中田浩二CRO、まだまだやれることはあるんじゃないかと
中田浩二「アントラーズの紅白戦は
きつかった。試合がラクに感じた」
寺野典子●文 text by Terano Noriko 井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(3)
中田浩二 前編
「プロになったら、競争は当たり前。先発とかベンチとか、そういうことで気持ちが揺れたりはしません。チャンスが来たら、自分のプレーをするだけです」
3月3日、今季の公式戦初勝利を飾った土居聖真は、淡々とそう語った。このガンバ戦ではアグレッシブな守備と連動する攻撃で、相手陣に攻め入った鹿島の攻撃軸として、存在感を示した土居は1-0の勝利に貢献する。
また、ボランチを務めた三竿健斗は「前節の清水戦直後から、選手同士で修正点をたくさん話し合った。その成果が出たと思います」とも話していた。
選手間の濃密なコミュニケーションが試合の質に大きな影響を与えていた。それは試合に出た選手だけではない。
3月7日のACL第3節シドニーFC戦、敵地のピッチに立ったメンバーは、4日前のガンバ大阪戦から8人も入れ替わっていた。
相手の攻撃を凌ぎ、好機を待つ……彼らがそんな鹿島らしい戦いを演じる。チャンスを得た若い選手たちは自己アピールよりも、チームとしての戦いを第一に思考していたのだろう。0-2とアウェーながら完勝した鹿島は、無敗でグループリーグ首位を走っている。
* * *

テレビ解説でもおなじみの中田浩二。現在、所属は鹿島アントラーズ事業部
2014年に現役を引退。現在は鹿島アントラーズ事業部に所属し、クラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O.)を務める中田浩二。フランス・マルセイユ、スイス・バーゼルでプレーした経験を持ち、2002年ワールドカップ日韓大会の代表メンバーでもある。
1999年にワールドユース(現U-20ワールドカップ)で準優勝を果たし「黄金世代」と呼ばれる1979年生まれだ。小笠原満男、本山雅志(北九州)、曽ヶ端準、山口武士(エンフレンテ熊本スポーツクラブコーチ)、中村祥朗(HOUKOKU FC)とともに高卒ルーキー6人衆のひとりとして、1998年鹿島に加入した。
――現在はスポンサーの方との仕事も多いと思いますが、「鹿島アントラーズ」には強固なブランド力があると感じます。
「Jリーグ初年度のファーストステージで優勝し、ジーコがもたらしたスピリッツを証明できたと思います。当時のスタッフがそれを大切にし、今に至るまで、そのスタンスをずっと変えずに来たことが大きいと思います。
『勝利へのこだわり』を持ち、『強いチーム』として結果を残してきた。鹿嶋という場所柄、勝たなくちゃいけないという現実があった。弱ければ、試合を見に来てくれる人はいないだろうし、選手も集まらない。だから、クラブ全体がトップチームの勝利のために力を尽くしている。サポーターはもちろん、スポンサーの方々もいっしょに戦ってくれている。それを引退後、痛感しています」
――新人選手として感じた鹿島の「勝利へのこだわり」とはどういうものでしたか?
