岩政大樹氏、要はやるか、やらないか
岩政大樹氏について取材したTHE ANSWER編集部である。
プロ入りへの苦悩、大学を目指したことが伝えられる。
この記事から岩政が異色であったことがよくわかる。
理数系Jリーガーであった。
鹿島在籍時にこのことを知っておればもっと別の応援方法があったように今は思う。
指導者・教育者となった岩政大樹准教授がどのようなサッカー選手・人材を育成していくのであろうか。
注目である。

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環境は変えられない― 離島で生まれ育った岩政大樹がプロサッカー選手になれた理由
2021.01.18
著者 : THE ANSWER編集部
現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じ、自身の経験を語ってくれた。

「THE ANSWER」の取材に応じた、元日本代表の岩政大樹氏【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
「島の外に出るのが難しい」…生まれ育った山口・周防大島町町は高齢化率53%超の離島
現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じ、自身の経験を語ってくれた。
前後編でお届けする前編は「不利な環境の乗り越え方」。離島で生まれ育ったゆえに苦労したことは、本土との物理的な距離による移動の困難さと情報不足だった。サッカーを続けるためには島を出なければいけないような環境に生まれ育った岩政氏は、どうしてサッカーを続けることができたのだろうか。
◇ ◇ ◇
「将来の夢って何ですかね?」。大人たちは簡単に「夢を持て」と言うけれど、目に映る世界は美しい山と海しかなかった。両親はともに教師。定年退職を迎えた祖父母は農業を営んでいた。6人しかいなかった同級生の親は、派出所の駐在員やバスの運転手、商店の店主。現在のようにインターネットが普及していなかった離島では、将来の夢や目標を見つけることさえ簡単ではなかった。
山口県周防大島町。瀬戸内海に浮かぶこの島は、瀬戸内の穏やかな海と連なる山々からなる。1万6000人ほどの人口に対し、65歳以上の高齢者の数は約半数。高齢化率は実に53パーセントを超える。日本全体の高齢化率が約28パーセントであることを考えれば、どれだけ高齢化が進んだ地域か理解できる。「昔、高齢者の割合が日本一だと聞いたことがあります。日本は高齢化率が世界1位なので、もしかしたら大島は世界一なんじゃないかって話をよくしていました。簡単に言えば、僕が生まれ育った島はそういう町です」。岩政氏は故郷について、そう説明した。
「今でこそ、IターンやUターンが増えており、インターネットがつながればどこででも生活できるという時代になってきましたけど、僕たちが子供の頃はやれることに制限がありました。だからサッカー少年たちも、中学でサッカーを続けられない現状があって、島の外に出ていく子も多かった。いろいろなものが足りない場所でもありましたね」
1976年に開通した大島大橋によって、島は本土とつながっている。しかし、周防大島は瀬戸内海に浮かぶ島のなかで3番目に面積が大きく、橋に近い地域に住んでいる人たちは簡単に島を出ることができるが、そうではない人たちは島を出るのは容易ではなかった。岩政氏が住んでいた地域でも「自転車だと1時間。車でも、15分ほどかかっていた」という。さらに今でこそ橋を渡るのは無料だが、岩政氏が子供の頃は有料だったため、「島の外に出るのが、今よりも難しい時代だった」と振り返る。
日用品は島の外にある柳井市で揃え、「家族の行事のようなもの」とたとえた月1回の家族での買い物は車で1時間ほどかかる岩国市か徳山市に出かけ、そこで洋服などを買ってもらった。そして、車で2時間ほどかかる広島までの遠出は、岩政少年にとって「1年に1度の一大イベント」だった。

岩政氏がサッカーを始めたきっかけとは【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
島の子供たちがなかなかサッカーを続けられない理由とは
岩政氏が子供の時、島に小学校が十数校、中学校は9校あったが、通っていた小学校にサッカーチームはなかった。しかし、母親が勤務していた隣町の小学校は島内では大きく、そこに大島スポーツ少年団があった。小学校のPTAの方が「お子さんがいらっしゃるなら、サッカーチームに入ったら?」と母親に加入を勧めてくれた。その時に初めてサッカーチームがあることを知った。それまでは「サッカーチームに入ってサッカーをするということ自体が、全く頭になかった」という。
「当時はインターネットもなかったし、情報がない時代だったので、ただ好きでサッカーボールを蹴っていた。1年に1度だけ、2月に大島の小学校対抗でサッカー大会があって、それに向けて、各小学校で即席のチームを作って、2か月ぐらい練習していた」
岩政氏には、3つ上に兄がいる。岩政氏曰く「兄のほうが多才で、僕よりもサッカーがうまくてセンスがあった」。サッカーはボールと体があれば、どこででもできる。休みの日には校庭で、兄と一緒にボールを蹴って遊んだ。負けず嫌いだった岩政少年は、3歳年上の兄に対しても負けたくなかった。「体も大きいし、勝てるわけがないのに、毎日必死に兄に挑むのが僕のサッカーのスタートであり、ボールを蹴り始めるきっかけだった」。サッカーチームがなくとも、周りには自然とサッカーが好きになる環境が、岩政氏にはあった。
しかし、兄が小学生の時には、隣町にサッカーチームがあるという情報が入ってこなかったため、兄はサッカーを始めることができなかった。「僕自身は、たまたま小学4年生の時に情報が入ったのでサッカーを始めることができました。そうしたら、プロになることができた、という不思議な縁です。でも多分、情報が入ったのが6年生の時だったら、僕はサッカーを始めていなかったと思います」。
岩政氏がサッカーチームに入ると、同じ小学校の子どもたちもサッカーをやりたがった。しかし隣町まで通うには、バスで15分。練習が終わる頃にはもう帰るバスはなく、家族が車で迎えにきてくれなければ、自宅に帰ることはできない。そのため、通うことができず、サッカーを続けられない子もいた。
「僕の場合は、両親と祖父母が手伝ってくれて、毎日送り迎えをしてくれたことで続けることができました。でも、こんなこと、本土に住んでいたら考えなくて良かったわけですよね。自分が行きたいと思えば、自分で行けるし、練習が終われば、自分で帰ってくることもできる。そんな簡単なことでさえ、僕たちには難しかった。そういう環境だったんです」
タイミング良く情報を得られたこと、そして送り迎えをしてくれた家族のサポートを受けて、岩政少年は小学4年生のときに晴れて大島スポーツ少年団の門を叩き、サッカーを始めた。

