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曽ケ端準引退に寄せて

引退する曽ケ端準に対して各記者が想い出を綴る。
曽ケ端の人となりがよく伝わってきて嬉しい。
こうした記事が並ぶのも、プレイと実績、そして人間性の賜物。
鹿島が育て、そしてタイトルを齎せてくれた偉大なるGK。
本当にこれまでありがとう。
感謝ばかりである。

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誰よりも輝いていた“黄金”、曽ヶ端準。「アイシング、めっちゃ上手くなりましたよ!」の言葉に込めた想い
川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
2020年12月24日

鹿島ひと筋を貫いた、心優しき守護神


誰からも愛され、頼りにされた曽ヶ端。周囲の期待に十二分に応える守護神だった。写真:徳原隆元

 いまから24年前の夏、日本クラブユース選手権での思い出だ。

 夏のクラブユース王者を決める恒例の大会は、直前に完成した福島・Jヴィレッジのこけら落としとして盛大に開催された。わたしはJヴィレッジ側に頼まれて、施設内部の詳細をサッカーダイジェスト誌上で紹介するため、選手たちと同じように寝泊まりする「宿泊体験」をした。

 取材1日目、準々決勝が終わったあとだ。大浴場に乗り込んでみると、そこは試合を終えたばかりの選手たちでゴッタ返していた。浴槽のお湯がどうなっていたかは想像に難くないだろう。さすがにこれは……。ひとまず洗い場に腰かけた。忘れもしない。左にいたのは当時ガンバ大阪ユースの二川孝広で、右に座っていたのが鹿島アントラーズユースの曽ヶ端準だった。

 すでに面識があった二川は、微笑を浮かべるばかりで話し相手になってくれない。すると初対面の曽ヶ端が、身体を洗いながら「記者さんって大変ですね。一緒に風呂も入らないといけないんだから」と笑って、ボディーソープをこっちに回してくれた。口数はさほど多くない。どこか天然なところがある。それでも、心優しい男であることは、容易に想像ができた。

 栄えある黄金世代の一員である。煌びやかなタレントが居並ぶなかでは、たしかに目立たない存在だったかもしれない。ただそれでも、じっと近くで取材していた者からすれば、ソガほどメンタルタフネスを備えた選手はいなかった。

 1999年のワールドユースに続き、2000年のシドニーオリンピックでもバックアップメンバーだった。大会には選手登録されていないため、サポーティングスタッフのひとりとして黒子役を演じ切るほかない。曽ヶ端の人間性と勤勉さを評価しての人選だったのだろうが、当時は見ていて可哀そうでならなかった。

 大会中はホペイロのような仕事もこなしていた。せっせと練習後に選手たちが使う氷のうを丁寧に作っていた19歳。その背中に向かって「頑張ってるな」と声を掛けると、「アイシング、めっちゃ上手くなりましたよ!」と言って笑顔で返してくれる。こんな、涙がこみ上げてきそうな場面は何度かあった。

 それでも愚痴は一度も聞いたことがない。仲間のために自分にできる最大限の貢献をしようと、みずからを奮い立たせていた。フィリップ・トルシエとの関係に思い悩む選手も、怪我やコンディション不良で出場機会を失った選手も、曽ヶ端の振る舞いを見て襟を正した。いつしか黄金世代を明るく照らす不可欠な存在となり、小野伸二や小笠原満男はいまでも当時を振り返るとき、決まって曽ヶ端への感謝を口にする。ワールドユースで準優勝を飾ったのは「18人」ではなく、「19人」だったと。

 やがて鹿島でレギュラーの座を掴み、A代表でも4試合に出場。7度のJ1リーグ優勝やアジア・チャンピオンズリーグ制覇を含めた17個のタイトル奪取は、小笠原と並ぶ日本人歴代最多の金字塔だ。日本サッカーの歴史にその名を残す、名GKである。

 仲間たちにアイシングをしながら、どんなことを考えていたのだろう。いまなら気軽に訊けるだろうか。

 23年間のプロキャリアに幕を閉じる真のレジェンド、曽ヶ端準。おつかれさまでした、そしてありがとう。わたしもあなたから、勇気と元気をもらった者のひとりです。

文●川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

引退の曽ケ端「始まりは1人のサポーター」鹿島一筋
[2020年12月24日17時35分]


