初代Jリーグ特命PR部女子マネージャー・足立梨花嬢誕生秘話
2010年 イレブンミリオンの遺産
シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
宇都宮徹壱
2017年7月27日(木) 11:30
「新規ファン」と「女性ファン」の獲得という課題

今季の横浜FCの開幕戦にゲストとして招かれていた足立梨花。女子マネを「卒業」した今でも、Jリーグファンの間で「あだっちぃー人気」が衰える様子はない【宇都宮徹壱】
「当時は高校生でしたから、制服姿で(各スタジアムを)回っていましたね。実は最初、カズさん(三浦知良)のことも知らなかったんです(笑)。私、ぜんぜんサッカーのこと知らないけど、大丈夫かなーって。それでも引き受けたからには、まずは勉強しようと思って、日産スタジアムで横浜F・マリノス対セレッソ大阪を見たのが最初でしたね」
屈託のない笑顔でそう語るのは、女優でタレントの「あだっちぃー」こと足立梨花である。「当時」というのは、『Jリーグ特命PR部女子マネージャー』に任命された2010年4月のこと。早いものであれから7年以上が経過し、制服姿の女子高生は大人の雰囲気を感じさせる人気女優へと成長していた。
それにしても7年前には「カズさんのことも知らなかった」彼女が、ちょうどカズの50歳のバースデーだった今季の横浜FCの開幕戦にゲストとして招かれていたのも、今となっては感慨深い。キックオフ前にニッパツ三ツ沢球技場を笑顔で一周した彼女には、横浜FCのサポーターのみならず、対戦相手である松本山雅FCのサポーターからも「あだっちぃー、お帰り!」という温かい声援が発せられた。13年1月に女子マネを「卒業」してから4年半が経つが、今でもJリーグファンの間で「あだっちぃー人気」が衰える様子はない。

2010年Jリーグは「特命PR部女子マネージャー」というポストを新設し、足立が任命されることとなった【(C)J.LEAGUE】
「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第6回の今回は、2010年(平成22年)をピックアップする。前述したとおり、この年に「Jリーグ特命PR部女子マネージャー」というポストが新設され、当時はまだ無名と言ってよい存在だった足立が任命されることとなった。一方でこの10年という年は、Jリーグ公式戦の年間入場者数を1100万人にすることを目標に掲げた『Jリーグ イレブンミリオンプロジェクト』の最終年にも当たっていた。
もっとも一般的なサッカーファンにとっては、イレブンミリオンの結果よりも、この年に女子マネとしてデビューした足立の存在のほうが印象に残っていることだろう。そもそも「Jリーグ特命PR部」とは、イレブンミリオンの一環として、メディアの露出を高めて新規ファン(特に女性ファン)の開拓を目的としたプロジェクトであった。この「新規ファン」と「女性ファン」の獲得は、その後もJリーグにとって打開策の見えない課題であり続けている。その起点となった年こそ、今回取り上げる2010年であった。
4年間で観客数を24%アップするために

