曽ケ端、結局はタイトルですね
スタジアム近所の子供が守護神に。
曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み
寺野典子●文 text by Terano Noriko五十嵐和博●撮影 photo by Igarashi Kazuhiro
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(5)
曽ヶ端準 前編
広いミックスゾーンの中央で、昌子源と話していたガンバ大阪の東口順昭は、鹿島アントラーズの曽ヶ端準(そがはた ひとし)の姿を見つけると、サッと駆け寄り挨拶をした。短い言葉を交わしたのち、両手で曽ヶ端と握手する姿が印象深かった。
鹿島vsG大阪が行なわれた3月3日のカシマスタジアムでの光景だ。
「曽ヶ端さんをはじめ、(川口)能活さんやナラさん(楢崎正剛)が長く活躍してくれているのは、本当に力になりますからね。もっともっと続けてほしい」
試合の行方を左右するピンチを救い続けた東口は、日本代表ゴールキーパーの先輩たちの名前を口にした途端、敗戦でわずかに硬くなっていた表情が一気に破顔する。
1998年、鹿島アントラーズに新加入した”高卒6人衆”。小笠原満男を筆頭に、世代別の代表にも名を連ねる高校サッカーの雄が揃っていた。曽ヶ端もその一員ではあったが、当時はまだ代表の守護神という立ち位置ではなかった。
曽ヶ端のプロのキャリアは、市川友也に次ぐ2人目の鹿島ユース出身選手としてスタートした。その後、1998年のAFC U-19選手権、1999年のワールドユースを経て、2000年にA代表デビューを飾る。2002年日韓W杯メンバーに入り、2004 年にはオーバーエイジ枠でアテネ五輪にも出場した。
鹿島での時間が曽ヶ端の進化を促したことは言うまでもない。ポジションは違えども、同期の活躍が後押しになっているのだろう。

長らく鹿島の守護神として活躍してきた曽ヶ端準
***
――今季で、鹿島在籍21年目を迎えましたね。
「引退する選手もいるなかで、サッカーを続けていられることに幸せを感じます。僕はカシマスタジアムの近くで生まれて、育ちました。生まれた町にプロクラブがあり、そこでプレーできるなんていう幸せを味わえる人は、そう何人もいるわけじゃないでしょう? 同じ市ならまだしも、スタジアムが徒歩圏内ですからね」
――「ここにスタジアムができるのかぁ」と、子どもの頃は思っていたんですか?
「ジーコが住友金属サッカー部へ来たのが小学生の頃。スタジアムそばの小学校へ通っていました。そして、中学時代に鹿島アントラーズが生まれた。スタジアムもそうですけど、何もないところを切り拓くような感じでスタートしましたから」
――しかも、地元のクラブが国内有数のビッグクラブというのも幸せですよね。
「確かにそうですね。強くなければ、ここまで大きなクラブにはなれなかったと思いますね」
――鹿島中学から鹿島ユースへ。やはり、プロになるなら下部組織でという気持ちが強かったのでしょうか?
「プロになるという夢みたいなものはあったかもしれないけれど、ほかのポジションなら僕は違う選択をしていたと思います」
――ゴールキーパーだったから、というのは?
「当時の部活でゴールキーパーコーチがいる環境は少なかったと思うし、地元でそれを求めるとなれば、自然と鹿島しかなかった。だから一番の理由は練習環境でしたね。僕がユースへ入った年、兄貴が進学した鹿島高校が初めて高校選手権に出場したんですよ。僕の中学の同級生も出ました。
僕らが小学生だった頃はまだプロリーグがない時代で、サッカーを始める動機なんて『選手権に出て、国立競技場に立ちたい』が一番だったから、複雑な心境でしたね」
――そしてプロ入り。もう何度も曽ヶ端選手がお話しされていますが、そこで「~ら」問題が……。
「メディアで、何度も『小笠原満男、本山雅志、中田浩二、山口武士、中村祥朗ら』って、報じられました。『僕は”ら”なのか』と思うたびに、見返してやろうと力が湧いてきました。『なにくそ』って(笑)」
――ゴールキーパーは勝敗に直結しやすいポジションです。極端な話、失点しなければ負けることはないですから。プロとしてその重責を担っていると実感したのはいつですか?
