石井監督の”今”
サムットプラーカーン・シティの石井正忠監督を取材したNumberWebの飯尾氏である。
石井さんの”今”と考えが伝わってくる。
そして特筆すべきは、当時、監督が出来る状態ではないとされた16年アウェイのFマリノス戦の件についてのことであろう。
「鹿島の頃、私の気持ちが落ちてしまって1試合、指揮が執れなかったことがあるじゃないですか。あのとき、自分自身が挫けて落ち込んだわけじゃなくて、クラブ自体のことを少し信用できなくなってしまって落ち込んだんですけど、逆に、いくら負けようが、いかに改善して、今何をやらなきゃいけないのか、といった気持ちは他の人よりも強いかもしれない。それは私の強みかもしれないですね」。
クラブに対する不信感が芽生えた瞬間があったことが語られる。
当時の報道では、石井さんの体調的なように報じられておったが、そうではないということをここではっきりさせておきたい。
結果的に後に大岩監督に切り替える伏線であったわけであるが、こうして出来事を後から考慮すると見えることもいくつかあるものである。
そして、石井さんは、鹿島に於ける日本人最高監督であると断言したい。
タイにて成功して欲しい。
心からそう願う。
また、語学に関しては、Google翻訳+ワイヤレスヘッドホンをお互いに一つ耳に着けることで解決出来る。
文明のテクノロジーを駆使して、良い指導・指揮を執って貰おうではないか。
期待しておる。

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タイ1部監督・石井正忠に聞く、前編。
日本人指導者への期待と現地事情。
posted2020/01/27 11:30

タイのサムットプラーカーン・シティで指導する石井正忠監督。日本から飛び出し、新たなミッションに挑んでいる。
text by
飯尾篤史
Atsushi Iio
photograph by
Norio Rokukawa
2015年途中から鹿島アントラーズを率い、翌シーズンにリーグ王者へと導いた石井正忠氏が、2020シーズンからタイ1部リーグのサムットプラーカーン・シティの監督に就任した。タイ代表の西野朗監督を筆頭にアジア各国に日本人指導者が渡る中で、石井監督は何を考え、タイの地で指導しているのか。前編では就任の経緯、現地での期待値、強化に向けての施策を聞いた。
――大宮アルディージャの監督を退任してから約1年休養されて、再び現場復帰に向けて動き出したとき、最初にオファーをくれたのが、このサムットプラーカーン・シティだったそうですね。
「昨年10月ですかね。勤めていたところを辞めて現場に復帰するための準備を始めた頃、オファーをいただいて。海外のクラブからオファーが来るなんて、考えてもいなかったので驚きました。オーナーの話を聞くと、私に興味を持っていると。
日本人監督というだけではなくて、私個人に興味を持ってくれていると言っていただいた。『契約どうこうではなく、試合を一度見に来ませんか』と招待されたので、10月にタイに行って、試合を見たんです。ホーム最終戦でした」
――どんな印象を受けましたか?
「そのときの順位は6位で、ホーム最終戦のわりに少し覇気がなかったんですよね。なんでなんだろうなと。攻撃面はアグレッシブだけど、守備のところではもう少し組織を作ったほうがいいなとも。どんな選手がいるのかもチェックして、試合後、自分が感じたことをまとめてオーナーに渡して帰国したんです。まだ仕事がありましたから」
年齢的に、最後のチャンスだなと。
――その時点では、契約を決めたわけではなかったんですね。
「そうですね。ただ、実際に現地まで行ってみて、海外のクラブで仕事をするのもありだな、という考えになりました。でも、私ひとりでは決められないですから」
――ご家族のことですね。
「はい。海外からのオファーがあったという話は家族にもしていて、『それはありがたい話だね』と言ってくれたんですけど、実際に私が契約したいという気持ちになって、家内と娘に伝えたら、『まずはJリーグで仕事を探してほしい』と。小学6年生の娘からはLINEで『海外に行きたくない理由』が送られてきました(笑)」
――娘さんにとっては切実な問題ですもんね(笑)。
「それで、いったんお断りすることにして、Jリーグで探していたんですけど、なかなか決まらなかった。一方、サムットプラーカーン・シティも日本人監督と交渉していたみたいですけど決まらなくて、11月の終わり頃かな、もう一度、『まだ決まっていないなら、どうですか?』という連絡を頂いて。私も年齢的に若くはないですから、最後のチャンスだなと。
家内もその1カ月の間にタイのことをいろいろ調べて理解を深めてくれて、私が単身赴任する形で、『チャレンジしてみたら』と背中を押してくれたんです。それで12月半ばから指揮を執っています」
2017年、鹿島のタイ遠征での縁。
――では、ひとりでバンコクにお住まいなんですね。生活面で苦労はないですか?
「ないですね。近くにショッピングモールがあって買い物もすぐできますし、ここからバンコクまで車で30分くらい。運転手を付けてもらっているので問題ないです。強いて言うなら、言葉の問題。せめて英語くらいは勉強しておけばよかったなと(笑)。今さら言ってもしょうがないですけど、英語とタイ語を少しずつ勉強しながら、選手とコミュニケーションを取っていこうと思っています」
――12月の半ばから指導されていたというのは、始動がずいぶん早いですね。新シーズンの開幕は2月半ばですよね?
