FC2ブログ

石川竜也氏、日本サッカーが変わるようにがんばりたいと思います

石川竜也を取材したSportivaの佐藤氏である。
99ワールドユースのこと、引退のこと、将来の指導者のことなどが語られる。
石川の考えが良く伝わってきて嬉しい。
石川は良い指導者になって行くであろう。
楽しみである。

にほんブログ村 サッカーブログへ
にほんブログ村


鹿島アントラーズ ブログランキングへ

黄金世代・石川竜也は
小野伸二のひと言で貴重なゴールを決めた

佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun高橋 学●撮影 photo by Takahashi Masabu

世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第12回:石川竜也(前編)


 1999年3月15日、ナイジェリアワールドユース(現U-20W杯)本大会のメンバー発表の日。

 そのメンバーリスト18名の中に石川竜也の名前はなかった。

「事前のブルキナファソ合宿であまり試合に出られていなかったので、当落線上か入れない可能性が高いなと思っていました。どちらでもその決定を受け入れる気持ちでいましたけど、名前がなかったのはやっぱり悔しかったですね」


1999年ワールドユースについて振り返る石川竜也

 しかしその後、市川大祐が出場できなくなり、急遽、石川が招集された。

「僕が呼ばれた一番最後の選手でした。当時は学生だったし、失うものは何もなかった。自分の役割がどうか考えることはなかったですね。みんな、同世代だけど経験と個性があってレベルの高い選手が揃っていたので、僕がどうということより、みんなに引っ張っていってもらう感じでした」

 18番目の選手としてチームに合流した石川は、左サイドバックが本職であるが、トルシエが採用した「フラット3」の戦術下では左のウィングバックになった。そのポジションのレギュラーには、本山雅志が鎮座していた。キレキレのドリブルで仕掛ける本山は日本の攻撃のキーマンとなっており、欠かせない選手だった。そのため、石川は試合途中にクローザーとして投入されることが多かった。

 実際、グループリーグ2戦目のアメリカ戦は2-1で勝っている状況で、後半39分に本山に代わって出場した。3戦目のイングランド戦では、永井雄一郎の不調により、前半31分に投入された。

 この試合で、石川はチームを救う大仕事をやってのけた。

 前半39分、日本の右サイドで日本にFKが与えられた。石川がポイントに行くと小野伸二と小笠原満男がいたが、位置と距離から判断して、小野が「イシ君、蹴ったら」と提案してきた。石川は小野の提案にうなずいた。決める自信があったのだ。ピッチの一部の照明が落ち、異様なムードの中、石川は呼吸を整えた。

「間接FKで直接蹴れないので、(パスの直後にイングランドの)壁の選手が前に勢いよく出てくる。相手選手に当てないように蹴ろうと思っていました。ピッチの一部の照明が落ちていてGKが見えにくかったと思うんです。それでGKの反応が少し遅れて、しかもボールがうまく抜けていった。決めることができてよかったです」

 決勝トーナメント進出のために絶対に勝たなければならない試合での一撃は、価値ある先制ゴールになった。その瞬間、石川は、ベンチで喜ぶフィリップ・トルシエ監督のところに走って行き、抱き合った。

「なんでトルシエのところに行ったのか、自分でもわからないんですよ(苦笑)」

 石川は困惑した表情で、そう言った。

 実は、石川にとってトルシエは「やや苦手な監督」だった。

「トルシエは、練習は細かいし、気持ちを出せとか、とにかく厳しい(苦笑)。あまりにも言われ過ぎて、僕は『うるさい。もう帰るわ』って言ったこともありました。でも、トルシエは戦う気持ちとか自己表現とか日本人が足りないものを見抜いて、引き出すようにやっていた。そのことは自分もわかっていたし、2戦目とこのイングランド戦と自分を使ってくれたのもあって(監督に)行ったのかなぁと……」

 石川がトルシエと抱き合って喜んでいる中、ベンチにいたメンバーも大喜びしていた。18名中7人は必然的に控えになる。石川もそうだったが、控え組は腐ることなくチームを支えた。播戸竜二は「イシ君みたいにサブからポンと試合に出て決める。そういう選手がいるチームは強い」と言ったが、このチームの控え組は、途中出場してしっかり自分の仕事をこなしていたのだ。