「デビュー戦(1999年5月アビスパ福岡戦)で勝利したあと、3連敗してポジションを失いました。そこから1年以上Jリーグでの出番がなかった。自分の実力のなさを痛感しましたね。ゲームのなかで何もできなかった。いつも前の選手に助けられているところがあった。だから、試合に出られないのはある意味納得できました。3冠を達成するチームを見ながら、結果、勝利へのこだわりは自然と強くなったと思います」
――2001年にレギュラーを獲得し、そこからリーグ優勝は3連覇を含む5回、ナビスコカップが4回、天皇杯3回。個人では出場500試合達成、連続フルタイム出場試合数244試合を達成するなど、Jリーグの歴史に名を残すゴールキーパーになりました。
「昔は試合に出たら、自分がいいプレーをしなくちゃいけないと思っていました。だから、チームが3点取っても1失点したら、『あぁ~やられたぁ』と落ち込んでいました。いつもとにかく無失点にしたいというふうに考えていた。
もちろん、今もゼロにする、無失点で抑えるほうが勝利には近い形ではあるけれど、今、僕が大事にしているのは、『いかに勝ち点3を取るか』ということです。ゴールキーパーに限らず、フィールドの選手も含めてミスはあること。だから、失点しても、気持ちを持ち直せるようになりました」

――キーパーは自分のミスを取り返すのがほとんど不可能ですよね。得点をあげるという意味においては。
「可能性はゼロではないけれど、その通りですね。ゴールキーパーの後ろには守るべきゴールがある。その前に立つプレッシャーは、ゴールキーパーにしかわからないと思います」
――35歳を過ぎれば、身体に変化も生じると思います。今年で39歳になる曽ヶ端さんが、ゴールキーパーとして大事にしていることは?
「キーパーとしては技術も身体能力も重要です。年齢を重ねれば、昔と同じというわけにもいかない。だけど、それをカバーできる経験もあります。うまくディフェンダーを動かすことでも補える。この仕事の難しさは今も日々感じています」
――メンタル面での成長も大きいのでしょうか?
「メンタルは絶対に大事ですね。いつからかわからないけど、『チームの状況に左右されたらダメだ』と考え、それができる試合が徐々に増えていきました。昔なら、(攻撃陣の)簡単なシュートが決まらない。そういうのを後ろで見ていて、イライラしてしまうこともありました。それが自分のプレーに悪影響を与えてしまうんですよね。
今ではディフェンダーの選手に、昔の自分の姿を見るような気持ちになるときもあります。そんなときはひと声かけるようにしています」
――チームメイトとの関係性も変わりましたか?