「10月いっぱいでシーズンが終わって、11月から12月に掛けてがオフなのかな。それで12月16日からスタートしたんですけど、契約の関係で最初2日間は加藤くん(光男/サムットプラーカーン・シティコーチ)に見てもらって、私は18日にタイに来たんです。それから26日まで指導して、いったん帰国して、1月1日に再びタイに来ました。5日にはU-23日本代表との練習試合が組まれていましたから」
――先ほど、オーナーの方は、石井さん個人に興味を持ってくれていたと。それは、クラブ・ワールドカップで鹿島アントラーズを準優勝に導いた経歴などに興味を持ってくれたのでしょうか?
「それもあると思うんですけど、私が聞いたのは、2017年に鹿島がタイ遠征をして2試合やったとき、ここの練習場を使わせてもらったそうなんです。予定していたグラウンドの状態が悪くて急きょ変更になって、別の場所を使わせてもらったことは覚えているんですけど、それがどこかは覚えてなかった。そうしたら、ここだと。で、オーナーがそのときのことを覚えていてくれて。それ以降、興味があって私の動向を追ってくれていたそうなんです」
「ゆったり」した雰囲気への理解。
――4年前からの縁だったんですね。石井さん自身は、タイのサッカーシーンについて、事前にどなたかに聞かれたんですか?
「加藤くんがタイに長くいるので、彼に聞いたり、(順天堂)大学の先輩で今、(ツエーゲン)金沢の強化アカデミー本部長をされている和田さん(昌裕/チョンブリやヴィッセル神戸などの元監督)が以前、タイで監督をしていたので電話をして。文化が違うから、契約などで面倒なこともあるし、そっちに気持ちを持っていかれてしまうと辛いことになるけど、そういうのを含めて理解したうえで行くんだったら問題ないよ、と話してくれたので、それなら、と」
――今日の練習を見ていても、ちょっとダラダラした感じがありました。
「確かに少し緩いところはありますよね。ゆったりしているというか。ただ、タイは暑いので、そうなるのも仕方がないのかな、ということも理解してきました。一方で、ボールの奪い合いになると、かなりのテンションでやってくれる。それこそケガが心配になるくらい激しいので、むしろ大事なのはスイッチの入れさせ方かなと」
日本人の考え方に好感、との声。
――サムットプラーカーン・シティの選手たちの技術レベルや個人戦術のレベルは、どう感じていますか?
「日本人選手と比べると、やっぱり差はありますね。個人戦術のところも、もっと上げていかないと難しい。時間は掛かると思うんですけどね。開幕戦で昨シーズンの王者であるチェンライ・ユナイテッドと対戦するんですよ。
相手の監督は滝(雅美)さんで、日本人監督対決として注目されていて。他の開幕戦に先駆けて、我々の試合だけ金曜のナイターなんです。しかも、ホームゲームなので、なんとか結果を出したい。そこまでに、どれだけ持っていけるかだと思っています」

――滝さんはタイでのキャリアも長いですし、昨季のサムットプラーカーン・シティの監督は村山哲也さん(元サンフレッチェ広島強化部スカウトなど)。そして、西野朗さんがタイ代表監督と、日本人指導者への評価や期待が高まっているんでしょうか?
「そう思いますね。私がオファーをいただいたときも、オーナーがそうした話をしていました。日本サッカー界から学びたいというだけでなく、オーナーはビジネスで日本人と仕事をしたことがあるそうで、そのとき、日本人の働き方や考え方に好感を覚えたと。だから、自分のクラブチームも日本人に任せたくて、村山さんや私に声を掛けたんだと思います」
――西野さんと会う機会はあったんですか?
「いえ、まだないですね。加藤くんがお父さん(元日本代表GKの加藤好男さん)の関係でよく知っているそうなので、今度会わせていただこうかなって(笑)」
日本語が書かれたクラブハウス。
――それにしても、こんな郊外にあるのに、施設がしっかりしていて驚きました。このクラブハウスの隣にあるのは宿泊施設ですか?
「そうなんです。最初は私も、ここで暮らそうかと思ったくらいで(笑)。クラブハウスの各扉にも、『マッサージルーム』とか『ロッカールーム』とか、日本語で書かれていて。日本のチームがこの施設で合宿を張れるように、というオーナーの考えだそうです」
――オーナーの方は石井さんにどんなミッションを与えたんですか? タイ王者にしてほしいとか?
「いや、順位をひとつでも上げてほしいと。タイリーグには強いチームが5つある。その5強に食い込んでいきたい、という話をされました。チャンピオンになるとか、ACLに出るといった話は一切なかった。逆に、私のほうから『ぜひチャンピオンを目指しましょう。ACLに出場し、日本のチームと対戦したいです』と話したくらいで」
ペドロ・ジュニオール、小野悠斗を。
――上位を目指すうえで、元FC岐阜の小野悠斗選手、さらにかつて鹿島で一緒に仕事をしたペドロ・ジュニオール選手を獲得しましたね。
「もちろん、彼らの能力がチームにプラスになるのは間違いないです。私の考えていることを伝えやすいし、それをチームメイトにも伝えてくれると思うんです。そういう役割も、彼らには期待しています。とにかく彼らには、このチームを引っ張っていくという気持ちでプレーしてもらいたい。特にペドロは経験豊富ですからね」

――今、日本人、ブラジル人、そしてセルビア人選手がいますが、外国籍選手はもうひとり獲れますよね? ご予定は?
「そこは予算と相談しながらですけど、日本人をもうひとり獲得できればと。ディフェンスの選手を獲れたらいいなと思っているところです」
給食センター職員に応募した理由。
――ところで、大宮アルディージャの監督を退任されてからの1年、鹿嶋市の給食センターで働かれていたそうですね。少し前にクラブ・ワールドカップの舞台に立った指揮官が給食センターで働くというのはピンと来ませんが、どういった経緯で?
