田代有三、今はこれから自分に何ができるのかが楽しみで仕方がない
田代有三が現役引退。「鹿島がなければ、
プロ生活は5年で終わっていた」
高村美砂●取材・文 text by Takamura Misaphoto by YUTAKA/AFLO SPORT
オーストラリアに活躍の場を求めて2年。久しぶりに会った田代有三(36歳。ウロンゴン・ウルブス/オーストラリア)は、晴れ晴れとした表情をしていた。2005年に始まった14年にも及ぶプロサッカー選手としてのキャリアを締めくくろうとしているとは思えないほどに、だ。
田代は2018年10月、現役引退を決めた。そこには、微塵の後悔もなかった――。
「鹿島アントラーズでプロとしてのキャリアをスタートしてからここまで、自分なりにその時々で、自分が考えるベストの選択をしてきました。モンテディオ山形に期限付き移籍をしたときも、鹿島に戻ったときも。初めて、ヴィッセル神戸に完全移籍したときも、海外へのチャレンジを探りながらセレッソ大阪でプレーしたときも。そして、34歳でオーストラリアにわたり、ウロンゴン・ウルブスで過ごした2年間も。
初めての完全移籍が29歳の時で、以来”移籍”によって、いろんなサッカーや、いろんな人に出会って、その土地ごとに友だちもできて。サッカーだけではなく、自分の人生においてプラスになることばかりだったし、本当に毎日が充実していました。そう考えると、本当にすべての時間が幸せで、人に恵まれた現役生活だったと思います。
だからこそ、もっと現役を……という考えもゼロではなかったし、ウロンゴン・ウルブスでは自分が希望すれば、もう1年プレーできたので『もう少し続けようかな』と考えたこともあります。でもこの2年間で、引退後にやりたいこと、チャレンジしたいことも見えてきたことで、2シーズン目の終盤には『早く次のキャリアをスタートさせたい』という気持ちが強くなっていた。それなら、現役にはきっぱりケジメをつけよう、と。
並行して次のキャリアを考えられる人もいるけれど、僕の場合、選手でいるうちはどうしても(そちらに)本気になれない。その性格を考えても、また現役生活を『やり切った』と思える自分がいたからこそ、シーズンが終わる数試合前にクラブのオーナーに引退の意思を伝えて、自分なりにその覚悟を持って残り試合を戦い切りました。今は、本当にすっきりした気持ちです」
田代のキャリアは2005年、鹿島で始まった。福岡大学在籍当時から『大学ナンバーワンFW』として注目を集め、大学3年生のときには大分トリニータで、4年生のときにはサガン鳥栖のJリーグ特別指定選手となったが、大学を卒業してプロ入りするにあたって彼が選んだチームは、鹿島だった。
「同じFWとして、かねてから(鈴木)隆行さんの泥臭いプレースタイルが好きだったこと。また、大学卒業に際して声を掛けていただいた8クラブのうち、鹿島だけは早々と2年生の頃から声をかけてくださっていたこと。
そして、当時の鹿島には隆行さんをはじめ、そうそうたる顔ぶれがそろっていて……とくに中盤には(小笠原)満男さん、タクさん(野沢拓也)、モトさん(本山雅志)らがいて、そういう人たちからパスを受けながら、FWでプレーするのは楽しいだろうなって思ったのが(鹿島入りの)決め手でした」
結果的に、鹿島では2011年まで7年間にわたって在籍し、2007年から始まるJリーグ3連覇をはじめ、天皇杯やナビスコカップ(現ルヴァンカップ)など、数々のタイトルを獲得する。それらすべてが特別な記憶として刻まれているが、それ以上に、鹿島に根付くプロフェッショナルイズムは、彼にとって大きな財産となった。

鹿島では数々のタイトル獲得に貢献した田代有三
「僕が鹿島に加入して痛烈に感じたのは、サッカーのうまさはもちろんのこと、選手個々の人間性でした。簡単に言えば、本当に誰もが尊敬できるいい人ばかりで。個性は強かったけど(笑)、いざピッチに立ってサッカーをやるとなれば、全員が鹿島のために自分のすべてを注いだし、オンとオフの切り替えもすごかった。
