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本田拓也を涙ながらに引き留めた監督と運命の分かれ道

山形の本田拓也を取材したぐるなびの森氏である。
本田拓也のここまでの道程が伝わってくる。
特に鹿島から清水に戻る際のトニーニョ・セレーゾ監督のエピソードには感動させられる。
やはり、鹿島の指揮官を任される人物は人間性が素晴らしい。
また、本田拓也はまだまだ現役である。
山形をJ1昇格に導くため尽力していくのだ。
活躍の報を待っておる。

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あのとき僕は移籍を我慢すべきだった……本田拓也を涙ながらに引き留めた監督と運命の分かれ道
有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はモンテディオ山形の本田拓也さんにお話を伺いました。清水エスパルスでの活躍、北京五輪代表、さらにザッケローニ監督のもと日本代表でもプレーするなど、さまざまな経験を経たいま、サッカー人生を振り返りながら貴重なエピソードをお話していただきました。 (山形市のグルメランチ
2019-04-23
あのとき僕は移籍を我慢すべきだった……本田拓也を涙ながらに引き留めた監督と運命の分かれ道



北京オリンピックでは本田圭佑、香川真司、長友佑都らのチームメイト
アルベルト・ザッケローニ監督からは日本代表にも選ばれた
2011年カタールのアジアカップでは優勝メンバーとなり
本田拓也の前途は洋々と見えた

ところがアジアカップから戻ると本田はピッチから遠ざかる
善意の行動が本田の順調な歩みを遮ることになった
ピッチに戻る日はなかなかやってこず、
その後は日本代表のユニフォームを着ることはなかった

その後もいろいろな苦労を重ねながら
本田の現役生活は続いている
今年は5年ぶりに体調もよくなったそうだ
今回の話はきっと本田の第一章ということになるはずだ

近くにいて凄さがわかる、伊東テルさんのプレー

2011年のアジアカップ、懐かしいですね。暑かったなぁ。結構厳しい試合やったけど、優勝できてよかったですね。僕はグループリーグ第3戦のサウジアラビア戦で先発の出番が来て。5点も入ったの、あれも不思議でしたけどね。サウジアラビア強かったのに。

アルベルト・ザッケローニ監督からの信頼を勝ち取るとか、そういう余裕はなくて、もうその時々で必死でしたよ。日本代表って2008年北京オリンピック以来でしたから国際試合も久しぶりでしたし。ましてそのアジアの頂点を決める大会でしたからね。

だから監督の信頼がどうのこうのというよりも、とにかく勝たなければと必死で。準決勝の韓国戦は途中出場したのですが、深くチャージにいってファールを取られて、そこから失点もしたし。自分の気持ちとプレーがまだ一致してなかったと思います。今考えると若かったかなって。

それからの8年、いろいろありましたね。そのなかで一番大変だったのは……やっぱりその2011年に鹿島に移籍した時の軟骨の手術ですね。あれは1番しんどかった。

僕は、あそこまではうまく行ってたと思うんですよ。アジアカップでは苦しいこともあったし、出た試合もあまり感触は良くなかったんですけどいろんな経験はできたと思いました。日本代表には入りたてぐらいだったけど、自分ではこれからもっといいプレーができると思ってたんです。

2008年、法政大学を卒業して清水に入ったときって、人にチャレンジには行けてたんです。ところがチャレンジに行かないときのポジショニングがすごく悪かった。それで、開幕から半年ぐらいは試合に出てたんですけどオリンピックが終わってチームに戻ってきたら出られなくなって。

そのときにポジショニングとか、チャレンジに行くタイミングとか、行かないときの自分の後ろへのパスコースの消し方とか、そういう部分の課題を田坂さん(田坂和昭コーチ)に指摘されたんです。僕がチャレンジに行くタイミングが早すぎて、自分の後ろにスペースができて、そこにパスが入っちゃったりしてたんです。

そういうポジショニングはテル(伊東輝悦)さんがすごくうまかったですね。田坂さんに教えてもらいながら、テルさんはあまり話すタイプじゃないから近くでプレーを見て学んでました。近くにいると、これがまた凄いんですよね。タイミングとか、相手に寄っていきながらでも後ろのコースを消したりしてるんで、後ろの選手はすごく守りやすかったと思います。

僕はもし、テルさんと一緒にプレーしてなかったら、チャレンジしに行ったっきりの選手で、今はもうプレーできてないと思います。そういう経験が自分のプラスになって、結局オリンピックの1年後の2009年の夏ぐらいからまた試合に出られるようになったんですよ。テルさんと一緒にダブルボランチを組ませてもらって。

実は出られなくなった2008年の終わりごろって、出場できないのなら移籍しようかと考えたりしたんです。その時ケンさん(長谷川健太監督)に「残って踏ん張れ」と言われもしましたんで、ちょうど1年がんばってみたのがよかったですね。そこは運命の分かれ道だったと思います。

移籍を伝えたとき、セレーゾ監督は涙ぐんで引き留めた

それでアジアカップ後に鹿島に移籍するんですけど、その年は東日本大震災があったんです。開幕戦はベンチだったのですが、オズワルド・オリヴェイラ監督から「2節目は古巣の清水だけど行けるか?」と聞かれて、「はい、大丈夫です」って。出るはずだったんですけど、清水に行く途中で地震がありました。

