ。
そこで初めて、小野や稲本潤一、高原直泰らとの出会いを果たす。つまり小笠原は、黄金世代が産声を上げた当初からのメンバーだったのだ。
しかし──。
「とんでもない。次元が違う。一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた」
その代表合宿で15歳のミツオは、いったいなにを目撃したのだろうか。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/505試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月16日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「衝撃のオノシンジ」(♯2)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年06月22日
一瞬にして、いろんなものが打ち砕かれた。

黄金世代との邂逅を振り返った小笠原。笑みを浮かべながら、「俺なんかもうぜんぜん」と呟いた。写真:佐野美樹
岩手のみならず東北でも名の知れた存在だった小笠原は、中3で初めて世代別の日本代表に招集される。1994年、U-16日本代表だ。
そこで、とある選手のリフティングを目の当たりにし、頭のてっぺんに雷を落とされたような衝撃を受けた。
「うわ、なんだこれ、すげえ巧いなって。もう次元が違うから。なんて言うか、俺も岩手や東北でじゃそこそこできてたほうで、それなりに自信を持ってやってたけど、あのリフティングを見ただけで一瞬にしていろんなものが打ち砕かれた。
単純にインステップでやってるだけなんだけど、ボールがぜんぜんブレない。それだけでも巧さが伝わってくるよね。ほかにもインサイドキックの止めて蹴るってのもさ、それを見るだけでも次元が違うの。衝撃を受けた」
誰あろう、小野伸二だった。
その4年後、ナイジェリアのワールドユースで世界をあっと驚かせる黄金世代。まさに彼らの一番初期にあたるのがこの頃で、まだ、小野のほか稲本潤一や高原直泰、酒井友之などほんの限られたメンバーしか選ばれていない。そのなかに、小笠原は名を連ねていたのである。
「当時のことで考えたらとんでもない話で、もう端っこも端っこ。結果的に世界(1995年のU-17世界選手権)には行けなかったし、所詮はそういう位置づけでしかなかった。いまでもあのメンバーを集めて選考したら残れないって思う(笑)。
それまで岩手の田舎で育ってきたから、ずっと指導者の方に『井の中の蛙になるな』って言われてきてた。まあ言葉として耳には入るんだけど、小中学生の時はどういう意味かまでは分からなかった。岩手の中じゃ、なにをやっても勝てちゃうし。でも彼らに初めて会ってさ、思い知ったよ。ああ、こういうことなんだって。身をもって体験した」
たしかにその時点では、小さくない差があったのかもしれない。だが2年後、高2の秋に静岡のつま恋で開催されたU-17ナショナルトレセンでは、小笠原の技巧は際立っていた。この頃からわたしにとって小野、小笠原、そして本山雅志は、黄金世代の三大ファンタジスタなのである。
とはいえ、小笠原自身が直面していた現実は、もっとシビアだったようだ。
「一緒にやれるのは嬉しかったけど、本当に巧いひとばっかりだし、場違いな感じは最初からずっとあった。ここに俺はいてもいいのかって。でも同時に、負けたくないって気持ちはあったし、なんとかこの環境でやり続けたいって想いもあった。いっつも刺激を受けてたよね。岩手に帰ってからも意識してたし、あのひとたちより巧くなるためには練習するしかないと思って、必死に打ち込んでたから。大きな刺激をもらってた」
いまでも俺の前をずっと走ってる選手。

高2の秋、U-17ナショナルトレセンでは猛アピールを続けた。小野や稲本、高原らの存在は大きな刺激だったという。(C)SOCCER DIGEST
とりわけ、小野は別格だった。熱い想いを吐露する。
「最初の頃もそうだし、いまでも俺の前をずっと走ってる選手。ポジション的にも同じで、中盤の攻撃的なところをやっていたから、簡単に言えば、彼が出てて、俺が出れない。18歳でワールドカップに出たり、フェイエノールトに行って活躍したり、常に俺らの世代を先頭で引っ張っていた。イナとタカの3人でね。ずっと意識はしてるけど、どんどん遠い存在になっていく。彼らの活躍が嬉しいし、俺も負けたくないって思わせてくれる存在だね」
高3の春に立ち上がったU-18日本代表では、少しずつステータスを高めていった印象だ。いつもメンバー入りはするが、清雲栄純体制下ではもっぱらベンチスタート。アジアユース選手権は予選でも本大会でも、あまり出番が回ってこなかった。
小野に加えて、のちに鹿島アントラーズに同期入団する本山も急躍進を見せていた。
「もう実力が足りないから。モトとシンジが主力として出るのは、納得するしかなかった。誰がどう見ても巧いじゃない。だから、なんで俺が出れないんだって想いはなかったよ。大したことない選手だったら俺を使えよって思うかもしれないけど、彼らを見てたら出れないのはしょうがない。自分が努力するしかないと。それだけのタレントだからね、あのふたりは」
転機は、フィリップ・トルシエの監督就任である。その後の2000年シドニー五輪、2002年日韓ワールドカップに至るまで、小笠原にとってはかならずしも相性のいい指揮官ではなかったが、いまとなってはその言動に賛同できる部分があるという。
「なにかにつけてワーワー言うし、やかましいひとだった。でもさ、日本人に足りないメンタリティーを呼び起こしてくれたんだなっていまは思うよね。当時はなんでそこまで言うのか、そこまでやるのかって思ってたけど、いまとなっては理解できる。
十代の選手に対して、遠征にコックさんを連れていく必要があるのかとか、日本人に足りない表現の部分を強調したり。俺もそうだけど、日本人は淡々と内に秘めてやるタイプが多いじゃない。でももっと我を出せと。いずれ俺はその大事さをイタリアで痛感するんだけどね。日本人は恵まれすぎだってずっと言ってた。やれホテルがどうだ、水がどうだとか、食べ物がどうとか、テーピングがどうとか。A代表ならまだしも20歳の選手にそこまでは必要ないって、いっつも怒ってたね。いまじゃ理解できるし、いい監督だったんだと思う」
ワールドユース直前、トルシエが黄金世代を連れて遠征したのが、開催地のナイジェリアと同じ西アフリカに位置するブルキナファソだった。
フランス最先端のトレーニング施設であるクレールフォンテーヌに数日滞在し、本場ヨーロッパの格式と伝統を堪能した彼らを待っていたのは、想像をはるかに超える異世界。わたしはその遠征に同行し、彼らと同じホテルに滞在して密着した。
「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」。
ブ