離島ならではの距離という悩みは、家族の協力で乗り越えたと語った【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
離島ならではの距離というネック 家族の協力で乗り越えた
大島スポーツ少年団(以下、大島スポ少)での練習は水曜日、土曜日、日曜日。ただ、岩政氏がいた当時は少し特殊だったようで、大島スポ少として出場できる大会は同じ周東地区の大会のみ。2か月に1回開催される周東リーグと呼ばれるリーグ戦に参加するだけだった。次の県大会に出場するときには周東地区から1チーム、周東リーグで活躍している子供たちを集めた選抜チームのような周東FCというチームを作って出場していた。岩政氏は周りよりも少しだけ遅い、小学5年生の途中で声がかかり、周東FCの一員になった。
「今思えば、ようやっていたなと思いますね(苦笑)」と振り返る当時のトレーニングスケジュールは、火曜日が周東FC、水曜日が大島スポ少、木曜日が周東FC、そして土日は午前が周東FC、午後が大島スポ少という2部練習だった。
岩政氏の場合、ただ2チームに所属していたことの大変さだけではなかった。周東FCの練習場は島外にあるため、車で片道40分の道のりだ。大島スポ少に通うのと同じく、家族の協力がなくてはサッカーを続けることはできなかった。
「小学校の授業が終わるタイミングで学校の駐車場におじいちゃんがトラックで待っていて、授業が終わったら、おじいちゃんが40分かけて島の外まで連れていってくれました。練習後は、仕事を終えた両親が迎えに来ていて、両親の車で自宅に帰る。今考えると、おじいちゃんは当時60代で、僕は送ってもらうだけだったけど、おじいちゃんは僕をおろしたあとに、また島に帰っていたわけですから。本当に家族の協力がなければ、サッカーを続けることはできませんでした。実際に、周りにはやりたい子もいたし、親を説得すると言っていた子もいたんですが、結局はできなかった。そういう意味では、僕は恵まれていたんだなと思います」
離島で生まれ育ったというだけで、かかってしまう余分な負担。結果的にプロサッカー選手になったことで報われた部分も大きいが、家族にとっては、岩政少年に将来性を感じていたからこそのサポートだったのだろうか。その問いに、岩政氏は「子供がやりたいことをやらせてあげたいためだけにやってくれていたと思います」と否定した。
「当時からサッカーはうまくはないけど、運動能力はまあまああって、体は大きかった」。ディフェンスが安定しなければ試合には勝てない。当時の監督の方針で、運動能力の高い選手をセンターバックに置いた。そのため、岩政氏はサッカーを始めた当初からずっとセンターバックを任された。当時の立ち位置は、「大島スポ少では中心選手でしたけど、周東FCではギリギリレギュラーという感じ。周東FCでの中心選手は他にいて、僕は一番後ろから体を張って守って、声を出してチームを鼓舞することでチームに貢献していた」という。
すでにこの頃には、現役時代の岩政大樹のプレースタイルが確立されていた。

岩政氏は離島出身ゆえ、山や海を眺めながら何時間もサッカーのことを考えながら過ごしていた【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
得られる情報がないから、自分で考えるしかなかった
ちょうどサッカーにのめりこみ始めた頃にドーハの悲劇が起きた。小学6年生のときにはJリーグが開幕し、当然のように影響を受けた。「カズ、かっこいいな。井原(正巳)さんみたいな選手になりたいな」。テレビに映るJリーガーが輝いて見えた。それでも「Jリーガーになろうとは思わなかった」と口にする。
周東FCは県大会で6連覇するような強いチームだった。しかし、岩政氏は中心メンバーではなく、しかも「夢見る少年でもなかった」。
「都会の人には分からない感覚かもしれないですけど、夢って言われても現実味がなさすぎるんです。たとえば東京って言われても、どんなところか分からない。もう宇宙みたいなもので(笑)、全然手応えがない。人って、目に見えるものでいろいろなことが形作られていくと思うんですけど、目の前にあったのは山と海の大自然。仕事って言っても、漁師、商店、町役場、教師……くらいですからね。夢と言われても……という感じでした。だから周東FCに、キャプテンでチームの中心にいた選手がいたんですけど、そういう人がJリーガーになるのかな、くらいにしか思っていなかった。自分がJリーガーになりたいなんて、現実味がなさすぎて考えられなかった」
確かに前例や指針がなければ、夢や目標を持つことは難しい。岩政氏も「ちょっとでも周りが『Jリーガーになれるかもよ』とか言ってくれていたら、本気になって目指していたのかもしれない」と吐露した。
では、Jリーガーを目指していたわけではなかった岩政氏が、家族に送り迎えをしてもらってまでサッカーに打ち込んだ理由は何だったのか。それは、「試合に負けたくない」という究極の負けず嫌いだったから。普通の子供ならば、自身のサッカースキルを磨くことを考え、それが向上しなければ諦めてしまうことが多い。しかし、岩政少年は違った。ボール扱い、テクニック、スピードといったサッカーの才能が自分にないことを認め、そのうえで「じゃあ、どうしようか?」と早々に意識を切り替えた。
「どうやって勝とうかをずっと考えていましたね。島のチームなので、選手も揃っていないし、弱いのは分かっている。今でこそ、“デザイン”という言葉を使いますが、当時から『この試合をどうデザインすればいいんだろう?』というのは考えていました。25分ハーフの前後半50分で、どうやって勝ち切って試合を終わらせるのか。チームメートへの声掛けのトーンを試合のなかでアップダウンさせてコントロールしたり、相手チームに対しても、今どんな言葉を発したら動揺して緩ませることができるのかを考えたり。そういったことを当たり前に考えてプレーしていました」
サッカーを始めたばかりの小学生が、大人顔負けの思考力でプレーしていたことは驚きだが、自身の頭で考えるようになったのは、離島ゆえのことだった。
「島は本当に情報がなくて(苦笑)。本屋さんもないし、当時はまだインターネットも普及していなかったし、山口県はなぜかテレビのチャンネル数も2つぐらいしかなくて(笑)。だから得られる情報がなかった。ないから、得ようとは思っていなかったんでしょうね。だから自分で考えるしかなかった」
どうやって試合に勝つんだろう? そんな素朴で壮大な疑問を入り口にして、目の前に広がる山や海を眺めながら岩政少年は何時間もサッカーのことを考えて過ごした。生まれ育った環境を変えることは難しい。それでも、離島で過ごした時間と経験がプロサッカー選手・岩政大樹を形作ったように、考え方ひとつで、道を切り拓くことはできるのかもしれない。
■岩政大樹(いわまさ・だいき)
1982年1月30日、山口県生まれ。山口県立岩国高校を卒業後、一般入試で東京学芸大学に入学。大学卒業後に鹿島アントラーズに加入した。プロ1年目からセンターバックとして出場を重ね、シーズン後半にはスタメンに定着。在籍した10年間で、リーグ優勝(3回)、Jリーグカップ優勝(2回)、天皇杯優勝(2回)、ゼロックススーパーカップ優勝(2回)など“常勝軍団”の一員として活躍した。その後、タイリーグのBECテロ・サーサナFC、ファジアーノ岡山、東京ユナイテッドFCを経て、2018年に現役を引退。現在は上部大学サッカー部監督として指導者の道を歩み始めている。
(THE ANSWER編集部)
11月まで部活動→国立大合格 元日本代表DFが説く文武両道「要はやるか、やらないか」
2021.01.19
著者 : THE ANSWER編集部
現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じた。

岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じた【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
進学校で教師を目指していた岩政大樹氏「大学でサッカーを続ける気はなかった」
現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じた。
離島で生まれ育ったゆえに苦労したことを前編の「不利な環境の乗り越え方」で語ってくれたが、後編は「部活と学業の両立」。離島にある自宅から片道1時間半かけて通った高校時代、入試直前まで部活動に励みながら一般入試で東京学芸大に合格した岩政氏ならではの部活と学業の両立とはどんなものだったのだろうか。
◇ ◇ ◇
岩政氏が高校進学の際に選んだのは、県内屈指の進学校であり、山口県でベスト8に入るサッカー部がある県立岩国高校だった。自宅がある周防大島町からは片道約1時間半の距離。「頑張れば通える」と進学を決めた。
山口県は、サッカー自体は盛んではあるものの、Jリーガーを輩出するような、いわゆるサッカー強豪校はない。当時、Jリーガーを本気で目指す人は高校で、鹿児島実業や長崎県の国見、サンフレッチェ広島ユースなど、県外のサッカー強豪校やJリーグクラブのユースチームに進むのが一般的だった。現に、岩政氏の1学年下に当たり、のちに浦和レッズに入団した田中達也は、東京の帝京に進学した。
高校生になり、ようやく県選抜に入れるようになった岩政氏は、当然ながら「Jリーガーになろうとは一切考えていなかった」という。
「大学でも、もともとはサッカーを続ける気はありませんでした。サークルに入って、週に1回ぐらいボールを蹴るのかなと。周りもそういう感じだったし、その頃にはもう将来は教師になろうと決めていたので、高校で順調に勉強ができれば広島大学の教育学部、もしくは、山口大学の教育学部にいこうと思っていたんです。そのどちらも当時のサッカー部は強くなかったこともあって、大学でサッカーを続ける気はなかったんです」
当時の岩政氏の頭のなかに「東京学芸大学」の文字は出てこない。それどころか、サッカーを真剣に続けるのは高校で終わりにしようと考えていた。それが、なぜ東京学芸大学へ進学し、サッカーを続けることになったのか。そこには、不思議な縁ともいえる、2つの理由があった。

国体を怪我で欠場し、大学でもサッカーを続けることを決意【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
“引退”と位置付けた国体を怪我で欠場 不完全燃焼で揺れ動いた気持ち
全国大会に進むレベルではなかった岩国高校サッカー部は、冬の高校サッカー選手権大会の本戦には出られない。そこで「大学までサッカーを続けない僕らにとっては最後の大舞台」と位置付けた10月の国体(国民体育大会)を、岩政氏は選手としての最終目標に掲げた。
「当時の国体は高校3年生が出場する大会だったので、県選抜に選ばれ続けて、国体に出たい! と思っていました。Jリーガーになった今思えば、なんであんなに国体を目指していたのか分からなくなりますけど(笑)。それでも当時は、国体のメンバーに入るということはすごいことだったんです。だからそこを目指して、高校3年間サッカーをやり切るつもりでした。順調に進んで、最後、国体のメンバーに選ばれて……」
しかし、アクシデントが岩政氏を襲う。国体に出発する2日前だった。第五中足骨を骨折し、国体には出られなくなってしまった。「怪我をしてからの数週間の記憶がほとんどない」。そう語るほど、ショックは大きかった。
諦められなかった岩政氏は、国体の2週間後に始まった選手権予選でスパイクのなかでギプスをはめたまま試合に出た。「スタメンで出させてくれ」と懇願したが、さすがにそれは叶わず。「すごく痛かった」が、なんとか最後の10分間に出場した。
サッカー選手としての最後の試合は、選手権予選の2回戦だった。土日で、2回戦と3回戦が組まれており、2回戦で負けたら、翌日に開催される模試を受けなければいけなかった。勝てば、模試には行かなくていい。しかし、チームは2回戦で敗戦。翌日の模試に行かなければいけなくなった。「引退と思っていた区切りが、そういう形で終わって……」。消化不良を抱えたまま、翌日の日曜日、岩政氏は両親の車で模試を受けに岩国高校まで行った。しかし、岩政氏は模試を“初めて”サボった。
「校門をまたいだけど、何を思ったか、模試をサボったんです。人生で一度もサボったことなんてなかったのに。両親にも言っていなかったことですけど、1日中、岩国の町を徘徊して、模試が終わる頃にまた高校に戻ってきたんです」
そして、大学でサッカーを続けることを両親に伝えた。
そこから2週間、岩政家では家族会議が始まった。岩政氏自身も、毎日のように気持ちが揺れ動いたという。別にJリーガーになるわけでもないのに、そこまでして何でわざわざ大学でサッカーを続けるのか。ここまでずっとサッカーをやってきたのに、こんな不完全燃焼のままで終わっていいのか。そんな相反する気持ちが毎日行ったり来たりしていた。
最終的には、「サッカーをもう一回、本気でやってみたい」「国体で味わうはずだった全国を味わわずにやめることはできない」と急遽、11月に進路を変更した。

