南葛SC・青木剛、カフェでもやろうかと
南葛SCの青木剛を取材したSportsnaviの後藤氏である。
青木のプロ意識、考えが伝わってくる。
素晴らしい選手と言えよう。
この続き、現役へのこだわりの部分はアプリにて読める。
是非ともDLして楽しみたい。

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鹿島で勝者のメンタリティを培った青木剛
社会人リーグに身を置いた理由とは?
後藤勝
2019年4月27日(土) 10:30

熊本で結果を残せず、「引退も考えた」という青木剛。いろんな人との出会いが未来への道へとつながった【撮影:熊谷仁男】
常勝軍団に15年半在籍。21世紀序盤の鹿島アントラーズを支えた青木剛は、大きな負傷なしに最終ラインと中盤の底を務め上げた稀有(けう)な存在だった。怪我がちだった羽田憲司や金古聖司が本来のポテンシャルを発揮しきれず才能を惜しまれつつキャリアを終えたことを思えば、まさに“やりきった”感がある。それでも鹿島でサッカー人生を終えずに他クラブへの移籍を選択し、ついには東京都社会人リーグ1部を戦場に選んだのはなぜなのか。J1時代の威光も衰えぬ天上人が一般的なプレーヤーの野に降りてきてしまった感のある不思議を、現場にお邪魔してのインタビューで紐解いた。
下仁田ネギと鉄人の肉体

故郷の名産が南葛SC加入のきっかけに?【撮影:熊谷仁男】
――青木さん、丈夫ですよね。ここまでを振り返ると、大きな怪我による長期の離脱がない。
恵まれていましたね。一番休んだ期間でも1カ月以上休んだことはなかったかと。
――もともと怪我をしにくい体質なんですか?
昔からというわけではなく、徐々に食事やトレーニングに気を遣うようになり、体調管理を突き詰めてきた結果です。サッカー選手は体が資本ですから、食事、睡眠、そしてトレーニング、この3つのバランスが大事だと思っています。よく、習慣とかルーティンと呼ばれるものがありますよね。それを確立していって、ただしあくまでも人それぞれですから、自分なりに試しながらいいと思ったことは取り入れ、少しずつ自分なりのリズムというかサイクルを決めていったという感じです。
――栄養学の学説や食育の情報もまちまちですよね。普遍的にそれが正しいかどうかは断言できない。
はい。いろんな考え方があって、まず野菜から食べて次に肉という人もいれば、野菜よりも先にスープを入れた方がいいという人もいます。この場合は胃を温めるというか、ウォーミングアップさせる、そういう狙いです。そのように、本当に人それぞれだな――というのが最終的な結論にはなってしまいますね。たとえ自分が「これにこだわっています」と言っても、「それにはこだわってないけど、特に体調悪くなってないよ」という人はいますし。サッカー選手というと、ストイックに節制して体調を維持するタイプの人を思い浮かべるかもしれませんが、細かいことをまったく気にせずに好きなものを食べて、好きなことをやって、それでいてなんともない、長く現役を続けている、そういう人もいます。どうしても個人差はあるんですけれども、だからこそ自分なりに、自分に一番合ったものを、ということですね。
――どうでしょう、そこまで徹底していると、なかなか衰えを感じないのでは?
でも正直なところ、30歳を過ぎたくらいから、試合中の例えば後半30分過ぎになった時に、ああもう足がつりそうだなと、そういう20代の時には感じていなかった変化が出てきて、体の使い方とかそういうところで改善の必要を感じていました。31、2歳の頃ですね。そのくらいの時に、さきほどお話したルーティンのところでまた違う取り組みを始めたり。食事の摂り方も、年々変えてきています。炭水化物を摂らない「グルテンフリー」など、諸説あるいろんな考え方を試しているんですけど、でもそうしたこだわりがすべてじゃなくて。たまには好きなものを食べる日があってもいいと思いますし、あとはお酒もたまに入れて、リラックスして気持ちを緩めることも大事なのかなと。人間、張り詰めっぱなしだと、ずっと伸ばしているゴムがパチーンと切れてしまいそうな状態に似たようなものだと思うので。どちらかというと、僕は考え過ぎてしまったり、悲観的になってしまうタイプなんですよ。張り詰める一方だと、どんどんきつくなってしまうので、自分を緩めてあげないと。
――徹底する人もいる?
本当にこだわっている人は中澤佑二さん(元横浜F・マリノス)もそうですね。うまく食事のバランスをとっている選手もいると思います。自分は今言ったように、少し緩めますけど。
――サガン鳥栖やロアッソ熊本に所属していた時は単身赴任だったと聞いていますが、生活面の変化はありましたか?
30歳を過ぎて取り組み始めたトレーニングがだんだん自分になじんできて、手ごたえを得られるようになった頃でした。仰るように、九州へは単身で行っていたので、食事の面でかなり気を遣わないといけない状況だったんですけど、本当に周りの方々との出会いに恵まれて、食事の面ではまったく心配しなくていい生活を送りました。鹿島に在籍していた時もかなり人に恵まれていたと思いますけど、九州に行っても勉強になるくらい飲食店の方に助けていただいたり、出会いに恵まれているなと感じます。
――そういえば、見識を買われて食に関する講演をされたそうで。下仁田ネギでしたっけ?
その話、ご存知なんですか(笑)? 「アスリートの考える食とは」というテーマの講演会に、なぜか僕がサッカーの仕事じゃなくて、そういうお題の催しで呼ばれて。それは昨年、熊本でのことだったんですけど、その冒頭で僕が群馬出身ということで「群馬で有名なものといえば『下仁田ネギ』」と言おうとしたんですけど、ろれつが回らなくて「下ネタネギ」と言ってしまったんですね。すると聴衆のみなさんはどっ、と沸いて「狙って言ったのか。やりよる」「話うまいな」みたいな反応で(笑)。滑舌が悪くて噛んじゃっただけなんだけど、まあつかみはOKということで良かった。怪我の功名ですね。結果オーライで話をうまく始められたので。
――おもしろキャラだと思われてしまった。
自分としては、あまり喋りは上手ではないと思っているんですけどね。実はこの講演会が後々、南葛SCへの加入につながってくるところもあるんですよ。あとであらためて説明しますけど。
とある人からの突然の電話