「試合に出始めたころは、秋田(豊)さん、奥野(僚右)さん、相馬(直樹)さん、名良橋(晃)さんと、前にいるディフェンス陣にはさまざまな点で助けてもらいました。プレーもそうだし、守備範囲のカバーだったり、かけてもらう言葉だったり。
今は(昌子)源やナオ(植田直通)をはじめ、みんな年下です。だからといって、いつも僕が何かをしてあげているわけでもなくて……。源たちに助けられることも多いし、中盤やフォワードの選手に助けられることもあります。それはチームとして当然のこと。誰かがミスをしてもカバーできれば、ミスがミスにならない。そういう気持ちが大切だと思います」
曽ヶ端準「ヘタでも、チームを
勝たせられる選手なら使うでしょ?」
寺野典子●文 text by Terano Noriko五十嵐和博●撮影 photo by Igarashi Kazuhiro
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(6)
曽ヶ端準 後編
2月21日のACL水原三星戦で、久しぶりに公式戦のゴールマウスに立ったクォン・スンテは、PK阻止という大仕事をやってのけ、勝利に貢献した安堵感に包まれていた。
韓国代表ゴールキーパーとして2017年に鹿島アントラーズに加入。クラブ史上初となる外国人ゴールキーパーだった。しかし、その年の7月に左指を痛めると、そこから試合出場機会を失うことになる。
「誰もが試合に出たいと思っている。でも、僕からソガさんに何かを言うことなんてないですよ(笑)」
スンテは敬愛の念に溢れた表情でそう語り、目を細めた。

鹿島で21年目のシーズンを迎えた曽ヶ端準
他のポジションと違い、ライバルと近い距離でトレーニングを行ない、ひとつの椅子を競い合うゴールキーパー。長らく正GKの座を守り続けてきた曽ヶ端準(そがはた ひとし)とて、その場所に安住できるわけじゃない。
スンテの加入はそれくらい大きなインパクトがあった。しかし曽ヶ端は、ライバルの負傷によって得たスタメン出場のチャンスを活かし、ポジションを奪い返した。ケガから復帰したスンテをベンチに座らせたまま、正GKとして活躍を続けたのだ。
***
――これまでもさまざまなライバルがいたわけですが、スンテ選手の加入は新たな危機感を与えたのではないでしょうか? そもそも補強というのは、現状に満足していないというクラブからのメッセージでもあるわけですが。
「特別に何かを思うことはありませんでしたね。過去にも櫛引(政敏/モンテディオ山形)をはじめ、いい選手が加入してきましたから。現役の韓国代表というのは過去になかったですけど。そして、『ベンチでいいや』なんて気持ちで移籍してくる選手はいませんからね」
――誰もが、曽ヶ端選手の座を脅(おびや)かすことを考えていたと。
「当然でしょう。だから僕も、そういう選手との競争だということは自覚していますし、覚悟している。でも、こういう厳しい競争がある環境が僕には合っています」
――その競争に勝ち抜くために重要なのは?
「練習です。練習で見せるしかない。ブレながら練習していたらダメ。しっかりと自分を持ち、アピールすることが大事です。心身ともにコンディションがいいことを見せるのも練習だし、監督だけじゃなくて、チームメイトも納得させられるプレーをしないと試合には出られない。だから、必死に練習するだけです」
――10代の頃に憧れたゴールキーパー像があったとして、現時点で目指しているキーパー像と違いはありますか?
「身体能力的な部分には、昔ほど頼れなくはなっている。でも、勝たせられるゴールキーパーというところで、チームに貢献する方法があると考えています。ゲームの流れを読んだり、流れを作ったり……多方面からアプローチができると思う。でも、自分のミスで失点してしまうこともありますからね。漠然としたもので表現するのは難しいけれど、極論を言えばヘタでもいいんですよ。チームを勝たせられれば。そういう選手であれば、試合に使うでしょう?」
――例えば、「あいつは持っている」というオーラでもいいと。
「そうそう。そういう選手は外せない。それはゴールキーパーに限らず、『あいつはゴールを決めるね』でもいいんです。それを練習で見せなくちゃいけない。練習でできなければ、ピッチには立てません」
――そういった「勝たせるオーラ」を、曽ヶ端選手は鹿島の守備陣から感じてきたんでしょうね。
「はい。僕が若い頃のディフェンス陣はすごかったですね。相手にとってのやりづらさは、僕らにとっては安心感でもあった。そういうものを背中で見せてくれました」
――今季、チームに復帰した内田篤人選手のことはどう評価していますか?