土曜日の試合のために金曜日に東京駅に向かってたんです。バスに乗って千葉県の習志野ぐらいまで行ったときにすごい揺れて、そこから大渋滞になって。鹿島に帰ったんですけど、寮を出たのが14時ぐらいだったんですけど、帰ってきたら夜の2時でした。

帰ったら家の中がぐちゃぐちゃでした。運良くうちの地域は水が出たので何日かは過ごせたんですが、物資とかがなくて。すぐチームが活動停止ということになったので、東京から静岡までは一般道を走って太田宏介の家に泊めてもらってました。

それで清水にあるトレーニングセンターのJ-STEPで体を動かしてたんです。そうしたら3月29日に「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」が大阪であるということで呼ばれて行ったんですよ。

その練習のときですね。接触プレーだったと思うんですけど、右足首を痛めてしまって。だから僕はチャリティマッチではベンチにいて試合に出てないんですよ。

やったときからすごく痛かったんですけど、4月にはJリーグが再開するということで鹿島に戻って庇いながらトレーニングしてました。でも、なかなかよくならない。トレーニングをやったりやらなかったりだったと思います。ちょっとよくなって練習して、やっぱり痛くて、毎日練習できるか、できないか、という感じでした。よくなって、またダメだ、という繰り返しです。

それで8月ぐらいですか検査をしたんですよ。そうしたら軟骨が剥がれかけているということで、手術をして足首の前のほうの軟骨にドリルで穴を空けて、再生を促すということになったんです。

そこから1年ぐらいプレーできなかったですね。当初の予定だと、夏に手術をして翌年のキャンプぐらいからプレーできるということだったんです。でも次の年になってもなかなか痛くて。ちょっと練習しては止めて、という繰り返しでした。6月ぐらいですかね、よくなり始めたのは。

ケガをする前のサッカー人生は結構いい時期だったし、鹿島に行って活躍して代表にも定着して、という夢を描いていたのでショックが大きく……ショックというか「自分は何をやってるんだろう」という気持ちになりましたね。他の選手はみんな活躍してるのに。

辛い時期はいろんな人に助けてもらいました。あのときは(中田)浩二くんとかとよく話をしたりして。浩二くんもケガをしてたし、あのときは田代有三もケガをしてたんで、3人でリハビリしてましたね。2人とも僕より年上なんで兄貴分みたいな感じで面倒みてもらってました。

他の鹿島のメンバーも気遣ってくれて、仲良かった遠藤康や西大伍たちとよくリフレッシュがてら釣りに行ったりしてました。鹿島のそういうファミリーっぽいところが助けてくれたと思います。

食事は、家の近くに定食屋さんがあって、もう火事でなくなっちゃったらしいんですけど、そこでよくお世話になってたんです。だから本当にカシマとかチームも地域もいいところでした。

それからその時のトレーナーの安藤貴之さん、今はJFAアカデミー福島のフィジオセラピストとして御殿場にいる方ですね、その人と二人三脚で、病院に行ったり、横浜に靴のインソールを作りに行ったりしてました。

みんなといるときは明るくできてたんですけどね。家に帰ったら1人なんで、落ち込んだりもしました。前向きになれたのは、サッカーしかなかったからです。早く復帰するにはどうしたらいいかなと考えたり、他の部位を鍛えたりとかしてました。

大きなケガをしたときは、やっぱり1人じゃ無理ですね。1人じゃなかったからピッチに戻れたと思うし。鹿島以外だったら、もう終わってたかもしれないですね。サッカー選手で、しかもプロで、こうやって1年半プレーできなかったのかまたピッチに戻るだというのはスゴイと思うんです。

ケガが治って自分のコンデションも上がってきたところで鹿島の3年目に入りました。そこでもやっぱり試合に出たり出なかったり、出ても途中からとかでしたね。自分が納得いくプレーをしても監督のファーストチョイスにはならなかったんですよ。それで、どうしようかなって移籍したんです。我慢できなかったですね。今思えば我慢したほうがよかったと思います。

トニーニョ・セレーゾ監督にはよく面倒見てもらってたんですよ。僕が移籍するとなったときにセレーゾはちょっと涙ぐんで止めてくれましたね。「お前のポジションを確保しているわけではないし、掴み取らなければいけないけれども、俺は本当に残ってほしいから考え直してくれ」と。……若かったです、俺が。



自分を必要としてくれる山形への移籍

そのとき、いくつかのクラブに声をかけてもらったんですが、やっぱり自分が大学から最初に入ったクラブということでお世話になった清水に戻りました。大学のとき一番最初に声をかけてくれてたから、義理みたいなものを感じてたんです。

2015年にはキャプテンを任されたんですけれども、それも苦しかったですね……。その年は小さなケガもあってコンディションがなかなか上がらなくて……結果的にはJ2に落としたことになりますからね。