「18名しかいないし、厳しい環境ではチームがひとつにならないと勝てないと思うんです。イングランド戦では僕がたまたま結果を出したけど、サブ組はみんな出たらやってやるという気持ちだったと思うし、チームが勝つために自分が何をしないといけないのかを考えてやっていた。そういうことが大事だし、そういう選手がサブにいるチームは強いと思います」

 石川はチームを盛り上げる播戸や氏家英行らを笑って見ていたが、控え組はひとつにまとまっていた。


控え組ながら、重要な役割を果たしていた石川。photo by Yanagawa GO

 その控え組のサポートを受けて、チームは決勝まで勝ち上がって行く。石川は決勝に至る中、ポイントとなった試合としてポルトガル戦を挙げた。

「決勝トーナメントの1回戦って、すごく難しいんです。しかもポルトガルは個の能力が高くて、本当に強かった。グループリーグとは違うレベルの高さを感じましたね。最後はPK戦までもつれたけど、南(雄太)が止めてくれると信じていました。同じ静岡県出身なので、昔から南のPK戦での強さを知っていたんです。その南が止めてくれて、ポルトガルに勝った。次のメキシコに勝ってこのまま行けるという思いが強くなって、ウルグアイにも勝った。決勝でのスペイン戦がすごく楽しみでした」
 
 チームは、ついに王手をかけた。

 このチームの主力である小野は、大会前から「優勝」を目標にし、「歴史を作る」と公言してきた。もちろん、全員が最初からそう考えていたわけではないだろう。だが、チームが勝ち進むにつれ、優勝の機運が高まっていった。石川は自分自身の考えに変化が生じ、大会前とは異なるムードをチームに感じていたという。

「グループリーグの頃は、まだ優勝のイメージを持っていなかったですね。でも、勝ち進むにつれて(現地の)環境にも慣れてきて、優勝の現実味も増してきて、自分も含めてみんなが『優勝したい』と強く思うようになりました。そうやって、チームがひとつになっていった。それがチームの成長だろうし、まとまりだと思います」

 決勝に至るまで、チームは苦しみながら勝ち進んでいったが、石川個人にとっては厳しい戦いを強いられていたという。環境面、とりわけ食事がなかなかフィットしなかったのだ。そのため、決勝の頃には開幕から4キロも体重が落ちていた。

「食事だけは苦労しましたね。日本食とかも出ていたんですが、『こんなもん食っているから負けるんだ。現地のものを食え』とトルシエに言われて。それは大会前までだと思うんですよ。本番はしっかりしたものを食べないと動けなくなる。現地で中華料理を食べた時はほんと幸せを感じましたからね。ナイジェリアを経験したあとは、多少のことではビクともしなくなりました」

 決勝戦当日、トルシエ監督は朝の散歩からいきなり練習をし始めた。

 そのため朝は軽食になり、昼寝をする時間がなくなった。昼は必ず試合前に食べるうどんなどの日本食もなくなった。石川は自分の経験とは真逆のことばかりする監督への違和感を最後まで払拭することはできなかった。

 それでも、スペイン戦がこのチームで戦える最後の試合になる。

「勝って、優勝したい」

 石川は心からそう思っていた。

石川竜也は思う。「10年後、
Jリーグ監督は黄金世代だらけになる」

佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第12回:石川竜也(後編)


 1999年、ナイジェリアワールドユース(現U-20W杯)の決勝、スペインとの試合を、石川竜也は非常に楽しみにしていた。

「僕らは、決勝まで試合をこなしながら『やれる』という自信をつけてきた。スペインが強いのはわかっていたけど、勝って優勝しようという気持ちがすごく強かったし、勝てると思っていた。でも……スペインはレベルが違いましたね」

 日本は、結果的に0-4で大敗を喫してしまう。

 石川は、先制点を失った時間と失い方が「日本にとって大きなダメージになった」と言う。

「失点は開始早々(5分)で、FKからやられた。壁になった選手がジャンプして、その下を通された。壁の選手がジャンプする練習をしていなかったら、下を通されて先制点を失うことはなかったかもしれないので、運もなかったですね。しかも(小野)伸二がいなかった。伸二がいたら、あそこまで点差は開かなかったと思います。やっぱり、伸二がいるかいないかでチームはだいぶ変わる。それでも、僕はいい勝負ができると思っていたんですが、0-4というスコアには驚きました。まだ世界とは大きな差があると思いました」