ルキナファソ遠征に参加したU-20日本代表メンバー。ここでの強烈な経験が、2か月後の快進撃に繋がった。「ナイジェリアよりキツかった」と皆が口を揃える。(C)SOCCER DIGEST
首都ワガドゥグのホテルは国内最高級だったが、設備は必要最低限の実に質素なものだった。赤道直下の猛烈な暑さの中でクーラーが効かず、食材はすべて現地調達で、500キロ離れた第2の都市ボボデュラッソーへは、オンボロバスで移動した。
日中は痛いほどの日差しだから、長時間の練習はできない。トルシエは時間さえあれば選手たちを街中の散策に連れ出し、皇帝の謁見や孤児院の訪問、大統領が所有する動物園(ほぼ放し飼い)の見学など、規格外のアトラクションを次から次へと用意した。ちなみに小笠原は、練習に飛び入り参加したブルキナファソ皇帝とPKで対決。装備万全でGKに入った“ハイネス”の裏をものの見事に突いた。
ブルキナファソでの1週間は、小笠原の脳裏にも強烈な記憶として刻まれている。
「普通に現地のものを食べてたよね。ハエのたかってる肉で、びちゃびちゃの黒い米を取って、これ本当に大丈夫なのかよとか言いながら。シャワーは水自体が出ないから、ペットボトルの水で身体を拭いてたな。モトと同部屋だったんだけど、クーラーが効かないから換気扇を回すわけ。それが猛烈にうるさくて、でも止めると息苦しくなる。だから俺もモトもずっと寝不足だった。
でもさ、すべて慣れちゃえばなんてことなかった。サッカーするためには食べなきゃいけないわけで、じゃないと戦えない。朝5時に起きて、ビスケットだけ食べてトレーニングとか、なんの意味があるんだって思ったけど、それをやっちゃえば何時に起きろって言われてもへっちゃらになる。トルシエはそういうのを伝えたかったんだと思う。
あの経験があるから、その後は世界のどの国のどんな場所に行ってもぜんぜん大丈夫だった。いきなりナイジェリアだったらきっとキツかっただろうけど、俺らはブルキナを経験してたから、居心地がいいくらいに感じてたもんね」
ちょっとしたエピソードがある。
そのブルキナファソで、小笠原は播戸竜二と散歩をしていた。すると現地のひとが「こっちに来い」と手招きしてくる。なんと両人は普通の民家にお邪魔したという。怖いもの知らずだ。
「どんな生活してるんだろうって、すごく興味があって。おいあがれよって言ってもらって中に入ったら、いきなりライオンの毛皮が敷いてあって『俺が撃って捕ったんだ』って言うわけ。『ホントかよ!?』って感じだけどさ、なかなか遠征で現地の家になんて入れないでしょ。面白かったね、触れられて。それくらいしか娯楽がなかったってのもある。暇すぎて。テレビもなにを言ってるか分からないし、インターネットとかない時代だから。本当にいい経験をさせてもらった」
2か月後、ワールドユースの檜舞台に立つ。小笠原は自身初の世界大会で、レギュラーポジションを掴んでいた。まるで叶わないと思っていた小野、本山とともに、スタメンを飾ったのだ。
そして大会直前、トルシエは小笠原に驚きの指示を伝える。
「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」
ミツオは呑み込み、黙って受け入れた。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/506試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月22日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「18歳の決断~なぜ常勝・鹿島を選んだのか」(#3)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年06月28日
どことやっても上回れた。大きな自信になったよね。

第3弾となる今回は、ワールドユースでの快進撃を回顧し、鹿島入団にまつわる秘話を明かしてくれた。写真:佐野美樹
ワールドユース開幕を目前に控え、小笠原満男はフィリップ・トルシエ監督の信頼を得て、先発の座を確保していた。
フラット3の前にアンカーを置き、ダブルトップ下と両ウイングバックが横一線に並び、最前線には2トップが構える。その3-1-4-2システムで、小笠原は小野伸二とともに、2列目でコンビを組んだ。
「大会が近づいても、いいのかな俺でって感じだった。もちろん嬉しいんだけど、先発を獲ったって実感はなかったんだよね。で、トルシエはこう言った。『小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ』って。
まあ逆じゃ守備は成り立たないと思ってたし、シンジのチームだから、俺はその周りを動きながらってイメージはできた。ちょうど鹿島で、ビスマルクとやってたしね。彼を押し立てるようにプレーしてたから、同じような関係だなと思って。違和感はなかったし、異議もなかった。チームのためと思って納得してたよ」
U-20日本代表はグループリーグ初戦でカメルーンに逆転負けを喫したものの、その後はアメリカとイングランドを連破し、決勝トーナメントに進出。快進撃は止まらず、ポルトガル、ウルグアイ、メキシコと強豪をなぎ倒し、ついに決勝にまで駒を進めた。
「結果を見てもそうだけど、ボール回しとか試合内容でも上回れたというところで、すごく充実感があった。それまで日本が世界で戦う時って、なんとか耐えて耐えて1点取って勝つってのがイメージとしてあった。アトランタ五輪でブラジルに勝った時とかもそうだったよね。試合内容で勝ったかというとそうではない。それがワールドユースでは、どことやっても内容でも上回れた。あれは俺らにとって本当に大きな自信になったから」
そんななか、小笠原はひとりの選手の振る舞いに感銘を受けていたという。鹿島アントラーズで僚友となっていた曽ケ端準だ。
彼は3番手のGKとして帯同していたが、唯一のバックアップメンバーだった。つまり、榎本達也か南雄太が怪我でもしないかぎり、大会にはエントリーされない。メンタル面で相当に追い込まれていたはずだ。
「ベンチにさえ入れないから、最初は早く帰りたいって感じだったけど、本当によく俺らを盛り立ててくれてさ。準々決勝の前だったかな、『ここまで来たら絶対勝てよ』ってみんなに言ってて。あいつのためにも頑張らないとなって思ったよね。勝てば勝つほどチームがひとつになっていった。勝ってまとまっていくってこういうことなんだって、実感できた」
おめでとうって言われて、すごく違和感があった。

