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柳沢敦、「レツィオーゾ(キザ)」と呼ばれ、苦しみ抜いた男の真実

柳沢敦のセリエAチャレンジについて記すフットボールチャンネルの神尾氏である。
神尾氏は、「彼は断じて、イタリアに行っただけで慢心してしまった選手などではなかった。積み上げてきたものと異なるプレースタイル、異なるピッチ上でのプレッシャー、厳しい要求にさらされる中で、苦闘しあがいた路程は濃密なものであった」と評す。
結果はノーゴールに終えた2年半であったが、彼のフットボーラーとしての経験は貴重なものであったと言えよう。
元々高い人間性が、この苦悩によりより高まった。
現在、育成年代を指導する立場にあり、人格形成に対しても貢献してくれよう。
そして、柳沢敦が育てた選手が海を渡る際には、これらの経験が活きてくる。
何事も自らの糧となっていくものである。

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03年、柳沢敦。44試合0ゴール。「レツィオーゾ(キザ)」と呼ばれ、苦しみ抜いた男の真実【セリエA日本人選手の記憶(5)】
日本人選手の欧州クラブへの移籍は通過儀礼とも言える。90年代、そのスタートとなったのがセリエAへの移籍だった。三浦知良や中田英寿など日本を代表する選手たちが数多くプレーしたイタリアの地。しかし、現在セリエAでプレーする日本人選手はゼロ。この機会にこれまでの日本人選手のセリエAでの挑戦を振り返る。第5回はFW柳沢敦。(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

2019年05月31日(Fri)10時20分配信

text by 神尾光臣 photo Getty Images

けっして無価値ではない経験


サンプドリアやメッシーナに所属した元日本代表の柳沢敦【写真:Getty Images】

 セリエA44試合出場、0ゴール。

 ジェノアの三浦知良以来、二人目のFWとしてイタリアの地を踏んだ柳沢敦の通算成績である。サンプドリアで1年、メッシーナで1年半。ゴールという結果出せなかったこともさることながら、招集から外れた試合も少なくなかった。

 この成績から判断すれば、柳沢のセリエA挑戦は成功裏なものだったと評価はされない。事実ジェノバやメッシーナの地元メディアからは、厳しい批判も喰らっていた。

 FWというポジションであれば、結果で判断されるというのは致し方のないことだ。しかし、この経験そのものが無価値なものだったなどと安易に酷評されるべきではない。

 彼は断じて、イタリアに行っただけで慢心してしまった選手などではなかった。積み上げてきたものと異なるプレースタイル、異なるピッチ上でのプレッシャー、厳しい要求にさらされる中で、苦闘しあがいた路程は濃密なものであった。

 柳沢がイタリアにやってきたのは、2003年の夏。三浦和の古巣であるジェノアと同郷のライバル、サンプドリアに移籍した。当時のサンプは、経営難による弱体化とB降格のショックから立ち直り、Aへの昇格を決めたところ。経営と強化の全権を担っていたのは、ヴェネツィア時代に名波浩を呼んだジュセッペ・マロッタGM。柳沢は、その彼が呼び寄せた二人目の日本人選手だった。

裏目に出た起用法。登り調子が途絶えた要因

 FW陣は大型のCFファビオ・バッツァーニと、シュートセンスの高いフランチェスコ・フラーキの2トップが柱。3、4番手としてスタートした柳沢は、開幕節アウェーのレッジーナ戦で途中出場した。

 ポジションは、4-4-2の左サイドハーフ。後方からのスルーパスを呼び込んでダイレクトで左足シュートを放ち、ボールはGKの手を弾いた末にポストに当たる。インパクトを残した彼は、以降の試合でサイドの切り札として使われるようになった。

 ワルテル・ノベッリーノ監督はそのスピードと技術を評価し、サイドでポジションを用意しようとした。もともとプレーの幅が広く、ドリブル突破やセンタリングなども器用にこなす。練習でも意欲的に取り組み、また人当たりの良さでスタッフにも、練習場に通いつめるドリアーノたちにも好かれるようになっていた。

 左MFの1番手だったクリスティアーノ・ドーニがコンディションアップに苦しむ一方、柳沢はモチベーションを高め試合ごとに評価を上げた。そしてノベッリーノ監督は、第7節のミラン戦で賭けに出た。柳沢を左サイドハーフとして先発させたのである。

 だが、それは完全に裏目に出た。FW出身、急ごしらえのサイドハーフは、相手にとってみれば組織守備の穴。名将カルロ・アンチェロッティ監督がそれを見逃すはずはなく、柳沢の担当するサイドを集中攻撃した。彼が左にいれば左を、右に入れ替えられれば右を攻撃。サンプは前半に1点を失い、柳沢はハーフタイムで交代を命じられた。

 それを境に、開幕からの登り調子は途絶えた。再びベンチが定位置となる一方で、Bから這いあがったバッツァーニとフラーキはセリエAでも強力な2トップとして結果を出し続けていく。FWとしてチャンスが訪れない一方、シーズン後半では若手も成長し左MFとしての途中出場も少なくなってくる。

またしてもサイドに。イタリアでは受け入れられないそのスタイル


同時期にサンプドリアからメッシーナに移籍してきたMFマッシモ・ドナーティは「もっと強引に行ってもいいと思う」と柳沢を評した【写真:Getty Images】

 そしてチームの残留が決まった後の4月25日、柳沢にはモデナ戦で先発のチャンスが与えられた。しかし、来シーズンへ向けての戦力査定ともいえるその試合で失敗。ボールを持てばロストを多発し、数々のチャンスを逃した上にチームも敗れた。