「当時、本田(泰人)さん、秋田(豊)さん、相馬(直樹)さん、名良橋(晃)さんと、日本代表選手がたくさんいるレベルの高い環境だということは自覚していました。
たとえ練習であっても、ちょっとしたポジショニングが違っていたり、サボるとすぐに怒られる。誰かが手を抜いて、チーム内の共通理解が壊れたら、試合ではそこを突かれてしまう。練習から試合を想定しているので、曖昧な状況を許さないんです。練習中からたくさんの議論があり、選手それぞれが『チームの勝利のためになにをすべきか』を考えていることが伝わってきました」
――選手同士、要求をし合っていると……。
「自分がこういうプレーをしたいからというんじゃなくて、すべてが『チームのため』という前提があった。しかも、誰かが一方的に訴えるだけじゃなく、話し合っているんです。『こういうポジションをとってほしい』『だけど、そこはこうなんじゃないのか?』と、お互いをリスペクトしたうえで、納得するまで話し合う。
それは練習後にも続きます。10分で終わることもあれば、マッサージを受けながら1時間続くこともある。同じ意識を共有するために、濃いコミュニケーションを日々行なっているので、試合でそれを落とし込める。選手がチームの勝利に真剣に向き合っていると強く感じました」
――そういう輪のなかには、新人だと入りづらいですよね。でも、試合出場することを考えたら、そのコニュニケ―ションに加わらなければならない。
「もちろん、最初はビビッているところもあるから、自分の意見なんて言えなかった。でも、話さないとわからないことを理解してもらうこともできない。そういうとき、奥野(僚右)さんが、『お前はどう思うの?』と声をかけてくれるんです。そうして話し始めても、『お前は1年目なのに、生意気な』というような空気にはならない。みんなが僕の意見を聞いてくれる。
そして、『お前はそう思ったかもしれないけど、こういうときにはこういうやり方もあるんだ。だから、お前はそうしなくちゃいけないんだ』と話してくれる。僕も『なるほどな』と気づける。そういう教えを重ねて、自然と自分が試合のなかで何をしなくちゃいけないかが明確になってくる」
――当時、柳沢敦(鹿島コーチ)さんが「どんなに幼い子どもであっても、その子の意見に耳を貸さなくちゃいけない」とジョルジーニョに言われたと話していました。そういう空気が鹿島にはずっと漂っているように感じます。ご自身がベテランになったときも、それは大事にされていましたか?
「もちろん。話しづらいだろう若手にもこちらから声をかけるし、彼らの意見も大切にしました。コミュニケーションがなければ、勝利のためにチームがひとつにはなれない。だから、議論を省略することはできないんです」
――中田さんの同期は6人の選手がいて、普通に考えたら、ライバルが多い状況ですよね。しかも強豪クラブだから、競争は激しい。
「よく6人が集まったなと思います。でも、きっと誰もが『自分は試合に出られる』と思っていたはず。鹿島は簡単に試合に出られるような環境ではなかったけれど、そういう競う同期がいたから、奮起し続けられた。
僕が最初に試合に出た。そうなれば、ほかの選手は『負けたくない』とトレーニングをしただろうし、その後、満男が出れば、僕はやっぱり悔しかった。だからといって、練習で削ってやろうなんて思わない。満男がレギュラー組と話していたら、『どんな話をしたの?』と聞き、逆の立場で聞かれれば、隠すことなくすべてを話す。そんなライバル関係があったからこそ、自分が伸びていると実感できました」
――同期がみんなBチームだったとき、トップチームとの紅白戦で、「いかに勝つかと必死だった」と小笠原選手が話していました。Bチームも「勝つために」という意識だったんですね。
「紅白戦はきつかった。だから、試合に出たとき、ラクだなって思うこともありましたから。ライバルがいて、厳しい競争がある。同期のあいつらがいてくれて本当によかった。だから、やめるときは、ちょっと悔しさがありましたね」
――鹿島でプロとしてスタートし、鹿島で現役を終えた。そんなキャリアを今、どう考えていますか?
