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鹿島の“走れるファンタジスタ“安部裕葵

鹿島の“走れるファンタジスタ“安部裕葵
東京五輪世代、過去と今と可能性(8)

川端暁彦
2018年3月30日(金) 11:00



巡ってきたチャンスをつかみ、瞬く間に常勝軍団の“戦力”となった安部裕葵に話を聞いた【スポーツナビ】

 東京五輪世代の「これまで」と「未来」の双方を掘り下げていく当連載。第8回に登場するのは、昨季広島の瀬戸内高校から鹿島アントラーズに加入した上質のファンタジスタ、安部裕葵。鹿島のスタッフはそんな高卒2年目のFWを「オッサンですよ」と紹介する。


 ルーキーイヤーのときから鹿島独特の空気感やプレッシャーの中でもオドオドしそうな様子はまるで見せず、巡ってきたチャンスで瞬く間に常勝軍団の“戦力”としての地位をつかみ取った。「緊張、しないんですよね」と笑って言ってのける19歳の“オッサンぶり”に迫ってみた。(取材日:2018年3月15日)

とにかくボールに触りたかった「ドリブル小僧」


昔はとにかくボールを持ったら離さない「ドリブル小僧」だったという安部。「たくさん怒られていた」そう【写真:アフロ】

――安部選手というと、西が丘サッカー場で会ったのを思い出します。日本クラブユース選手権(U−18)の決勝。「なんで、ちょっと前にインターハイに出ていた安部選手がここにいるんだ?」と思いました(笑)


 ああ、ありましたね。たまたま帰省していたタイミングでした。高校が広島なのでよく間違われますけれど、生まれも育ちも東京です。小学校が一緒で仲の良かった岡崎慎(当時FC東京U−18、現FC東京)が出ていたので行ってみました。彼はすごい。小学校時代は岡崎の「お」と安部の「あ」で出席番号も近かったので、徒競走とかも一緒に走るのですが、めちゃくちゃ速かった。


 背の順になるとあいつが一番後ろで、自分は一番前。「前にならえ」とか、したことないです。(岡崎は)背が高くてかっこいいし、モテる(笑)。仲もすごく良くて、だからFC東京の下部組織に入って活躍している彼からは、本当に大きな刺激をもらってきましたね。


――岡崎選手は昔から注目選手だったけれど、安部選手は?


 全然ですね。選抜とかも地区のトレセンだけです。それも小5で1個上に混ざって入っていたのに、小6では落ちましたから(笑)。(東京)都のトレセンはもちろん入っていないですし、僕よりうまい選手はいっぱいいましたよ。


――中学は帝京FC(現S.T.FC)だけど、どうして?


 親がセレクションを受けなさい、と。ユースとかすごくカッコイイじゃないですか。Jリーグのエンブレムをつけてプレーしていて、それにすごくあこがれていて。でもそんなところに受かるわけもないので、部活も考えたのですが、(東京都には)学区の制限もあって難しかった。でも、逆に東京は街クラブでも強いチームがたくさんあるので、その中でも帝京FCは強いチームだったので、「そこにしよう」と思いました。


――昔はボールを持ったら離さない「ドリブル小僧」だったという話を聞くけれど。


 そうでしたかね(笑)。まあ、たくさん怒られていたのは確かです。とにかくボールに触りたいタイプでした。ボールも奪いたかったので、守備でも走って攻撃でも走って、たくさん取られて、たくさん取り返してみたいな。暴れていましたね(笑)。小学校時代はボランチで、中学校でサイドをやったりFWをやったり。高校はトップ下、サイド、FW。そんな感じでした。

瀬戸内高に進学するまでの経緯、寮生活で得たもの


東京出身の安部が選んだのは、広島の瀬戸内高校への進学。珍しい進路を選択した理由は?【(C)J.LEAGUE】

 ナチュラルである。プライベートで高校生の選手を見かけても、基本的にあいさつ以上のことはしないようにしているのだが、まれに向こうから迫ってくる選手もいる。当時、安部のことをじっくり取材したのは一度だけ。それほど深い関係性があったわけではないのだが、西が丘サッカー場で安部のほうから話し掛けてきて、「おもしろいヤツだな」とあらためて思った記憶がある。プレーも意外性が売りの選手だが、進路の選択も意外性に富んでいる。選んだ先は、遠く広島の瀬戸内高校だった。


――広島と何か縁があったんですか?