まるで歯が立たなかった決勝のスペイン戦。対戦したシャビについては「イナをもってしても止まらなかった」。写真:ヤナガワゴーッ!
だが、決勝のスペイン戦は惨敗に終わった。
「(出場停止だった)シンジがいればちょっと変わってたかもしれないけど、やっぱり強かったよ。トルシエが『シャビはバルセロナでレギュラー獲ってんだぞ』とか言ってて、みんなで嘘でしょ、どんなもんなのって疑ってた。イナがガッツンガッツン行けばなんとかなるだろうって。大間違いだったね。あのイナをもってしても止まらなかった。身体はどっちかって言うと華奢でしょ。日本人が目ざすプレー像なのかもしれないなって思った。フィジカル勝負じゃなく足も速くないけど、判断と技術が図抜けてたよ。
決勝は、個人としてもチームとしてもなにもできなかった。ただただ圧倒された。トントントンって勝ち続けて、行ける、強いぞって思ってたところで、ガツンとやられた。でもさ、俺らが成長するためには、すんなり勝つより良かったのかもしれない」
大会を終えて、成田空港に降り立った彼らを待っていたのは、熱狂的なファンによる手厚い出迎えだった。健闘を称えてもらうのは、素直に嬉しい。だが、どこかで違和感を覚えていたという。21人のメンバーすべてがだ。。
「まだ決勝で負けた悔しさが残ってて、誰ひとり準優勝で『よくやったな』とは思ってなかったから。おめでとうって言われて、すごく違和感があったのを覚えてる。上には上がいるってのを噛み締めながら、もっとやらなきゃって思ってた。みんな一緒だよね」
あの銀色の進撃から、18年が経った。ナイジェリアで戦った伝説の21名で、いまでも現役を続けているプレーヤーは12名にのぼる。いまでもやはり、気になる存在だ。
「俺らの世代は互いに負けたくないし、意識し合う。いい意味でね。俺なんかはみんなが活躍したら本当に嬉しいし、その一方で、活躍すればするほど俺も負けてられないって気持ちにもなる。ずっと刺激し合ってきた。周りがどう見てるかは分からないけど、俺はみんなをそういう目で見てる」
ドラフトで言えば6人中6位。補欠だよ。

大船渡高3年の夏以降は、進路について大いに悩んだようだ。なかなか鹿島入団を決断できなかったという。(C)SOCCER DIGEST
とりわけ小笠原にとって、鹿島で同期の本山雅志と中田浩二は、スペシャルな存在であり続けた。
1998年、鹿島の新卒入団は、後にも先にもないスーパータレント6人衆だった。小笠原、本山、中田はもとより、ユースチームから昇格の曽ケ端、熊本の大津高校からきた天才肌のプレーメーカー・山口武士、そして、奈良育英高校の攻撃的な左サイドバック・中村祥朗という顔ぶれ。いずれも清雲栄純監督が率いるU-18日本代表の常連だった。
わたしは絶対に同意しないが、そこでも小笠原は「6番目だった」と主張する。
「ドラフトで言えば6人中6位。最後に決まったからね。豪華だったのはモトと中田なのであって、俺は注目選手でもなんでもない。補欠が獲れちゃったんだよ」
高校・ユース担当だったわたしは、当時の鹿島の名スカウトコンビと懇意にさせてもらっていた。平野勝哉さん、椎本邦一さんのふたりだ。
20年前のスカウト事情は、いまほど成熟していなかったかもしれない。ヤングタレントの潜在能力と伸びしろを見極め切れず、評判なり知名度、あるいは全国大会や世代別代表での経験を基本情報に、容易くプロの世界に導いていたクラブが少なくなかった。入団から1、2年で放出されるティーンネイジャーを何人も見ていた。
そんななか、鹿島は段違いの価値基準を持ち、高校生たちに個別の近未来設計を提示していたのだ。小笠原はこう証言する。
「正直、何チームかが声をかけてくれた。10番を用意して待ってるとか、レギュラーとして即戦力で迎えるとか、俺の中ではなんでそうなるのかなって不思議だった。でも、鹿島の平野さんと椎本さんだけは、はっきり言ってくれたんだよね。うちは来てもそう簡単じゃないよって。
ただ、きっとやりがいはある。数年かけてこのチームでレギュラーを獲れれば、間違いなく代表にもつながる。それだけのチームで、可能性があるから声をかけたんだって。そこにグッと来たわけ。そういうチームでやりたいって思った」
モトが「みんなで一緒に強くしよう」って言ってきてくれた。

小笠原にとって黄金世代はとても大きな存在だ。なかでも本山と中田、そして曽ケ端の同期入団組には格別な想いがある。写真:佐野美樹
だが、小笠原は決心できずにいた。秋を前に中田が決まり、本山が決まり、「これは試合に出れないなぁ」と考え始めていたからだ。
そんな折、U-18日本代表の合宿で本山に掛けられた言葉が、背中を押したという。
「すごい迷ってて、やっぱり厳しいかなと思ってたところで、モトが『みんなで一緒に強くしよう』って言ってきてくれた。ちょっと軽い感じでね。心が動いたというか、みんなで競争しながら成長していくってのが、イメージできたんだよね。
まさか現実になるなんてあの時は思ってもみなかったけど、結果的にはライバルがいて良かったんだと思う。中田が最初に出始めて、その後でモトが活躍したり。シンジとの関係もそうだったけど、いい距離感、いいライバル心でお互い切磋琢磨できたから、ここまでやってこれた」
みずからを「6番目」と話した男は、やがて、常勝軍団のシンボルになっていく。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/507試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月27日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「栄光の16冠、究極のアントラーズ愛」(♯4)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年07月04日
いまでもずっと忘れられないワンプレーがある。