「チームメイトもそうですけど、スタジアムに来てくれるサポーターからのプレッシャーもある。それを常に感じながら、サッカーができたことを幸せに思います。プレッシャーがあるから、努力もできた。この環境じゃなければ、甘えが出て、成長できなかったかもしれない。
日本ではここしか知らないけれど、ここでずっとサッカーができたことは、自分のキャリアのなかで大きな意味があると感じています。鹿島じゃなければ、日本代表にもなれなかっただろうし、これほど長くプレーできなかったんじゃないかと」
――そういう環境を今後も継続していくことが鹿島の未来にとっても大きいですね。
「はい。サポーターもスポンサーも本気で応援してくれる。そういう環境を今まで作り上げて、積み上げてきたのがアントラーズです。クラブの事業部の一員として、今後もそこは求めていかないとダメだと思います」
中田浩二は考えた。「元選手が
経営サイドに身を置くことは重要だ」
寺野典子●文 text by Terano Noriko 井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(4)
中田浩二 後編
3月10日のJリーグ第3節・サンフレッチェ広島戦を0-1で落とすと、3月13日のACL対シドニーFC戦も1-1と引き分けに終わった鹿島アントラーズ。試合後、SNSにはサポーターの厳しい声が上がっていた。
シュート数では相手を上回りながらも、ゴールを奪えず、勝利を飾れない。鹿島の勝利を信じているからこそ、そのフラストレーションも大きい。共に戦っているという自負があるからこそ、チームを甘やかさない。彼らの声は熱く、そして真摯だ。そんなクラブ愛に溢れているのはスタンドを埋めるサポーターだけではない。長年スポンサーを務める企業もまた、鹿島とともに戦っている。
2014年に現役を引退した中田浩二は、ピッチを離れた今、それを強く感じていると話す。
大岩剛監督、柳沢敦・羽田憲司両コーチ、そして今季からは新たに佐藤洋平GKコーチが就任。ユースチームでも熊谷浩二監督が指揮を執(と)っている鹿島アントラーズ。かつての現役選手を指導者として起用することに以前から積極的だった。ブラジル人監督時代もOBの日本人コーチを置き、指導者育成に努めてきた。

指導者ではないが、現役選手に声をかけることもあるという中田浩二C.R.O
そんな鹿島が初めてクラブの職員にOB選手を起用したのが、2015年から事業部でクラブ・リレーション・オフィサー(C.R.O.)を務める中田だった。
* * *
――現役引退後、指導者のキャリアを歩む人は少なくありません。そういうなか、ピッチという現場ではなく、クラブの職員として仕事を始めたのはなぜですか?
「サッカーに関わる仕事は、指導者だけではないだろうという思いがありました。日本のサッカーをよくしていくうえで、元選手が経営サイドに身を置くことの重要性を感じたんです」
――メディアやスポンサー、サポーターとクラブとを繋ぐC.R.O.を3年あまり務めての実感や手ごたえとはどんなものですか?
「たとえばスポンサーさんのもとへ行けば、とても喜んでもらえます。そこは元選手という僕の強みだと感じます」
――現在、トップチームをどのように見ていますか?
「客観的に見ています。練習を見る機会はあまりないですが、試合を見て、感じることがあれば、選手に声をかけます。特に若い選手。ちょっと悩んでいるのかなと思えば、クラブハウスで会ったときに自然と声をかける。そこは先輩という感覚かもしれませんね。
でも、僕は強化部でもないし、監督でもコーチでもないから。事業部の僕はチームに干渉する立場ではない。でも、元選手、元チームメイトということで、話しやすいことがあるかもしれないし。そこは、適度な距離を保ちながら、『どうなの? なんか元気ないじゃん』と声もかけられるので。
C.R.O.というのは、クラブと外部とのリレーションという役割でもあるけれど、クラブと選手とを繋ぐ仕事でもあるなと。
たとえば、事業部としては、スポンサーやサポーターとトップチームとの距離を近づけたいと考えるけれど、同時に選手の負担になることは避けたい。そういうときに、『ここまでなら大丈夫』とか、『これは難しいかな』という意見を出すこともできます。
基本は選手がサッカーに集中できる環境を維持することが重要ですが、サポーターやスポンサーなど、自分たちを支えてくれている人たちの存在を選手にも理解してもらいたいという気持ちもあります。だから選手サイドにも元選手として、意見を反映させながら、距離を縮めていくことができればと」
――今の仕事に就いたことで、そういう支えがあることを、改めて気づいた部分はありますか?