「篤人が鹿島に来たときから、すごく守備センスの高い選手だなと思っていました。日本代表では『攻撃力は高いけど、守備は……』となってしまい、ワールドカップ南アフリカ大会では先発を外れた。でも俺は、篤人が『攻撃の選手』と言われるのを聞くたびに、ずっと『違うな』と思っています。篤人の守備能力は抜群です。守備範囲の広さや1対1の読みもそう。何度も彼のカバーで助けられてきたから」

――内田選手が不在だった8年弱の間に、若い選手も中堅、ベテランとなりました。
「そうですね。ヤス(遠藤康)も篤人がいたときはまだレギュラーじゃなかったですからね」
――今では遠藤選手がゲームキャプテンになっていますね。
「僕はそれほど多くキャプテンマークをつけた試合はないんですけど、それでも責任感が生まれたし、それによって発言や言動にも変化がありました。でも、今のヤスや(昌子)源ほどではないです。僕がキャプテンマークをつけた頃は、他に引っ張ってくれる選手がいたからでしょうね。それに比べると、ヤスや源は本当に変わりました。積極的になったし、会話もそう。その内容や雰囲気にも違いを感じます。自覚と自信の表れだと思います」
――鹿島の歴史を振り返ると、「紀元前、紀元後」みたいに、「小笠原満男前、小笠原満男後」と言えるのではないかと。曽ヶ端選手をはじめ小笠原選手と同年代の選手が歴史の中心に立ち、過去から未来へとバトンを渡す立場にいるんだなと思えます。
「若い時に比べたら、満男も変わりましたからね。あそこまでしゃべるヤツじゃなかったですから。何がきっかけかはわからないですけど」
――長年プレーを続けていくうえで、何がモチベーションになっているのですか?
「結局はタイトルですね。勝つことに対するモチベーションがなければ、長くはできないと思います。厳しい練習を何のためにするのかといえば、やっぱり優勝の喜びを味わいたいから。『また、もう一度味わいたい』と思うからです」
――特に印象深かった優勝はありますか?
「どの優勝もうれしいです。2016年シーズンは、年間勝ち点は3位だったのにチャンピオンシップに勝っての優勝でいろいろ言われたけれど、やっぱり優勝すればうれしかった。クラブワールドカップは、いくらレアル相手であっても負ければ悔しい。それで、その後の天皇杯で勝ってまたうれしい。その喜びのためにやっているんじゃないですかね」
――レアル・マドリードとの一戦を振り返るとどうですか?
「今のレアルの試合を見ると、僕らが対戦したときのチームとはスピードも違うし、最高の(状態の)レアルとやったわけじゃない。それにレアルは、僕らが格下の相手と戦うときに感じるようなやりづらさを感じていたかもしれない。だからこそ勝ちたかったけれど、そこまで甘くはないということです」
――ACL(AFCチャンピオンズリーグ)では、なかなか勝てない状況が続いていますが。
「それは事実ですから、今までと同じようにはやっていたらダメだと思う。クラブワールドカップもACLで優勝して出場したわけじゃなかったし、去年はJリーグのタイトルも獲れていないわけですから。選手が入れ替わったりといろいろと変化はある。その中で何かを変えなくちゃいけないし、もっともっと細かいところを追求して、こだわっていくべきだと思っています。
それは僕自身も同じです。チームが1点を獲ったとして、それが勝ち点1になるのか、3になるのか。どうすれば『3』にできるのかを考える。単純なミスをしないよう、毎日の練習から意識を高く持っていないといけません」
――ACLで優勝しないと、曽ヶ端選手も小笠原選手も引退できないですね(笑)。
「獲ったら引退しろってことですか(笑)」
——いえいえ。その先もタイトルを獲ってください。
「(笑)。年齢を考えたら、先が短いのはわかっています。だけど、引退のことなんてまだ何もイメージできないですから」
曽ケ端について取材したSportivaの寺野女史である。
曽ケ端のサッカー観であったり選手評が伝わってくる。
入団時の「メディアで、何度も『小笠原満男、本山雅志、中田浩二、山口武士、中村祥朗ら』って、報じられました。『僕は”ら”なのか』と思うたびに、見返してやろうと力が湧いてきました。『なにくそ』って(笑)」は微笑ましいエピソードと言えよう。
「ら」であっても努力と才能で長くトップフォームとしてプレイできることを証明しておる。
また、篤人評も面白い。