「現役を引退してすぐ指導者になったので、これまで家族との時間が取れなかったんです。娘も中学生になったら、自然と離れていくじゃないですか。部活が始まったり、友だちも増えたりするので。その前に一度、家族との時間をゆっくり作りたいな、と思っていて。そんなときに、新聞のチラシで給食センターの職員を募集していたんです。
土日は休みだし、夏休みもしっかり取れるので、これはいいなと。それに、自分の中で、鹿嶋の子どもたちが運動する場所を作りたいという思いもあって。そういう活動に取り組むにも、長い休みがあったほうがいい。まだ実現してないんですけど、これから先の人生を考える意味でも、休みがしっかりあるのはいいかなと」
――それで応募したわけですね。
「履歴書を出して、面接も受けました」
――職歴の欄には鹿島アントラーズ選手とか、監督とか。
「はい。書きました。驚いていましたね(笑)」
タイ1部監督・石井正忠に聞く、後編。
給食センター勤務と鹿島で得た宝。
posted2020/01/27 11:35

トレーニング中に笑顔を見せる石井正忠監督。鹿島で培ってきた哲学を、タイの地に落とし込もうとしている。
text by
飯尾篤史
Atsushi Iio
photograph by
Norio Rokukawa
2015年途中から鹿島アントラーズを率い、翌シーズンにリーグ王者へと導いた石井正忠氏が、2020シーズンからタイ1部リーグのサムットプラーカーン・シティの監督に就任した。タイ代表の西野朗監督を筆頭にアジア各国に日本人指導者が渡る中で、石井監督は何を考え、タイの地で指導しているのか。後編では鹿嶋市での給食センター勤務に加えて、古巣・鹿島への思いなどを聞いた。
――給食センターというのは土日が休みで、夏休みもあって、娘さんと生活のサイクルが合うから、非常に合理的な選択です。とはいえ、Jクラブの監督経験者が簡単にできる選択ではないと思うんですね。ひと目が気になるというか、プライドが邪魔するというか。
「それはあまり気にしなかったですね。私にとって大事なのは何を優先するかで、家族との時間を取りたかったので。解説の仕事も考えましたが、結局、土日に仕事をすることになる。なので、ちょっと思い切ったことをしてもいいなと思って。何かに挑戦するときって、ドキドキするほうがいいじゃないですか(笑)」
組織論を学ばせてもらいました。
――給食センターでどんな仕事をされていたんですか?
「男性社員のひとりとして採用してもらったので、いろんな仕事をさせてもらいました。それこそ調理もしましたし。カレー用のジャガイモを200キロくらい機械に入れて、それをパートさんのところに持って行ったり。衛生面もすごく勉強になりました。これだけしっかりしていれば異物混入など起こらないなと思うくらい徹底していましたよ。
それに、指導者としても生かせることがありました。例えば、女性のリーダーの方がいて、その人の振る舞いが本当に勉強になって」
――どんな感じなんですか?
「何でもできるんですよ。すべてのことを自らやって見せることもできるし、小さいグループを作って、それぞれにリーダーを置いて、うまくコントロールしたりだとか。給食センターで組織論を学ばせてもらいました」
――この1年は、指導者としてのご自身と改めて向き合う時間にもなったんじゃないかと思います。
「そうですね。トレーニングメニューを見返して『こういうときに、こういうことをしていたんだな』と振り返ったこともありましたし、月に1回程度、土日に講演やサッカー教室もやっていました。サッカー教室で、参加者がたまたま女の子だけになったことがあって、それも貴重な経験でしたね。子どもたちの指導も大切だなと改めて思ったり。
カシマスタジアムで試合を見ているときには、もう1度あの場に立ちたいなという気持ちもどんどん湧き上がってきた。11月に行ったヨーロッパでも刺激を受けました」
鹿島、欧州の試合を見て再び意欲が。
――どちらに行かれたんですか。
「ミラノへ行きました。佐倉にACミランのサッカースクールがあって、その経営を任されているのが私の高校の後輩で、『一緒に視察に行きませんか』と誘ってもらって。ミラン対ユーベを見て、チャンピオンズリーグのアタランタ対マンC(マンチェスター・シティ)も見て、冨安(健洋)選手のいるボローニャの練習見学もしました」
――現場に戻るというのは、コーチではなく、やはり監督として?
「監督として、もう1度戻りたいという気持ちでしたね」
――鹿島時代は優勝、大宮時代はJ1昇格というプレッシャーがあって、苦しい時期が続いたと思います。それでもやっぱり監督業に戻りたくなるものなんですね。
「鹿島の試合を見ていても、さらにレベルの高いヨーロッパの試合を見ていても、これをもう1回、自分の仕事としてやりたいと思ったんですよね。今回、まったく知らない国に来て、言葉も分からないけど、そこで自分の考えをうまく伝えられるようになったら、日本に戻ったときに、これまでとは違う指導ができるでしょうし、選手との接し方もワンランク上がるような気がして。指導者としての力がすごく付くんじゃないかと。それで、このチャンスを掴んで頑張ろうという気持ちになりました」
日本で指導していた頃と根本は同じ。
――選手との接し方で言うと、石井さんは鹿島のコーチ時代、選手たちのいい兄貴的な存在で、そのスタンスは監督になっても、そこまで変えなかったと思います。大宮時代や休養した昨年を経て、そのスタンスは、変わってきていますか?