「そうですね。本当に応援してくれている。でも、選手との距離を感じている部分があるというのは、この仕事をしないとわからないことでした。同時にサッカー選手として生きていくことができるのは、いろいろな人の支えがあったからこそということも強く感じました。『いっしょになって戦っている人』の存在を選手にも伝えたい。そこは元選手だから話せることもあると思うので」

――今、新しい環境で、ご自身の力不足を感じるのはどんな点ですか?
「たくさんありますよ。確かにずっとサッカーをやってきたので、たとえば、エクセルやワード、パワーポイントなどをうまく使えるかと言われたら、そういう普通の人ができることができない。そして、プレゼンテーション力だとか、ファイナンスの知識もないし、ビッグデータから何を抽出するのかというような思考も弱い。実務能力はまだまだ足りないと思っています。
それを認識したうえで、時間はかかるだろうけれど、学んでいくしかない。元選手というバリューに頼っているだけでは、この仕事は続けられないという覚悟はあります。実務面で仕事ができないとなれば、迷惑をかけてしまう。そこは元選手だからといって、甘えられるわけじゃない」
――鹿島アントラーズというクラブは、事業面、経営面でも「攻めの姿勢」というか、スタジアムの指定管理者になったりと、いろいろなチャンレジをしているなと感じます。
「スタジアムの有効利用をはじめ、いろいろな施策、仕掛けをしていかないと生き残っていけないクラブだという自覚があります。30km圏内をホームタウンと考えると、鹿島は半分が海だし、人口も少ない。立地としては恵まれているわけではないので、チャレンジし続けなくてはならない。
先日、スペインのデポルティーボへ行ったのですが、町(ア・コルーニャ)の規模としては鹿島と変わらないけれど、ソシオが2万7000人もいる。鹿島はその10分の1程度ですから、まだまだやれることはあるんじゃないかと」
――フランスのマルセイユやスイスのバーゼルといった、ヨーロッパでの選手経験が、クラブ経営という面で武器にもなるんじゃないですか? サッカーが文化として根づき、スタジアムが街の中心地として機能しているさまを体験したのだから。
「特にバーゼルは、スタジアム内にショッピングセンターや老人ホームがあったりと、有効利用しています。そして、充実したVIPルームやサービス面での工夫も怠らない。日本はプロ化されて25年。100年を超える歴史のあるヨーロッパとすぐには同じようにはできないけれど、それを目指して歩んでいます。
でも、ピッチ上のサッカーだけでなく、経営、ビジネス面でもヨーロッパのクラブはスピード感を持ち、進化し続けています。だからこそ、競技者としてサッカーを学び、経営も学んだ人間が必要だと思うんです」
――今の立場でも「チームが勝つためになにをすべきか」という思考は重要ですか?
「もちろん。クラブチームというのは、トップチームだけでは成り立たない。それを今つくづく感じています。当然クラブを引っ張るのはトップチームです。そこを充実させるためには資金も必要です。だから、事業部としてそれを準備する。強化と事業の両輪をバランスよく回すことで、いっしょに戦っている。
スタジアムへ足を運んでくれるサポーターは、遠くからも来てくれます。バスを2、3時間乗ってきて、つまらない試合を見せるわけにはいかない。満足感を持って帰ってもらいたいし、それが愛着を生むはずです。いっしょに戦い、タイトルを獲れたときの興奮を味わってほしい。
トップチームが勝つために『自分は何をやらなくちゃいけないか』をみんなが考えています。それがジーコのいう”ファミリー”なんだと思います」
中田浩二CROについて取材したSportivaの寺野女史である。
入団当初、同期とのライバル関係と友情を綴る。