イレブンミリオンの誕生について、当時Jリーグのチェアマンだった鬼武健二は「ある会議で『サッカーは11人でやるんだから、イレブンでいこうや!』と言った」と述懐する【宇都宮徹壱】
イレブンミリオンの誕生は、第3代Jリーグチェアマンであった鬼武健二の「イレブンでいこうや!」のツルの一声で決まった。鬼武の任期は、06年7月から10年6月まで。イレブンミリオンは07年から10年までの4シーズン。両者はほとんど重なっていた。プロジェクトのネーミングが決まった経緯について、鬼武はこのように回想する。
「当時(06年)の来場者数は、いくら足し算をしても900万人くらいしかならなかったんですよ。なかなか1000万にも届かない。そこで、ある会議で『でもなあ、サッカーは11人でやるんだから、イレブンでいこうや!』と言ったのは覚えていますよ」
実はJリーグにとって、具体的な数値目標が設定されたのはイレブンミリオンが初めてであった。もっとも、いくら「サッカーは11人でやるから」といって、1100万人という設定はいささか突飛すぎたようにも感じられる。鬼武がチェアマンに就任した06年の実績が839万256人。目標の76%である。4年間で観客数を24%アップするというのは、かなり厳しいミッションであると言わざるを得ない。実際、当時を知るJリーグのスタッフも「頑張って背伸びをしようという感じはありましたね」と語っている。
とはいえイレブンミリオンは、単にJリーグが「各自の努力で観客数を増やせ」と、各クラブの尻をたたいていたわけではない。のちに公開された資料によると、観客数24%増のためのアクションフローは、じっくりと腰を据えたものであり、なおかつ非常に大掛かりなものであったことが分かる。07年以降の主だった施策を抽出すると、イレブンミリオン公式マーク公募(決定は08年)、海外研修(欧州2回、米国1回)、J2クラブスタッフのJ1クラブ視察、観戦者調査など、かなりの予算がつぎ込まれていたことが分かる。また大掛かりなプロジェクトゆえ、地域やカテゴリーを超えたクラブ間での情報共有がなされた点も見逃せない(それ以前のJリーグでは、ほとんど見られない動きであった)。
かくしてJリーグによる予算投下と各クラブの努力により、入場者数は年々伸びていくことになる。07年が887万8378人、08年が910万4221人、そして09年が957万1079人。ついには達成率87%にまでこぎ着けた。もっとも09年に関しては、試合数が過去最多の839試合となっていた事実は留意すべきだろう(08年は698試合)。これは18チームとなったJ2が、3回戦総当りを行ったためだ。ちなみに翌10年のJ2は、19チームの2回戦総当りとなり、総試合数は717試合に減少している。
最終節の西京極で見た光景

岩貞和明(右)と足立。「特命PR部女子マネージャー」は手探り状態からスタートした【宇都宮徹壱】
Jリーグにとって「勝負の年」となった10年、新たな試みとして女性タレントを起用するプランが浮上する。まず、3月に「Jリーグ特命PR部長」として起用されたのが、当時売り出し中の木下優樹菜。しかし多忙を極めていた彼女は、TBSの『スーパーサッカー』に出演するのが精いっぱい。そこで新たに「特命PR部女子マネージャー」として白羽の矢が立ったのが、足立だった。足立は07年の『ホリプロタレントスカウトキャラバン』でグランプリに選ばれていたものの、当時は決して「売れっ子」というわけではなかった。彼女の起用について、Jリーグメディアプロモーション(JMP)の岩貞和明はこう語る。
「当時はまず『女性をターゲットにしよう』というのがあったのと、芸能人のブログが話題になっていた時期でもありました。ですから、自ら発信できる女性タレントということで、木下さんになったという経緯だったんですが、スケジュール的にも厳しくてスタジアムには行けなかったんです。であれば『稼動できる女性タレントがもう1人いてもいいよね』ということで、ホリプロさんから推薦されたのが足立さんでした」
女子マネの設定やコンセプトに関しては、足立自身はもちろん、岩貞も「あまり深くは考えていなかった」。はっきりいって手探り状態からのスタートであったが、岩貞は一貫して「サッカーに関する難しい知識はあえて教えなかった」という。むしろサッカーにまったく興味がなかった現役女子高生が、いかにしてサッカーの魅力に触れてJリーグを好きになっていくのか、そのプロセスに力点が置かれた。もともと好奇心旺盛で勉強熱心な足立には、そうした自然なアプローチで正解だったようにも思える。