だから、たとえば『みんなで飯を食べよう』と誰かが声をかけると、それが急な呼びかけでも、必ず全員が集まる。それぞれ予定があるはずなのに、顔を出さない選手はまずいない。で、みんなでハメを外して楽しみ、でも、練習になると誰も手を抜かないし、全員がいいライバルとしてやりあう。そういう遺伝子が自然に伝統として備わっているというか……。
その音頭をとってくれるのは、だいたいが満男さん、モトさん、イバさん(新井場徹)、ソガさん(曽ヶ端準)、(中田)浩二さんら”79年組”の人たちでしたが、そのさらに上の先輩選手も、その空気をすごく楽しむし、僕ら後輩は自然と『もっとやらなきゃ』という気持ちにさせられる。
そういう中で、サッカー選手としても、人間的にも成長できたことが、のちのキャリアにもつながった。もし、違うチームでキャリアをスタートしていたら、僕のプロサッカー人生はきっと5年で終わっていたと思います」
鹿島で過ごした7年間では、忘れられない記憶が3つある。ひとつはプロ1年目の夏に負った、左膝前十字靭帯断裂の大ケガだ。
1年目からたくさんのすばらしい”パス”に出会い、点を取る楽しさを実感し始めた矢先のアクシデントで悔しさは募ったが、一方で田代はその時、見慣れない番号からの電話をうれしく受けとめたそうだ。相手は、当時フランスのオリンピック・マルセイユでプレーしていた中田浩二だった。
「僕が鹿島に加入したタイミングで、浩二さんは海外に移籍されていたので面識はまったくなかったんです。なのに、僕がケガをしたと知って、誰かから番号を聞いて電話をくれた。聞けば、浩二さんも2003年に僕と同じケガをしたらしく、その経験を踏まえて『僕と同じルートを辿れば、絶対に大丈夫だから、不安になるな』と。
結局、僕も浩二さんと同じ先生に手術をしてもらい、そのあとのリハビリも浩二さんがつないでくれて、JISS(国立スポーツ科学センター)で受けられることになった。そのときに『鹿島ってすごいクラブだな』と。
というのも、見ず知らずの後輩に遠い海外から電話をくれたのは、僕のことを心配する先に、クラブへの愛情があったからだと思うんです。そのことは、強烈に”鹿島アントラーズ”を実感する出来事でした」
そこから約8カ月後、戦列復帰を果たした田代はプロ2年目の2006年、J1リーグ20試合に出場し、7得点と結果を残す。その活躍は翌年にも続いて、田代はこの年(2007年)、鹿島の6年ぶりとなるJ1リーグ制覇を経験した。
これが、田代にとってふたつ目の忘れられない出来事であり、「現役生活の中で、一番うれしかったこと」としても刻まれている。
「たくさんのうれしい記憶の中で、プロになって初めてのJ1リーグ優勝は忘れられない、特別な記憶です。しかも、ほとんどの試合で先発して、第26節くらいから勝ち続けて、最終節で逆転優勝ですから。
その勢いのままに天皇杯でも元日(の決勝)まで突っ走り、どのチームよりも長くサッカーをして、優勝を味わえた。あのうれしさは格別でした」
そして、3つ目は”3連覇”を遂げた翌年、2010年に山形に期限付き移籍をしながら、2011年には鹿島に戻り、キャリアハイとなるJ1リーグ12ゴールを挙げたことだ。「このままじゃダメになる」という危機感からの期限付き移籍だったが、その翌年、田代は「逃げた自分」を払拭するため鹿島に戻った。
「鹿島では、2008年の途中までレギュラーだったけど、正直、膝の痛みも消えなくて。サブになる時間が増えても、ある意味、納得していました。『このコンディションで、Jリーグで一番強いチームで活躍できるはずがない』と。
でも、2009年の終盤にかけて、膝の痛みが軽減されたのと並行して調子が上がり、自分はまだ大丈夫だと思えるようになった。それでクラブにお願いして、山形に期限付き移籍をさせてもらい、プロになって初めてふた桁得点を挙げて自信を取り戻すことができた。
その山形は、僕にとって初めての”東北”で、人の温もりを実感した時間になりましたが、翌年、鹿島に戻ったのは『逃げたまま』で鹿島でのキャリアを終わらせたくなかったから。つまり鹿島には、レベルの高い選手の中で揉まれながら(そこで)レギュラーを獲るために加入したのに、コンディション悪を言い訳に逃げた自分にケリをつけるためでした。