広島大学から東京学芸大学へ志望変更した理由を語る【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
導かれるように広島大学から志望変更した理由とは
新しく決めた進路は、東京学芸大学だった。同じ国体メンバーだった選手がチームメートに話していた「筑波大学を受験するけど、ダメだったら、東京学芸大学を受ける」という会話がずっと引っかかっていた岩政氏は、山口に戻ると東京学芸大について調べた。すると、志望校に決めていた広島大と偏差値がほぼ同じ。しかも、広島大の2次試験の受験科目が英語と数学なのに対して、学芸大は数学のみ。「めっちゃラクやん」。そう考えた岩政氏をさらに後押ししたのは、学芸大のサッカー部が関東1部リーグにいたことだった。
「筑波も考えたけど、当時の僕は無名だったので、仮に筑波に行っても試合には出られないだろうなと。その分、学芸大は募集人数自体が少ないので、無名の僕にもチャンスがあるんじゃないかって思ったんです。そういうのをいろいろ考えると、これはもう行くべきだと言われているんじゃないかと」
岩政氏は何かに導かれるように東京学芸大学を受験し、見事合格した。
とはいえ、11月までサッカーに打ち込んでいた部活生が、どうやって国立大学に、しかも一般入試で合格できたのだろうか。「特別、受験勉強らしいことはしていなかった」と口にする岩政氏が当時やっていた勉強法は、現役時代に理路整然と守備戦術を語っていた彼らしい、目標から逆算した実にロジカルな方法だった。
「実は僕、高校は普通科に入学したんですけど、2年生の時に理数科に転科するという事件を起こしたんです(笑)」。岩国の理数科は偏差値が高く、普通科の生徒にとっては「違う集団」という感覚だった。1学年9クラスあるなかで、理数科は1クラスだけ。3年間同じクラスの、1年をすでに過ぎているクラスに途中から入る生徒は誰もいなかった。
「3年の国体を目指すと、11月まで選手権予選がある。他のみんなは6月のインターハイ予選で引退するのが一般的だったけど、僕は1人だけ11月までやると決めていた。となると、勉強をどうするか。理数科は普通科と比べて勉強の進み具合が半年早い。3年の半年間を理数科に入ることで、補えるんじゃないか」
岩政氏の目論見は的中した。理数科へ転科したことで、2年生の段階で3年生までの授業は終わることになる。ただし逆に言えば、理数科では終わっているが、普通科では終わっていない箇所がある。そこについては独学で勉強した。おかげで、3年生になって「慌てて受験勉強をした記憶はなかった」。
とはいえ、授業の進みを早めただけで合格できるほど、国立大受験は甘くはない。さらに岩政氏は、自宅のある離島から片道1時間半、往復3時間かけて通学していた。居残り練習もせず、電車に飛び乗り、島の最寄駅で両親の迎えの車に乗って自宅に戻ると、すでに夜の8時を過ぎていた。本気でサッカーに打ち込んで帰宅し、ご飯を食べて、勉強するなんて、「これは無理だな」とすぐに理解した。

岩政氏は、文武両道について「要は、やるか、やらないか」だと語る【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
そこで考えたのが、電車の移動時間を勉強に充てることだった。行きの電車では、その日ある授業の教科書を読み、帰りの電車では、その日の授業で書き写したノートを確認する。宿題が出ると、「休み時間に全部終わらせた」という。
「要は予習復習ですよね。そうやってコツコツやっておくと、授業の入りが全然違うわけです。予習をしないで授業に入ると難しくて全然分からなかったけど、内容は理解できなくてもいいので、授業の前に教科書に目を通しておく。そうすると、先生が授業で説明してくれるので理解しやすいんです。それだけやっておいて、あとはテスト前に集中して落とし込むという感じでした」
テスト勉強は2週間前に始まる。まずは計画表を作成する。2週間でやらないといけないことを洗い出し、そこからいつ何を勉強するか、はめ込んでいく。実は2週間あれば、1日にやらないといけないことはそんなに多くはない。そのため岩政氏は「毎日夜の11時ぐらいには寝ていたし、遅くまで勉強を必死にやった、という日は一日もなかったですね」と振り返る。
岩政氏の勝因は、自分の実力を見定めて、早めに目標を決めて、そこに向けて計画的に努力したことだ。「高校に入ると、目標値も分かってくるし、模試を受けることで自分のレベルも分かってきた。だからバリバリひたすら勉強しなくても、予習復習で頭に入れて、センター試験で規定の点数を取れるレベルに到達できるように勉強していた」。
というのも、当時の岩政氏の中心にあったのがサッカーだったからだ。「とにかく勉強を部活とどう両立させるか」という考えのもと、サッカーをするために必要なもの、やらなきゃいけないものをやる。そこに離島という不利な条件も相まって、「他の人と同じにはできない。だから3年間回せる方法でやらないといけなかった」という考えに至った。
生粋のセンターバックは、リスク管理も完璧だった。どんなに綿密に計画を立てていても、イレギュラーが発生し、計画が崩れてしまうことがある。しかし岩政氏は「もちろんその日は設けています」と軽くかわした。
「できない日があることは想定していたので、だいたい金曜日にその日を設けていました。その週にできなかったもの、終わらなかったものを“移す日”。逆に言えば、木曜日までにきちんとできていれば、金曜日は遊び放題なんです。だからそれをモチベーションにやっていたところもあります(笑)。この“移す日”を設けてからは、気持ちもラクになって、スムーズに勉強できるようになっていきましたね」
部活と学業の両立は、スポーツに打ち込む学生にとって、避けては通れない課題だ。しかし、岩政氏は言う。「両立って、できるかできないで語る人が多いですが、僕はそのレベルではないと思っています。高校生までは『やります』と決めれば、できるんです。要は、やるか、やらないか、なんですよ」。
人生は、選択の連続。自分で選択してきたからこそ、今がある。「両立したほうが、人生はトクですよ」。人生の先輩は、そう誘い掛ける。やるか、やらないか――。さあ、アナタはどっちを選びますか。
■岩政大樹(いわまさ・だいき)
1982年1月30日、山口県生まれ。山口県立岩国高校を卒業後、一般入試で東京学芸大学に入学。大学卒業後に鹿島アントラーズに加入した。プロ1年目からセンターバックとして出場を重ね、シーズン後半にはスタメンに定着。在籍した10年間で、リーグ優勝(3回)、Jリーグカップ優勝(2回)、天皇杯優勝(2回)、ゼロックススーパーカップ優勝(2回)など“常勝軍団”の一員として活躍した。その後、タイリーグのBECテロ・サーサナFC、ファジアーノ岡山、東京ユナイテッドFCを経て、2018年に現役を引退。現在は上武大学サッカー部監督として指導者の道を歩み始めている。
プロ入りへの苦悩、大学を目指したことが伝えられる。
この記事から岩政が異色であったことがよくわかる。
理数系Jリーガーであった。
鹿島在籍時にこのことを知っておればもっと別の応援方法があったように今は思う。
指導者・教育者となった岩政大樹准教授がどのようなサッカー選手・人材を育成していくのであろうか。
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2021.01.18
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現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じ、自身の経験を語ってくれた。