「どうですかね。根本的なところは変わってないと思います。なるべく選手と一緒にチームを作っていく、というところは変わらず。でも、言葉の選び方とか、はっきりと、明確にしたほうがいいのかなとは。タイでは、言葉だけじゃ足りないので、事前に準備をして映像やパワーポイントで見せたり、これまでとは違う手法でやっていかなきゃいけないな、と思っています。
それに、こうしなきゃいけないというときに、はっきりとタイミング良く言う。今までは経験がなかったから、できなかったですが、前回と違って今回はできるようにしたい。それができなければ、また同じようなことになるんじゃないかな、と思いますね」

――鹿島で解任されたり、大宮でJ1昇格を逃したりしたショックや傷というのを、すぐに乗り越えられるタイプですか。
「まあ、そうですね。それは比較的早いのかな。じゃあ、今、何をしなきゃいけないかというところに自分の気持ちを持っていくようにしているので。あまり引きずらないではいますけどね」
鹿島を嫌いになったわけじゃない。
――個人的に凄いと感じたのが、鹿島の監督を離れられてしばらくして、シーズンチケットで鹿島の試合を見に行かれていたことで。なかなかできることではないなと。
「ああ、はい。でも、監督を解任されただけで、私が鹿島を嫌いになったわけじゃないので。好きなチームのサッカーを見に行くことに問題はないじゃん、っていう感じですよ。逆に言うと、鈍感なんじゃないですか(笑)。プライドもないですし。スタジアムグルメも魅力ですしね(笑)」
――これまでパウロ・アウトゥオリやオズワルド・オリヴェイラ、トニーニョ・セレーゾといった監督のもとでコーチを務め、いろいろ学ばれたと思います。さらに石井さん自身も鹿島、大宮を率いて経験を積まれましたが、改めて今、ご自身の監督としての強みや武器は、なんだと思っていますか?
「どうですかね……鹿島の頃、私の気持ちが落ちてしまって1試合、指揮が執れなかったことがあるじゃないですか。あのとき、自分自身が挫けて落ち込んだわけじゃなくて、クラブ自体のことを少し信用できなくなってしまって落ち込んだんですけど、逆に、いくら負けようが、いかに改善して、今何をやらなきゃいけないのか、といった気持ちは他の人よりも強いかもしれない。それは私の強みかもしれないですね。へこたれそうで、意外と、へこたれない(笑)」
見た目は弱そうだけど、意外と。
――意外と(笑)。
「見た目は弱そうだけど、意外とそうでもない(笑)。意外と頑固なところはあると思うので。それと、私は自分がグイグイ引っ張るというより、先頭に立ってはいるけれど、ちゃんと後ろを見ながら、みんなで頑張ろうよ、というタイプなので、私が去ったあとも、チームに良い雰囲気は残していけるんじゃないかな、とも思います」
――たしかに2016年シーズンも復帰されてから、チャンピオンシップを勝ち抜き、クラブ・ワールドカップで決勝に進み、天皇杯を制しました。優しそうに見えて、なにクソというようなリバウンドメンタリティがあると。
「表面には出さないだけで、感情がないわけではないですから。ちゃんと怒りの感情も持っていますから(笑)」

――そうですよね。現役時代には常勝・鹿島の礎を築かれたおひとりですもんね。そりゃ、ありますよね(笑)。
「あるんですけど、あまり表に出さないので、他の人には分からないでしょうね(笑)」
ACLで日本のチームと対戦できたら。
――では最後に、今シーズンの目標と今後の夢を聞かせてください。
「今季の目標としては、上位3チームの中に確実に入りたいと思っています。まずは1年契約ですけど、このチームを託された以上、このチームを何年か率いて優勝させたいし、ACLに出て日本のチームと対戦できたら嬉しい。それが近い将来の目標ですね」
――ご自身が海外のチームを率いるなんて、数カ月前には夢にも思わなかったでしょうけれど、まるで今年からの単身赴任を予期していたかのように、昨年1年間、娘さんと過ごす時間を増やして、しっかりリフレッシュされた感じになりましたね。
「そうなりましたね。うん。家族との時間を多く作れてよかったです。実は昨年、親父と祖母が亡くなったんですよ。それで喪主を務めたんですが、これが現場にいて、遠いところにでもいたら、務められなかったかもしれない。縁とかタイミングってあるんだな、自分にとって大事な1年だったんだなって。だからこそ、与えてもらったチャンスに感謝して、頑張りたいと思います」
石井さんの”今”と考えが伝わってくる。
そして特筆すべきは、当時、監督が出来る状態ではないとされた16年アウェイのFマリノス戦の件についてのことであろう。
「鹿島の頃、私の気持ちが落ちてしまって1試合、指揮が執れなかったことがあるじゃないですか。あのとき、自分自身が挫けて落ち込んだわけじゃなくて、クラブ自体のことを少し信用できなくなってしまって落ち込んだんですけど、逆に、いくら負けようが、いかに改善して、今何をやらなきゃいけないのか、といった気持ちは他の人よりも強いかもしれない。それは私の強みかもしれないですね」。
クラブに対する不信感が芽生えた瞬間があったことが語られる。
当時の報道では、石井さんの体調的なように報じられておったが、そうではないということをここではっきりさせておきたい。
結果的に後に大岩監督に切り替える伏線であったわけであるが、こうして出来事を後から考慮すると見えることもいくつかあるものである。
そして、石井さんは、鹿島に於ける日本人最高監督であると断言したい。
タイにて成功して欲しい。
心からそう願う。