女子マネ就任1年目の最終節、足立は西京極で生涯忘れることのない光景に遭遇する【(C)J.LEAGUE】
とはいえJリーグとしては、できるだけ迅速に足立の存在をサッカーファンに知らしめる必要があった。そこで女子マネ就任1年目に実施したのが、J1・J2の全37クラブ(当時)のホームゲーム訪問。だが、当時の足立は高校に通いながらタレント活動をしており、この年はワールドカップ(W杯)の中断期間もあったため、ミッション達成は容易ではなかった。それでも何とか36クラブのホームゲームを踏破し、最終節の12月4日に訪れたのが西京極。すでにJ2降格が決まっている京都サンガF.C.が、J1残留のためには絶対に勝たなければならないFC東京を迎えるという重要な一戦であった。結果は2−0で京都の勝利。ここで足立は、生涯忘れることのない光景に遭遇することになる。
「試合後は全クラブを回ったという達成感よりも、両チームが降格したショックのほうが大きかったですね。みんな悔しいはずなのに、FC東京のサポーターが『前を向いて選手たちを迎えよう』と言っていたんです。『サッカーって、なんてすごいスポーツなんだろう』と、あの時に思いましたね。それまで昇格とか降格って、ピンとこないところがあったけれど、1試合1試合の重みというものを、あの時に知ることができました」
イレブンミリオンをどう評価すべきか?

女子マネ1年目の頃、足立の一番の楽しみはスタジアムグルメだったという。スタジアムグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつだ【(C)J.LEAGUE】
かくして、激動の2010年シーズンは閉幕。果たして、この年の総入場者数は目標の数字に達したのであろうか? 結果は、864万5762人。達成率は前年の87%から79%に後退した。やはりJ2の試合数が減ったのは大きかったようだ(1試合平均では前シーズンより650人増加)。とはいえ、この年に南アフリカで開催されたW杯での盛り上がりが、Jリーグの集客アップにつながらなかったという事実は重い。この年の6月でチェアマンを退任した鬼武は、自らが立ち上げたイレブンミリオンをこう総括する。
「自分の力不足は認めないといかんですな。各クラブの社長さんをはじめ、皆さんが一生懸命やってくれたんだけれども、やっぱり(1100万人には)届かなかったと。まあ、ざっくばらんに言って、最初から厳しいと思っていましたよ。でも、これをすることによって気付くことがたくさんあるはずだと。お客さんにしっかり向き合うことで、いろいろな策を講じていかなあかんと。(集客アップは)その積み重ねでしかないんですよ」
かくして「特命PR部長」は、予定通りの1年で任期を満了したものの、「稼動できる女性タレント」ということで追加招集された足立が、結果としてサッカーファンとメディアに広く親しまれ、翌シーズンも引き続き女子マネとして継続するようになったのは、歴史の副産物である。足立の女子マネとしての仕事は13年まで3シーズン続き、「卒業」後はJリーグ名誉女子マネージャーとなった。その後の彼女の活躍については、ここに書くまでもないだろう。
結局のところ、イレブンミリオンは失敗だったのだろうか? 数値目標が達成できなかった、という点においては確かに失敗であった。とはいえ、プロジェクトそのものが無意味だったかと問われれば、決してそうではなかった。なぜならイレブンミリオンの4シーズンを通して、各Jクラブがファンサービスの重要性に気付き、さまざまに工夫をこらした施策が行われたからだ。最も分かりやすい例が試合会場での食事。サッカーをまったく知らなかった女子マネ1年目の頃、足立の一番の楽しみはスタジアムグルメだったという。
「日本全国各地にクラブがあって、ホームスタジアムで各地の名物が食べられるんですよ。高校生だった時は、特に食べることが大事でしたから『あそこに行ったら、あれが食べたい!』みたいな感じで、毎週末が楽しみでしたね(笑)」
足立は知る由もなかったが、各スタジアムのグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつであった。また、ホームゲームでの各種イベントで有名な川崎フロンターレが、アーセナルでの事例を参考に『算数ドリル』を作ったのも、イレブンミリオンでの海外研修がきっかけである。さらに言えば、Jリーグにスタジアムプロジェクトが立ち上がったのも、集客において「最後はどうしてもハードの問題にぶち当たる」というイレブンミリオンでの結論が大きく影響していた(当連載の「2016年」の稿を参照のこと)。イレブンミリオンの遺産は、今もJリーグの至るところで生き続けている。
<この稿、了。文中敬称略>
『Jリーグ特命PR部女子マネージャー』誕生秘話について記すSportsnaviの宇都宮氏である。
鬼武健二の第3代Jリーグチェアマンの「イレブンでいこうや!」というツルの一声で始まったの『Jリーグ イレブンミリオンプロジェクト』のあだ花として任命されたことが伝わる。
イレブンミリオンPJの最終年にてこ入れとして「Jリーグ特命PR部長」に女性タレントを適当に担当させ、機能しないと見るや、現地に行ける売れていない女子高生タレントであったあだっちぃーをバーターの追加で任命したとのこと。
背景を知ると大人の世界の代理店のいい加減な仕事ぶりと芸能界の汚さばかりが浮き上がって気分が悪くなる。
Jリーグチェアマンの無能さも。
しかしながら、ここで足立梨花嬢の踏ん張りによって、この悪しき仕事が花開いてしまうのもJリーグの持っている運であろう。
全国のスタジアムに通ううら若きタレントが、最初は全くサッカーを知らずとも、徐々に理解して、好きになり、語れるようになっていく様は、我らサッカーファンの一抹の清涼剤となったことは紛れもない事実である。
足立梨花嬢はそれぞれのスタジアムにてご当地グルメを食した。
これがまた、大きなヒットであったことはいうまでもない。
スタジアムに行けば、こんなに美味しいものがある、アウェイに行けば、こんな楽しみがある、と現地観戦の楽しさを伝えてくれたのは大きな功績と言っても過言ではなかろう。
実際に、『Jリーグ特命PR部女子マネージャー』誕生の元となった『Jリーグ イレブンミリオンプロジェクト』は失敗に終わっておる。
しかしながら、各スタジアムのグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつと言える。
これは、Jリーグ特命PR部女子マネージャー・足立梨花嬢の尽力の賜と言って良かろう。
現在はその地位をサトミキに譲っておるが、サトミキもまた、先輩に負けず劣らず奮闘しておる。
この先も、この特殊なポジションを上手に使ってJリーグを盛り上げていって欲しい。
期待しておる。