「篤人が『攻撃の選手』と言われるのを聞くたびに、ずっと『違うな』と思っています」というのは、GKとしての視点で興味深い。
曽ケ端がおるからこそ鹿島が勝利を積み重ねられる。
これからもタイトルを勝ち得ていこうではないか。
まだまだである。

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曽ヶ端準とアントラーズの幸せな歩み
寺野典子●文 text by Terano Noriko五十嵐和博●撮影 photo by Igarashi Kazuhiro
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(5)
曽ヶ端準 前編
広いミックスゾーンの中央で、昌子源と話していたガンバ大阪の東口順昭は、鹿島アントラーズの曽ヶ端準(そがはた ひとし)の姿を見つけると、サッと駆け寄り挨拶をした。短い言葉を交わしたのち、両手で曽ヶ端と握手する姿が印象深かった。
鹿島vsG大阪が行なわれた3月3日のカシマスタジアムでの光景だ。
「曽ヶ端さんをはじめ、(川口)能活さんやナラさん(楢崎正剛)が長く活躍してくれているのは、本当に力になりますからね。もっともっと続けてほしい」
試合の行方を左右するピンチを救い続けた東口は、日本代表ゴールキーパーの先輩たちの名前を口にした途端、敗戦でわずかに硬くなっていた表情が一気に破顔する。
1998年、鹿島アントラーズに新加入した”高卒6人衆”。小笠原満男を筆頭に、世代別の代表にも名を連ねる高校サッカーの雄が揃っていた。曽ヶ端もその一員ではあったが、当時はまだ代表の守護神という立ち位置ではなかった。
曽ヶ端のプロのキャリアは、市川友也に次ぐ2人目の鹿島ユース出身選手としてスタートした。その後、1998年のAFC U-19選手権、1999年のワールドユースを経て、2000年にA代表デビューを飾る。2002年日韓W杯メンバーに入り、2004 年にはオーバーエイジ枠でアテネ五輪にも出場した。
鹿島での時間が曽ヶ端の進化を促したことは言うまでもない。ポジションは違えども、同期の活躍が後押しになっているのだろう。

長らく鹿島の守護神として活躍してきた曽ヶ端準
***
――今季で、鹿島在籍21年目を迎えましたね。
「引退する選手もいるなかで、サッカーを続けていられることに幸せを感じます。僕はカシマスタジアムの近くで生まれて、育ちました。生まれた町にプロクラブがあり、そこでプレーできるなんていう幸せを味わえる人は、そう何人もいるわけじゃないでしょう? 同じ市ならまだしも、スタジアムが徒歩圏内ですからね」
――「ここにスタジアムができるのかぁ」と、子どもの頃は思っていたんですか?
「ジーコが住友金属サッカー部へ来たのが小学生の頃。スタジアムそばの小学校へ通っていました。そして、中学時代に鹿島アントラーズが生まれた。スタジアムもそうですけど、何もないところを切り拓くような感じでスタートしましたから」
――しかも、地元のクラブが国内有数のビッグクラブというのも幸せですよね。
「確かにそうですね。強くなければ、ここまで大きなクラブにはなれなかったと思いますね」
――鹿島中学から鹿島ユースへ。やはり、プロになるなら下部組織でという気持ちが強かったのでしょうか?
「プロになるという夢みたいなものはあったかもしれないけれど、ほかのポジションなら僕は違う選択をしていたと思います」
――ゴールキーパーだったから、というのは?
「当時の部活でゴールキーパーコーチがいる環境は少なかったと思うし、地元でそれを求めるとなれば、自然と鹿島しかなかった。だから一番の理由は練習環境でしたね。僕がユースへ入った年、兄貴が進学した鹿島高校が初めて高校選手権に出場したんですよ。僕の中学の同級生も出ました。
僕らが小学生だった頃はまだプロリーグがない時代で、サッカーを始める動機なんて『選手権に出て、国立競技場に立ちたい』が一番だったから、複雑な心境でしたね」
――そしてプロ入り。もう何度も曽ヶ端選手がお話しされていますが、そこで「~ら」問題が……。
「メディアで、何度も『小笠原満男、本山雅志、中田浩二、山口武士、中村祥朗ら』って、報じられました。『僕は”ら”なのか』と思うたびに、見返してやろうと力が湧いてきました。『なにくそ』って(笑)」
――ゴールキーパーは勝敗に直結しやすいポジションです。極端な話、失点しなければ負けることはないですから。プロとしてその重責を担っていると実感したのはいつですか?