「紅白戦はきつかった。だから、試合に出たとき、ラクだなって思うこともありましたから」というのは鹿島だからこそ味わえた経験であろう。
また、選手出身者として異例の経営側へのキャリアスタートについて、「ピッチ上のサッカーだけでなく、経営、ビジネス面でもヨーロッパのクラブはスピード感を持ち、進化し続けています。だからこそ、競技者としてサッカーを学び、経営も学んだ人間が必要だと思うんです」と心強い。
鹿島は次世代への投資を怠っておらぬ。
頼もしい経営者として育っていって欲しい。
期待しておる。

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きつかった。試合がラクに感じた」
寺野典子●文 text by Terano Noriko 井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(3)
中田浩二 前編
「プロになったら、競争は当たり前。先発とかベンチとか、そういうことで気持ちが揺れたりはしません。チャンスが来たら、自分のプレーをするだけです」
3月3日、今季の公式戦初勝利を飾った土居聖真は、淡々とそう語った。このガンバ戦ではアグレッシブな守備と連動する攻撃で、相手陣に攻め入った鹿島の攻撃軸として、存在感を示した土居は1-0の勝利に貢献する。
また、ボランチを務めた三竿健斗は「前節の清水戦直後から、選手同士で修正点をたくさん話し合った。その成果が出たと思います」とも話していた。
選手間の濃密なコミュニケーションが試合の質に大きな影響を与えていた。それは試合に出た選手だけではない。
3月7日のACL第3節シドニーFC戦、敵地のピッチに立ったメンバーは、4日前のガンバ大阪戦から8人も入れ替わっていた。
相手の攻撃を凌ぎ、好機を待つ……彼らがそんな鹿島らしい戦いを演じる。チャンスを得た若い選手たちは自己アピールよりも、チームとしての戦いを第一に思考していたのだろう。0-2とアウェーながら完勝した鹿島は、無敗でグループリーグ首位を走っている。
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テレビ解説でもおなじみの中田浩二。現在、所属は鹿島アントラーズ事業部
2014年に現役を引退。現在は鹿島アントラーズ事業部に所属し、クラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O.)を務める中田浩二。フランス・マルセイユ、スイス・バーゼルでプレーした経験を持ち、2002年ワールドカップ日韓大会の代表メンバーでもある。
1999年にワールドユース(現U-20ワールドカップ)で準優勝を果たし「黄金世代」と呼ばれる1979年生まれだ。小笠原満男、本山雅志(北九州)、曽ヶ端準、山口武士(エンフレンテ熊本スポーツクラブコーチ)、中村祥朗(HOUKOKU FC)とともに高卒ルーキー6人衆のひとりとして、1998年鹿島に加入した。
――現在はスポンサーの方との仕事も多いと思いますが、「鹿島アントラーズ」には強固なブランド力があると感じます。
「Jリーグ初年度のファーストステージで優勝し、ジーコがもたらしたスピリッツを証明できたと思います。当時のスタッフがそれを大切にし、今に至るまで、そのスタンスをずっと変えずに来たことが大きいと思います。
『勝利へのこだわり』を持ち、『強いチーム』として結果を残してきた。鹿嶋という場所柄、勝たなくちゃいけないという現実があった。弱ければ、試合を見に来てくれる人はいないだろうし、選手も集まらない。だから、クラブ全体がトップチームの勝利のために力を尽くしている。サポーターはもちろん、スポンサーの方々もいっしょに戦ってくれている。それを引退後、痛感しています」
――新人選手として感じた鹿島の「勝利へのこだわり」とはどういうものでしたか?