その年までは、妻と一緒にご飯を食べに行ってたんです。そうしたら知らない人が急に近づいてきて「今日のつまんない試合ありがとうね」と言ってきたことがありました。あのときの成績だったら言われても仕方がないと思います。でも、あのときはプライベートの空間だったんで……。

それで妻が「もう外にはご飯食べに行きたくないね」と言って、外食を控えるようにしてました。妻には申し訳ないと思いましたね。グラウンドで言われるぶんには問題がないんですけれども。本当に妻に悪いことをしたと思いました。

2016年、清水がJ1に復帰して、2017年はどうするか考えたときに、清水に残るという選択肢もありました。でも清水では戦力として考えてないと言われて。そんなとき1番最初に山形が声をかけてくれて、自分を必要としてくれたというのが大きかったですね。それが移籍した理由です。

これまでいろいろ辛いことありましたけど、逆にいい思いは……いろんな人と知り合えたことですね。それが1番よかったかな。この仕事をしなかったら、周りのすごい人たちと出会いでもなかっただろうし。

プロ生活12年で監督は日本代表まで含めると10人経験できたと思います。いろんな指導を受けたことも自分の財産になってますね。まだ将来のことを決めてないですけど、もし僕が監督になったとしたら、これまでの監督のいいところを全部見習って、いい指導者になれればいいと思います。

山形は大変なこともいろいろありますが、でも環境もどんどんよくなってますから。J1に上がることがチームとしての目標だし、自分ももう一回J1でプレーしたいというのもあります。個人的な目標としては今年1年ケガなく乗り切りたいなと。今年は久しぶりに体の調子がいいんです。5年ぶりぐらいですかね。自分でも期待しています。

2日間のオフがあるとき泊まりで食べに行くことも

山形はみんな牛肉がおいしいと言うんですよ。でも僕は海産物が好きなので、海産物のおいしい店を紹介しておきます。

まず酒田市にある「寿し割烹 こい勢」というお寿司屋さんです。山形市から1時間半から2時間かけて行くところで、僕は2日間のオフがあるとき泊まりで食べに行ってます。夜食べて泊まって、次の日は市場にでまた海鮮料理を食べて、というコースですね。

それから山形市では「そば処 庄司屋」ですね。ここにはいくらがたっぷり乗った蕎麦があるんですよ。シンプルな感じだけど、蕎麦そのものがおいしいのもあって、ものすごくうまいんです。大好物です。ここは「そば処庄司屋 御殿堰七日町店」といってもう1店舗あります。試合に来たら、ぜひどうぞ。

今はもう妻と一緒に外食に行ってます。山形ではお蕎麦屋さんにいても誰にも話しかけられないですね。それって、もしかしたら誰も僕のことをわからないからかもしれないです。だから頑張って山形をもう1回J1に昇格させて、お蕎麦屋さんでサインを求められるようにならなきゃいけないと思ってます。


寿し割烹 こい勢
〒998-0032 山形県酒田市相生町1-3-25
7,000円(平均)4,000円(ランチ平均)
0234-24-1741
地図や店舗情報を見る

そば処 庄司屋
〒990-0038 山形県山形市幸町14-28
1,000円(平均)900円(ランチ平均)
023-622-1380
地図や店舗情報を見る

そば処庄司屋 御殿堰七日町店
〒990-0042 山形県山形市七日町2-7-6
1,500円(平均)1,000円(ランチ平均)
023-673-9639
地図や店舗情報を見る

本田拓也 プロフィール



法政大学を卒業後、2008年、清水エスパルスへ入団。同年、北京五輪に出場。2011年に鹿島へ移籍、同年のアジア杯に日本代表として出場した。2014年に清水へ復帰、2017年からはモンテディオ山形でプレーしている。
1985年生まれ、神奈川県出身

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)



佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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いつも楽しく読ませていただいております。

こうしてみると、出番を求めて鹿島から移籍した選手も「実は後悔している」選手が多いのかも知れませんね。

街やチームの雰囲気も含めて…。

満男後の柱として期待してました。あの時残っていればひょっとしたら永木や三竿の入団もなかったかもしれません。まだまだやれるでしょう。いつまでもファミリー。陰ながら応援しています。

懐かしい。
満男・岳で無ければ間違いなくレギュラーだったので、移籍はやむなしだと思っていました。

がっつり行く球際と正確なサイドチェンジ、クローザーには贅沢過ぎる選手でしたね。彼が去った後チャンスだった梅鉢は芽が出ず、永木が来ると。歴史ですね。

清水に戻ってからの飲食店での
エピソードに、心を痛めました。。。

いつか引退したら鹿島のボランチコーチとして帰ってきて欲しいです。

No title

以前クラブハウスに練習を見に行ったときのこと、
軽めの全体練習が終わった後、本田選手とトレーナーが残ってストレッチングを念入りに行い、
それも終わった後、セレーゾ監督が本田選手の胸に手を置いて、諭すようにゆっくりと語りかけていたのを覚えています。
セレーゾっていい指導者なんだな、と思いました。


拓さん(ノザ)はいるからヒゲくんで(笑)
って言った大伍も神戸に移籍
時の流れを感じずにはいられない
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Fundamentalism

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鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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