来シーズンへの展望がまったくイメージできなくなった時に…【撮影:熊谷仁男】
――では。その前に、ひとつおうかがいしていいですか? 15年半も鹿島ひと筋だったじゃないですか。そのまま鹿島でキャリアを終えようという考えに傾いたことはなかったんですか?
鹿島にはものすごく長く在籍していたので、もちろん、ひとつの選択肢として鹿島でサッカー人生を全うする考えもありました。でも自分も年齢を重ねてきて、公式戦の出場機会も少なくなってきたなかで、サガン鳥栖さんからオファーをいただいた。その時に鹿島で終えるのか、まだまだサッカーを続けるにあたって、ほかのチームでもう一度挑戦するか、という選択になりました。そこで後者を選んで、もう一回新しいチームで新しいチャレンジをすることが自分にとって成長につながると思い、鳥栖に移籍する決断をしました。
――鳥栖のあとはロアッソ熊本へと移籍しました。熊本との契約はどうなっていたんですか?
契約期間は残っていました。複数年契約だったのでもう1シーズン契約はあったんですけど、去年1年間シーズンを戦っているなかで自分が次の1年をまったくイメージできるような状態でなくなってしまって、自分のなかでいろいろ考えて、サッカーをやめることも考えましたし、サッカーをしているなかでつながることもあったので。
――鳥栖はJ1、熊本はJ2でしたから、移籍を考えたのは理解しやすい。しかし今回はJ3、JFL、関東リーグ1部、関東リーグ2部と来て、ようやく南葛SCが属する東京都リーグ1部です。
例えるとJ7ですよね。
――落差が大きい。たしかに、有力なチームが多く競技志向になってくる東京都2部くらいからは、“元J”の選手を見かける機会は増えますが……。
そうですね。この前対戦したチームにも元Jリーグの選手もいましたし、チームメイトにもJ経験者がいるので、カテゴリーが7部だからといって、それに抵抗を感じているわけではないです。
――ノックアウト方式の関東社会人サッカー大会がボトルネックになって関東リーグ2部に上がれなかった強豪が滞留することもあり、都リーグ1部から関東リーグ1部くらいまでは実力差が少ないと思います。元Jの選手が初めて出た都リーグで苦戦している様子を見たこともありますし。ただ、ほんの少し前まで鹿島でプレーしていて、かつ日本代表にもなった選手がこのカテゴリーにやってくるとなると、やはりインパクトが強い。
そこが南葛SCへの移籍につながってくるんですけど、実は昨年まで東京ユナイテッドFCにいた岩政大樹さん(元鹿島アントラーズ)から電話がかかってきたんですよ。
――岩政さんから!?
はい。「来年どうするんだ」と。
(企画構成:株式会社スリーライト)
青木剛(あおき・たけし)