といっても、最初はサブだったし、東日本大震災も起きてクラブとしても大変なシーズンになったけど、1年を通して『鹿島のために結果を残す』と思い続けながら、12ゴールを挙げられたことは自信になりました」
プロ生活14年を全う。田代有三は
「未練なくサッカーをやめられた」
高村美砂●取材・文 text&photo by Takamura Misa
2005年、鹿島アントラーズで始まったプロサッカー選手としてのキャリアは、2011年まで続いた。うち、2010年にはモンテディオ山形に期限付き移籍をしたものの、再び鹿島に戻った2011年にはキャリアハイとなる12ゴールを挙げて、輝きを見せる。それによって”自信”をつかんだ田代有三は、同シーズンを最後に鹿島を離れ、ヴィッセル神戸への完全移籍を果たす。以降のサッカー人生は、2〜3年ごとに目まぐるしく動いた。
「2011年の鹿島で再び自信を取り戻せたなかで、鹿島では周りに引っ張られる立場だった自分が、他のクラブでどんな存在感を示せるのか、チャレンジしたかった」
その考えから、ヴィッセル神戸ではピッチの内外で「自分の考えを周りに伝えること」を意識して過ごし、オフィシャル雑誌の創刊に尽力するなど、いろんなことに目を配りながらサッカーに向き合った。そのことはプレーにも好影響を与え、2012年は序盤こそケガで戦線離脱を余儀なくされたものの、復帰後初のJ1リーグ出場となった第7節の柏レイソル戦で、移籍後初ゴールを決めるなど存在感を示す。結果的にその神戸には、2014年までの3年間在籍した。
「神戸には29歳での移籍でしたが、オーナークラブという環境のなかで、いろんなことがスピーディーに動き、変化していくことを新鮮に感じながら過ごせました。結果を出せなければ、監督も選手もどんどん変わっていったけど、それもクラブのあり方のひとつというか。
いいと思ったものは、一選手の意見でもどんどん取り入れてくれる柔軟性もありましたしね。そのことはサッカーをいろんな角度から考えるきっかけにもなりました。ただ、神戸での3年間をトータルすれば、悔しい思いのほうが色濃く残っている気がします。
とくに、2012年はケガで序盤はプレーできなかったし、戦列に復帰後もなかなか勝てずにJ2降格ですから。期待されて獲得してもらったのに、降格させてしまった事実を、すごく申し訳なく感じていたし、そのことはサッカー人生でも忘れられない、一番悔しい思い出です」
その言葉にもあるように、「サッカーをいろんな角度から考えるきっかけになった」からか、神戸での3年目頃から、田代は”将来”を考えることが増えた。かねてから「いつか」と思っていた海外でのプレーを意識するようになったのもこの頃だ。
それもあって2015年、神戸からの契約延長を断ってアメリカに渡り、1カ月半の間にメジャーリーグサッカーに属する2チームでトライアルを受けている。残念ながら、このときは話がまとまらず、セレッソ大阪への移籍を決めたが、このとき過ごしたアメリカでの時間は、のちのオーストラリアでのプレーにつながった。
「セレッソでの2年間も、充実した時間でした。若くていい選手が多く、その若さに将来性を感じながら、僕自身もサッカーを楽しめたし、2年目にはJ1昇格プレイオフを制してJ1昇格の喜びを味わえたのも、忘れられない思い出です。
ただ、移籍を経験するほど、そんなふうに自分の考え方や経験にも広がりが持てると実感していただけに、”海外”に対する思いは膨らんでいく一方でした。それに、セレッソへの加入前に渡ったアメリカでの1カ月半の間に、移籍は実現しなかったとはいえ、アメリカのスポーツのエンターテイメント性を肌身で感じ、また、いろんな人に会って話を聞くうちに、アメリカのスポーツビジネスにも興味を持ったのも大きかった。