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シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
宇都宮徹壱
2017年7月27日(木) 11:30
「新規ファン」と「女性ファン」の獲得という課題

今季の横浜FCの開幕戦にゲストとして招かれていた足立梨花。女子マネを「卒業」した今でも、Jリーグファンの間で「あだっちぃー人気」が衰える様子はない【宇都宮徹壱】
「当時は高校生でしたから、制服姿で(各スタジアムを)回っていましたね。実は最初、カズさん(三浦知良)のことも知らなかったんです(笑)。私、ぜんぜんサッカーのこと知らないけど、大丈夫かなーって。それでも引き受けたからには、まずは勉強しようと思って、日産スタジアムで横浜F・マリノス対セレッソ大阪を見たのが最初でしたね」
屈託のない笑顔でそう語るのは、女優でタレントの「あだっちぃー」こと足立梨花である。「当時」というのは、『Jリーグ特命PR部女子マネージャー』に任命された2010年4月のこと。早いものであれから7年以上が経過し、制服姿の女子高生は大人の雰囲気を感じさせる人気女優へと成長していた。
それにしても7年前には「カズさんのことも知らなかった」彼女が、ちょうどカズの50歳のバースデーだった今季の横浜FCの開幕戦にゲストとして招かれていたのも、今となっては感慨深い。キックオフ前にニッパツ三ツ沢球技場を笑顔で一周した彼女には、横浜FCのサポーターのみならず、対戦相手である松本山雅FCのサポーターからも「あだっちぃー、お帰り!」という温かい声援が発せられた。13年1月に女子マネを「卒業」してから4年半が経つが、今でもJリーグファンの間で「あだっちぃー人気」が衰える様子はない。