「デビュー戦(1999年5月アビスパ福岡戦)で勝利したあと、3連敗してポジションを失いました。そこから1年以上Jリーグでの出番がなかった。自分の実力のなさを痛感しましたね。ゲームのなかで何もできなかった。いつも前の選手に助けられているところがあった。だから、試合に出られないのはある意味納得できました。3冠を達成するチームを見ながら、結果、勝利へのこだわりは自然と強くなったと思います」
――2001年にレギュラーを獲得し、そこからリーグ優勝は3連覇を含む5回、ナビスコカップが4回、天皇杯3回。個人では出場500試合達成、連続フルタイム出場試合数244試合を達成するなど、Jリーグの歴史に名を残すゴールキーパーになりました。
「昔は試合に出たら、自分がいいプレーをしなくちゃいけないと思っていました。だから、チームが3点取っても1失点したら、『あぁ~やられたぁ』と落ち込んでいました。いつもとにかく無失点にしたいというふうに考えていた。
もちろん、今もゼロにする、無失点で抑えるほうが勝利には近い形ではあるけれど、今、僕が大事にしているのは、『いかに勝ち点3を取るか』ということです。ゴールキーパーに限らず、フィールドの選手も含めてミスはあること。だから、失点しても、気持ちを持ち直せるようになりました」

――キーパーは自分のミスを取り返すのがほとんど不可能ですよね。得点をあげるという意味においては。
「可能性はゼロではないけれど、その通りですね。ゴールキーパーの後ろには守るべきゴールがある。その前に立つプレッシャーは、ゴールキーパーにしかわからないと思います」
――35歳を過ぎれば、身体に変化も生じると思います。今年で39歳になる曽ヶ端さんが、ゴールキーパーとして大事にしていることは?
「キーパーとしては技術も身体能力も重要です。年齢を重ねれば、昔と同じというわけにもいかない。だけど、それをカバーできる経験もあります。うまくディフェンダーを動かすことでも補える。この仕事の難しさは今も日々感じています」
――メンタル面での成長も大きいのでしょうか?
「メンタルは絶対に大事ですね。いつからかわからないけど、『チームの状況に左右されたらダメだ』と考え、それができる試合が徐々に増えていきました。昔なら、(攻撃陣の)簡単なシュートが決まらない。そういうのを後ろで見ていて、イライラしてしまうこともありました。それが自分のプレーに悪影響を与えてしまうんですよね。
今ではディフェンダーの選手に、昔の自分の姿を見るような気持ちになるときもあります。そんなときはひと声かけるようにしています」
――チームメイトとの関係性も変わりましたか?
「試合に出始めたころは、秋田(豊)さん、奥野(僚右)さん、相馬(直樹)さん、名良橋(晃)さんと、前にいるディフェンス陣にはさまざまな点で助けてもらいました。プレーもそうだし、守備範囲のカバーだったり、かけてもらう言葉だったり。
今は(昌子)源やナオ(植田直通)をはじめ、みんな年下です。だからといって、いつも僕が何かをしてあげているわけでもなくて……。源たちに助けられることも多いし、中盤やフォワードの選手に助けられることもあります。それはチームとして当然のこと。誰かがミスをしてもカバーできれば、ミスがミスにならない。そういう気持ちが大切だと思います」
曽ヶ端準「ヘタでも、チームを
勝たせられる選手なら使うでしょ?」
寺野典子●文 text by Terano Noriko五十嵐和博●撮影 photo by Igarashi Kazuhiro
遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(6)