そこで、セレッソでの2年目を終えたあとに、もう一度、チャレンジしようと考え、いろんな可能性を探りました。結果、親身になってくださった方のサポートを受け、(オーストラリアの)ウロンゴン・ウルブスという、Aリーグのひとつ下のリーグ(NPL)に属するチームでプレーすることになりました」
ウロンゴン・ウルブスでの2年間は、プレーヤーとしても、次の人生を探るうえでも充実した時間になった。
チームでは中心選手として活躍しながら、世界で上位2%に入る大学として知られるウロンゴン大学のアンバサダーにも就任。クラブオーナーである鉄道会社の代表取締役社長、トーリ氏をはじめ、多くの人とコミュニケーションの輪を広げていく。
トップリーグであるAリーグには10チームしか所属していないものの、NPLは各州に、それも1〜3部まであると知ったのも、現地に入ってから。さらに言えば、その下の地域リーグにも想像を遥かに超えるチーム数が属しており、あらためてオーストラリアのサッカー熱に驚かされた。
「NPLでプレーする日本人選手は自分だけだと思っていたら7、8人いて、さらに僕の住んでいる地域のイラワナリーグには、20人前後の日本人選手がプレーしている。しかも、雇用形態も決して悪くないというのも現地で知りました」
そうした環境のもとで、家族とともに新しい世界を楽しみながら、スポーツビジネスの持つ可能性を知ったからだろう。そこに、自身のセカンドキャリアを想像できたことで、田代は、現役生活に別れを告げた。

現役引退を発表した田代有三
「鹿島を離れてからの7年間では、『自分が周りを引っ張る立場になろう』と思ってやってきましたが、そのときに気づいたのは、僕には鹿島の先輩たちのような、『俺についてこい』的な自分を見せられるだけの実力も、人としてのキャパシティもなかったということ。それが、日本代表に定着できなかった理由だと思います。
でも、そこに気づけたのは、今後のキャリアに向かううえではすごく大きかった。それに、サッカー人生をトータルして振り返っても、悔しさより、うれしさのほうが多いサッカー人生でしたから。
もちろんそのつど、所属したチームで試合に出られなかった悔しさとか、結果を残せなかった歯がゆさはありましたよ。毎年1度は大ケガに見舞われたこともそうですしね。でも、そういった悔しさは瞬間的な感情で、トータルして考えれば、うれしかったことのほうがはるかに多い。
それはおそらく、契約してくれたすべてのクラブ、可愛がってくれた先輩、同じ時間を全力で共有できた仲間、応援してくれるファン、サポーター、そして側でずっと支えてくれた家族がいたから。もっと遡(さかのぼ)れば、中学、高校、大学といろんな先生にお世話になって、その導きによってたくさんのいい出会いに恵まれて、”プロサッカー選手”という職業を14年間も続けられた。
こんなふうに、いろんな人に応援してもらえる仕事に就くことはもうないかもな、って考えると少し寂しい気もするけど、これからはセカンドキャリアに自分らしい道を見つけ、現役選手に対しても『引退してもこんなことができるんだよ』と、勇気づけられるような姿を示していきたいと思っています」
思いの丈を一気に話し終え、再びセカンドキャリアに抱く夢を語り始めた田代が、別れ際に「それにしても……」と切り出す。
「自分でも驚いているんですよ。こんなにも未練なく、サッカーをやめられるとは思わなかったなって。今のところは、まったくボールを蹴りたいとは思わないですしね(笑)。それよりも、今はこれから自分に何ができるのかが楽しみで仕方がない」
未練なくサッカーをやめるのではなく、未練なくサッカーをやめられるくらいに全うできた、現役生活。そこで手に入れた多くの財産を手に、田代有三は、新たなキャリアをスタートさせる。
引退する田代にインタビューを敢行したSportivaの高村女史である。
鹿島にてキャリアをスタートさせたことの重要性が伝わってくる。
素晴らしい。
そして、次なるキャリアに対する気持ちはワクワクさせるものとなる様子。
次なるステージでの活躍を期待しておる。