また、語学に関しては、Google翻訳+ワイヤレスヘッドホンをお互いに一つ耳に着けることで解決出来る。
文明のテクノロジーを駆使して、良い指導・指揮を執って貰おうではないか。
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タイ1部監督・石井正忠に聞く、前編。
日本人指導者への期待と現地事情。
posted2020/01/27 11:30

タイのサムットプラーカーン・シティで指導する石井正忠監督。日本から飛び出し、新たなミッションに挑んでいる。
text by
飯尾篤史
Atsushi Iio
photograph by
Norio Rokukawa
2015年途中から鹿島アントラーズを率い、翌シーズンにリーグ王者へと導いた石井正忠氏が、2020シーズンからタイ1部リーグのサムットプラーカーン・シティの監督に就任した。タイ代表の西野朗監督を筆頭にアジア各国に日本人指導者が渡る中で、石井監督は何を考え、タイの地で指導しているのか。前編では就任の経緯、現地での期待値、強化に向けての施策を聞いた。
――大宮アルディージャの監督を退任してから約1年休養されて、再び現場復帰に向けて動き出したとき、最初にオファーをくれたのが、このサムットプラーカーン・シティだったそうですね。
「昨年10月ですかね。勤めていたところを辞めて現場に復帰するための準備を始めた頃、オファーをいただいて。海外のクラブからオファーが来るなんて、考えてもいなかったので驚きました。オーナーの話を聞くと、私に興味を持っていると。
日本人監督というだけではなくて、私個人に興味を持ってくれていると言っていただいた。『契約どうこうではなく、試合を一度見に来ませんか』と招待されたので、10月にタイに行って、試合を見たんです。ホーム最終戦でした」
――どんな印象を受けましたか?
「そのときの順位は6位で、ホーム最終戦のわりに少し覇気がなかったんですよね。なんでなんだろうなと。攻撃面はアグレッシブだけど、守備のところではもう少し組織を作ったほうがいいなとも。どんな選手がいるのかもチェックして、試合後、自分が感じたことをまとめてオーナーに渡して帰国したんです。まだ仕事がありましたから」
年齢的に、最後のチャンスだなと。
――その時点では、契約を決めたわけではなかったんですね。
「そうですね。ただ、実際に現地まで行ってみて、海外のクラブで仕事をするのもありだな、という考えになりました。でも、私ひとりでは決められないですから」
――ご家族のことですね。
「はい。海外からのオファーがあったという話は家族にもしていて、『それはありがたい話だね』と言ってくれたんですけど、実際に私が契約したいという気持ちになって、家内と娘に伝えたら、『まずはJリーグで仕事を探してほしい』と。小学6年生の娘からはLINEで『海外に行きたくない理由』が送られてきました(笑)」
――娘さんにとっては切実な問題ですもんね(笑)。
「それで、いったんお断りすることにして、Jリーグで探していたんですけど、なかなか決まらなかった。一方、サムットプラーカーン・シティも日本人監督と交渉していたみたいですけど決まらなくて、11月の終わり頃かな、もう一度、『まだ決まっていないなら、どうですか?』という連絡を頂いて。私も年齢的に若くはないですから、最後のチャンスだなと。
家内もその1カ月の間にタイのことをいろいろ調べて理解を深めてくれて、私が単身赴任する形で、『チャレンジしてみたら』と背中を押してくれたんです。それで12月半ばから指揮を執っています」
2017年、鹿島のタイ遠征での縁。
――では、ひとりでバンコクにお住まいなんですね。生活面で苦労はないですか?
「ないですね。近くにショッピングモールがあって買い物もすぐできますし、ここからバンコクまで車で30分くらい。運転手を付けてもらっているので問題ないです。強いて言うなら、言葉の問題。せめて英語くらいは勉強しておけばよかったなと(笑)。今さら言ってもしょうがないですけど、英語とタイ語を少しずつ勉強しながら、選手とコミュニケーションを取っていこうと思っています」
――12月の半ばから指導されていたというのは、始動がずいぶん早いですね。新シーズンの開幕は2月半ばですよね?
「10月いっぱいでシーズンが終わって、11月から12月に掛けてがオフなのかな。それで12月16日からスタートしたんですけど、契約の関係で最初2日間は加藤くん(光男/サムットプラーカーン・シティコーチ)に見てもらって、私は18日にタイに来たんです。それから26日まで指導して、いったん帰国して、1月1日に再びタイに来ました。5日にはU-23日本代表との練習試合が組まれていましたから」
――先ほど、オーナーの方は、石井さん個人に興味を持ってくれていたと。それは、クラブ・ワールドカップで鹿島アントラーズを準優勝に導いた経歴などに興味を持ってくれたのでしょうか?
「それもあると思うんですけど、私が聞いたのは、2017年に鹿島がタイ遠征をして2試合やったとき、ここの練習場を使わせてもらったそうなんです。予定していたグラウンドの状態が悪くて急きょ変更になって、別の場所を使わせてもらったことは覚えているんですけど、それがどこかは覚えてなかった。そうしたら、ここだと。で、オーナーがそのときのことを覚えていてくれて。それ以降、興味があって私の動向を追ってくれていたそうなんです」
「ゆったり」した雰囲気への理解。
――4年前からの縁だったんですね。石井さん自身は、タイのサッカーシーンについて、事前にどなたかに聞かれたんですか?