【撮影:熊谷仁男】
1982年9月28日生まれ。群馬県出身。前橋育英高校から2001年に鹿島アントラーズへ加入し、2007年から2009年にかけて、鹿島でJ1リーグ3連覇に貢献。2008年には日本代表に初招集され、国際Aマッチ通算2試合に出場した。鹿島には2016年途中まで在籍し、その後はサガン鳥栖でプレー。2018シーズンから出場機会を求めて、ロアッソ熊本へ完全移籍で加入し、J2リーグでは26試合に出場。通算ではJ1リーグ400試合出場8得点、J2リーグ通算26試合出場0得点を記録。2019シーズンは南葛SCに完全移籍し、プレーを続けている。
青木剛が思い出したサッカーへの情熱
運命の糸に導かれ、東京下町の葛飾へ

南葛SCで新たなスタートを切った青木剛。その表情は希望に満ちあふれていた【撮影:熊谷仁男】
プロ意識の塊。常に己の肉体を気遣い、コンディションを整え、長期離脱することなく15年半の長きにわたり鹿島アントラーズの勝利に貢献してきた。その真剣かつひたむきな姿勢は日本の“7部”、東京都社会人リーグ1部の南葛SCへとやってきても変わらない。自信を喪失しかけていた昨年末、元チームメイトで1学年上の先輩である岩政大樹(元鹿島アントラーズ)からかかってきた電話が、彼のサッカー人生を再び大きく動かし始める。そして縁あってプレーをすることになったこの葛飾の地で、青木剛はサッカーに対する純粋な情熱を再び思い起こす。彼の求めるものが、このカテゴリー、このクラブには充ちていた。Jから社会人へ、移籍の背景にある謎を探る。
南葛SCとの数奇なめぐり合わせ

南葛SCの練習は夜に行われる。昼間に働いているチームメイトとの会話は青木にとって、とても新鮮なものだという【撮影:熊谷仁男】
――東京ユナイテッドFCは関東1部でJFLを目指すような体制ですから、岩政さんから連絡が来てもおかしくないですね。その時、熊本で競技を続けるか、移籍するかという心境でもなかったんですか?
そういうことよりもまず、自分の力不足を感じたんです。気持ち的にも肉体的にもかなり落ち込んでしまって、打ちのめされたような感じになってしまって。結果も出ずにJ3に降格してしまい、もちろん責任も感じましたし、力になれないのであれば熊本に残るという選択肢もだんだんなくなってきて、契約していただいていたのですごく申し訳なかったんですけど、そこは自分の気持ちを正直に、熊本に伝えました。
――すると、現役を続行するか否か、という状態だったんですね。
はい。自分のなかではやめてもおかしくなかったと思っています。そのくらい、やめようかどうしようかと悩んでいる時に、岩政大樹さんから電話が来たんです。それで、「やめてどうするんだ?」と聞かれて「カフェでもやろうかと」みたいな話になって。
――こじゃれたカフェの経営、似合いそうです。
そうなっていたかもしれないんですが、その時、大樹さんが「社会人チームでやることもひとつの選択肢だぞ」という話もしてくれて。
――そこで社会人が視野に入ってきた。
大樹さんも東京ユナイテッドFCにかかわっていたので、その辺りの事情はもちろんよく分かっているわけです。何がメリットかというと、もちろん社会人チームなので、サッカーをやらせてもらいながらも働いている選手がほとんど。プロ契約の選手もいますけど、昼間に働いている選手が多い。すると、東京という土地柄もあると思うんですけど、将来の仕事を考えるにあたって、有意義な出会いがあり、人脈ができるぞ、と。社会人チームに属することで、ためになることが多い。
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鹿島で勝者のメンタリティを培った青木剛
社会人リーグに身を置いた理由とは?
後藤勝
2019年4月27日(土) 10:30