曽ヶ端準 後編
2月21日のACL水原三星戦で、久しぶりに公式戦のゴールマウスに立ったクォン・スンテは、PK阻止という大仕事をやってのけ、勝利に貢献した安堵感に包まれていた。
韓国代表ゴールキーパーとして2017年に鹿島アントラーズに加入。クラブ史上初となる外国人ゴールキーパーだった。しかし、その年の7月に左指を痛めると、そこから試合出場機会を失うことになる。
「誰もが試合に出たいと思っている。でも、僕からソガさんに何かを言うことなんてないですよ(笑)」
スンテは敬愛の念に溢れた表情でそう語り、目を細めた。

鹿島で21年目のシーズンを迎えた曽ヶ端準
他のポジションと違い、ライバルと近い距離でトレーニングを行ない、ひとつの椅子を競い合うゴールキーパー。長らく正GKの座を守り続けてきた曽ヶ端準(そがはた ひとし)とて、その場所に安住できるわけじゃない。
スンテの加入はそれくらい大きなインパクトがあった。しかし曽ヶ端は、ライバルの負傷によって得たスタメン出場のチャンスを活かし、ポジションを奪い返した。ケガから復帰したスンテをベンチに座らせたまま、正GKとして活躍を続けたのだ。
***
――これまでもさまざまなライバルがいたわけですが、スンテ選手の加入は新たな危機感を与えたのではないでしょうか? そもそも補強というのは、現状に満足していないというクラブからのメッセージでもあるわけですが。
「特別に何かを思うことはありませんでしたね。過去にも櫛引(政敏/モンテディオ山形)をはじめ、いい選手が加入してきましたから。現役の韓国代表というのは過去になかったですけど。そして、『ベンチでいいや』なんて気持ちで移籍してくる選手はいませんからね」
――誰もが、曽ヶ端選手の座を脅(おびや)かすことを考えていたと。
「当然でしょう。だから僕も、そういう選手との競争だということは自覚していますし、覚悟している。でも、こういう厳しい競争がある環境が僕には合っています」
――その競争に勝ち抜くために重要なのは?
「練習です。練習で見せるしかない。ブレながら練習していたらダメ。しっかりと自分を持ち、アピールすることが大事です。心身ともにコンディションがいいことを見せるのも練習だし、監督だけじゃなくて、チームメイトも納得させられるプレーをしないと試合には出られない。だから、必死に練習するだけです」
――10代の頃に憧れたゴールキーパー像があったとして、現時点で目指しているキーパー像と違いはありますか?
「身体能力的な部分には、昔ほど頼れなくはなっている。でも、勝たせられるゴールキーパーというところで、チームに貢献する方法があると考えています。ゲームの流れを読んだり、流れを作ったり……多方面からアプローチができると思う。でも、自分のミスで失点してしまうこともありますからね。漠然としたもので表現するのは難しいけれど、極論を言えばヘタでもいいんですよ。チームを勝たせられれば。そういう選手であれば、試合に使うでしょう?」
――例えば、「あいつは持っている」というオーラでもいいと。
「そうそう。そういう選手は外せない。それはゴールキーパーに限らず、『あいつはゴールを決めるね』でもいいんです。それを練習で見せなくちゃいけない。練習でできなければ、ピッチには立てません」
――そういった「勝たせるオーラ」を、曽ヶ端選手は鹿島の守備陣から感じてきたんでしょうね。
「はい。僕が若い頃のディフェンス陣はすごかったですね。相手にとってのやりづらさは、僕らにとっては安心感でもあった。そういうものを背中で見せてくれました」
――今季、チームに復帰した内田篤人選手のことはどう評価していますか?