 結局、この大会で石川は全7試合中5試合に出場した。

 イングランド戦ではFKから決勝ゴールを決め、チームをグループリーグ突破に導いた。これまでプレーしてきた左サイドバックではなく、左のウィングバックとしてのプレーだったが堅い守備を評価され、クローザーとして投入された。


ワールドユースではクローザーとして奮闘した石川竜也(中央)photo by Yanagawa Go

 石川は、どんな手応えを感じていたのだろうか。

「決勝に出場できなかったので、スペインとの違いを肌で感じることはできなかった。でも、5試合に出場して、センタリングとかフィードは通用すると思いました。守備では、ウルグアイの選手は点を取りにくる時のパワーがすごくて、1対1の対応で苦労しました。個の対応に課題を感じたし、今後伸ばしていかないといけない部分だなと感じました」

 ナイジェリアから帰国すると、石川以外の17名の選手はそれぞれのチームに戻った。Jリーグの舞台に戻り、シドニー五輪に向けて動き出したのだ。

 一方、石川は当時、筑波大学の学生だった。世界大会を経験し、やれる手応えを感じたのであればさらに上の世界を目指し、レベルの高いところでプレーしたいと思うのが普通だ。しかし、石川には大学をやめてすぐにプロになる選択肢はなかったという。

「僕らの頃は大学の特別指定制度(大学生が大学に所属したままJリーグのクラブに所属できる制度)がなかったので、プロになるには大学をやめるしかなかったんです。だから、僕は4年で卒業してプロに行くと決めていました。

 もちろん、大学から代表に行くと少しギャップがあることを感じました。大学だとボールを持った瞬間はまだDFとの間に余裕があるんですけど、プロではトラップした瞬間に、敵DFが目の前にいてプレッシャーをかけられる。代表に呼ばれて合宿に行くと、そういうプロの”速さ”になれるのに時間が必要でしたね。でも、2日ぐらいで慣れるし、慣れたら十分やれたので、大学でプレーすることにブレはなかったですね」

 当時の筑波大はレベルが高く、同期に羽生直剛や平川忠亮ら質の高い選手が揃っていた。そういう仲間がいたことで、石川は大学でもモチベーションを落とさずにプレーできた。それでも大学で勝ち続けてそこに慣れてしまうと、目標があやふやになり、うまくいかないこともあった。石川はそういう苦しい時期も肥やしにして、4年間、筑波大学の中心選手としてプレーした。

「サッカーはもちろん、学生生活もすごく充実していて、楽しい4年間でした」

 2002年、石川は鹿島アントラーズに入団した。鹿島には相馬直樹という元日本代表の絶対的な左サイドバックがいた。石川は、あらゆることを相馬から吸収しようとしたという。その後、東京ヴェルディを経て2007年にモンテディオ山形に期限付き移籍。2008年には、山形のJ1昇格に大きく貢献した。その時、チームにナイジェリアのワールドユースと似た雰囲気を感じたという。

「夏を越えたぐらいから、みんな自信を持ってやっていましたね。チームでやりたいサッカーが全員で共有できていたし、みんな同じ方向を向いて戦っていた。こういうチームが昇格するんだというのを感じました。チームが成長して強くなっていったんですけど、それはナイジェリアの時と同じでしたね」

 石川は、2014年、プレーオフの末に山形がJ1昇格を決めた時もチームに貢献している。GKの山岸範宏がプレーオフ決勝のアディショナルタイムに決めたヘディングでの決勝ゴールは、今も山形の伝説になっているが、そのゴールをアシストしたのが石川だった。

「あの試合は、ゾーンに入っていましたね」

 石川は、その試合を思い浮かべ、笑顔を見せた。その後、石川は2017年シーズンで現役生活を終え、2018年1月に引退を表明した。チームからの契約が切れたあと、引退を決めるまで時間が少し空いている。