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プロ生活は5年で終わっていた」
高村美砂●取材・文 text by Takamura Misaphoto by YUTAKA/AFLO SPORT
オーストラリアに活躍の場を求めて2年。久しぶりに会った田代有三(36歳。ウロンゴン・ウルブス/オーストラリア)は、晴れ晴れとした表情をしていた。2005年に始まった14年にも及ぶプロサッカー選手としてのキャリアを締めくくろうとしているとは思えないほどに、だ。
田代は2018年10月、現役引退を決めた。そこには、微塵の後悔もなかった――。
「鹿島アントラーズでプロとしてのキャリアをスタートしてからここまで、自分なりにその時々で、自分が考えるベストの選択をしてきました。モンテディオ山形に期限付き移籍をしたときも、鹿島に戻ったときも。初めて、ヴィッセル神戸に完全移籍したときも、海外へのチャレンジを探りながらセレッソ大阪でプレーしたときも。そして、34歳でオーストラリアにわたり、ウロンゴン・ウルブスで過ごした2年間も。
初めての完全移籍が29歳の時で、以来”移籍”によって、いろんなサッカーや、いろんな人に出会って、その土地ごとに友だちもできて。サッカーだけではなく、自分の人生においてプラスになることばかりだったし、本当に毎日が充実していました。そう考えると、本当にすべての時間が幸せで、人に恵まれた現役生活だったと思います。
だからこそ、もっと現役を……という考えもゼロではなかったし、ウロンゴン・ウルブスでは自分が希望すれば、もう1年プレーできたので『もう少し続けようかな』と考えたこともあります。でもこの2年間で、引退後にやりたいこと、チャレンジしたいことも見えてきたことで、2シーズン目の終盤には『早く次のキャリアをスタートさせたい』という気持ちが強くなっていた。それなら、現役にはきっぱりケジメをつけよう、と。
並行して次のキャリアを考えられる人もいるけれど、僕の場合、選手でいるうちはどうしても(そちらに)本気になれない。その性格を考えても、また現役生活を『やり切った』と思える自分がいたからこそ、シーズンが終わる数試合前にクラブのオーナーに引退の意思を伝えて、自分なりにその覚悟を持って残り試合を戦い切りました。今は、本当にすっきりした気持ちです」
田代のキャリアは2005年、鹿島で始まった。福岡大学在籍当時から『大学ナンバーワンFW』として注目を集め、大学3年生のときには大分トリニータで、4年生のときにはサガン鳥栖のJリーグ特別指定選手となったが、大学を卒業してプロ入りするにあたって彼が選んだチームは、鹿島だった。
「同じFWとして、かねてから(鈴木)隆行さんの泥臭いプレースタイルが好きだったこと。また、大学卒業に際して声を掛けていただいた8クラブのうち、鹿島だけは早々と2年生の頃から声をかけてくださっていたこと。
そして、当時の鹿島には隆行さんをはじめ、そうそうたる顔ぶれがそろっていて……とくに中盤には(小笠原)満男さん、タクさん(野沢拓也)、モトさん(本山雅志)らがいて、そういう人たちからパスを受けながら、FWでプレーするのは楽しいだろうなって思ったのが(鹿島入りの)決め手でした」
結果的に、鹿島では2011年まで7年間にわたって在籍し、2007年から始まるJリーグ3連覇をはじめ、天皇杯やナビスコカップ(現ルヴァンカップ)など、数々のタイトルを獲得する。それらすべてが特別な記憶として刻まれているが、それ以上に、鹿島に根付くプロフェッショナルイズムは、彼にとって大きな財産となった。

鹿島では数々のタイトル獲得に貢献した田代有三
「僕が鹿島に加入して痛烈に感じたのは、サッカーのうまさはもちろんのこと、選手個々の人間性でした。簡単に言えば、本当に誰もが尊敬できるいい人ばかりで。個性は強かったけど(笑)、いざピッチに立ってサッカーをやるとなれば、全員が鹿島のために自分のすべてを注いだし、オンとオフの切り替えもすごかった。