2010年Jリーグは「特命PR部女子マネージャー」というポストを新設し、足立が任命されることとなった【(C)J.LEAGUE】
「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第6回の今回は、2010年(平成22年)をピックアップする。前述したとおり、この年に「Jリーグ特命PR部女子マネージャー」というポストが新設され、当時はまだ無名と言ってよい存在だった足立が任命されることとなった。一方でこの10年という年は、Jリーグ公式戦の年間入場者数を1100万人にすることを目標に掲げた『Jリーグ イレブンミリオンプロジェクト』の最終年にも当たっていた。
もっとも一般的なサッカーファンにとっては、イレブンミリオンの結果よりも、この年に女子マネとしてデビューした足立の存在のほうが印象に残っていることだろう。そもそも「Jリーグ特命PR部」とは、イレブンミリオンの一環として、メディアの露出を高めて新規ファン(特に女性ファン)の開拓を目的としたプロジェクトであった。この「新規ファン」と「女性ファン」の獲得は、その後もJリーグにとって打開策の見えない課題であり続けている。その起点となった年こそ、今回取り上げる2010年であった。
4年間で観客数を24%アップするために

イレブンミリオンの誕生について、当時Jリーグのチェアマンだった鬼武健二は「ある会議で『サッカーは11人でやるんだから、イレブンでいこうや!』と言った」と述懐する【宇都宮徹壱】
イレブンミリオンの誕生は、第3代Jリーグチェアマンであった鬼武健二の「イレブンでいこうや!」のツルの一声で決まった。鬼武の任期は、06年7月から10年6月まで。イレブンミリオンは07年から10年までの4シーズン。両者はほとんど重なっていた。プロジェクトのネーミングが決まった経緯について、鬼武はこのように回想する。
「当時(06年)の来場者数は、いくら足し算をしても900万人くらいしかならなかったんですよ。なかなか1000万にも届かない。そこで、ある会議で『でもなあ、サッカーは11人でやるんだから、イレブンでいこうや!』と言ったのは覚えていますよ」
実はJリーグにとって、具体的な数値目標が設定されたのはイレブンミリオンが初めてであった。もっとも、いくら「サッカーは11人でやるから」といって、1100万人という設定はいささか突飛すぎたようにも感じられる。鬼武がチェアマンに就任した06年の実績が839万256人。目標の76%である。4年間で観客数を24%アップするというのは、かなり厳しいミッションであると言わざるを得ない。実際、当時を知るJリーグのスタッフも「頑張って背伸びをしようという感じはありましたね」と語っている。
とはいえイレブンミリオンは、単にJリーグが「各自の努力で観客数を増やせ」と、各クラブの尻をたたいていたわけではない。のちに公開された資料によると、観客数24%増のためのアクションフローは、じっくりと腰を据えたものであり、なおかつ非常に大掛かりなものであったことが分かる。07年以降の主だった施策を抽出すると、イレブンミリオン公式マーク公募(決定は08年)、海外研修(欧州2回、米国1回)、J2クラブスタッフのJ1クラブ視察、観戦者調査など、かなりの予算がつぎ込まれていたことが分かる。また大掛かりなプロジェクトゆえ、地域やカテゴリーを超えたクラブ間での情報共有がなされた点も見逃せない(それ以前のJリーグでは、ほとんど見られない動きであった)。
かくしてJリーグによる予算投下と各クラブの努力により、入場者数は年々伸びていくことになる。07年が887万8378人、08年が910万4221人、そして09年が957万1079人。ついには達成率87%にまでこぎ着けた。もっとも09年に関しては、試合数が過去最多の839試合となっていた事実は留意すべきだろう(08年は698試合)。これは18チームとなったJ2が、3回戦総当りを行ったためだ。ちなみに翌10年のJ2は、19チームの2回戦総当りとなり、総試合数は717試合に減少している。
最終節の西京極で見た光景