熊本で結果を残せず、「引退も考えた」という青木剛。いろんな人との出会いが未来への道へとつながった【撮影:熊谷仁男】
常勝軍団に15年半在籍。21世紀序盤の鹿島アントラーズを支えた青木剛は、大きな負傷なしに最終ラインと中盤の底を務め上げた稀有(けう)な存在だった。怪我がちだった羽田憲司や金古聖司が本来のポテンシャルを発揮しきれず才能を惜しまれつつキャリアを終えたことを思えば、まさに“やりきった”感がある。それでも鹿島でサッカー人生を終えずに他クラブへの移籍を選択し、ついには東京都社会人リーグ1部を戦場に選んだのはなぜなのか。J1時代の威光も衰えぬ天上人が一般的なプレーヤーの野に降りてきてしまった感のある不思議を、現場にお邪魔してのインタビューで紐解いた。
下仁田ネギと鉄人の肉体

故郷の名産が南葛SC加入のきっかけに?【撮影:熊谷仁男】
――青木さん、丈夫ですよね。ここまでを振り返ると、大きな怪我による長期の離脱がない。
恵まれていましたね。一番休んだ期間でも1カ月以上休んだことはなかったかと。
――もともと怪我をしにくい体質なんですか?
昔からというわけではなく、徐々に食事やトレーニングに気を遣うようになり、体調管理を突き詰めてきた結果です。サッカー選手は体が資本ですから、食事、睡眠、そしてトレーニング、この3つのバランスが大事だと思っています。よく、習慣とかルーティンと呼ばれるものがありますよね。それを確立していって、ただしあくまでも人それぞれですから、自分なりに試しながらいいと思ったことは取り入れ、少しずつ自分なりのリズムというかサイクルを決めていったという感じです。
――栄養学の学説や食育の情報もまちまちですよね。普遍的にそれが正しいかどうかは断言できない。
はい。いろんな考え方があって、まず野菜から食べて次に肉という人もいれば、野菜よりも先にスープを入れた方がいいという人もいます。この場合は胃を温めるというか、ウォーミングアップさせる、そういう狙いです。そのように、本当に人それぞれだな――というのが最終的な結論にはなってしまいますね。たとえ自分が「これにこだわっています」と言っても、「それにはこだわってないけど、特に体調悪くなってないよ」という人はいますし。サッカー選手というと、ストイックに節制して体調を維持するタイプの人を思い浮かべるかもしれませんが、細かいことをまったく気にせずに好きなものを食べて、好きなことをやって、それでいてなんともない、長く現役を続けている、そういう人もいます。どうしても個人差はあるんですけれども、だからこそ自分なりに、自分に一番合ったものを、ということですね。
――どうでしょう、そこまで徹底していると、なかなか衰えを感じないのでは?
でも正直なところ、30歳を過ぎたくらいから、試合中の例えば後半30分過ぎになった時に、ああもう足がつりそうだなと、そういう20代の時には感じていなかった変化が出てきて、体の使い方とかそういうところで改善の必要を感じていました。31、2歳の頃ですね。そのくらいの時に、さきほどお話したルーティンのところでまた違う取り組みを始めたり。食事の摂り方も、年々変えてきています。炭水化物を摂らない「グルテンフリー」など、諸説あるいろんな考え方を試しているんですけど、でもそうしたこだわりがすべてじゃなくて。たまには好きなものを食べる日があってもいいと思いますし、あとはお酒もたまに入れて、リラックスして気持ちを緩めることも大事なのかなと。人間、張り詰めっぱなしだと、ずっと伸ばしているゴムがパチーンと切れてしまいそうな状態に似たようなものだと思うので。どちらかというと、僕は考え過ぎてしまったり、悲観的になってしまうタイプなんですよ。張り詰める一方だと、どんどんきつくなってしまうので、自分を緩めてあげないと。
――徹底する人もいる?
本当にこだわっている人は中澤佑二さん(元横浜F・マリノス)もそうですね。うまく食事のバランスをとっている選手もいると思います。自分は今言ったように、少し緩めますけど。
――サガン鳥栖やロアッソ熊本に所属していた時は単身赴任だったと聞いていますが、生活面の変化はありましたか?
30歳を過ぎて取り組み始めたトレーニングがだんだん自分になじんできて、手ごたえを得られるようになった頃でした。仰るように、九州へは単身で行っていたので、食事の面でかなり気を遣わないといけない状況だったんですけど、本当に周りの方々との出会いに恵まれて、食事の面ではまったく心配しなくていい生活を送りました。鹿島に在籍していた時もかなり人に恵まれていたと思いますけど、九州に行っても勉強になるくらい飲食店の方に助けていただいたり、出会いに恵まれているなと感じます。
――そういえば、見識を買われて食に関する講演をされたそうで。下仁田ネギでしたっけ?
その話、ご存知なんですか(笑)? 「アスリートの考える食とは」というテーマの講演会に、なぜか僕がサッカーの仕事じゃなくて、そういうお題の催しで呼ばれて。それは昨年、熊本でのことだったんですけど、その冒頭で僕が群馬出身ということで「群馬で有名なものといえば『下仁田ネギ』」と言おうとしたんですけど、ろれつが回らなくて「下ネタネギ」と言ってしまったんですね。すると聴衆のみなさんはどっ、と沸いて「狙って言ったのか。やりよる」「話うまいな」みたいな反応で(笑)。滑舌が悪くて噛んじゃっただけなんだけど、まあつかみはOKということで良かった。怪我の功名ですね。結果オーライで話をうまく始められたので。
――おもしろキャラだと思われてしまった。
自分としては、あまり喋りは上手ではないと思っているんですけどね。実はこの講演会が後々、南葛SCへの加入につながってくるところもあるんですよ。あとであらためて説明しますけど。
とある人からの突然の電話