「当時、本田(泰人)さん、秋田(豊)さん、相馬(直樹)さん、名良橋(晃)さんと、日本代表選手がたくさんいるレベルの高い環境だということは自覚していました。
たとえ練習であっても、ちょっとしたポジショニングが違っていたり、サボるとすぐに怒られる。誰かが手を抜いて、チーム内の共通理解が壊れたら、試合ではそこを突かれてしまう。練習から試合を想定しているので、曖昧な状況を許さないんです。練習中からたくさんの議論があり、選手それぞれが『チームの勝利のためになにをすべきか』を考えていることが伝わってきました」
――選手同士、要求をし合っていると……。
「自分がこういうプレーをしたいからというんじゃなくて、すべてが『チームのため』という前提があった。しかも、誰かが一方的に訴えるだけじゃなく、話し合っているんです。『こういうポジションをとってほしい』『だけど、そこはこうなんじゃないのか?』と、お互いをリスペクトしたうえで、納得するまで話し合う。
それは練習後にも続きます。10分で終わることもあれば、マッサージを受けながら1時間続くこともある。同じ意識を共有するために、濃いコミュニケーションを日々行なっているので、試合でそれを落とし込める。選手がチームの勝利に真剣に向き合っていると強く感じました」
――そういう輪のなかには、新人だと入りづらいですよね。でも、試合出場することを考えたら、そのコニュニケ―ションに加わらなければならない。
「もちろん、最初はビビッているところもあるから、自分の意見なんて言えなかった。でも、話さないとわからないことを理解してもらうこともできない。そういうとき、奥野(僚右)さんが、『お前はどう思うの?』と声をかけてくれるんです。そうして話し始めても、『お前は1年目なのに、生意気な』というような空気にはならない。みんなが僕の意見を聞いてくれる。
そして、『お前はそう思ったかもしれないけど、こういうときにはこういうやり方もあるんだ。だから、お前はそうしなくちゃいけないんだ』と話してくれる。僕も『なるほどな』と気づける。そういう教えを重ねて、自然と自分が試合のなかで何をしなくちゃいけないかが明確になってくる」
――当時、柳沢敦(鹿島コーチ)さんが「どんなに幼い子どもであっても、その子の意見に耳を貸さなくちゃいけない」とジョルジーニョに言われたと話していました。そういう空気が鹿島にはずっと漂っているように感じます。ご自身がベテランになったときも、それは大事にされていましたか?
「もちろん。話しづらいだろう若手にもこちらから声をかけるし、彼らの意見も大切にしました。コミュニケーションがなければ、勝利のためにチームがひとつにはなれない。だから、議論を省略することはできないんです」
――中田さんの同期は6人の選手がいて、普通に考えたら、ライバルが多い状況ですよね。しかも強豪クラブだから、競争は激しい。
「よく6人が集まったなと思います。でも、きっと誰もが『自分は試合に出られる』と思っていたはず。鹿島は簡単に試合に出られるような環境ではなかったけれど、そういう競う同期がいたから、奮起し続けられた。
僕が最初に試合に出た。そうなれば、ほかの選手は『負けたくない』とトレーニングをしただろうし、その後、満男が出れば、僕はやっぱり悔しかった。だからといって、練習で削ってやろうなんて思わない。満男がレギュラー組と話していたら、『どんな話をしたの?』と聞き、逆の立場で聞かれれば、隠すことなくすべてを話す。そんなライバル関係があったからこそ、自分が伸びていると実感できました」
――同期がみんなBチームだったとき、トップチームとの紅白戦で、「いかに勝つかと必死だった」と小笠原選手が話していました。Bチームも「勝つために」という意識だったんですね。
「紅白戦はきつかった。だから、試合に出たとき、ラクだなって思うこともありましたから。ライバルがいて、厳しい競争がある。同期のあいつらがいてくれて本当によかった。だから、やめるときは、ちょっと悔しさがありましたね」
――鹿島でプロとしてスタートし、鹿島で現役を終えた。そんなキャリアを今、どう考えていますか?