「加藤くんがタイに長くいるので、彼に聞いたり、(順天堂)大学の先輩で今、(ツエーゲン)金沢の強化アカデミー本部長をされている和田さん(昌裕/チョンブリやヴィッセル神戸などの元監督)が以前、タイで監督をしていたので電話をして。文化が違うから、契約などで面倒なこともあるし、そっちに気持ちを持っていかれてしまうと辛いことになるけど、そういうのを含めて理解したうえで行くんだったら問題ないよ、と話してくれたので、それなら、と」
――今日の練習を見ていても、ちょっとダラダラした感じがありました。
「確かに少し緩いところはありますよね。ゆったりしているというか。ただ、タイは暑いので、そうなるのも仕方がないのかな、ということも理解してきました。一方で、ボールの奪い合いになると、かなりのテンションでやってくれる。それこそケガが心配になるくらい激しいので、むしろ大事なのはスイッチの入れさせ方かなと」
日本人の考え方に好感、との声。
――サムットプラーカーン・シティの選手たちの技術レベルや個人戦術のレベルは、どう感じていますか?
「日本人選手と比べると、やっぱり差はありますね。個人戦術のところも、もっと上げていかないと難しい。時間は掛かると思うんですけどね。開幕戦で昨シーズンの王者であるチェンライ・ユナイテッドと対戦するんですよ。
相手の監督は滝(雅美)さんで、日本人監督対決として注目されていて。他の開幕戦に先駆けて、我々の試合だけ金曜のナイターなんです。しかも、ホームゲームなので、なんとか結果を出したい。そこまでに、どれだけ持っていけるかだと思っています」

――滝さんはタイでのキャリアも長いですし、昨季のサムットプラーカーン・シティの監督は村山哲也さん(元サンフレッチェ広島強化部スカウトなど)。そして、西野朗さんがタイ代表監督と、日本人指導者への評価や期待が高まっているんでしょうか?
「そう思いますね。私がオファーをいただいたときも、オーナーがそうした話をしていました。日本サッカー界から学びたいというだけでなく、オーナーはビジネスで日本人と仕事をしたことがあるそうで、そのとき、日本人の働き方や考え方に好感を覚えたと。だから、自分のクラブチームも日本人に任せたくて、村山さんや私に声を掛けたんだと思います」
――西野さんと会う機会はあったんですか?
「いえ、まだないですね。加藤くんがお父さん(元日本代表GKの加藤好男さん)の関係でよく知っているそうなので、今度会わせていただこうかなって(笑)」
日本語が書かれたクラブハウス。
――それにしても、こんな郊外にあるのに、施設がしっかりしていて驚きました。このクラブハウスの隣にあるのは宿泊施設ですか?
「そうなんです。最初は私も、ここで暮らそうかと思ったくらいで(笑)。クラブハウスの各扉にも、『マッサージルーム』とか『ロッカールーム』とか、日本語で書かれていて。日本のチームがこの施設で合宿を張れるように、というオーナーの考えだそうです」
――オーナーの方は石井さんにどんなミッションを与えたんですか? タイ王者にしてほしいとか?
「いや、順位をひとつでも上げてほしいと。タイリーグには強いチームが5つある。その5強に食い込んでいきたい、という話をされました。チャンピオンになるとか、ACLに出るといった話は一切なかった。逆に、私のほうから『ぜひチャンピオンを目指しましょう。ACLに出場し、日本のチームと対戦したいです』と話したくらいで」
ペドロ・ジュニオール、小野悠斗を。
――上位を目指すうえで、元FC岐阜の小野悠斗選手、さらにかつて鹿島で一緒に仕事をしたペドロ・ジュニオール選手を獲得しましたね。
「もちろん、彼らの能力がチームにプラスになるのは間違いないです。私の考えていることを伝えやすいし、それをチームメイトにも伝えてくれると思うんです。そういう役割も、彼らには期待しています。とにかく彼らには、このチームを引っ張っていくという気持ちでプレーしてもらいたい。特にペドロは経験豊富ですからね」

――今、日本人、ブラジル人、そしてセルビア人選手がいますが、外国籍選手はもうひとり獲れますよね? ご予定は?
「そこは予算と相談しながらですけど、日本人をもうひとり獲得できればと。ディフェンスの選手を獲れたらいいなと思っているところです」
給食センター職員に応募した理由。
――ところで、大宮アルディージャの監督を退任されてからの1年、鹿嶋市の給食センターで働かれていたそうですね。少し前にクラブ・ワールドカップの舞台に立った指揮官が給食センターで働くというのはピンと来ませんが、どういった経緯で?