曽ケ端準(2020年8月5日撮影)

J1鹿島アントラーズは24日、GK曽ケ端準(41)の現役引退を発表した。茨城県鹿嶋市で生まれ、育ち、下部組織からトップに昇格してプロ生活23年。まさに鹿島一筋、多くのタイトル獲得に貢献した硬派な守護神が、グローブを置く決断を下した。

「鹿嶋で生まれ育ち、このまちに鹿島アントラーズが誕生し、始まりは1人のサポーターでした。それがユースに入り、プロになり、1つのクラブでここまで長くプレーできるとは想像もしていませんでした」。鹿島とともに歩んだプロ人生を、そう振り返った。

実家はカシマスタジアムの近くにある。鹿島のJリーグ参入が決まり、スタジアム建設が始まったのは、曽ケ端が小学校卒業間近の92年3月だった。93年5月のJリーグ開幕に向けた突貫工事。「家から、どんどんスタジアムができあがっていくのが見えたんですよ。原っぱだったところが日々、スタジアムっぽくなっていくんです。うわ、できてるなって」。

もちろん、当時はプロ入りのイメージなんて持っていなかった。注目を浴び始めた鹿島中3年時は強豪高校、鹿島ユース入りしてからも一時は強豪大学を進路に考えていた時期があった。そのたび、鹿島から声がかかった。運命に導かれるかのように。

曽ケ端は以前、かみしめるように、話していたことがある。「Jリーグが始まっていなければ、地元にプロクラブができていなければ、僕の人生は全く違うものになっていたと思います。いや、どんな人生になっていたか、想像すらできません。J創設、鹿島創設に関わった全ての方には感謝しかありません」。

98年に小笠原満男氏、中田浩二氏、本山雅志氏ら「黄金世代」の一員としてプロ入りし、01年に定位置を獲得すると名門のゴールを死守し続けた。ここ3シーズンは控えに甘んじる時間が長くなったが、腐ることなく、プロとしての姿勢を貫いた。勝利のためにGK陣と競い合い、時には手厚く後方支援した。

プロとして気高い誇りを持っていた。自らのミスで黒星を喫した試合終了直後のこと。取材をためらう報道陣に対し、「きちんと聞いて下さい。僕もプロとしてミスについて話しますから。良い時ばかりじゃないし、悪い時でも対応しますから」と言ったことがあった。プロ生活23年は、全ての責任を背負う覚悟を貫いた日々でもあった。

「鹿島アントラーズで獲得した数多くのタイトル、ともに戦った監督、選手、スタッフ、フロント、パートナー、自分と関わってくれた指導者、いつも支えてくれた両親、兄、妻、子どもたち、そしてファン・サポーターの方々、すべてが財産です。このクラブで勝利のためにプレーし、引退できることを、心からうれしく思います。23年間、ありがとうございました」。

このクラブで勝利のためにプレーし、引退できることを、心からうれしく思います-。その一言からも、素晴らしいプロ生活を全うできたのだろうと感じることができた。このように引き際を飾れる選手は一握りだと思う。曽ケ端には、せんえつながら「引退、おめでとう!」という言葉を贈りたい。【元鹿島担当・菅家大輔】

鹿島曽ケ端、大きな存在感と対照的に小さい日常の声
[2020年12月25日7時30分]


鹿島GK曽ケ端準


鹿島対ナシオナル・メデジン 前半、相手シュートを止める鹿島GK曽ケ端(2016年12月14日撮影)


<こんな人>

元日本代表の鹿島アントラーズGK曽ケ端準(41)が24日、クラブを通じ、現役引退を発表した。

曽ケ端は鹿島ユースから98年に鹿島入り。鹿島一筋で23年間プレーした。

 ◇   ◇   ◇

鹿島アントラーズGK曽ケ端準(41)を、私はひそかに「曽ケ神(そがしん)」と心の中で呼んでいた。敬意を表して。16年12月4日、クラブW杯準決勝でナシオナル・メデジン(コロンビア)を完封し、3-0勝利で決勝進出。決定的な場面を何度も防いだ最高殊勲者。この試合までの大会セーブ率は脅威の92・9%。日刊スポーツも翌5日付の紙面で「神セーブ連発」「ベテラン守護神」などの見出しや、記事でたたえた。つもりだった。