 土地としてはないですよ。ただ、中学のクラブチームのスタッフだった人が向こうに行っていたので、それで声をかけてもらえた感じですね。


――しかし、珍しい進路ではあります。


 よく言われます。僕の場合は、インターハイ(高校総体)狙いですね。プロになりたかったので。僕が行く前は(瀬戸内は)インターハイに3年連続で出ていたので、すごく魅力的で。3年の時は開催地なので、見事2位抜け(※)で出られました。1位で抜けられれば良かったんですけれど、結果オーライです(笑)。


※編注:高校総体は開催地枠があり、安部が3年の時は広島県から2校が出場できた。


――東京の高校や、ほかの選択肢は考えなかったんですか?


 選択肢は何個かありました。でも中学時代はそんなに力のある選手ではなかったので、名門校に行くレベルではなかった。そういうマイナーな……、自分の母校をマイナーというのはどうかと思いますけれど(笑)。


 でもそういうところ(名門校)は最初から選択肢になかったですね。当然、東京に残ることも考えました。両親は寮生活には反対だったので、両親の意見を踏まえるならば、東京の高校だったんだと思います。でもだからこそ、「広島に行こう」と。


――親元を離れての生活、どうでした?


 寮生活をした身として、周りにいる小さい子だったり家族だったりにも、すごく寮生活を勧めてしまうくらい合っていました(笑)。今、まだ19(歳)ですけれど、高校3年間が一番、得られたものが大きかったと思います。


 とにかく僕は親から「だらしない」と言われて育っていて、(兄がいて)下の子ですし、いろいろ心配される身でもあり、何をするにも常に親の声がありました。もちろん、自分の考えもあったんですが、それを実行することはできなくて……。親の判断で何でもやっている感覚がすごく嫌でした。だから高校を選ぶときは、親の考えじゃなくて自分の考えで、自分で判断して、寮生活を選びました。


――親元を離れる効用をよく「自立」と言います。


 親は絶対に支えてくれるのですが、自分のことは自分で支えられないとダメだと思います。別に親が悪いことをしているわけではないですけれど、自立しようとすると、親が近くにいることで甘えも出ると思います。ウチは中学校のときから学校に行くのも早くて、サッカー(の練習)で帰ってくるのも遅かったので、家族内のコミュニケーションは少なかったと思います。親が仕事している姿を見て、頑張っているのはすごく分かっていたので、僕もその姿を見て「やらなきゃな」と思っていました。


 みんなそれぞれで頑張っている中で、自分が寮生活になったことで寂しさが出るとかはなくて、親も頑張っているし、兄貴も頑張っているから、俺も頑張る、というか。そういう意識を持てたこと自体が良かった。広島にいるから(姿は)見えないですけれど、僕が頑張ったら今はネットがあるので、(掲載されている自分の)記事を見るだけで、「頑張っているんだな」と思ってもらえる、と考えてやっていましたね。遠くても、家族にいい影響を与えられたらと思っていました。


――サッカーの面でも順風ではなかったですよね。


 怒られてばかりで、本当に怒られた思い出はたくさんあります(笑)。良いことも悪いことも、何でもハッキリと言ってくださった安藤(正晴)先生やスタッフには感謝しかないです。僕がプロ志望だと知っていたので、余計に厳しくしてもらえたと思います。最初はなかなか試合に出られなかった。


 2年生になったときもそうでしたけれど、でも100パーセントの力で練習していましたし、自分のレベルが上がっていることは間違いなく実感していました。サンフレッチェ(広島)ユースが広島県の中では一番レベルが高いので、そういう選手たちと試合をしている中で、そういう選手を僕は「プロ」という目標への“ものさし”にしてやっていました。