「現役を引退してすぐ指導者になったので、これまで家族との時間が取れなかったんです。娘も中学生になったら、自然と離れていくじゃないですか。部活が始まったり、友だちも増えたりするので。その前に一度、家族との時間をゆっくり作りたいな、と思っていて。そんなときに、新聞のチラシで給食センターの職員を募集していたんです。
土日は休みだし、夏休みもしっかり取れるので、これはいいなと。それに、自分の中で、鹿嶋の子どもたちが運動する場所を作りたいという思いもあって。そういう活動に取り組むにも、長い休みがあったほうがいい。まだ実現してないんですけど、これから先の人生を考える意味でも、休みがしっかりあるのはいいかなと」
――それで応募したわけですね。
「履歴書を出して、面接も受けました」
――職歴の欄には鹿島アントラーズ選手とか、監督とか。
「はい。書きました。驚いていましたね(笑)」
タイ1部監督・石井正忠に聞く、後編。
給食センター勤務と鹿島で得た宝。
posted2020/01/27 11:35

トレーニング中に笑顔を見せる石井正忠監督。鹿島で培ってきた哲学を、タイの地に落とし込もうとしている。
text by
飯尾篤史
Atsushi Iio
photograph by
Norio Rokukawa
2015年途中から鹿島アントラーズを率い、翌シーズンにリーグ王者へと導いた石井正忠氏が、2020シーズンからタイ1部リーグのサムットプラーカーン・シティの監督に就任した。タイ代表の西野朗監督を筆頭にアジア各国に日本人指導者が渡る中で、石井監督は何を考え、タイの地で指導しているのか。後編では鹿嶋市での給食センター勤務に加えて、古巣・鹿島への思いなどを聞いた。
――給食センターというのは土日が休みで、夏休みもあって、娘さんと生活のサイクルが合うから、非常に合理的な選択です。とはいえ、Jクラブの監督経験者が簡単にできる選択ではないと思うんですね。ひと目が気になるというか、プライドが邪魔するというか。
「それはあまり気にしなかったですね。私にとって大事なのは何を優先するかで、家族との時間を取りたかったので。解説の仕事も考えましたが、結局、土日に仕事をすることになる。なので、ちょっと思い切ったことをしてもいいなと思って。何かに挑戦するときって、ドキドキするほうがいいじゃないですか(笑)」
組織論を学ばせてもらいました。
――給食センターでどんな仕事をされていたんですか?
「男性社員のひとりとして採用してもらったので、いろんな仕事をさせてもらいました。それこそ調理もしましたし。カレー用のジャガイモを200キロくらい機械に入れて、それをパートさんのところに持って行ったり。衛生面もすごく勉強になりました。これだけしっかりしていれば異物混入など起こらないなと思うくらい徹底していましたよ。
それに、指導者としても生かせることがありました。例えば、女性のリーダーの方がいて、その人の振る舞いが本当に勉強になって」
――どんな感じなんですか?
「何でもできるんですよ。すべてのことを自らやって見せることもできるし、小さいグループを作って、それぞれにリーダーを置いて、うまくコントロールしたりだとか。給食センターで組織論を学ばせてもらいました」
――この1年は、指導者としてのご自身と改めて向き合う時間にもなったんじゃないかと思います。
「そうですね。トレーニングメニューを見返して『こういうときに、こういうことをしていたんだな』と振り返ったこともありましたし、月に1回程度、土日に講演やサッカー教室もやっていました。サッカー教室で、参加者がたまたま女の子だけになったことがあって、それも貴重な経験でしたね。子どもたちの指導も大切だなと改めて思ったり。
カシマスタジアムで試合を見ているときには、もう1度あの場に立ちたいなという気持ちもどんどん湧き上がってきた。11月に行ったヨーロッパでも刺激を受けました」
鹿島、欧州の試合を見て再び意欲が。
――どちらに行かれたんですか。
「ミラノへ行きました。佐倉にACミランのサッカースクールがあって、その経営を任されているのが私の高校の後輩で、『一緒に視察に行きませんか』と誘ってもらって。ミラン対ユーベを見て、チャンピオンズリーグのアタランタ対マンC(マンチェスター・シティ)も見て、冨安(健洋)選手のいるボローニャの練習見学もしました」
――現場に戻るというのは、コーチではなく、やはり監督として?
「監督として、もう1度戻りたいという気持ちでしたね」
――鹿島時代は優勝、大宮時代はJ1昇格というプレッシャーがあって、苦しい時期が続いたと思います。それでもやっぱり監督業に戻りたくなるものなんですね。
「鹿島の試合を見ていても、さらにレベルの高いヨーロッパの試合を見ていても、これをもう1回、自分の仕事としてやりたいと思ったんですよね。今回、まったく知らない国に来て、言葉も分からないけど、そこで自分の考えをうまく伝えられるようになったら、日本に戻ったときに、これまでとは違う指導ができるでしょうし、選手との接し方もワンランク上がるような気がして。指導者としての力がすごく付くんじゃないかと。それで、このチャンスを掴んで頑張ろうという気持ちになりました」
日本で指導していた頃と根本は同じ。
――選手との接し方で言うと、石井さんは鹿島のコーチ時代、選手たちのいい兄貴的な存在で、そのスタンスは監督になっても、そこまで変えなかったと思います。大宮時代や休養した昨年を経て、そのスタンスは、変わってきていますか?
「どうですかね。根本的なところは変わってないと思います。なるべく選手と一緒にチームを作っていく、というところは変わらず。でも、言葉の選び方とか、はっきりと、明確にしたほうがいいのかなとは。タイでは、言葉だけじゃ足りないので、事前に準備をして映像やパワーポイントで見せたり、これまでとは違う手法でやっていかなきゃいけないな、と思っています。
それに、こうしなきゃいけないというときに、はっきりとタイミング良く言う。今までは経験がなかったから、できなかったですが、前回と違って今回はできるようにしたい。それができなければ、また同じようなことになるんじゃないかな、と思いますね」

――鹿島で解任されたり、大宮でJ1昇格を逃したりしたショックや傷というのを、すぐに乗り越えられるタイプですか。
「まあ、そうですね。それは比較的早いのかな。じゃあ、今、何をしなきゃいけないかというところに自分の気持ちを持っていくようにしているので。あまり引きずらないではいますけどね」
鹿島を嫌いになったわけじゃない。
――個人的に凄いと感じたのが、鹿島の監督を離れられてしばらくして、シーズンチケットで鹿島の試合を見に行かれていたことで。なかなかできることではないなと。
「ああ、はい。でも、監督を解任されただけで、私が鹿島を嫌いになったわけじゃないので。好きなチームのサッカーを見に行くことに問題はないじゃん、っていう感じですよ。逆に言うと、鈍感なんじゃないですか(笑)。プライドもないですし。スタジアムグルメも魅力ですしね(笑)」
――これまでパウロ・アウトゥオリやオズワルド・オリヴェイラ、トニーニョ・セレーゾといった監督のもとでコーチを務め、いろいろ学ばれたと思います。さらに石井さん自身も鹿島、大宮を率いて経験を積まれましたが、改めて今、ご自身の監督としての強みや武器は、なんだと思っていますか?