「チームメイトもそうですけど、スタジアムに来てくれるサポーターからのプレッシャーもある。それを常に感じながら、サッカーができたことを幸せに思います。プレッシャーがあるから、努力もできた。この環境じゃなければ、甘えが出て、成長できなかったかもしれない。
日本ではここしか知らないけれど、ここでずっとサッカーができたことは、自分のキャリアのなかで大きな意味があると感じています。鹿島じゃなければ、日本代表にもなれなかっただろうし、これほど長くプレーできなかったんじゃないかと」
――そういう環境を今後も継続していくことが鹿島の未来にとっても大きいですね。
「はい。サポーターもスポンサーも本気で応援してくれる。そういう環境を今まで作り上げて、積み上げてきたのがアントラーズです。クラブの事業部の一員として、今後もそこは求めていかないとダメだと思います」
中田浩二は考えた。「元選手が
経営サイドに身を置くことは重要だ」
寺野典子●文 text by Terano Noriko 井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(4)
中田浩二 後編
3月10日のJリーグ第3節・サンフレッチェ広島戦を0-1で落とすと、3月13日のACL対シドニーFC戦も1-1と引き分けに終わった鹿島アントラーズ。試合後、SNSにはサポーターの厳しい声が上がっていた。
シュート数では相手を上回りながらも、ゴールを奪えず、勝利を飾れない。鹿島の勝利を信じているからこそ、そのフラストレーションも大きい。共に戦っているという自負があるからこそ、チームを甘やかさない。彼らの声は熱く、そして真摯だ。そんなクラブ愛に溢れているのはスタンドを埋めるサポーターだけではない。長年スポンサーを務める企業もまた、鹿島とともに戦っている。
2014年に現役を引退した中田浩二は、ピッチを離れた今、それを強く感じていると話す。
大岩剛監督、柳沢敦・羽田憲司両コーチ、そして今季からは新たに佐藤洋平GKコーチが就任。ユースチームでも熊谷浩二監督が指揮を執(と)っている鹿島アントラーズ。かつての現役選手を指導者として起用することに以前から積極的だった。ブラジル人監督時代もOBの日本人コーチを置き、指導者育成に努めてきた。

指導者ではないが、現役選手に声をかけることもあるという中田浩二C.R.O
そんな鹿島が初めてクラブの職員にOB選手を起用したのが、2015年から事業部でクラブ・リレーション・オフィサー(C.R.O.)を務める中田だった。
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――現役引退後、指導者のキャリアを歩む人は少なくありません。そういうなか、ピッチという現場ではなく、クラブの職員として仕事を始めたのはなぜですか?
「サッカーに関わる仕事は、指導者だけではないだろうという思いがありました。日本のサッカーをよくしていくうえで、元選手が経営サイドに身を置くことの重要性を感じたんです」
――メディアやスポンサー、サポーターとクラブとを繋ぐC.R.O.を3年あまり務めての実感や手ごたえとはどんなものですか?
「たとえばスポンサーさんのもとへ行けば、とても喜んでもらえます。そこは元選手という僕の強みだと感じます」
――現在、トップチームをどのように見ていますか?
「客観的に見ています。練習を見る機会はあまりないですが、試合を見て、感じることがあれば、選手に声をかけます。特に若い選手。ちょっと悩んでいるのかなと思えば、クラブハウスで会ったときに自然と声をかける。そこは先輩という感覚かもしれませんね。
でも、僕は強化部でもないし、監督でもコーチでもないから。事業部の僕はチームに干渉する立場ではない。でも、元選手、元チームメイトということで、話しやすいことがあるかもしれないし。そこは、適度な距離を保ちながら、『どうなの? なんか元気ないじゃん』と声もかけられるので。
C.R.O.というのは、クラブと外部とのリレーションという役割でもあるけれど、クラブと選手とを繋ぐ仕事でもあるなと。
たとえば、事業部としては、スポンサーやサポーターとトップチームとの距離を近づけたいと考えるけれど、同時に選手の負担になることは避けたい。そういうときに、『ここまでなら大丈夫』とか、『これは難しいかな』という意見を出すこともできます。
基本は選手がサッカーに集中できる環境を維持することが重要ですが、サポーターやスポンサーなど、自分たちを支えてくれている人たちの存在を選手にも理解してもらいたいという気持ちもあります。だから選手サイドにも元選手として、意見を反映させながら、距離を縮めていくことができればと」
――今の仕事に就いたことで、そういう支えがあることを、改めて気づいた部分はありますか?
「そうですね。本当に応援してくれている。でも、選手との距離を感じている部分があるというのは、この仕事をしないとわからないことでした。同時にサッカー選手として生きていくことができるのは、いろいろな人の支えがあったからこそということも強く感じました。『いっしょになって戦っている人』の存在を選手にも伝えたい。そこは元選手だから話せることもあると思うので」

――今、新しい環境で、ご自身の力不足を感じるのはどんな点ですか?