届いた待望のオファー、鹿島との不思議な“縁”


鹿島からのオファーに「正直驚いた」と話す安部。鹿島入りは即決だったという【スポーツナビ】

 瀬戸内高校で徐々に頭角を現した若武者のもとに待望のオファーが届く。実は高校からは、ある条件以外では大学へ行けと勧められていたのだというから、そのオファーは実に不思議な縁だった。


――鹿島入りは即決だったと聞いています。


 オファーが来たのは、西が丘で会ったその次の日くらいだったんじゃないかと思います。性格的に先のことはあまり考えないのですが、プロに行けないんじゃないかとかは、そんなに心配もしていなかったですね。ダメだったら勉強しようかなという感じでした(笑)。正直、(鹿島からのオファーは)驚きましたけれど。


――オファーがあるならJ2でも、という感じだった?


 いや、高校からは「いきなりプロにいってもつぶれるだけだから、大学に行ってほしい」と(言われていた)。でも、「鹿島からオファーがあるなら、俺は勧めるよ」と安藤先生が言っていて、それがちょうど僕が(高校)3年生になった頭のタイミングでした。


――え、そのときはまったく話がなかったんですよね?


 はい。まったくなかったですが、僕も「鹿島がいいです!」と言っていて、そうしたら本当に話が来ました(笑)。椎本(邦一スカウト)さんは、「ちゃんと僕の意見を聞いて決めてくれ」という話をしていたらしいんですけれど、先生からの電話では「本当に鹿島から(オファーが)来たから、もうOKと言っていいよな」みたいな感じでしたね(笑)。だから他のクラブからも声がかかっていたかとか、全然知らないんですよ。


――経歴も珍しいけれど、その流れもちょっとファンタジーですね(笑)。そういう「枠からはみ出る」というところはプレースタイルにも感じます。


 何も考えていないですよ。感覚でやっています。やっぱり、自分にボールが入った時には何かしたいというのはありますし。今はすごく考えてやっていますけれど、考えてしまうと分からなくなってしまう部分もありますね。


 僕が大切にしているのが、練習でのイメージ。今日も(練習で)5対5をやりましたれど、ああいう中でとっさに、考えずに出てくるものを一番大事にしています。もちろん、試合の流れや時間帯は考えなくてはいけないですけれど、調子の良いときはとっさに全部出てくる。そういう“感覚”は大事にしたいと思います。(大岩)剛さん(鹿島監督)も、僕に対して「お前は自分の感覚を大事にしたほうがいい」と言ってくれるので。

体重増加のため、トレーニング中。目指すはアザール?


プロ入り後に6キロほど体重が増えたという安部。現在はアザール(写真)のような体を目指してトレーニング中【写真:ロイター/アフロ】

――体も太くなったと思うんですが。


 だいぶ太くなりましたね。プロに入ったときはビビりましたね。「みんなこんなにデカイんや」って(笑)。俺、ヤバイなと思って、筋トレは継続してやっています。


――体重も増えたでしょう。


 はい、めちゃくちゃ増えています。(鹿島に)入って3カ月で5キロ以上増えましたね。身長もまだ少し伸びているみたいで。いま65キロくらいなので、もっと増やしたいと思っています。鹿島に入ったときは59キロでしたから、ガリガリです(笑)。いまは(エデン・)アザール(チェルシー)くらいになりたいと思ってやっています。


――デカいな!(笑)。


 いやもう、あのくらいになりたいんです。75キロくらいですよね、確か。身長もそんなに変わらないのに、10キロも違うんですよ(※)。そりゃあ勝てないな、と。負けていられないですね。


※編注:安部は171センチ65キロ、アザールは173センチ76キロ。


――海外サッカーが好きそうですね。


 見ますね。


――海外が好きなら、去年セビージャとやれたのはうれしかった?