「どうですかね……鹿島の頃、私の気持ちが落ちてしまって1試合、指揮が執れなかったことがあるじゃないですか。あのとき、自分自身が挫けて落ち込んだわけじゃなくて、クラブ自体のことを少し信用できなくなってしまって落ち込んだんですけど、逆に、いくら負けようが、いかに改善して、今何をやらなきゃいけないのか、といった気持ちは他の人よりも強いかもしれない。それは私の強みかもしれないですね。へこたれそうで、意外と、へこたれない(笑)」
見た目は弱そうだけど、意外と。
――意外と(笑)。
「見た目は弱そうだけど、意外とそうでもない(笑)。意外と頑固なところはあると思うので。それと、私は自分がグイグイ引っ張るというより、先頭に立ってはいるけれど、ちゃんと後ろを見ながら、みんなで頑張ろうよ、というタイプなので、私が去ったあとも、チームに良い雰囲気は残していけるんじゃないかな、とも思います」
――たしかに2016年シーズンも復帰されてから、チャンピオンシップを勝ち抜き、クラブ・ワールドカップで決勝に進み、天皇杯を制しました。優しそうに見えて、なにクソというようなリバウンドメンタリティがあると。
「表面には出さないだけで、感情がないわけではないですから。ちゃんと怒りの感情も持っていますから(笑)」

――そうですよね。現役時代には常勝・鹿島の礎を築かれたおひとりですもんね。そりゃ、ありますよね(笑)。
「あるんですけど、あまり表に出さないので、他の人には分からないでしょうね(笑)」
ACLで日本のチームと対戦できたら。
――では最後に、今シーズンの目標と今後の夢を聞かせてください。
「今季の目標としては、上位3チームの中に確実に入りたいと思っています。まずは1年契約ですけど、このチームを託された以上、このチームを何年か率いて優勝させたいし、ACLに出て日本のチームと対戦できたら嬉しい。それが近い将来の目標ですね」
――ご自身が海外のチームを率いるなんて、数カ月前には夢にも思わなかったでしょうけれど、まるで今年からの単身赴任を予期していたかのように、昨年1年間、娘さんと過ごす時間を増やして、しっかりリフレッシュされた感じになりましたね。
「そうなりましたね。うん。家族との時間を多く作れてよかったです。実は昨年、親父と祖母が亡くなったんですよ。それで喪主を務めたんですが、これが現場にいて、遠いところにでもいたら、務められなかったかもしれない。縁とかタイミングってあるんだな、自分にとって大事な1年だったんだなって。だからこそ、与えてもらったチャンスに感謝して、頑張りたいと思います」
コメントの投稿
フロントは監督を信頼して支えなきゃ!
しっかり!!
しっかり!!
No title
本当に、もう一度鹿島で監督してるところが見たいです。私は人間的に好きな監督です。
石井さんの人柄が好きでした!
監督を辞めてからもシーズンシートを買うなんて普通は出来ません。
またアントラーズで働いて欲しいですね(^^)
ちなみに、石井さんの弟さんも良い人です(^^)
監督を辞めてからもシーズンシートを買うなんて普通は出来ません。
またアントラーズで働いて欲しいですね(^^)
ちなみに、石井さんの弟さんも良い人です(^^)
No title
いつか、石井さんの鹿島復帰を願っています。大岩さん含め、レジェンドが
一度でも鹿島の監督を行なうと、勇退などはそうそう無い点が辛いところ。
J創世期から、選手としても指導者としても人として尊敬出来る大好きな人です。
家族との時間を優先した件も、ある意味でサッカー界の働き方改革を体現したかも!?
一度でも鹿島の監督を行なうと、勇退などはそうそう無い点が辛いところ。
J創世期から、選手としても指導者としても人として尊敬出来る大好きな人です。
家族との時間を優先した件も、ある意味でサッカー界の働き方改革を体現したかも!?
No title
サムットプラーカーン・シティのサポは驚きだったでしょうね。
CWC決勝でレアル・マドリードと撃ち合いを演じた鹿島の監督ですから。
さらにサムットプラーカーン・シティ監督に就任してからも、温厚で兄貴分の人柄に驚いたことでしょう。
CWC決勝でレアル・マドリードと撃ち合いを演じた鹿島の監督ですから。
さらにサムットプラーカーン・シティ監督に就任してからも、温厚で兄貴分の人柄に驚いたことでしょう。
2016年の1stステージは2010年代で最も強かったと思う
サイドハーフが4トップかの如くプレーしていたのは観ていて楽しかったな
サイドハーフが4トップかの如くプレーしていたのは観ていて楽しかったな
No title
監督で1試合欠場したのは、ご自身の心の体調不良かと思ってましたが
フロントへの不信感だったと・・
本人にきかないとわからないものですね
フロントへの不信感だったと・・
本人にきかないとわからないものですね