「たくさんありますよ。確かにずっとサッカーをやってきたので、たとえば、エクセルやワード、パワーポイントなどをうまく使えるかと言われたら、そういう普通の人ができることができない。そして、プレゼンテーション力だとか、ファイナンスの知識もないし、ビッグデータから何を抽出するのかというような思考も弱い。実務能力はまだまだ足りないと思っています。
それを認識したうえで、時間はかかるだろうけれど、学んでいくしかない。元選手というバリューに頼っているだけでは、この仕事は続けられないという覚悟はあります。実務面で仕事ができないとなれば、迷惑をかけてしまう。そこは元選手だからといって、甘えられるわけじゃない」
――鹿島アントラーズというクラブは、事業面、経営面でも「攻めの姿勢」というか、スタジアムの指定管理者になったりと、いろいろなチャンレジをしているなと感じます。
「スタジアムの有効利用をはじめ、いろいろな施策、仕掛けをしていかないと生き残っていけないクラブだという自覚があります。30km圏内をホームタウンと考えると、鹿島は半分が海だし、人口も少ない。立地としては恵まれているわけではないので、チャレンジし続けなくてはならない。
先日、スペインのデポルティーボへ行ったのですが、町(ア・コルーニャ)の規模としては鹿島と変わらないけれど、ソシオが2万7000人もいる。鹿島はその10分の1程度ですから、まだまだやれることはあるんじゃないかと」
――フランスのマルセイユやスイスのバーゼルといった、ヨーロッパでの選手経験が、クラブ経営という面で武器にもなるんじゃないですか? サッカーが文化として根づき、スタジアムが街の中心地として機能しているさまを体験したのだから。
「特にバーゼルは、スタジアム内にショッピングセンターや老人ホームがあったりと、有効利用しています。そして、充実したVIPルームやサービス面での工夫も怠らない。日本はプロ化されて25年。100年を超える歴史のあるヨーロッパとすぐには同じようにはできないけれど、それを目指して歩んでいます。
でも、ピッチ上のサッカーだけでなく、経営、ビジネス面でもヨーロッパのクラブはスピード感を持ち、進化し続けています。だからこそ、競技者としてサッカーを学び、経営も学んだ人間が必要だと思うんです」
――今の立場でも「チームが勝つためになにをすべきか」という思考は重要ですか?
「もちろん。クラブチームというのは、トップチームだけでは成り立たない。それを今つくづく感じています。当然クラブを引っ張るのはトップチームです。そこを充実させるためには資金も必要です。だから、事業部としてそれを準備する。強化と事業の両輪をバランスよく回すことで、いっしょに戦っている。
スタジアムへ足を運んでくれるサポーターは、遠くからも来てくれます。バスを2、3時間乗ってきて、つまらない試合を見せるわけにはいかない。満足感を持って帰ってもらいたいし、それが愛着を生むはずです。いっしょに戦い、タイトルを獲れたときの興奮を味わってほしい。
トップチームが勝つために『自分は何をやらなくちゃいけないか』をみんなが考えています。それがジーコのいう”ファミリー”なんだと思います」
中田浩二CROについて取材したSportivaの寺野女史である。
入団当初、同期とのライバル関係と友情を綴る。
「紅白戦はきつかった。だから、試合に出たとき、ラクだなって思うこともありましたから」というのは鹿島だからこそ味わえた経験であろう。
また、選手出身者として異例の経営側へのキャリアスタートについて、「ピッチ上のサッカーだけでなく、経営、ビジネス面でもヨーロッパのクラブはスピード感を持ち、進化し続けています。だからこそ、競技者としてサッカーを学び、経営も学んだ人間が必要だと思うんです」と心強い。
鹿島は次世代への投資を怠っておらぬ。
頼もしい経営者として育っていって欲しい。
期待しておる。

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