「篤人が鹿島に来たときから、すごく守備センスの高い選手だなと思っていました。日本代表では『攻撃力は高いけど、守備は……』となってしまい、ワールドカップ南アフリカ大会では先発を外れた。でも俺は、篤人が『攻撃の選手』と言われるのを聞くたびに、ずっと『違うな』と思っています。篤人の守備能力は抜群です。守備範囲の広さや1対1の読みもそう。何度も彼のカバーで助けられてきたから」

――内田選手が不在だった8年弱の間に、若い選手も中堅、ベテランとなりました。
「そうですね。ヤス(遠藤康)も篤人がいたときはまだレギュラーじゃなかったですからね」
――今では遠藤選手がゲームキャプテンになっていますね。
「僕はそれほど多くキャプテンマークをつけた試合はないんですけど、それでも責任感が生まれたし、それによって発言や言動にも変化がありました。でも、今のヤスや(昌子)源ほどではないです。僕がキャプテンマークをつけた頃は、他に引っ張ってくれる選手がいたからでしょうね。それに比べると、ヤスや源は本当に変わりました。積極的になったし、会話もそう。その内容や雰囲気にも違いを感じます。自覚と自信の表れだと思います」
――鹿島の歴史を振り返ると、「紀元前、紀元後」みたいに、「小笠原満男前、小笠原満男後」と言えるのではないかと。曽ヶ端選手をはじめ小笠原選手と同年代の選手が歴史の中心に立ち、過去から未来へとバトンを渡す立場にいるんだなと思えます。
「若い時に比べたら、満男も変わりましたからね。あそこまでしゃべるヤツじゃなかったですから。何がきっかけかはわからないですけど」
――長年プレーを続けていくうえで、何がモチベーションになっているのですか?
「結局はタイトルですね。勝つことに対するモチベーションがなければ、長くはできないと思います。厳しい練習を何のためにするのかといえば、やっぱり優勝の喜びを味わいたいから。『また、もう一度味わいたい』と思うからです」
――特に印象深かった優勝はありますか?
「どの優勝もうれしいです。2016年シーズンは、年間勝ち点は3位だったのにチャンピオンシップに勝っての優勝でいろいろ言われたけれど、やっぱり優勝すればうれしかった。クラブワールドカップは、いくらレアル相手であっても負ければ悔しい。それで、その後の天皇杯で勝ってまたうれしい。その喜びのためにやっているんじゃないですかね」
――レアル・マドリードとの一戦を振り返るとどうですか?
「今のレアルの試合を見ると、僕らが対戦したときのチームとはスピードも違うし、最高の(状態の)レアルとやったわけじゃない。それにレアルは、僕らが格下の相手と戦うときに感じるようなやりづらさを感じていたかもしれない。だからこそ勝ちたかったけれど、そこまで甘くはないということです」
――ACL(AFCチャンピオンズリーグ)では、なかなか勝てない状況が続いていますが。
「それは事実ですから、今までと同じようにはやっていたらダメだと思う。クラブワールドカップもACLで優勝して出場したわけじゃなかったし、去年はJリーグのタイトルも獲れていないわけですから。選手が入れ替わったりといろいろと変化はある。その中で何かを変えなくちゃいけないし、もっともっと細かいところを追求して、こだわっていくべきだと思っています。
それは僕自身も同じです。チームが1点を獲ったとして、それが勝ち点1になるのか、3になるのか。どうすれば『3』にできるのかを考える。単純なミスをしないよう、毎日の練習から意識を高く持っていないといけません」
――ACLで優勝しないと、曽ヶ端選手も小笠原選手も引退できないですね(笑)。
「獲ったら引退しろってことですか(笑)」
——いえいえ。その先もタイトルを獲ってください。
「(笑)。年齢を考えたら、先が短いのはわかっています。だけど、引退のことなんてまだ何もイメージできないですから」
曽ケ端について取材したSportivaの寺野女史である。
曽ケ端のサッカー観であったり選手評が伝わってくる。
入団時の「メディアで、何度も『小笠原満男、本山雅志、中田浩二、山口武士、中村祥朗ら』って、報じられました。『僕は”ら”なのか』と思うたびに、見返してやろうと力が湧いてきました。『なにくそ』って(笑)」は微笑ましいエピソードと言えよう。
「ら」であっても努力と才能で長くトップフォームとしてプレイできることを証明しておる。
また、篤人評も面白い。
「篤人が『攻撃の選手』と言われるのを聞くたびに、ずっと『違うな』と思っています」というのは、GKとしての視点で興味深い。
曽ケ端がおるからこそ鹿島が勝利を積み重ねられる。
これからもタイトルを勝ち得ていこうではないか。
まだまだである。

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