「THE ANSWER」の取材に応じた、元日本代表の岩政大樹氏【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
「島の外に出るのが難しい」…生まれ育った山口・周防大島町町は高齢化率53%超の離島
現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じ、自身の経験を語ってくれた。
前後編でお届けする前編は「不利な環境の乗り越え方」。離島で生まれ育ったゆえに苦労したことは、本土との物理的な距離による移動の困難さと情報不足だった。サッカーを続けるためには島を出なければいけないような環境に生まれ育った岩政氏は、どうしてサッカーを続けることができたのだろうか。
◇ ◇ ◇
「将来の夢って何ですかね?」。大人たちは簡単に「夢を持て」と言うけれど、目に映る世界は美しい山と海しかなかった。両親はともに教師。定年退職を迎えた祖父母は農業を営んでいた。6人しかいなかった同級生の親は、派出所の駐在員やバスの運転手、商店の店主。現在のようにインターネットが普及していなかった離島では、将来の夢や目標を見つけることさえ簡単ではなかった。
山口県周防大島町。瀬戸内海に浮かぶこの島は、瀬戸内の穏やかな海と連なる山々からなる。1万6000人ほどの人口に対し、65歳以上の高齢者の数は約半数。高齢化率は実に53パーセントを超える。日本全体の高齢化率が約28パーセントであることを考えれば、どれだけ高齢化が進んだ地域か理解できる。「昔、高齢者の割合が日本一だと聞いたことがあります。日本は高齢化率が世界1位なので、もしかしたら大島は世界一なんじゃないかって話をよくしていました。簡単に言えば、僕が生まれ育った島はそういう町です」。岩政氏は故郷について、そう説明した。
「今でこそ、IターンやUターンが増えており、インターネットがつながればどこででも生活できるという時代になってきましたけど、僕たちが子供の頃はやれることに制限がありました。だからサッカー少年たちも、中学でサッカーを続けられない現状があって、島の外に出ていく子も多かった。いろいろなものが足りない場所でもありましたね」
1976年に開通した大島大橋によって、島は本土とつながっている。しかし、周防大島は瀬戸内海に浮かぶ島のなかで3番目に面積が大きく、橋に近い地域に住んでいる人たちは簡単に島を出ることができるが、そうではない人たちは島を出るのは容易ではなかった。岩政氏が住んでいた地域でも「自転車だと1時間。車でも、15分ほどかかっていた」という。さらに今でこそ橋を渡るのは無料だが、岩政氏が子供の頃は有料だったため、「島の外に出るのが、今よりも難しい時代だった」と振り返る。
日用品は島の外にある柳井市で揃え、「家族の行事のようなもの」とたとえた月1回の家族での買い物は車で1時間ほどかかる岩国市か徳山市に出かけ、そこで洋服などを買ってもらった。そして、車で2時間ほどかかる広島までの遠出は、岩政少年にとって「1年に1度の一大イベント」だった。

岩政氏がサッカーを始めたきっかけとは【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
島の子供たちがなかなかサッカーを続けられない理由とは
岩政氏が子供の時、島に小学校が十数校、中学校は9校あったが、通っていた小学校にサッカーチームはなかった。しかし、母親が勤務していた隣町の小学校は島内では大きく、そこに大島スポーツ少年団があった。小学校のPTAの方が「お子さんがいらっしゃるなら、サッカーチームに入ったら?」と母親に加入を勧めてくれた。その時に初めてサッカーチームがあることを知った。それまでは「サッカーチームに入ってサッカーをするということ自体が、全く頭になかった」という。
「当時はインターネットもなかったし、情報がない時代だったので、ただ好きでサッカーボールを蹴っていた。1年に1度だけ、2月に大島の小学校対抗でサッカー大会があって、それに向けて、各小学校で即席のチームを作って、2か月ぐらい練習していた」
岩政氏には、3つ上に兄がいる。岩政氏曰く「兄のほうが多才で、僕よりもサッカーがうまくてセンスがあった」。サッカーはボールと体があれば、どこででもできる。休みの日には校庭で、兄と一緒にボールを蹴って遊んだ。負けず嫌いだった岩政少年は、3歳年上の兄に対しても負けたくなかった。「体も大きいし、勝てるわけがないのに、毎日必死に兄に挑むのが僕のサッカーのスタートであり、ボールを蹴り始めるきっかけだった」。サッカーチームがなくとも、周りには自然とサッカーが好きになる環境が、岩政氏にはあった。
しかし、兄が小学生の時には、隣町にサッカーチームがあるという情報が入ってこなかったため、兄はサッカーを始めることができなかった。「僕自身は、たまたま小学4年生の時に情報が入ったのでサッカーを始めることができました。そうしたら、プロになることができた、という不思議な縁です。でも多分、情報が入ったのが6年生の時だったら、僕はサッカーを始めていなかったと思います」。
岩政氏がサッカーチームに入ると、同じ小学校の子どもたちもサッカーをやりたがった。しかし隣町まで通うには、バスで15分。練習が終わる頃にはもう帰るバスはなく、家族が車で迎えにきてくれなければ、自宅に帰ることはできない。そのため、通うことができず、サッカーを続けられない子もいた。
「僕の場合は、両親と祖父母が手伝ってくれて、毎日送り迎えをしてくれたことで続けることができました。でも、こんなこと、本土に住んでいたら考えなくて良かったわけですよね。自分が行きたいと思えば、自分で行けるし、練習が終われば、自分で帰ってくることもできる。そんな簡単なことでさえ、僕たちには難しかった。そういう環境だったんです」
タイミング良く情報を得られたこと、そして送り迎えをしてくれた家族のサポートを受けて、岩政少年は小学4年生のときに晴れて大島スポーツ少年団の門を叩き、サッカーを始めた。