 はい、楽しかったですね。充実していました。あのときこそ、本当に感覚のプレーでした。サポーターの方も、あの試合での僕のプレーが僕の“ものさし”になっているので、正直ちょっとプレッシャーになるかもしれません。でも僕自身も、あれをものさしだと思ってやらなければいけないと思うので、あのようなプレーをたくさんできたらと思います。

「将来はプレミアのピッチでプレーしてみたい」


日の丸の責任を負う中でどう伸びていくか、これからの成長が楽しみな選手だ【(C)J.LEAGUE】

――2年後の東京五輪、自分のイメージはありますか?


 ないです。


――そう言うと思った(笑)。


 先のことは本当に何も考えないですね(笑)。


――海外志向が強い選手なのかとは思っていたけれど。


 ああ、そうですね。海外志向はとても強いです。プレミアでやりたいですね。だから(体を)デカくしないといけない。ああいうスピード感のあるカウンターの繰り返しのようなサッカーは、僕はすごく得意だと思うので。


――うまいだけじゃなく、走れるもんね。


 そうなんですよ。で、クイックネスもある。ああいう、カウンターでやり合うみたいなのが大好きなので。いつか、あの国のピッチでプレーしてみたいですね。


 まだ身長が伸びているという事実からも分かるように、成長期が遅く来たために評価を得られなかったタイプだろう。中村俊輔や本田圭佑の例を出すまでもなく、このタイプはまだまだのびしろを残しているはずで、さらなる成長を期待していいはずだ。


 経歴的には“雑草”に属するタイプであり、年代別日本代表に初めて入ったのも鹿島入り後のこと。Jリーグでの活動を優先したこともあり、招集されたのもわずかに3回しかない。「五輪」どころか、まだまだ代表チームに対するイメージ自体を持てていない様子だったが、見ている側からすると、日の丸の責任を負う中でどう伸びていくか、楽しみにしたい選手でもある。


 今年の秋にはAFC U−19選手権、そして来年はU−20ワールドカップがある。その胸(鍛錬中)に秘める大志と、19歳にしてオッサンの境地に達しているメンタル、そして“走れるファンタジスタ”の個性を思えば、その国際舞台でのブレイクスルーは是非とも果たしてもらいたいし、その可能性は確かに持っている選手である。

安部裕葵(あべ・ひろき)

【スポーツナビ】
 1999年1月28日生まれ。東京都出身。171センチ65キロ。キレのあるドリブル突破が特長のFW。城北アスカFCからS.T. FOOTBALL CLUBジュニアユースを経て、広島県の瀬戸内高校に進学。2016年9月に鹿島アントラーズへの加入が発表された。


 17年4月1日のJ1リーグ第5節の大宮アルディージャ戦でプロ初出場を果たすと、7月22日のワールドチャレンジ・セビージャ戦ではマン・オブ・ザ・マッチに選出される活躍を見せ、一気にその名を上げた。18年シーズンは開幕戦で先発出場を果たしており、これからの活躍が期待される。


安部裕葵を取材したSportsnaviの川端氏である。
幼少期から育成年代での裕葵がどのようなサッカー少年であったか、そして今現在のサッカー観について伝わってくる。
先を考えず、感覚的な部分は、天才肌のファンタジスタと言ってよいのであろう。
それが、観る者にワクワク感を与えてくれる。
また、高校時代の恩師である安藤先生の「鹿島からオファーがあるなら、俺は勧めるよ」という言葉は、いかに鹿島が育成に定評があり、高校界隈に良い評判が轟いておる証拠である。
この素晴らしい逸材が、鹿島に入団したのは偶然ではない。
鹿島にて更に成長し、活躍してくれよう。
また、プレミア移籍も夢ではない。
裕葵の好感度がまたアップした。
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いい記事ですね。高校の先生の評価に恥じぬよう大切に育てたい選手。勝手に育っていくと思いますがw
セビージャ戦目の前で観たあの衝撃を何度でも見たいです。

原理さんが一目見て良い選手と言った安部選手は、鹿島の至宝となりつつありますね。
成長速度が速い理由は、自立しようという強い思いがあるからなんですね。
本当に大したものです。
代表監督がまともであれば、ロシアW杯にジョーカーとして選ばれてもおかしくなかったと思います。
世界に羽ばたいてほしい逸材ですね。
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狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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