5日の一夜明け練習だったと記憶している。「本当に神がかっていましたよね」と雑談。帰ってきた言葉に驚かされた。

曽ケ端 神セーブとか守護神とかっていうのは、あまり好きじゃないんですよね。神っていうのは自分の力以上の神がかったものってことですよね。相手のシュートを止めることが出来るのは、他の選手が協力してコースを限定してくれているからこその部分もあるし、たとえミスがあっても、それも自分。そのために毎日、しっかり準備をしてきているので、良いシュートストップが出来た時も、神がかっているというのは違うと思う。

決して、見出しなどを否定しているのではなく、曽ケ端自身の信念だった。それだけ試合に出場する責任感も強い。Jリーグ244試合連続フル出場や、天皇杯66試合出場の歴代1位記録も、神業ではなく、日々の練習から全力で積み重ねてきた証しだ。

ただ、大きな存在感とは対照的に、日常の声は極めて小さい。コロナ禍以前、伝統的に鹿島は駐車場での取材が通例だった。車のエンジンをかけて運転席に座ってからの会話は、“ポールポジション”でなければ聞こえなかった。今後は、第2の曽ケ端育成に期待している。ピッチ上と同じような声のボリュームで、神のお告げならぬ“ソガのお告げ”を次世代に伝えてほしい。【元鹿島担当 鎌田直秀】

鹿島・曽ケ端 同僚に「パパのよう」と慕われ、尊敬され、いじられる存在
[ 2020年12月25日 05:30 ]


18年にはACLを制して歓喜の表情を浮かべる鹿島イレブン(撮影・西尾大助)
Photo By スポニチ


 【記者フリートーク】どうぞ、と艶やかなイチゴを差し出してくれた。ある日の練習後のこと。鹿島・曽ケ端は毎年、知人の育てたイチゴをスタッフに差し入れしている。遠くから物欲しげに見ていた視線に気付いたのか、振る舞ってくれた。練習場に通う間隔が空けば「来ないじゃないですか」。担当を外れた後に行けば「裏切り者」。記者までもよく見て、温かく声を掛けてくれた。
 16年10月から20年元日まで鹿島担当を務めたが、練習に参加していなかった日は、記憶する限り1日しかない。番記者になりたての頃、曽ケ端が嫌うという言葉を他社の先輩から聞いた。再三シュートを防いだ時に使う「当たってますね」という言葉だ。まぐれで出せる結果などない。日々の努力をいかに大切にしているか。決して言えない言葉であると、すぐに分かった。

 同僚からは「パパのよう」と慕われ、40歳の誕生日にはプロ1年目の選手からも水を浴びせられていた。尊敬され、いじられる、まれな存在だった。練習場に曽ケ端がいなくなる。その喪失感は、いかほどのものか。(サッカー担当・波多野詩菜)

【鹿島】GK曽ケ端準が引退…アントラーズ一筋23年、J1最長「ワンクラブマン」
2020年12月25日 6時0分スポーツ報知


現役引退を発表した鹿島・曽ケ端

 鹿島は24日、元日本代表GK曽ケ端準(41)が現役を引退すると発表した。J1の同一クラブでプレーした「ワンクラブマン」で、23年間は歴代最長。J1通算533試合は歴代5位、リーグ7度、ルヴァン杯(旧ナビスコ杯)5度、天皇杯4度、ACL1度と主要4大会で17度の優勝に貢献した。

 98年に下部組織からトップに昇格すると、4年目に主力になった。基本技術も高いが、秀逸だったのはコーチング。DF陣へ送る位置取りや相手を追い込む方向の指示は的確で、多くのDFを成長させた。岩政大樹、伊野波雅彦、内田篤人、昌子源ら「鹿島のDFラインは即日本代表」という歴史を作った陰の立役者だった。