鹿島アントラーズの栄華とともに歩んできたプロキャリア。積み上げたタイトルは、驚異の16個だ。(C)J.LEAGUE PHOTOS
1998年春、小笠原満男はJリーグ屈指の名門、鹿島アントラーズの門を叩いた。
きっとすぐには通じない、そう覚悟していた。だが、居並ぶタレントもトレーニングの質も、想像をはるかに超えるレベルだった。
「試合に出れるようになるまで、3年がひと一区切りだとは思ってたけど、簡単じゃなかった。中盤にはビスマルクがいて、ほかにも同じポジションには増田(忠俊)さんがいて、もう誰も彼もが日本代表かオリンピック代表だもん。この面子の中で出れないのはしょうがない。でも、ここでポジションを獲れれば、それはイコール代表なんだとも思った。
紅白戦なんて、いつも日本代表とやれてたわけで、楽しくないわけがない。本田(泰人)さんに何回も止められて、秋田(豊)さんに吹っ飛ばされてさ。なんで出れないんだって気持ちより、成長したいって充実感のほうが上回ってた。日本一の選手が集まってくるチームで、日々の練習から得られる確かなものがあった」
少しずつ出場機会を掴み、3年目の2000年シーズンにはついにレギュラーの座を射止めた。21歳にして、Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯の3冠を初めて達成するチームを力強く牽引したのだ。
「まだまだ上のひとたちに引っ張ってもらってる、伸び伸びやらせてもらってる時期だったけど、最終的に3つ獲れたからね。すごい充実感と達成感があった」
今季で在籍20年目。積み重ねたタイトルの数は16にのぼる。当然ながら、(盟友・曽ケ端準とともに)Jリーグの個人最多タイトル保持者だ。「16個? そうなの? もう何個とか数えてなかったからなぁ」と微笑を浮かべる。
例えば、思い入れの強いタイトルなどはあるのだろうか。
「劇的だったのは、メッシーナから夏に帰ってきたシーズン(2007年)じゃないかな。もう無理だろうってところから9連勝かなんかして、最終節でレッズを逆転したという。あれはなんかこう、劇的がゆえに印象がある。本音を言えば、突っ走って勝つのが理想なんだけど、いちばん嬉しかったのはあれかな。鹿島としても久しぶりの優勝だったしね(6年ぶり)」
では、最強チームを選ぶとすれば、いつの時代か。
「そりゃもう、チームとして強かったのは、ジュビロと二強だった頃じゃないかな。まさに俺が入ってすぐの頃の。あれが最強でしょ。めっちゃ強かったもん。まだスタンドから観ることが多かったけど、1点取られようがなにしようが、絶対に負ける気がしなかった。ジョルジーニョ、ビスマルク、マジーニョがいてさ」
ベストゴールやベストゲームといったありきたりな質問を切り出すと、小笠原は「どれがベストとかってなかなか決めれない。そういうのじゃないけど、いまでもずっと忘れられないワンプレーっていうのはある」と、記憶の扉を開いてくれた。
PKは運じゃない。俺は違うと思う。

1999年のナビスコカップ決勝。小笠原はそのPK戦で手痛い失敗をしてしまう。「終わったあとむちゃくちゃ泣いたからね」と振り返る。(C)SOCCER DIGEST
時は、1999年秋。ナビスコカップ決勝、鹿島アントラーズ対柏レイソルの一戦だ。ちょうど同じタイミングでシドニー五輪予選のゲームが国外で開催されていたため、本山雅志と中田浩二が不在。小笠原はベンチメンバーに食い込んでいた。
試合は2-2のまま延長戦に入っても決着が付かず、PK戦に突入。後半頭から出場していた小笠原は6番目のキッカーを任された。
「そこでね、外してしまうわけですよ。俺が外して、次に決められて負けた。もう悔しいとかって次元じゃ片付けられなかった」
たったひとつのキック。それが数え切れない人びとの人生と運命を変えうるのだと、身を持って学んだ。
「すごく大事なんだって思い知った。諸先輩方がいる中で、ジーコが『お前行け』って言ってくれた。嬉しくて、決めてやるぞって意気込んで、止められた。インサイドキックの重要性をあらためて痛感したし、疎かにしちゃいけないんだって。いまでも本当に忘れられない、印象深い試合。綺麗なゴールとかより、そっちのほうがよっぽど覚えてる。サッカー教室とかで子どもたちに話す時にも、よくこの話を使うくらい」
せっかくなのでインタビュー中ながら、当時のプレー動画を一緒に観た。若かりし頃の自分の姿を恥ずかしそうに眺めながら、「明らかにコースが甘いよね」と呟く。
「この時、いったい何万人が悲しんだんだろう。ジーコがよく言ってたもんね。練習してる時は疲れてないから蹴れるけど、延長戦とかやった後で、足がボロボロの状態でも狙ったところに強く蹴れなきゃダメなんだって。いつもと同じ感覚じゃなダメなんだって。本当にその通りだと思った。メンタルも大事だし、ビビってちゃ決めれない。だからPKは運じゃない。俺は違うと思う」
中田は、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。