岩貞和明(右)と足立。「特命PR部女子マネージャー」は手探り状態からスタートした【宇都宮徹壱】
Jリーグにとって「勝負の年」となった10年、新たな試みとして女性タレントを起用するプランが浮上する。まず、3月に「Jリーグ特命PR部長」として起用されたのが、当時売り出し中の木下優樹菜。しかし多忙を極めていた彼女は、TBSの『スーパーサッカー』に出演するのが精いっぱい。そこで新たに「特命PR部女子マネージャー」として白羽の矢が立ったのが、足立だった。足立は07年の『ホリプロタレントスカウトキャラバン』でグランプリに選ばれていたものの、当時は決して「売れっ子」というわけではなかった。彼女の起用について、Jリーグメディアプロモーション(JMP)の岩貞和明はこう語る。
「当時はまず『女性をターゲットにしよう』というのがあったのと、芸能人のブログが話題になっていた時期でもありました。ですから、自ら発信できる女性タレントということで、木下さんになったという経緯だったんですが、スケジュール的にも厳しくてスタジアムには行けなかったんです。であれば『稼動できる女性タレントがもう1人いてもいいよね』ということで、ホリプロさんから推薦されたのが足立さんでした」
女子マネの設定やコンセプトに関しては、足立自身はもちろん、岩貞も「あまり深くは考えていなかった」。はっきりいって手探り状態からのスタートであったが、岩貞は一貫して「サッカーに関する難しい知識はあえて教えなかった」という。むしろサッカーにまったく興味がなかった現役女子高生が、いかにしてサッカーの魅力に触れてJリーグを好きになっていくのか、そのプロセスに力点が置かれた。もともと好奇心旺盛で勉強熱心な足立には、そうした自然なアプローチで正解だったようにも思える。

女子マネ就任1年目の最終節、足立は西京極で生涯忘れることのない光景に遭遇する【(C)J.LEAGUE】
とはいえJリーグとしては、できるだけ迅速に足立の存在をサッカーファンに知らしめる必要があった。そこで女子マネ就任1年目に実施したのが、J1・J2の全37クラブ(当時)のホームゲーム訪問。だが、当時の足立は高校に通いながらタレント活動をしており、この年はワールドカップ(W杯)の中断期間もあったため、ミッション達成は容易ではなかった。それでも何とか36クラブのホームゲームを踏破し、最終節の12月4日に訪れたのが西京極。すでにJ2降格が決まっている京都サンガF.C.が、J1残留のためには絶対に勝たなければならないFC東京を迎えるという重要な一戦であった。結果は2−0で京都の勝利。ここで足立は、生涯忘れることのない光景に遭遇することになる。
「試合後は全クラブを回ったという達成感よりも、両チームが降格したショックのほうが大きかったですね。みんな悔しいはずなのに、FC東京のサポーターが『前を向いて選手たちを迎えよう』と言っていたんです。『サッカーって、なんてすごいスポーツなんだろう』と、あの時に思いましたね。それまで昇格とか降格って、ピンとこないところがあったけれど、1試合1試合の重みというものを、あの時に知ることができました」
イレブンミリオンをどう評価すべきか?