 日本代表では、国際Aマッチ4試合に出場。02年日韓W杯メンバーに選出され、04年アテネ五輪ではオーバーエージ枠で出場した。才能が集まる“黄金世代”といわれる1979年生まれで、曽ケ端も輝く力を持っていた。「このクラブで勝利のためにプレーし、引退できることを心からうれしく思います」とコメント。内田篤人、中村憲剛、佐藤寿人に続き、偉大な選手がスパイクを置く決断をした。(内田 知宏)

 ◆曽ケ端 準(そがはた・ひとし)1979年8月2日、茨城・鹿島町(現鹿嶋市)生まれ。41歳。98年に鹿島ユースからトップ昇格。14年にはリーグ戦217試合連続出場を達成し、当時のリーグ記録更新。天皇杯の通算66試合出場も歴代最多。Jリーグ通算533試合出場。国際Aマッチ出場4試合。187センチ、80キロ。血液型B。

【鹿島】番記者が必ず受ける「ソガさんからの洗礼」…引退・曽ケ端準、運で片づけたくない高いプロ意識
2020年12月25日 7時0分スポーツ報知


曽ケ端準

 鹿島は24日、元日本代表GK曽ケ端準(41)が現役を引退すると発表した。J1の同一クラブでプレーした「ワンクラブマン」で、23年間は歴代最長。J1通算533試合は歴代5位、リーグ7度、ルヴァン杯(旧ナビスコ杯)5度、天皇杯4度、ACL1度と主要4大会で17度の優勝に貢献した。

 鹿島番記者は必ず「ソガさんからの洗礼」を受ける。曽ケ端が活躍した試合後に「当たっていましたね」と質問を向けると「その表現は好きじゃない。やめてください」と言われる。少なくとも5度、記者とのやり取りを見てきた。かくいう私も、担当2年目(03年)にそう言わせてしまった。失点を防ぐ日々の努力、計算、味方の協力があって、シュートストップがある。それを「当たる、当たらない」の運、不運で片づけてほしくないという思いだった。

 練習に来るのはチームで一番最初。正面切って味方に苦言を呈する姿は、鹿島の精神そのものだった。16年の担当歴で最も甘えを見せなかった選手。こだわりと高いプロ意識があったからこそ、歴代最長のワンクラブマンになれたのだと感じる。(鹿島担当・内田 知宏)

【引退】“ら”から這い上がった曽ケ端準の23年間 ジーコが語った「すべての選手はソガを目指すべき」
posted2020/12/24 20:00


現役引退を表明した曽ケ端準。常勝軍団を最後尾から支え続けてきた

text by
池田博一
Hirokazu Ikeda

photograph by
Kiichi Matsumoto


 始まりは“何クソ”という思いからだった。

「僕以外の同期5人は、全国高校サッカー選手権大会で活躍した選手ばかりだったんです。いつも記事には5人の名前が順に並んで、『中田浩二、本山雅志、小笠原満男、山口武士、中村祥朗ら』。僕は、“ら”の1文字で扱われていた。そこはメディアに対して“何クソ”という気持ちがありましたね」

 1998年、鹿島アントラーズへ加入。日本サッカーを牽引してきた『ゴールデン・エイジ』と呼ばれた79年組は、どの選手も大いに注目された。そんな6人のうち、唯一高校サッカーではなく、アントラーズユースから昇格したのが曽ケ端準だった。


曽ケ端と同期入団だった中田浩二、小笠原満男、本山雅志(写真は99年) ©J.LEAGUE

兄のボールを受けた少年時代

 1979年8月2日、茨城県鹿嶋市で生まれた。小学2年から2歳上の兄の影響でサッカーを始めた。GKになったのも、すぐだった。

「小学3年になったとき、チームにGKがいなかったので自分からやりたいと言ってGKになりました。それからずっとGKです」

 兄とサッカーをするときは、いつも兄がボールを蹴って曽ケ端がボールを受けた。それもあって「やってみようかな」という思いが生まれたという。

 今でこそ「あまり派手ではなく、着けたときの感覚がいいもの。指がスムーズに動く固さのないものがいい」というGKグローブへのこだわりがあるものの、当時は素手やゴムのついた手袋をGKグローブとしてボールを受け続けた。