ワールドユースから帰国した直後の同期4人組(左から曽ケ端、中田、小笠原、本山)。ミツオはコウジを「真のリーダーシップがある男」と称える。(C)J.LEAGUE PHOTOS
鹿島のクラブハウスを訪れたのは、およそ8年ぶりだった。
インタビュールームには過去の対戦相手のペナントやチーム歴代の集合写真が所狭しと張り巡らされ、クラブの重厚な足取りに圧倒される。建物すべてを覆う例えようのないパワー、自信と誇りがみなぎる選手たち、そして、小雨の中でもあしげく練習場に通い、声援を贈り続ける生粋のサポーター。なにもかもが変わっていなかった。
そして、何度来ても思う。ここは、日本サッカーの宝なのだと。
ジーコスピリット、そして鹿島イズムとは? 現チームにおいて、この男以外の誰に訊けばいいだろうか。
「俺らのロッカールームの入り口にさ、ジーコスピリッツと題して、3つの言葉が書いてあるの。献身、誠実、尊重。それがすべてを物語ってるんじゃないかな。チームのために戦う献身さ、素直に意見を言い合う誠実さ、お互いをリスペクトし合う尊重の心。チームはファミリーなんだってこと。いちいち言葉で語る必要はないし、試合で一生懸命やる姿勢を見せるだけ。若手とかに、『ジーコはこうだったんだよ』とか言うんじゃなくてね」
長くキャプテンマークを巻いてきた。継承者としての気概は、並大抵ではない。
「ここはクラブ自体がそこを大事にしている。俺がキャプテンになった時、本田さんや秋田さん、ヤナギ(柳沢敦)さんがなにをやっていたか、どう振る舞っていたか、なにを話していたかをよく思い起こした。最高の見本があるわけだから、それを真似してきただけ。
あの時こう言ってくれたな、こういう姿勢で臨んでたなって。決して練習では手を抜かないし、少々のことでは練習を休まないし、チームはひとつになって戦うんだって姿勢を見せてくれてた。結果を出してきた、勝ってきたって実績があるから、すべてが正しかったと思える。中田(浩二)もヤナギさんもそうだけど、最後の去り際が素晴らしかった。試合にあまり出れなくなっても文句ひとつ言わず練習を一生懸命やるし、ほかの選手にアドバイスを送ってね」
同期入団でずっとともに切磋琢磨してきた中田に対しては、さらに熱が込もる。
「きっと悔しい想いはしてたと思うんだけど、最後までやり切ってこのチームを去って行った。中田は引退した年、一回も練習を休んでない。俺の記憶が正しければ。ほとんど試合に出てないのにああいう姿を見せられるって、やっぱりこのクラブの象徴なのかなって思う。恥ずかしいから、面と向かっては言わないけどね(笑)」
レアル? あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない。

昨年末、日本中のサッカーファンを熱くさせたレアル・マドリーとの大一番。ミツオはいたって冷静に、あの「世界一決定戦」を総評した。(C)REUTERS/AFLO
昨年末、鹿島はクラブワールドカップで快進撃を続けた。決勝ではレアル・マドリーをあわやというところまで追い詰めたが、一歩及ばず準優勝に終わる。
あの試合後、小笠原がどこか満足げな表情を浮かべていたのが印象的だった。名だたる強豪クラブと渡り合い、広く世界に鹿島イズムを発信できたと──。
で、訊きたかった。ぶっちゃけ、マドリーはどうだったの??
「本気じゃなかったと思うよ、あれでも。それでも勝てるくらい強かった。いつでも点を取れるんだって、あのレベルは。必要最小限で勝たれちゃったなぁって思うもん。いい勝負したねとか、もう少しで勝てたかもしれないとか言われたけど、差はあったよ。差はある。
バルセロナとやってる時のレアル・マドリーじゃないんだから。そこを勘違いしちゃいけない。俺らだって天皇杯で格下とやる時みたいに、難しさがあったんだと思うよ、レアルにしても。あと一歩で勝てたとか勘違いしちゃいけない」
酸いも甘いも噛み分けたレジェンドがそう言うのだ。
こればかりは、謙遜ではない。
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/507試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月4日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「ジーコジャパンの真相と、セリエA挑戦の深層」(♯5)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年07月10日
あの4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ。

鹿島での順風満帆な日々とは裏腹に、日本代表でのキャリアはまさに波乱万丈。「思い出はたくさんある」と話し、レアなエピソードを披露してくれた。写真:佐野美樹
日本代表における小笠原満男のハイライトは、はたしてどの時期だろうか。
国際Aマッチの出場記録は、55試合・7得点。この数字を本人に伝えると、少し驚いたような表情を見せ、「そんなに出てたの? びっくりだね」と目を丸くした。
「代表に選ばれるって本当に光栄なこと。みんなが行きたくても行けない場所だし、限られたひとしか行けない。なかなか出れなかったから、悔しい想いをしたなぁってのはあるけど、思い出はたくさんある。55試合も出たって実感はないけどね」
1999年のワールドユースで眩いばかりの輝きを放った小笠原だが、その後のシドニー五輪代表では一度もメインキャストとはなれず、フィリップ・トルシエ監督との間にあった微妙な距離は、一向に縮まらなかった。
ところが、2002年日韓ワールドカップ目前の3月に、急転直下の展開を見せる。親善試合のウクライナ戦に初招集され、A代表デビューを飾ったのだ。そしてなんと本大会の登録23人枠にも食い込んだのである。
本人も周りも、あっと驚くサプライズ選出だった。
「正直、2002年は行けると思ってなかった。冷静に見たら難しいと。だから驚いたよね。なんで呼ばれたのかは……いちいち(トルシエに)訊いてないから分からない(笑)。なんでだったんだろ。とくになにも言われなかった。
試合はチュニジア戦(グループリーグ第3戦)にほんのちょっと出ただけだけど、日本の国中が応援してくれたから、嬉しかったよね。サッカーの力ってすごいなって実感した。ホテルから会場に行くまでの道路沿いで、ずらっと並んで日の丸を振ってくれてさ。いい経験をさせてもらった」
そして、恩師ジーコが代表監督に就任する。ミツオ中盤に欠かせない存在となり、ドイツ・ワールドカップまでの4年間、すべての試合や遠征に招集された。
だがそれは、自問自答を続ける葛藤の日々でもあった。
「トルシエさんの頃に比べたら割と使ってもらえるようにはなった。でも、海外でやってる選手が帰ってくると出れない、いなければ出れるっていう構図。なんとか覆して自分のポジションを確立したいと思ってたけど、ヒデ(中田英寿)さん、(中村)俊輔さん、シンジ(小野伸二)、イナ(稲本潤一)の4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ」
あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない。