来シーズンへの展望がまったくイメージできなくなった時に…【撮影:熊谷仁男】
――では。その前に、ひとつおうかがいしていいですか? 15年半も鹿島ひと筋だったじゃないですか。そのまま鹿島でキャリアを終えようという考えに傾いたことはなかったんですか?
鹿島にはものすごく長く在籍していたので、もちろん、ひとつの選択肢として鹿島でサッカー人生を全うする考えもありました。でも自分も年齢を重ねてきて、公式戦の出場機会も少なくなってきたなかで、サガン鳥栖さんからオファーをいただいた。その時に鹿島で終えるのか、まだまだサッカーを続けるにあたって、ほかのチームでもう一度挑戦するか、という選択になりました。そこで後者を選んで、もう一回新しいチームで新しいチャレンジをすることが自分にとって成長につながると思い、鳥栖に移籍する決断をしました。
――鳥栖のあとはロアッソ熊本へと移籍しました。熊本との契約はどうなっていたんですか?
契約期間は残っていました。複数年契約だったのでもう1シーズン契約はあったんですけど、去年1年間シーズンを戦っているなかで自分が次の1年をまったくイメージできるような状態でなくなってしまって、自分のなかでいろいろ考えて、サッカーをやめることも考えましたし、サッカーをしているなかでつながることもあったので。
――鳥栖はJ1、熊本はJ2でしたから、移籍を考えたのは理解しやすい。しかし今回はJ3、JFL、関東リーグ1部、関東リーグ2部と来て、ようやく南葛SCが属する東京都リーグ1部です。
例えるとJ7ですよね。
――落差が大きい。たしかに、有力なチームが多く競技志向になってくる東京都2部くらいからは、“元J”の選手を見かける機会は増えますが……。
そうですね。この前対戦したチームにも元Jリーグの選手もいましたし、チームメイトにもJ経験者がいるので、カテゴリーが7部だからといって、それに抵抗を感じているわけではないです。
――ノックアウト方式の関東社会人サッカー大会がボトルネックになって関東リーグ2部に上がれなかった強豪が滞留することもあり、都リーグ1部から関東リーグ1部くらいまでは実力差が少ないと思います。元Jの選手が初めて出た都リーグで苦戦している様子を見たこともありますし。ただ、ほんの少し前まで鹿島でプレーしていて、かつ日本代表にもなった選手がこのカテゴリーにやってくるとなると、やはりインパクトが強い。
そこが南葛SCへの移籍につながってくるんですけど、実は昨年まで東京ユナイテッドFCにいた岩政大樹さん(元鹿島アントラーズ)から電話がかかってきたんですよ。
――岩政さんから!?
はい。「来年どうするんだ」と。
(企画構成:株式会社スリーライト)
青木剛(あおき・たけし)