「引退に、ちょっと悔いがあったんです」

 石川は、冷静にそう言った。

「2018年も現役でやるつもりでいました。長く現役でやりたいと思っていたし、それがサッカー選手として一番幸せなことなので。でも、山形からトップのコーチの話をいただいたのと、現役を続ける準備をする時間がなかったのでやめるしかなかった。コーチを引き受けたのは、まだ体も動くし、自分の経験をプレーでも見せることができるかなと思ったからです。今でも、サイドは無理ですけど、ちょっとの時間であればボランチはやれる自信はありますよ(笑)」

 20年前、ともにナイジェリアで戦ったチームメイトには、小野、遠藤保仁、稲本潤一、そして南雄太らまだ現役でプレーしている選手がいる。

 石川は彼らのプレーを見ていると、自然と応援したくなるという。

「もう単純にがんばってほしい。僕ら世代の選手が今、どのくらい体が動くのかわかるので。それに僕らの世代は、技術はもちろん経験も含めて、いろんなことをチームに伝えていかないといけない。必要とされる以上、現役でやってほしいし、一番長くサッカーをやる世代になってほしいですね」


「黄金世代」について語る石川

 実際、現段階では、一番長くサッカーを続けている世代になっている。同世代の多くの選手が日本サッカー界に貢献し、長く活躍できていることについて、石川はどう思っているのだろうか。

「僕は、ナイジェリアで準優勝という結果を出したのが大きいと思います。それがなければ、レベルが高く、いい選手がいる世代というだけで終わっていた。でも、結果を出して注目されるようになったし、そうなることでさらに成長した。僕らが注目されたことでナイジェリアのワールドユースに選ばれなかった同世代の選手の刺激になったし、僕らの下の世代もあの舞台に立ちたいという目標になった。そういう好循環を生み出すことができたのは、やはりあの準優勝があったからだと思います」

 石川の世代は、優秀な人材が生まれ、日本サッカー界に多大な貢献をしたことから「黄金世代」と呼ばれるようになった。20年を経て、今もなお「黄金世代」と呼ばれることについて、石川はどう思っているのだろうか。

「黄金世代と言われるのはうれしいですけど、僕はそんなに意識していないです。僕らの世代って、ワールドユース組だけじゃなく、いろんなチームで多くの選手が活躍していた。ほんと、どこに行ってもいるんですよ。そういう意味では、黄金世代と言われる僕らの代は全体的にレベルが高かったのかなと思います」

 石川は、今年トップコーチからアカデミーグループスタッフに転任した。山形の下部組織、育成に関わることになったのである。

「自分に何が合うのかまだわからないので、できることはなんでもやってみたいです。一から勉強して、自分が持っている経験を伝えられるようになりたい。

 今の子供たちは自分で考えて動けない子が多い感じがします。少しイレギュラーなことがあると『どうしよう』となって動けなくなる。それに、厳しく言われてきた僕らの子供の頃とは違って、今は褒めて伸ばさないといけないですからね。難しいけど、そういうことを経験し、いずれS級ライセンスを取ってJリーグの監督をやってみたいと思います」

 同世代では昨年、氏家英行がS級ライセンスの講習を受け、Jリーグの監督を目指して1歩進んでいる。数年後、同世代でまだ現役の選手も引退していくだろうが、石川は10年後の未来をこんな風に考えている。

「79年組の監督だらけになっているんじゃないですかね(笑)。J1からJ3まで、どこに行っても僕らの世代の監督がいる。それはすごく面白いし、その時、日本サッカーが変わるようにがんばりたいと思います」

 20年前、ナイジェリアで準優勝して世間をあっと言わせたように、10年後、今度は指揮官として、黄金世代が日本サッカー界にまた新しい風を吹かせてくれるはずだ。

石川竜也
いしかわ・たつや/1979年12月25日生まれ。静岡県出身。現在はモンテディオ山形のアカデミーグループスタッフ。藤枝東高→筑波大→鹿島アントラーズ→東京ヴェルディ1969→モンテディオ山形。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Fundamentalism

Author:Fundamentalism
鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

カレンダー
07 | 2019/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
RSSフィード
リンク