ジーコジャパンではメモリアル弾をいくつか決めたが、2005年のW杯最終予選・北朝鮮戦でねじ込んだこのFK弾も、格別だった。(C)SOCCER DIGEST
そんな中でも、ひとたびピッチに立てば、小笠原は印象深い働きを披露した。その最たるゲームが、2005年6月3日のドイツ・ワールドカップ最終予選、敵地でのバーレーン戦だ。圧巻のパフォーマンスを示し、鮮やかなミドルシュートを蹴り込んで1-0の快勝に貢献。3大会連続出場をグッと引き寄せる、貴重な3ポイント奪取だった。
このバーレーン戦の前日、小笠原は生涯忘れることのない出来事に遭遇する。
「あの試合は、シンジが直前の練習で骨折して、俺に出番が回ってきただけ。急きょ出ることになったわけだけど、あの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない」
日本でのキリンカップで散々なパフォーマンスに終始し、ジーコジャパンへの風当たりは日増しに強くなっていた。チーム内にも不穏な空気が立ち込め、中東入りしてからもムードが高まってこない。そこで危機を察した主将の宮本恒靖が呼びかけ、選手たちだけで話し合いの場を設ける。上も下も関係なく大いに意見をぶつけ合った。
大事な2連戦(バーレーン戦と北朝鮮戦)を前に、チームはなんとか一枚岩となれた。いわゆる「アブダビの夜」だ。
その翌日だった。バーレーンに移動した直後の練習で、小野が右足の甲を骨折してしまう。2日後のバーレーン戦はおろか、長期離脱を懸念されるほどの大怪我だった。
ミツオはよく覚えているという。
「シンジ自身、出れなくなってそうとう悔しかったと思う。それだけ大事な試合だったからね。でもさ、怪我した後なのに心配させまいと、食事の時とかでも、みんなの前でニコニコしてて……。その直後、俺が代わりに出るような雰囲気になって、声をかけてくれた。『頑張れよミツ、応援してるからな』って。このひと、本当にすげぇなと思った。
ずっとシンジが出てて俺が出れなくて、多少なりとも悔しいとか思ってた自分が恥ずかしくなった。バーレーン戦は、シンジに頑張ってくれって言われたから、頑張っただけだよ。シンジの代わりを果たしただけ。自分の感情を抑えて笑顔で振る舞って、代わりに出るヤツに頑張れって……。感じるものはすごくあったし、いまでも忘れられない」
鬼気迫るプレーで中盤を牽引し、決勝点も挙げる奮迅の働き。ゴールを決めた後には、めずらしく雄叫びを上げた。
友に捧げる、会心の一撃だった。
すべて一回ぶち壊して、勝負してみたいってのがあった。

傍から見ればイタリアでの10か月間は苦難の連続に移ったが、小笠原に言わせれば「だからこそ濃厚だった」。守備に対する価値観が一変したという。写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)
1年後、ジーコジャパンはドイツに降り立った。結果は、グループリーグを1分け2敗で終える惨敗。小笠原はクロアチア戦(第2戦)とブラジル戦(第3戦)で先発を飾った。
「いろいろ言われたけど、俺はすごくいいチームだったと思うし、もっと勝てるチームだった。海外でプレーする選手が多くて経験値もあんなに高かったのに、なんで勝てなかったんだろうって。なんかバラバラだったみたいな意見もあったらしいけど、単純に結果として負けただけで、実際はすごくまとまってたんだよね。
よく言われた海外組と国内組、世代間がどうとか、まるでなかった。ツネ(宮本)さんとヒデさんを中心に、なにかあればよく話し合ったし。ものすごくいいチームだったと思う」
ワールドカップが終わってほどなく、小笠原は自身初の欧州挑戦に乗り出した。セリエA、メッシーナでの10か月間だ。
とかくこの挑戦を、失敗だったと見る向きが少なくない。それもそうだろう。リーグ戦には6試合(1得点)しか出場できず、コッパ・イタリアなどを合わせても、公式戦で10試合しかプレーしていない。ベンチ外だったゲームがほとんどだ。
だが、それでも、ミツオにとってはかけがえのない充実した日々だった。
「まあ、よそから見たらほぼ活躍できずに終わった1シーズンかもしれないけど、俺の中では本当に濃かった。鹿島でずっと試合に出させてもらって、代表にも常に呼んでもらってたところで、なんとなくマンネリ化じゃないけど、そういうのをすべて一回ぶち壊して勝負してみたいってのがあった。
行ってみたら、実際そうなのよ。おまえは誰だってところから始まって、ただの日本人じゃねえかって。なにもかもを一から証明しなきゃいけない。プレーもそうだし、言葉もそうだし、いろんなものを一から築き上げていく作業が全部面白かった。試合に出れなかったのはすごく悔しい。だからこそ出たい、絶対に使ってもらいたいと必死に取り組めたのが、本当に新鮮に感じられた。
それこそ清雲(栄純)さんが監督の時のユース代表や、鹿島に入ったばかりの頃と同じ感覚。それを感じられたのが、なによりの財産になった」
冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。

メッシーナから帰還した小笠原は、鹿島を6年ぶりのJ1制覇に導く活躍。マイナーチェンジ後の「新生ミツオ」がそこにいた。(C)SOCCER DIGEST
磨き上げられたのは、イタリア仕込みの守備センス。やがてフットボーラー小笠原はマイナーチェンジを完成させ、さらなる進化を遂げるのだ。
「それまでは攻撃的な選手としてやってたけど、メッシーナで初めてボランチ気味にプレーした。強いチームじゃないから守備の時間がすごく長いわけですよ。いかに相手からボールを奪うかが一番大事なところで、とにかくそこの強さを求められた。
守備で魅せるような選手じゃなかったじゃない? それまでの俺は。でもメッシーナではすごく学んで、鹿島に戻ってきてからもいちばん表現したいのがそこだった。相手からボールを奪うってところ。得るものが多かったし、本当に濃い時間だった」
本音を言えばもっと欧州でプレーしたかったが、メッシーナがセリエBに降格し、そもそも鹿島とはレンタル契約だった。「ほとんど試合に出れてなかった俺に、(鹿島は)帰ってこいと言ってくれた。素直に嬉しかったよね」と、復帰を決意した。
「もしスペインとかでプレーしてたら、本来の攻撃なところに磨きを掛けられたのかもしれないけど、オファーがなかったからね。でも、イタリアだからこそ学べたものがある。俺に足りない守備力を高めてくれたし、人間としても成長させてくれた。いいチームに行ったのかなって思うね、いまとなれば」
イタリア南部の島には、奥さんと娘たちも連れていき、ともに充実した日々を過ごした。
「ぜんぜん苦じゃない。むしろ楽しかった。町ゆくひとには、ヤナギ(柳沢敦)さんもちょっと前までいたから、冗談で『ヤナギサワラ』とか言われたけどね。食事はおいしいし、言葉を覚えて買い物に行ったり、いろんなとこ旅行に行ったり。子どもは地元の幼稚園に入ったんだけど、最初は泣きながら通ってたのが、いつしかイタリア語で『水ちょうだい』とか言えるようになったりね。家族みんなで頑張って成長しながら、言ってみれば、苦労を楽しめた」
帰国して鹿島に戻ると、愛着のあった8番は野沢拓也が着けていた。そこで小笠原はなにを思ったか、背番号40を選ぶ。以後、現在に至るまでずっと、チームにおける“最大ナンバー”が代名詞だ。
「何番にしようかなーと。なんか一桁って誰かのイメージがあるじゃない。だから誰も付けたことがない番号がいいなって。海外だと99番とかもあったから『マックス選べるの?』って訊いたらダメで、40までだって言われた。だから、深い意味とかまるでない(笑)」
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※7月17日配信予定の次回は、フットボーラー小笠原満男の真髄と、その内面にぐいっと切り込みます。深すぎるサッカー観に迫りつつ、東北人魂の「これから」、引き際のビジョン、さらにはサッカーを始めた実息への想いまで──。最終回も、ぜひお楽しみに!
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/508試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月9日現在。
【黄金世代】第3回・小笠原満男「美しき東北人魂~これが俺の生きる道」(♯6)
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2017年07月17日
いつまでも淡々と黙々ではダメだったんだと思う。