離島ならではの距離という悩みは、家族の協力で乗り越えたと語った【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
離島ならではの距離というネック 家族の協力で乗り越えた
大島スポーツ少年団(以下、大島スポ少)での練習は水曜日、土曜日、日曜日。ただ、岩政氏がいた当時は少し特殊だったようで、大島スポ少として出場できる大会は同じ周東地区の大会のみ。2か月に1回開催される周東リーグと呼ばれるリーグ戦に参加するだけだった。次の県大会に出場するときには周東地区から1チーム、周東リーグで活躍している子供たちを集めた選抜チームのような周東FCというチームを作って出場していた。岩政氏は周りよりも少しだけ遅い、小学5年生の途中で声がかかり、周東FCの一員になった。
「今思えば、ようやっていたなと思いますね(苦笑)」と振り返る当時のトレーニングスケジュールは、火曜日が周東FC、水曜日が大島スポ少、木曜日が周東FC、そして土日は午前が周東FC、午後が大島スポ少という2部練習だった。
岩政氏の場合、ただ2チームに所属していたことの大変さだけではなかった。周東FCの練習場は島外にあるため、車で片道40分の道のりだ。大島スポ少に通うのと同じく、家族の協力がなくてはサッカーを続けることはできなかった。
「小学校の授業が終わるタイミングで学校の駐車場におじいちゃんがトラックで待っていて、授業が終わったら、おじいちゃんが40分かけて島の外まで連れていってくれました。練習後は、仕事を終えた両親が迎えに来ていて、両親の車で自宅に帰る。今考えると、おじいちゃんは当時60代で、僕は送ってもらうだけだったけど、おじいちゃんは僕をおろしたあとに、また島に帰っていたわけですから。本当に家族の協力がなければ、サッカーを続けることはできませんでした。実際に、周りにはやりたい子もいたし、親を説得すると言っていた子もいたんですが、結局はできなかった。そういう意味では、僕は恵まれていたんだなと思います」
離島で生まれ育ったというだけで、かかってしまう余分な負担。結果的にプロサッカー選手になったことで報われた部分も大きいが、家族にとっては、岩政少年に将来性を感じていたからこそのサポートだったのだろうか。その問いに、岩政氏は「子供がやりたいことをやらせてあげたいためだけにやってくれていたと思います」と否定した。
「当時からサッカーはうまくはないけど、運動能力はまあまああって、体は大きかった」。ディフェンスが安定しなければ試合には勝てない。当時の監督の方針で、運動能力の高い選手をセンターバックに置いた。そのため、岩政氏はサッカーを始めた当初からずっとセンターバックを任された。当時の立ち位置は、「大島スポ少では中心選手でしたけど、周東FCではギリギリレギュラーという感じ。周東FCでの中心選手は他にいて、僕は一番後ろから体を張って守って、声を出してチームを鼓舞することでチームに貢献していた」という。
すでにこの頃には、現役時代の岩政大樹のプレースタイルが確立されていた。

岩政氏は離島出身ゆえ、山や海を眺めながら何時間もサッカーのことを考えながら過ごしていた【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
得られる情報がないから、自分で考えるしかなかった
ちょうどサッカーにのめりこみ始めた頃にドーハの悲劇が起きた。小学6年生のときにはJリーグが開幕し、当然のように影響を受けた。「カズ、かっこいいな。井原(正巳)さんみたいな選手になりたいな」。テレビに映るJリーガーが輝いて見えた。それでも「Jリーガーになろうとは思わなかった」と口にする。
周東FCは県大会で6連覇するような強いチームだった。しかし、岩政氏は中心メンバーではなく、しかも「夢見る少年でもなかった」。
「都会の人には分からない感覚かもしれないですけど、夢って言われても現実味がなさすぎるんです。たとえば東京って言われても、どんなところか分からない。もう宇宙みたいなもので(笑)、全然手応えがない。人って、目に見えるものでいろいろなことが形作られていくと思うんですけど、目の前にあったのは山と海の大自然。仕事って言っても、漁師、商店、町役場、教師……くらいですからね。夢と言われても……という感じでした。だから周東FCに、キャプテンでチームの中心にいた選手がいたんですけど、そういう人がJリーガーになるのかな、くらいにしか思っていなかった。自分がJリーガーになりたいなんて、現実味がなさすぎて考えられなかった」
確かに前例や指針がなければ、夢や目標を持つことは難しい。岩政氏も「ちょっとでも周りが『Jリーガーになれるかもよ』とか言ってくれていたら、本気になって目指していたのかもしれない」と吐露した。
では、Jリーガーを目指していたわけではなかった岩政氏が、家族に送り迎えをしてもらってまでサッカーに打ち込んだ理由は何だったのか。それは、「試合に負けたくない」という究極の負けず嫌いだったから。普通の子供ならば、自身のサッカースキルを磨くことを考え、それが向上しなければ諦めてしまうことが多い。しかし、岩政少年は違った。ボール扱い、テクニック、スピードといったサッカーの才能が自分にないことを認め、そのうえで「じゃあ、どうしようか?」と早々に意識を切り替えた。
「どうやって勝とうかをずっと考えていましたね。島のチームなので、選手も揃っていないし、弱いのは分かっている。今でこそ、“デザイン”という言葉を使いますが、当時から『この試合をどうデザインすればいいんだろう?』というのは考えていました。25分ハーフの前後半50分で、どうやって勝ち切って試合を終わらせるのか。チームメートへの声掛けのトーンを試合のなかでアップダウンさせてコントロールしたり、相手チームに対しても、今どんな言葉を発したら動揺して緩ませることができるのかを考えたり。そういったことを当たり前に考えてプレーしていました」
サッカーを始めたばかりの小学生が、大人顔負けの思考力でプレーしていたことは驚きだが、自身の頭で考えるようになったのは、離島ゆえのことだった。
「島は本当に情報がなくて(苦笑)。本屋さんもないし、当時はまだインターネットも普及していなかったし、山口県はなぜかテレビのチャンネル数も2つぐらいしかなくて(笑)。だから得られる情報がなかった。ないから、得ようとは思っていなかったんでしょうね。だから自分で考えるしかなかった」
どうやって試合に勝つんだろう? そんな素朴で壮大な疑問を入り口にして、目の前に広がる山や海を眺めながら岩政少年は何時間もサッカーのことを考えて過ごした。生まれ育った環境を変えることは難しい。それでも、離島で過ごした時間と経験がプロサッカー選手・岩政大樹を形作ったように、考え方ひとつで、道を切り拓くことはできるのかもしれない。
■岩政大樹(いわまさ・だいき)
1982年1月30日、山口県生まれ。山口県立岩国高校を卒業後、一般入試で東京学芸大学に入学。大学卒業後に鹿島アントラーズに加入した。プロ1年目からセンターバックとして出場を重ね、シーズン後半にはスタメンに定着。在籍した10年間で、リーグ優勝(3回)、Jリーグカップ優勝(2回)、天皇杯優勝(2回)、ゼロックススーパーカップ優勝(2回)など“常勝軍団”の一員として活躍した。その後、タイリーグのBECテロ・サーサナFC、ファジアーノ岡山、東京ユナイテッドFCを経て、2018年に現役を引退。現在は上部大学サッカー部監督として指導者の道を歩み始めている。
(THE ANSWER編集部)
11月まで部活動→国立大合格 元日本代表DFが説く文武両道「要はやるか、やらないか」
2021.01.19
著者 : THE ANSWER編集部
現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じた。

岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じた【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
進学校で教師を目指していた岩政大樹氏「大学でサッカーを続ける気はなかった」
現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じた。
離島で生まれ育ったゆえに苦労したことを前編の「不利な環境の乗り越え方」で語ってくれたが、後編は「部活と学業の両立」。離島にある自宅から片道1時間半かけて通った高校時代、入試直前まで部活動に励みながら一般入試で東京学芸大に合格した岩政氏ならではの部活と学業の両立とはどんなものだったのだろうか。
◇ ◇ ◇
岩政氏が高校進学の際に選んだのは、県内屈指の進学校であり、山口県でベスト8に入るサッカー部がある県立岩国高校だった。自宅がある周防大島町からは片道約1時間半の距離。「頑張れば通える」と進学を決めた。
山口県は、サッカー自体は盛んではあるものの、Jリーガーを輩出するような、いわゆるサッカー強豪校はない。当時、Jリーガーを本気で目指す人は高校で、鹿児島実業や長崎県の国見、サンフレッチェ広島ユースなど、県外のサッカー強豪校やJリーグクラブのユースチームに進むのが一般的だった。現に、岩政氏の1学年下に当たり、のちに浦和レッズに入団した田中達也は、東京の帝京に進学した。
高校生になり、ようやく県選抜に入れるようになった岩政氏は、当然ながら「Jリーガーになろうとは一切考えていなかった」という。
「大学でも、もともとはサッカーを続ける気はありませんでした。サークルに入って、週に1回ぐらいボールを蹴るのかなと。周りもそういう感じだったし、その頃にはもう将来は教師になろうと決めていたので、高校で順調に勉強ができれば広島大学の教育学部、もしくは、山口大学の教育学部にいこうと思っていたんです。そのどちらも当時のサッカー部は強くなかったこともあって、大学でサッカーを続ける気はなかったんです」
当時の岩政氏の頭のなかに「東京学芸大学」の文字は出てこない。それどころか、サッカーを真剣に続けるのは高校で終わりにしようと考えていた。それが、なぜ東京学芸大学へ進学し、サッカーを続けることになったのか。そこには、不思議な縁ともいえる、2つの理由があった。

国体を怪我で欠場し、大学でもサッカーを続けることを決意【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
“引退”と位置付けた国体を怪我で欠場 不完全燃焼で揺れ動いた気持ち
全国大会に進むレベルではなかった岩国高校サッカー部は、冬の高校サッカー選手権大会の本戦には出られない。そこで「大学までサッカーを続けない僕らにとっては最後の大舞台」と位置付けた10月の国体(国民体育大会)を、岩政氏は選手としての最終目標に掲げた。
「当時の国体は高校3年生が出場する大会だったので、県選抜に選ばれ続けて、国体に出たい! と思っていました。Jリーガーになった今思えば、なんであんなに国体を目指していたのか分からなくなりますけど(笑)。それでも当時は、国体のメンバーに入るということはすごいことだったんです。だからそこを目指して、高校3年間サッカーをやり切るつもりでした。順調に進んで、最後、国体のメンバーに選ばれて……」
しかし、アクシデントが岩政氏を襲う。国体に出発する2日前だった。第五中足骨を骨折し、国体には出られなくなってしまった。「怪我をしてからの数週間の記憶がほとんどない」。そう語るほど、ショックは大きかった。
諦められなかった岩政氏は、国体の2週間後に始まった選手権予選でスパイクのなかでギプスをはめたまま試合に出た。「スタメンで出させてくれ」と懇願したが、さすがにそれは叶わず。「すごく痛かった」が、なんとか最後の10分間に出場した。
サッカー選手としての最後の試合は、選手権予選の2回戦だった。土日で、2回戦と3回戦が組まれており、2回戦で負けたら、翌日に開催される模試を受けなければいけなかった。勝てば、模試には行かなくていい。しかし、チームは2回戦で敗戦。翌日の模試に行かなければいけなくなった。「引退と思っていた区切りが、そういう形で終わって……」。消化不良を抱えたまま、翌日の日曜日、岩政氏は両親の車で模試を受けに岩国高校まで行った。しかし、岩政氏は模試を“初めて”サボった。
「校門をまたいだけど、何を思ったか、模試をサボったんです。人生で一度もサボったことなんてなかったのに。両親にも言っていなかったことですけど、1日中、岩国の町を徘徊して、模試が終わる頃にまた高校に戻ってきたんです」
そして、大学でサッカーを続けることを両親に伝えた。
そこから2週間、岩政家では家族会議が始まった。岩政氏自身も、毎日のように気持ちが揺れ動いたという。別にJリーガーになるわけでもないのに、そこまでして何でわざわざ大学でサッカーを続けるのか。ここまでずっとサッカーをやってきたのに、こんな不完全燃焼のままで終わっていいのか。そんな相反する気持ちが毎日行ったり来たりしていた。
最終的には、「サッカーをもう一回、本気でやってみたい」「国体で味わうはずだった全国を味わわずにやめることはできない」と急遽、11月に進路を変更した。