女子マネ1年目の頃、足立の一番の楽しみはスタジアムグルメだったという。スタジアムグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつだ【(C)J.LEAGUE】
かくして、激動の2010年シーズンは閉幕。果たして、この年の総入場者数は目標の数字に達したのであろうか? 結果は、864万5762人。達成率は前年の87%から79%に後退した。やはりJ2の試合数が減ったのは大きかったようだ(1試合平均では前シーズンより650人増加)。とはいえ、この年に南アフリカで開催されたW杯での盛り上がりが、Jリーグの集客アップにつながらなかったという事実は重い。この年の6月でチェアマンを退任した鬼武は、自らが立ち上げたイレブンミリオンをこう総括する。
「自分の力不足は認めないといかんですな。各クラブの社長さんをはじめ、皆さんが一生懸命やってくれたんだけれども、やっぱり(1100万人には)届かなかったと。まあ、ざっくばらんに言って、最初から厳しいと思っていましたよ。でも、これをすることによって気付くことがたくさんあるはずだと。お客さんにしっかり向き合うことで、いろいろな策を講じていかなあかんと。(集客アップは)その積み重ねでしかないんですよ」
かくして「特命PR部長」は、予定通りの1年で任期を満了したものの、「稼動できる女性タレント」ということで追加招集された足立が、結果としてサッカーファンとメディアに広く親しまれ、翌シーズンも引き続き女子マネとして継続するようになったのは、歴史の副産物である。足立の女子マネとしての仕事は13年まで3シーズン続き、「卒業」後はJリーグ名誉女子マネージャーとなった。その後の彼女の活躍については、ここに書くまでもないだろう。
結局のところ、イレブンミリオンは失敗だったのだろうか? 数値目標が達成できなかった、という点においては確かに失敗であった。とはいえ、プロジェクトそのものが無意味だったかと問われれば、決してそうではなかった。なぜならイレブンミリオンの4シーズンを通して、各Jクラブがファンサービスの重要性に気付き、さまざまに工夫をこらした施策が行われたからだ。最も分かりやすい例が試合会場での食事。サッカーをまったく知らなかった女子マネ1年目の頃、足立の一番の楽しみはスタジアムグルメだったという。
「日本全国各地にクラブがあって、ホームスタジアムで各地の名物が食べられるんですよ。高校生だった時は、特に食べることが大事でしたから『あそこに行ったら、あれが食べたい!』みたいな感じで、毎週末が楽しみでしたね(笑)」
足立は知る由もなかったが、各スタジアムのグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつであった。また、ホームゲームでの各種イベントで有名な川崎フロンターレが、アーセナルでの事例を参考に『算数ドリル』を作ったのも、イレブンミリオンでの海外研修がきっかけである。さらに言えば、Jリーグにスタジアムプロジェクトが立ち上がったのも、集客において「最後はどうしてもハードの問題にぶち当たる」というイレブンミリオンでの結論が大きく影響していた(当連載の「2016年」の稿を参照のこと)。イレブンミリオンの遺産は、今もJリーグの至るところで生き続けている。
<この稿、了。文中敬称略>
『Jリーグ特命PR部女子マネージャー』誕生秘話について記すSportsnaviの宇都宮氏である。
鬼武健二の第3代Jリーグチェアマンの「イレブンでいこうや!」というツルの一声で始まったの『Jリーグ イレブンミリオンプロジェクト』のあだ花として任命されたことが伝わる。
イレブンミリオンPJの最終年にてこ入れとして「Jリーグ特命PR部長」に女性タレントを適当に担当させ、機能しないと見るや、現地に行ける売れていない女子高生タレントであったあだっちぃーをバーターの追加で任命したとのこと。
背景を知ると大人の世界の代理店のいい加減な仕事ぶりと芸能界の汚さばかりが浮き上がって気分が悪くなる。
Jリーグチェアマンの無能さも。
しかしながら、ここで足立梨花嬢の踏ん張りによって、この悪しき仕事が花開いてしまうのもJリーグの持っている運であろう。
全国のスタジアムに通ううら若きタレントが、最初は全くサッカーを知らずとも、徐々に理解して、好きになり、語れるようになっていく様は、我らサッカーファンの一抹の清涼剤となったことは紛れもない事実である。
足立梨花嬢はそれぞれのスタジアムにてご当地グルメを食した。
これがまた、大きなヒットであったことはいうまでもない。
スタジアムに行けば、こんなに美味しいものがある、アウェイに行けば、こんな楽しみがある、と現地観戦の楽しさを伝えてくれたのは大きな功績と言っても過言ではなかろう。
実際に、『Jリーグ特命PR部女子マネージャー』誕生の元となった『Jリーグ イレブンミリオンプロジェクト』は失敗に終わっておる。
しかしながら、各スタジアムのグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつと言える。
これは、Jリーグ特命PR部女子マネージャー・足立梨花嬢の尽力の賜と言って良かろう。
現在はその地位をサトミキに譲っておるが、サトミキもまた、先輩に負けず劣らず奮闘しておる。
この先も、この特殊なポジションを上手に使ってJリーグを盛り上げていって欲しい。
期待しておる。

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