長編となった連載も今回が最終回。38歳となった小笠原満男の「いま」を切り取る。写真:佐野美樹
小笠原満男とは、いったいどんなフットボーラーなのか。
本人にそのまま訊いてみたのだが……。
「なんだろ。サッカーが好きで、ただ勝ちたくてやってて、でも不器用で……。いやいや、上手く説明できないな。あんまり考えたことないから」
と、やや難易度が高かったようだ。では、これまでのキャリアでサッカーに対する価値観はどのように変わってきたか。それなら大丈夫だろう。
「えっとね、若い頃は点取りたい、アシストしたいだったのが、いまはとにかく勝つためのプレーってのを一番に考えるようになった。やりたいプレーをやるんじゃなくて、チームに必要なプレーだよね。それって時間帯や試合の状況によって違うし、対戦相手によっても変わってくる。そこのところを深く考えられるようになった。
だから、狙った通りの試合運びをできたときとかは、喜びを感じるよね。チームに必要なプレーって、ときに守備だったり、ファウルして止めるだったりもあると思う。基本、いまはそこしか考えてないかな」
初めてミツオに会ったのは、彼が高2の時だった。表情はいつもニコヤカだが、基本的に黙して多くを語らずで、とてもシャイな若者だった。
それがいつから変わったのだろう。いま現在の凄みが半端ない。鹿島アントラーズでは闘将のイメージが定着しているし、その言動には、常に強いメッセージが込められている。
「やっぱり俺は岩手、東北の人間だから、黙々と淡々としていたい。いまだってそのまま行けるならずっとそうしていたいけど、立場が変わっていく中で、発しなければいけない必要性が出てきたりでね。やっぱり言葉で引っ張らなきゃいけない、若い選手たちに声を掛けなきゃいけないときってあるからさ。いつまでも淡々と黙々ではダメだったんだと思う。もともとはそのほうが性に合ってるんだけどね。楽だし。だから頑張って、演じてます(笑)」
活動の中から、未来のJリーガーが育ってくれたら嬉しい。

2012年夏、震災復興支援マッチで緊急参戦したデル・ピエロとがっちり握手を交わす。『東北人魂』での地道な活動は、これからも続く。(C)SOCCER DIGEST
現在の小笠原を語るうえで欠かせないのが、「東北人魂」での活動だ。きっかけとなったのは言うまでもなく、2011年3月11日の東日本大震災だった。
「清水でJの試合があるんで、東京駅に向かう途中、高速道路のバスの中だった。寝てたから揺れは感じてないけど、気づいたらバスが路肩に停まってて、なにがあったんだろうって。テレビを付けてようやく状況を把握した。岩手の親とか知り合いとか連絡がつかなくて、鹿島も被災地だったから、すごく心配したよね」
震災発生から1週間が経った頃だった。すでに親族の安否は確認できていたが、居ても立ってもいられず、現地に向かうことにした。新潟や秋田を周るルートであれば入れるという情報を掴んだからだ。小笠原が車を運転し、家族全員で一路東北へ。
「辿り着くまではなにもかもが普段と変わらない景色だったけど、津波が来たところからはもう一気に……。言葉では言い表せないくらいで、頭の中が真っ白になった。買ってきたものを身内や近所に配るくらいしかできなくてね。個人で届けるだけって、やっぱり限界があるなと感じた」
鹿島に戻ってすぐに、あるサッカー関係者から、被災地でサッカーボールを蹴れなくなり、辞める子どもが増えていると聞かされた。スパイクもボールもユニホームも流され、経済的な余裕もなくなったからだ。「じゃあそういうのを届けてあげよう」と思い付いたのが、活動の始まりだった。
東北出身のJリーガーに声を掛け、宮城出身の今野泰幸(ガンバ大阪)や秋田出身の熊林親吾(当時・ザスパ草津)らを発起人とし、「東北人魂を持つJリーガーの会」を発足させるのだ。
「熊林とか、『僕らは被災地じゃないけど手伝わせてください』と言ってくれて、じゃあちゃんとした連絡網を作って会でやろう、東北出身みんなでやろうって空気になって。東北人魂は、俺がチャリティーマッチのときにTシャツに書いた言葉。一発でメッセージを伝えたいって考えたときに、分かりやすいのがいいと、パッと思い浮かんだのがそれ。
東北のひとにはお互いを助け合う優しさだったり、黙々と我慢しながらでも困難に耐えられる強さがある。その気持ちがあれば乗り越えられる。だからこその、『東北人魂』。東北のひとにはきっと伝わる、復興にもいいメッセージになると思った」
会の活動も今年で7年目。やり続けることが大切だと感じている。
「まだまだだけど少しずつ復興はしてるし、発信し続けないと風化の速度は早まる。当初は物資を届ける、子どもたちとサッカーをするのがメインだったけど、これからは長年続いていく大会形式のイベントを定着させたい。もしその中から、未来のJリーガーが育ってくれたら嬉しいよね。
ただ楽しかったで終わるんじゃなくて、震災があったから頑張れただったり、触れ合ったプロの選手たちに刺激を受けて『僕もプロになりたい!』と思ってくれたり。そうなれば嬉しいし、すごく期待してますよ」
小笠原の実息もサッカーをしている。「巧くなりたかったら努力しろ、やるなら最後までやれとは話した。俺が父親に言われたのと同じことだね」と、少し頬を緩ませながら、やりとりを明かしてくれた。
バトンを渡す日が来たら、スパッと辞めるかな。