【撮影:熊谷仁男】
1982年9月28日生まれ。群馬県出身。前橋育英高校から2001年に鹿島アントラーズへ加入し、2007年から2009年にかけて、鹿島でJ1リーグ3連覇に貢献。2008年には日本代表に初招集され、国際Aマッチ通算2試合に出場した。鹿島には2016年途中まで在籍し、その後はサガン鳥栖でプレー。2018シーズンから出場機会を求めて、ロアッソ熊本へ完全移籍で加入し、J2リーグでは26試合に出場。通算ではJ1リーグ400試合出場8得点、J2リーグ通算26試合出場0得点を記録。2019シーズンは南葛SCに完全移籍し、プレーを続けている。
青木剛が思い出したサッカーへの情熱
運命の糸に導かれ、東京下町の葛飾へ

南葛SCで新たなスタートを切った青木剛。その表情は希望に満ちあふれていた【撮影:熊谷仁男】
プロ意識の塊。常に己の肉体を気遣い、コンディションを整え、長期離脱することなく15年半の長きにわたり鹿島アントラーズの勝利に貢献してきた。その真剣かつひたむきな姿勢は日本の“7部”、東京都社会人リーグ1部の南葛SCへとやってきても変わらない。自信を喪失しかけていた昨年末、元チームメイトで1学年上の先輩である岩政大樹(元鹿島アントラーズ)からかかってきた電話が、彼のサッカー人生を再び大きく動かし始める。そして縁あってプレーをすることになったこの葛飾の地で、青木剛はサッカーに対する純粋な情熱を再び思い起こす。彼の求めるものが、このカテゴリー、このクラブには充ちていた。Jから社会人へ、移籍の背景にある謎を探る。
南葛SCとの数奇なめぐり合わせ

南葛SCの練習は夜に行われる。昼間に働いているチームメイトとの会話は青木にとって、とても新鮮なものだという【撮影:熊谷仁男】
――東京ユナイテッドFCは関東1部でJFLを目指すような体制ですから、岩政さんから連絡が来てもおかしくないですね。その時、熊本で競技を続けるか、移籍するかという心境でもなかったんですか?
そういうことよりもまず、自分の力不足を感じたんです。気持ち的にも肉体的にもかなり落ち込んでしまって、打ちのめされたような感じになってしまって。結果も出ずにJ3に降格してしまい、もちろん責任も感じましたし、力になれないのであれば熊本に残るという選択肢もだんだんなくなってきて、契約していただいていたのですごく申し訳なかったんですけど、そこは自分の気持ちを正直に、熊本に伝えました。
――すると、現役を続行するか否か、という状態だったんですね。
はい。自分のなかではやめてもおかしくなかったと思っています。そのくらい、やめようかどうしようかと悩んでいる時に、岩政大樹さんから電話が来たんです。それで、「やめてどうするんだ?」と聞かれて「カフェでもやろうかと」みたいな話になって。
――こじゃれたカフェの経営、似合いそうです。
そうなっていたかもしれないんですが、その時、大樹さんが「社会人チームでやることもひとつの選択肢だぞ」という話もしてくれて。
――そこで社会人が視野に入ってきた。
大樹さんも東京ユナイテッドFCにかかわっていたので、その辺りの事情はもちろんよく分かっているわけです。何がメリットかというと、もちろん社会人チームなので、サッカーをやらせてもらいながらも働いている選手がほとんど。プロ契約の選手もいますけど、昼間に働いている選手が多い。すると、東京という土地柄もあると思うんですけど、将来の仕事を考えるにあたって、有意義な出会いがあり、人脈ができるぞ、と。社会人チームに属することで、ためになることが多い。