だから、たとえば『みんなで飯を食べよう』と誰かが声をかけると、それが急な呼びかけでも、必ず全員が集まる。それぞれ予定があるはずなのに、顔を出さない選手はまずいない。で、みんなでハメを外して楽しみ、でも、練習になると誰も手を抜かないし、全員がいいライバルとしてやりあう。そういう遺伝子が自然に伝統として備わっているというか……。
その音頭をとってくれるのは、だいたいが満男さん、モトさん、イバさん(新井場徹)、ソガさん(曽ヶ端準)、(中田)浩二さんら”79年組”の人たちでしたが、そのさらに上の先輩選手も、その空気をすごく楽しむし、僕ら後輩は自然と『もっとやらなきゃ』という気持ちにさせられる。
そういう中で、サッカー選手としても、人間的にも成長できたことが、のちのキャリアにもつながった。もし、違うチームでキャリアをスタートしていたら、僕のプロサッカー人生はきっと5年で終わっていたと思います」
鹿島で過ごした7年間では、忘れられない記憶が3つある。ひとつはプロ1年目の夏に負った、左膝前十字靭帯断裂の大ケガだ。
1年目からたくさんのすばらしい”パス”に出会い、点を取る楽しさを実感し始めた矢先のアクシデントで悔しさは募ったが、一方で田代はその時、見慣れない番号からの電話をうれしく受けとめたそうだ。相手は、当時フランスのオリンピック・マルセイユでプレーしていた中田浩二だった。
「僕が鹿島に加入したタイミングで、浩二さんは海外に移籍されていたので面識はまったくなかったんです。なのに、僕がケガをしたと知って、誰かから番号を聞いて電話をくれた。聞けば、浩二さんも2003年に僕と同じケガをしたらしく、その経験を踏まえて『僕と同じルートを辿れば、絶対に大丈夫だから、不安になるな』と。
結局、僕も浩二さんと同じ先生に手術をしてもらい、そのあとのリハビリも浩二さんがつないでくれて、JISS(国立スポーツ科学センター)で受けられることになった。そのときに『鹿島ってすごいクラブだな』と。
というのも、見ず知らずの後輩に遠い海外から電話をくれたのは、僕のことを心配する先に、クラブへの愛情があったからだと思うんです。そのことは、強烈に”鹿島アントラーズ”を実感する出来事でした」
そこから約8カ月後、戦列復帰を果たした田代はプロ2年目の2006年、J1リーグ20試合に出場し、7得点と結果を残す。その活躍は翌年にも続いて、田代はこの年(2007年)、鹿島の6年ぶりとなるJ1リーグ制覇を経験した。
これが、田代にとってふたつ目の忘れられない出来事であり、「現役生活の中で、一番うれしかったこと」としても刻まれている。
「たくさんのうれしい記憶の中で、プロになって初めてのJ1リーグ優勝は忘れられない、特別な記憶です。しかも、ほとんどの試合で先発して、第26節くらいから勝ち続けて、最終節で逆転優勝ですから。
その勢いのままに天皇杯でも元日(の決勝)まで突っ走り、どのチームよりも長くサッカーをして、優勝を味わえた。あのうれしさは格別でした」
そして、3つ目は”3連覇”を遂げた翌年、2010年に山形に期限付き移籍をしながら、2011年には鹿島に戻り、キャリアハイとなるJ1リーグ12ゴールを挙げたことだ。「このままじゃダメになる」という危機感からの期限付き移籍だったが、その翌年、田代は「逃げた自分」を払拭するため鹿島に戻った。
「鹿島では、2008年の途中までレギュラーだったけど、正直、膝の痛みも消えなくて。サブになる時間が増えても、ある意味、納得していました。『このコンディションで、Jリーグで一番強いチームで活躍できるはずがない』と。
でも、2009年の終盤にかけて、膝の痛みが軽減されたのと並行して調子が上がり、自分はまだ大丈夫だと思えるようになった。それでクラブにお願いして、山形に期限付き移籍をさせてもらい、プロになって初めてふた桁得点を挙げて自信を取り戻すことができた。
その山形は、僕にとって初めての”東北”で、人の温もりを実感した時間になりましたが、翌年、鹿島に戻ったのは『逃げたまま』で鹿島でのキャリアを終わらせたくなかったから。つまり鹿島には、レベルの高い選手の中で揉まれながら(そこで)レギュラーを獲るために加入したのに、コンディション悪を言い訳に逃げた自分にケリをつけるためでした。