住友金属蹴球団時代からのファン

 サッカー少年だった小学生時代、ジーコが出場する試合を観戦した。そのときのことが、今でも脳裏に刻まれている。

「当時、自分の試合があったので、なかなか日本サッカーリーグの試合を見に行くことはできなかったのですが、その試合だけは見に行きました」

 1991年、鹿島アントラーズの前身である住友金属蹴球団にジーコが加入。初めて出場した試合は住金グラウンド(現日本製鉄グラウンド)で行われた。当時、スタンドで観戦する小学生の曽ケ端をインタビューした映像が、今も残っている。その後、鹿島アントラーズのJリーグ入りが決まり、鹿嶋市(当時鹿島町)全体で大きな話題となった。

「Jリーグが始まってからは、ほとんどの試合を見に行っていました。当時、中学生でしたが、地元のサッカー部に所属していて、選抜に選ばれる選手も多く割と強かったんですよ」

 小学生のときから、母体となった住友金属蹴球団を見て育った。そして、その後に誕生した鹿島アントラーズのサポーターでもあったのだ。

99年5月のデビュー戦は完封勝利

 1998年にアントラーズユースから昇格してプロ入り。初出場は2年目だった。1999年5月8日、アビスパ福岡戦。先輩である柳沢敦の地元・富山県で行われた試合だ。同期の中田、本山、小笠原はすでにデビューしていて、「早く出たい」と思っていたなかでチャンスが巡ってきた。

「試合が始まって、まずボールにさわりたいと思っていたところで奥野(僚右)さんがバックパスをくれた。あれで落ち着くことができました」

 終始攻め続け、大きなピンチもなく3-0でデビュー戦を勝利した。


小笠原ら同期から後れを取ったが、99年にJデビュー ©Takao Yamada

 その後、2001年ファーストステージの途中からスタメンに定着。この年、ジュビロ磐田を相手にチャンピオンシップを制し、初めてピッチ上でタイトルを獲得した。その後は鹿島アントラーズの守護神として長くゴールを守り続け、数多くのタイトルを手にした。2004年にオーバーエイジとしてアテネ五輪、2002年には日韓ワールドカップメンバー入り。日本を代表するGKの1人として君臨し続けた。

鹿島の先輩たちに学んだ姿勢

 転機は2015年に訪れた。

 2015シーズンの開幕戦でスタメンから外れ、2007年から続いていた連続フルタイム連続出場は、Jリーグ記録となる244で止まった。

「スタメンで出始めてから、常に年上の選手がいる状況だった。小澤英明さんが長く現役を続けていて、試合に出られなくても必死にやっている姿を目の当たりにしてきた。試合に出ながら、年上の選手がやっている姿を見て、試合に出ているかどうかではなく、常にやるべきことをやらなければいけないということを学んできた」

 腐らず、日々のトレーニングに集中した。一時は佐藤昭大にポジションを奪われたが、再び奪い返す。クラブワールドカップでは決勝でレアル・マドリーと対峙。いまだに連続フルタイム出場の記録は破られていない。

「2015年に自分が出られない立場になったけれど、必死に“ポジションを取り返すんだ”という気持ちでやっていた。そこは上の選手を見て学んだところ」

 これまで即戦力のGKが加入することはなかった。しかし2017年、クォン・スンテが加入。韓国代表であり、AFCチャンピオンズリーグを制した実績や実力は申し分ない。それでも一度はポジションを奪われながら、またも奪い返した。常に“何クソ”という思いで、試合出場にこだわった。


17年に加入したGKクォン・スンテとは、互いに高め合ってきた ©Getty Images

永木「ソガさんのはすごい」

 鹿島アントラーズでは、シーズン始めに鹿島神宮へ必勝祈願を行うのが恒例となっている。その際に、全選手が絵馬に目標を自ら記す。そこにも試合出場へのこだわりは表れる。

「全試合フル出場」

 曽ケ端は毎年こう書いてきた。

「優勝を一度も経験することなく、現役を引退する選手が多くいるなか、試合に出て多くのタイトルに貢献してきた。それはやっぱりうれしいし、達成感がある。でも、少しも満足していない。もっと優勝したい、もっと成長したい。そう思いながらやっている」