広島大学から東京学芸大学へ志望変更した理由を語る【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
導かれるように広島大学から志望変更した理由とは
新しく決めた進路は、東京学芸大学だった。同じ国体メンバーだった選手がチームメートに話していた「筑波大学を受験するけど、ダメだったら、東京学芸大学を受ける」という会話がずっと引っかかっていた岩政氏は、山口に戻ると東京学芸大について調べた。すると、志望校に決めていた広島大と偏差値がほぼ同じ。しかも、広島大の2次試験の受験科目が英語と数学なのに対して、学芸大は数学のみ。「めっちゃラクやん」。そう考えた岩政氏をさらに後押ししたのは、学芸大のサッカー部が関東1部リーグにいたことだった。
「筑波も考えたけど、当時の僕は無名だったので、仮に筑波に行っても試合には出られないだろうなと。その分、学芸大は募集人数自体が少ないので、無名の僕にもチャンスがあるんじゃないかって思ったんです。そういうのをいろいろ考えると、これはもう行くべきだと言われているんじゃないかと」
岩政氏は何かに導かれるように東京学芸大学を受験し、見事合格した。
とはいえ、11月までサッカーに打ち込んでいた部活生が、どうやって国立大学に、しかも一般入試で合格できたのだろうか。「特別、受験勉強らしいことはしていなかった」と口にする岩政氏が当時やっていた勉強法は、現役時代に理路整然と守備戦術を語っていた彼らしい、目標から逆算した実にロジカルな方法だった。
「実は僕、高校は普通科に入学したんですけど、2年生の時に理数科に転科するという事件を起こしたんです(笑)」。岩国の理数科は偏差値が高く、普通科の生徒にとっては「違う集団」という感覚だった。1学年9クラスあるなかで、理数科は1クラスだけ。3年間同じクラスの、1年をすでに過ぎているクラスに途中から入る生徒は誰もいなかった。
「3年の国体を目指すと、11月まで選手権予選がある。他のみんなは6月のインターハイ予選で引退するのが一般的だったけど、僕は1人だけ11月までやると決めていた。となると、勉強をどうするか。理数科は普通科と比べて勉強の進み具合が半年早い。3年の半年間を理数科に入ることで、補えるんじゃないか」
岩政氏の目論見は的中した。理数科へ転科したことで、2年生の段階で3年生までの授業は終わることになる。ただし逆に言えば、理数科では終わっているが、普通科では終わっていない箇所がある。そこについては独学で勉強した。おかげで、3年生になって「慌てて受験勉強をした記憶はなかった」。
とはいえ、授業の進みを早めただけで合格できるほど、国立大受験は甘くはない。さらに岩政氏は、自宅のある離島から片道1時間半、往復3時間かけて通学していた。居残り練習もせず、電車に飛び乗り、島の最寄駅で両親の迎えの車に乗って自宅に戻ると、すでに夜の8時を過ぎていた。本気でサッカーに打ち込んで帰宅し、ご飯を食べて、勉強するなんて、「これは無理だな」とすぐに理解した。

岩政氏は、文武両道について「要は、やるか、やらないか」だと語る【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】
そこで考えたのが、電車の移動時間を勉強に充てることだった。行きの電車では、その日ある授業の教科書を読み、帰りの電車では、その日の授業で書き写したノートを確認する。宿題が出ると、「休み時間に全部終わらせた」という。
「要は予習復習ですよね。そうやってコツコツやっておくと、授業の入りが全然違うわけです。予習をしないで授業に入ると難しくて全然分からなかったけど、内容は理解できなくてもいいので、授業の前に教科書に目を通しておく。そうすると、先生が授業で説明してくれるので理解しやすいんです。それだけやっておいて、あとはテスト前に集中して落とし込むという感じでした」
テスト勉強は2週間前に始まる。まずは計画表を作成する。2週間でやらないといけないことを洗い出し、そこからいつ何を勉強するか、はめ込んでいく。実は2週間あれば、1日にやらないといけないことはそんなに多くはない。そのため岩政氏は「毎日夜の11時ぐらいには寝ていたし、遅くまで勉強を必死にやった、という日は一日もなかったですね」と振り返る。
岩政氏の勝因は、自分の実力を見定めて、早めに目標を決めて、そこに向けて計画的に努力したことだ。「高校に入ると、目標値も分かってくるし、模試を受けることで自分のレベルも分かってきた。だからバリバリひたすら勉強しなくても、予習復習で頭に入れて、センター試験で規定の点数を取れるレベルに到達できるように勉強していた」。
というのも、当時の岩政氏の中心にあったのがサッカーだったからだ。「とにかく勉強を部活とどう両立させるか」という考えのもと、サッカーをするために必要なもの、やらなきゃいけないものをやる。そこに離島という不利な条件も相まって、「他の人と同じにはできない。だから3年間回せる方法でやらないといけなかった」という考えに至った。
生粋のセンターバックは、リスク管理も完璧だった。どんなに綿密に計画を立てていても、イレギュラーが発生し、計画が崩れてしまうことがある。しかし岩政氏は「もちろんその日は設けています」と軽くかわした。
「できない日があることは想定していたので、だいたい金曜日にその日を設けていました。その週にできなかったもの、終わらなかったものを“移す日”。逆に言えば、木曜日までにきちんとできていれば、金曜日は遊び放題なんです。だからそれをモチベーションにやっていたところもあります(笑)。この“移す日”を設けてからは、気持ちもラクになって、スムーズに勉強できるようになっていきましたね」
部活と学業の両立は、スポーツに打ち込む学生にとって、避けては通れない課題だ。しかし、岩政氏は言う。「両立って、できるかできないで語る人が多いですが、僕はそのレベルではないと思っています。高校生までは『やります』と決めれば、できるんです。要は、やるか、やらないか、なんですよ」。
人生は、選択の連続。自分で選択してきたからこそ、今がある。「両立したほうが、人生はトクですよ」。人生の先輩は、そう誘い掛ける。やるか、やらないか――。さあ、アナタはどっちを選びますか。
■岩政大樹(いわまさ・だいき)
1982年1月30日、山口県生まれ。山口県立岩国高校を卒業後、一般入試で東京学芸大学に入学。大学卒業後に鹿島アントラーズに加入した。プロ1年目からセンターバックとして出場を重ね、シーズン後半にはスタメンに定着。在籍した10年間で、リーグ優勝(3回)、Jリーグカップ優勝(2回)、天皇杯優勝(2回)、ゼロックススーパーカップ優勝(2回)など“常勝軍団”の一員として活躍した。その後、タイリーグのBECテロ・サーサナFC、ファジアーノ岡山、東京ユナイテッドFCを経て、2018年に現役を引退。現在は上武大学サッカー部監督として指導者の道を歩み始めている。