といっても、最初はサブだったし、東日本大震災も起きてクラブとしても大変なシーズンになったけど、1年を通して『鹿島のために結果を残す』と思い続けながら、12ゴールを挙げられたことは自信になりました」
プロ生活14年を全う。田代有三は
「未練なくサッカーをやめられた」
高村美砂●取材・文 text&photo by Takamura Misa
2005年、鹿島アントラーズで始まったプロサッカー選手としてのキャリアは、2011年まで続いた。うち、2010年にはモンテディオ山形に期限付き移籍をしたものの、再び鹿島に戻った2011年にはキャリアハイとなる12ゴールを挙げて、輝きを見せる。それによって”自信”をつかんだ田代有三は、同シーズンを最後に鹿島を離れ、ヴィッセル神戸への完全移籍を果たす。以降のサッカー人生は、2〜3年ごとに目まぐるしく動いた。
「2011年の鹿島で再び自信を取り戻せたなかで、鹿島では周りに引っ張られる立場だった自分が、他のクラブでどんな存在感を示せるのか、チャレンジしたかった」
その考えから、ヴィッセル神戸ではピッチの内外で「自分の考えを周りに伝えること」を意識して過ごし、オフィシャル雑誌の創刊に尽力するなど、いろんなことに目を配りながらサッカーに向き合った。そのことはプレーにも好影響を与え、2012年は序盤こそケガで戦線離脱を余儀なくされたものの、復帰後初のJ1リーグ出場となった第7節の柏レイソル戦で、移籍後初ゴールを決めるなど存在感を示す。結果的にその神戸には、2014年までの3年間在籍した。
「神戸には29歳での移籍でしたが、オーナークラブという環境のなかで、いろんなことがスピーディーに動き、変化していくことを新鮮に感じながら過ごせました。結果を出せなければ、監督も選手もどんどん変わっていったけど、それもクラブのあり方のひとつというか。
いいと思ったものは、一選手の意見でもどんどん取り入れてくれる柔軟性もありましたしね。そのことはサッカーをいろんな角度から考えるきっかけにもなりました。ただ、神戸での3年間をトータルすれば、悔しい思いのほうが色濃く残っている気がします。
とくに、2012年はケガで序盤はプレーできなかったし、戦列に復帰後もなかなか勝てずにJ2降格ですから。期待されて獲得してもらったのに、降格させてしまった事実を、すごく申し訳なく感じていたし、そのことはサッカー人生でも忘れられない、一番悔しい思い出です」
その言葉にもあるように、「サッカーをいろんな角度から考えるきっかけになった」からか、神戸での3年目頃から、田代は”将来”を考えることが増えた。かねてから「いつか」と思っていた海外でのプレーを意識するようになったのもこの頃だ。
それもあって2015年、神戸からの契約延長を断ってアメリカに渡り、1カ月半の間にメジャーリーグサッカーに属する2チームでトライアルを受けている。残念ながら、このときは話がまとまらず、セレッソ大阪への移籍を決めたが、このとき過ごしたアメリカでの時間は、のちのオーストラリアでのプレーにつながった。
「セレッソでの2年間も、充実した時間でした。若くていい選手が多く、その若さに将来性を感じながら、僕自身もサッカーを楽しめたし、2年目にはJ1昇格プレイオフを制してJ1昇格の喜びを味わえたのも、忘れられない思い出です。
ただ、移籍を経験するほど、そんなふうに自分の考え方や経験にも広がりが持てると実感していただけに、”海外”に対する思いは膨らんでいく一方でした。それに、セレッソへの加入前に渡ったアメリカでの1カ月半の間に、移籍は実現しなかったとはいえ、アメリカのスポーツのエンターテイメント性を肌身で感じ、また、いろんな人に会って話を聞くうちに、アメリカのスポーツビジネスにも興味を持ったのも大きかった。