 チームメイトの永木亮太は、近くでその姿勢に刺激を受けてきた。

「プロの選手はみんな負けず嫌い。それはベースにあるけれど、ソガさんのはすごい。40歳を過ぎてもギラギラしているのを感じる。だからこそ、これだけ長くトップレベルで続けられたんだと思う。見習うべきお手本です」

「ミスをしたときこそ、聞きに来てほしい」

 変わらない姿勢がある。

 試合後のメディア対応の際は、“ミスがあっても、いつもと変わらず聞いてほしい”ということだ。

 GKをはじめ、ディフェンスの選手は失点にからむ機会が多いもの。1つのミスが失点に直結する残酷なポジションでもある。人間誰しも失敗やミスをすれば下を向いてしまう。できればあまりふれてほしくないのが、本当のところではないだろうか。

 曽ケ端は違う。

「なぜ聞きに来てくれなかったのか。ミスをしたときこそ、聞きに来てほしい。これまで何度もミスをして失点したことはある。でも、取材する人には優勝したり、勝ったときと同じように話を聞きに来てほしい」

 試合後のメディアへの囲み取材。ミスが敗戦につながった場合、選手によっては落ち込んでいることがすぐにわかったり、ときに目を真っ赤にして取材エリアに出てくることがある。プロとして真剣勝負への思いが直に伝わる場面の1つだ。

 話を聞く側も人間である。ミスをすれば、やっぱりどこか聞きにくい。“それでも聞くのがプロの仕事でしょう”。そんなメッセージとして受け取った記者は少なくない。

任された寮長、新人にもベテランにも厳しく
 独身時代、選手寮の寮長を長く任された。自分に対してはもちろん、チームメイトにもプロとしての姿勢を求めた。寮の入り口に車を止めたまま食事をする選手がいれば、駐車場に止めるよう注意。クラブハウスで出しっぱなしのシューズがあれば注意。取材エリアを素通りする選手がいれば、「取材を受けろ」と注意。それが新人であってもベテランであっても、対応は変わらない。日々の練習では、遅くとも1時間前には来て準備。練習前にロッカー前のソファーでテレビを見ながら指にテーピングを巻く曽ケ端の姿は、いつもの光景だった。


©Getty Images

 これを23年間、続けてきた。

 慢心を感じさせない、いつも変わらぬ姿勢を貫いた。チームを引き締める上で多くの役割を果たし、アントラーズ伝統の堅守を象徴する選手だった。

ジーコが曽ケ端へ贈った言葉

 12月24日、曽ケ端は現役引退を発表した。

 現役最後の公式戦は8月5日のYBCルヴァンカップ川崎フロンターレ戦となった。好きな赤いスパイクを履いてのプレー。同大会は、2001年ニューヒーロー賞をGKで唯一受賞した縁のある大会でもあった。

 鹿島アントラーズの礎を築いたジーコ・テクニカルディレクターは曽ケ端をこう評す。

「アントラーズのすべての選手がソガを目指すべきだろう。常に勝利のためにすべてを捧げ、選手としても人間としても、模範となる選手だった」

 曽ケ端自身、目指す選手像は「負けない選手」だった。

「そいつが試合に出ていれば負けないという選手を目指してきました。何点取られても、ミスしてもいい。“あいつが出ているとなんか勝つよね”、それでいい。そうなると変えられないし、試合に使われるんです」

 まさにジーコが常々語る「サッカー選手としての価値はタイトルの数にある。引退後は獲得したその数が履歴書となる」という言葉と、自ら目指す選手像の両方を体現して現役を終えた。


©Shigeki Yamamoto

 振り返れば、“ら”の1文字で扱われた男が、アントラーズで一番最後まで現役として残った。

「何が起こるかわからないですよね。これまで“何クソ”と思ってやってきたからこそ、ここまで来られたんだと思います」

 2020年12月24日。

 常に優勝を義務付けられるアントラーズで23年間プレーしてきた。史上初の3冠、3連覇、クラブ悲願のアジア制覇。アントラーズの栄光は、曽ケ端とともに築かれてきた。全公式戦出場数746試合、手にしたタイトルは17個。日本でもっともタイトルを獲った、プロ中のプロがスパイクを脱いだ日となった。

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Author:Fundamentalism
鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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