 その翌日、ドリアーノたちは練習場で「日本の新聞が売れるから無理やり出したんだろう!」と罵声を浴びせる。それまで親しくしていたファンが表情を一変させた様子を見るのは、本当に心苦しいものだった。そしてサンプドリアは、柳沢の完全移籍契約を結ばない方針を固めた。

 だが、この状況を誰よりも歯がゆく、また悔しく思っていたのは柳沢自身だ。「あがきたい」。彼はイタリアでやり直す意思を固め、2004年にセリエA昇格を決めたメッシーナからのオファーを受けた。

 メッシーナのファンは、柳沢に懐疑的だった。39年ぶりにセリエAに上がったシチリア島の港町のクラブには以前サルバトーレ・スキラッチが所属し、超攻撃的サッカーを駆使したズデニク・ゼーマン監督も指揮を取っていた時期もある。

 攻撃的な選手を見慣れている人々から、彼は「レツィオーゾ(キザ)」と言われた。小洒落たプレーをしたがるという意味だ。前線でボールを受けたのち、ダイレクトプレーで周囲との連係を作り出そうとするプレーを好意的に見なかったのである。

「もっと強引に行ってもいいと思う」。奇しくも、同時期にサンプからメッシーナに移籍してきたMFマッシモ・ドナーティはこう柳沢を評していた。

 結局プレシーズンを通し主力の2トップは、セリエBで実績を上げたリッカルド・ザンパーニャとアルトゥーロ・ディ・ナポリの2名に固まる。開幕からチームはローマやミランを立て続けに破り、予想外の快進撃。その中で結局柳沢は、サイドアタッカーとしてポジション奪取に挑む羽目になった。

得点が取れない最大の理由

 だがサンプドリアの時代と違ったのは、柳沢にとってサイドは初めてではなかったということだ。そして、ファンにとっては大事な試合で転機が訪れた。10月26日、海の向こうにあるレッジーナとの『海峡ダービー』。途中出場した柳沢は、左サイドで試合を変えた。

 巧みに緩急を切り替えたドリブルや、正確なパスのつなぎで多彩にチャンスを作り、ディ・ナポリの頭へピンポイントのセンタリングを当てて逆転ゴールをおぜん立てした。翌日の地元紙の採点は、軒並み7か7.5。これだけの高評価を得たのは、イタリアでは初めてのことだった。

 以後柳沢には出場機会が増え、スタメンで出場する機会も増すようになってくる。チームも残留を果たし、シーズン後にメッシーナは柳沢の完全移籍を決めた。ボルトロ・ムッティ監督は、サイドアタッカーとして彼を評価したのである。

 指揮官は当時「ヤナにもっとも適しているのは4-3-3の左ウイングだと思う」と言っていた。利き足の右をゴールに向けた逆足のサイドアタッカーというわけだ。

 ただ、柳沢の中には一つの葛藤があった。

「長年体に染み付いたものを、そう簡単には変えられない」

 鹿島や日本代表では2トップの一角として動き、多彩なプレーでチャンスを作ってきた男。サイドも器用にこなしはしていたが、ゴールからは遠い場所でのプレーで結局点は取れないままだった。試合に出続け、長年やってきたプレーゾーンでのポジションを勝ち取りたいという希望があった。

 しかし2005/06シーズンは、厳しいものとなった。プレシーズン中、サイドの競争相手として獲得されたジュセッペ・スクッリと練習中に接触し故障、開幕へ向けた調整が遅れる。

 いざシーズンが始まるとチームも低迷し、柳沢自身の出場機会も激減。13節のインテル戦を最後に出場機会を失い、2006年に入ると新戦力獲得のしわ寄せを食らって招集すら漏れるようになった。ドイツW杯を控え、出場機会のないままではさすがにパフォーマンスを落とす。そして2月28日に契約は解除され、鹿島へと戻っていった。

日本とイタリア。サッカー文化の違いが足かせに

 ノーゴールで出場機会も少なくなったという実績には、ゴールから遠いサイドでのプレーを強いられたという理由が大きかった。多彩なプレーができる選手だとはいえ、本職のMF並みに下がって守備をしボールを奪うなどの貢献までは求められない。
しかし組織守備が重視されるイタリアでは、やはりそこまでの貢献も要求される。

「ヤナにはボール奪取の際にも貢献して欲しい」とムッティ監督は言っていた。イタリアに来るのが早ければコンバートにも対応できたのかもしれないが、サイドが本職でない選手にそこまで求められるのは本人にも限界があったのだろう。

 だがその前に、トップとしてポジションを勝ち取ることが出来なかったというのもまた事実だった。相手の守備が厳しく、サポートも少ない中で、わずかなチャンスを点へと結びつける強引さがイタリアのFWには必要とされる。

 サンプでもメッシーナでも、ポジションを争ったのは下部から叩き上げたイタリア人選手たちだった。「頭の中を自由にして、すぐにボールに反応できるようにするのが大事」と、セリエAで活躍したあるFWは言っていた。結局は、そういう部分での評価が影響したというだったのかもしれない。

「練習ではびっくりするほどうまかった」。メッシーナ時代のサルバトーレ・アロニカを始め、同様の証言をしたチームメイトは少なくなかった。その技術がイタリアの実戦で噛み合わなかった理由は、培ってきたサッカー文化の違いにあったのだろう。

 なお、これを横目で見て学んだのか、この半年後別のクラブが思い切り若い日本人選手の獲得に踏み切ることになる。

 多くの選手が海外で一定の成功を遂げるようになった今があるのは、先駆者が苦闘しもがいた前例があるからだ。柳沢も、その礎を築いた一人だった。

 サッカーには真面目で泥臭く取り組む人間である。

「まだまだあがくよ」

 キャリア晩年、仙台でプレーしていた時に顔を見に行くと、サンプドリアからメッシーナに移籍を決めた時と同じようなことを言っていた。そういう男なのだ。

(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

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