そこで、セレッソでの2年目を終えたあとに、もう一度、チャレンジしようと考え、いろんな可能性を探りました。結果、親身になってくださった方のサポートを受け、(オーストラリアの)ウロンゴン・ウルブスという、Aリーグのひとつ下のリーグ(NPL)に属するチームでプレーすることになりました」
ウロンゴン・ウルブスでの2年間は、プレーヤーとしても、次の人生を探るうえでも充実した時間になった。
チームでは中心選手として活躍しながら、世界で上位2%に入る大学として知られるウロンゴン大学のアンバサダーにも就任。クラブオーナーである鉄道会社の代表取締役社長、トーリ氏をはじめ、多くの人とコミュニケーションの輪を広げていく。
トップリーグであるAリーグには10チームしか所属していないものの、NPLは各州に、それも1〜3部まであると知ったのも、現地に入ってから。さらに言えば、その下の地域リーグにも想像を遥かに超えるチーム数が属しており、あらためてオーストラリアのサッカー熱に驚かされた。
「NPLでプレーする日本人選手は自分だけだと思っていたら7、8人いて、さらに僕の住んでいる地域のイラワナリーグには、20人前後の日本人選手がプレーしている。しかも、雇用形態も決して悪くないというのも現地で知りました」
そうした環境のもとで、家族とともに新しい世界を楽しみながら、スポーツビジネスの持つ可能性を知ったからだろう。そこに、自身のセカンドキャリアを想像できたことで、田代は、現役生活に別れを告げた。

現役引退を発表した田代有三
「鹿島を離れてからの7年間では、『自分が周りを引っ張る立場になろう』と思ってやってきましたが、そのときに気づいたのは、僕には鹿島の先輩たちのような、『俺についてこい』的な自分を見せられるだけの実力も、人としてのキャパシティもなかったということ。それが、日本代表に定着できなかった理由だと思います。
でも、そこに気づけたのは、今後のキャリアに向かううえではすごく大きかった。それに、サッカー人生をトータルして振り返っても、悔しさより、うれしさのほうが多いサッカー人生でしたから。
もちろんそのつど、所属したチームで試合に出られなかった悔しさとか、結果を残せなかった歯がゆさはありましたよ。毎年1度は大ケガに見舞われたこともそうですしね。でも、そういった悔しさは瞬間的な感情で、トータルして考えれば、うれしかったことのほうがはるかに多い。
それはおそらく、契約してくれたすべてのクラブ、可愛がってくれた先輩、同じ時間を全力で共有できた仲間、応援してくれるファン、サポーター、そして側でずっと支えてくれた家族がいたから。もっと遡(さかのぼ)れば、中学、高校、大学といろんな先生にお世話になって、その導きによってたくさんのいい出会いに恵まれて、”プロサッカー選手”という職業を14年間も続けられた。
こんなふうに、いろんな人に応援してもらえる仕事に就くことはもうないかもな、って考えると少し寂しい気もするけど、これからはセカンドキャリアに自分らしい道を見つけ、現役選手に対しても『引退してもこんなことができるんだよ』と、勇気づけられるような姿を示していきたいと思っています」
思いの丈を一気に話し終え、再びセカンドキャリアに抱く夢を語り始めた田代が、別れ際に「それにしても……」と切り出す。
「自分でも驚いているんですよ。こんなにも未練なく、サッカーをやめられるとは思わなかったなって。今のところは、まったくボールを蹴りたいとは思わないですしね(笑)。それよりも、今はこれから自分に何ができるのかが楽しみで仕方がない」
未練なくサッカーをやめるのではなく、未練なくサッカーをやめられるくらいに全うできた、現役生活。そこで手に入れた多くの財産を手に、田代有三は、新たなキャリアをスタートさせる。
引退する田代にインタビューを敢行したSportivaの高村女史である。
鹿島にてキャリアをスタートさせたことの重要性が伝わってくる。
素晴らしい。
そして、次なるキャリアに対する気持ちはワクワクさせるものとなる様子。
次なるステージでの活躍を期待しておる。

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