J1連覇に向け、好位置に付けている鹿島。その中盤には今季も、背番号40の雄姿がある。写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)
さて、黄金世代のみんなに訊いて回っている酷な質問だ。
現役を退く日がそう遠くない。鹿島の生ける伝説は、どんな終わり方をイメージしているのだろうか。
「すごい先ではないよね。どれだけ延ばせるかで、ノープランと言えばノープラン。何歳までやりたいと思ってても、いらないって言われたら終わりの世界だからね。行けるとこまで行きたいってのが本音かな。ボロボロになる前に、スパっとね。
目標が達成されたとかじゃなく、もう次に託すときだって感じられたタイミングかもしれない。俺はこのチームが好きだから、ずっとここでプレーしていたい。でもいつかは次にバトンを渡す日が来ると思う。そのときが来たらスパッと辞めるかな。いまはなんとなくそう思う」
最後に、雑談で飛び出したエピソードを紹介しよう。「どういうゴールが究極なの?」と尋ねたところ、かなり奇想天外な答が返ってきた。
「中学校くらいが俺のゴールの全盛期だった。スピード溢れるドリブラー時代ね。実は、ゴールに関してはいまでも変わらない美学がある。ゴールネットを揺らさずにゴールするのが究極の目標」
は??
「なにそれ、でしょ? ドリブルでディフェンダーをかわして、キーパーもかわして、そのままドリブルでゴールラインも割って、また戻る! シュートを蹴り込むんじゃなくてね。これに優る究極のゴールはないでしょ。中学時代に何度かやって、すごく満足してた。え? 感じわるい?(笑)」
これもまた、フットボーラー小笠原満男の真理なのだ。
また鹿島に来ればいい。ミツオはいつだって、ここにいる。

闘将が言うところの「バトン」は誰の手に渡るのか。心の底から愛するクラブのため、「行けるところまで行きたい」と力を込めた。写真:佐野美樹
練習場のピッチで写真撮影を終え、別れ際にこう語りかけた。「次はJの試合をカシマまで観にきますから」と。すると社交辞令を見抜いたのか、言われ慣れているのか、小笠原はこう突き放した。
「俺はね、そういうのは信じないよ。だいたいみんな来ないから。口だけなんだよ」
なんとも手厳しい。そして、鋭い。笑って別れたが、言われっぱなしも悔しい。
困った。昔ならまだしも、いまのわたしはJの担当チームを持っているわけではないので、気軽に週末のJリーグ取材には赴けない。いや、待てよ。直近の平日にACLのホームゲームがあるじゃないか。しかも相手の広州恒大にはパウリーニョが! 彼は我が愛するトッテナム・ホットスパーの元選手で、訊きたいことが山ほどある。
そして試合当日。ゲームが終わり、ミックスゾーンを素通りしてそそくさとバスに乗り込むパウリーニョを目撃し、「降りて来てくれ」とジェスチャーをしている間に、ミツオさんはすたこらと帰ってしまった。来ていたことを伝えようと曽ケ端準と中田浩二を必死に探したが見つからない。ベテラン記者とはとうてい思えない、豪快な空振りである。
でも、また来ればいい。鹿島に来ればいい。
小笠原満男はいつだって、ここにいるはずだから。
<了>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/508試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月16日現在。
満男について取材したサッカーダイジェストの川原氏である。
黄金世代の小笠原満男がどのように育ち、どう考え、今に至るかが伝わってきて読み応えがある。
これだけ数多くのエピソードが並ぶように、満男の凄さは抜きん出ておる。
これからも鹿島の、そして日本サッカーの歴史に名を刻んでいって欲しい。
また、これだけの記事を寄稿してくれた川原氏にも感謝したい。
有り難いことである。

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黄金世代
重厚な読み応えのある記事でした。黄金世代の同期入団の中で、自身の事を6番手に位置づけていたのは初めて知りました。本山、中田、曽ヶ端各選手への愛のこもったエピソードなど、またもや涙腺にきました。いつまでも我らが闘将と共に戦っていきたいです。しかし、もし彼が身を引く事を決断する時がきたなら、感謝を込めて送り出したいと思います。
感謝
ミツオさんは私の二つ上の世代です。
高校一年生の時に読んでいたサッカーダイジェストで、「この世代の中心は高校サッカーなら小野伸二、ユースなら稲本潤一だか、東北にも一人、ファンタジスタがいる」という記事でした。マッシュルームカットの寡黙な青年でした。ワールドユースでそのプレーに惚れて以来ずっと応援しています。
ミツオさんと同じ時代に生まれることができて、本当に良かったです。
そう遠くない時期に訪れるであろう別れの時まで、そしてそれからも、ずっとミツオさんのファンでい続けます。
素晴らしい連載をしてくれた川原さんにも感謝です。
高校一年生の時に読んでいたサッカーダイジェストで、「この世代の中心は高校サッカーなら小野伸二、ユースなら稲本潤一だか、東北にも一人、ファンタジスタがいる」という記事でした。マッシュルームカットの寡黙な青年でした。ワールドユースでそのプレーに惚れて以来ずっと応援しています。
ミツオさんと同じ時代に生まれることができて、本当に良かったです。
そう遠くない時期に訪れるであろう別れの時まで、そしてそれからも、ずっとミツオさんのファンでい続けます。
素晴らしい連載をしてくれた川原さんにも感謝です。