篤人の気持ち
内田篤人 気持ちとトラップは、前へ
2010年1月22日

2009年11月、香港戦でゴール前に速いクロスを入れる内田篤人=越田省吾撮影

自主トレでジョギングをする内田
内田篤人(21)が今年初めてJ1鹿島の練習場を走ったのは、昨年の最終戦から1カ月以上を経た15日だった。プロになり迎える5度目のシーズン。ちょうど1年前は、すでに日本代表合宿でサッカー漬けになっていた。「オフがこんなに長かったのは初めて。いやぁ、のんびりできたな」
2006、07年度は天皇杯で年末まで勝ち残っていた。08年度は試合日程の都合で代表合宿開始が年明けに早まった。加えてシーズンが本格化すれば、Jリーグだけでなく、各年代の国際大会が待ち受けていた。07年は20歳以下ワールドカップ(W杯)、08年は北京五輪、そしてA代表のW杯予選。
すべてで不動のレギュラーを担った。だからプロ入り後、時間をかけて心と体を休ませることはできなかった。過密日程の影響を質問されると、決まって「大丈夫。若いから」と繰り返してきた。
年末年始は実家がある静岡県東部の函南(かんなみ)町で過ごした。「一番ほっとできる」という故郷は慣れ親しんだ山や川に囲まれている。幼い頃、大好きだったのはザリガニ捕り。このオフは友人たちと旧交を温め、家庭の味だという母手作りの鶏のから揚げをほおばった。
もちろん、サッカーは頭から離れない。「休みといっても、体は動かしておかないと」。自宅近くの山道を走った。「中学、高校の時に使っていたコースだから」。同じ鍛えるにしても、慣れない場所で汗をかくのと、少年時代に上り下りした道を走るのとでは気分が違うものだ。「いいリフレッシュ」。鹿島の練習場に戻った日、いきなりシュート練習をこなした。
幕を開けたW杯イヤー。代表合宿は25日に始まる。
◇
「悪かったことはすべて忘れ、よかったことだけを引き継ぎたい」
新しい年が明け、試練の09年を改めて思い起こした。
食べても太らない細身の176センチ、62キロ。持ち場の右サイドバックは、タッチライン際の絶え間ない往復が求められる。3月のJリーグ開幕早々、左脇腹と右太もも裏を負傷した。痛み止め薬の飲み過ぎと蓄積疲労で胃が荒れ、吐き気に悩まされた。
「やたらとのどが渇いて水を飲みたくなる。で、少し走るとすぐ戻したくなる繰り返し」。4月22日のアジア・チャンピオンズリーグで試合中に吐いた。5月2日の千葉戦を欠場し、病院で胃カメラをのんだ。
だましだまし試合に出続けるから、吐き気は治まらない。顔には吹き出物。さらに右ひざも痛めた。次第にプレーは正確さを欠いていった。「心身ともに疲れている」と日本代表の岡田武史監督(53)。10月14日のトーゴ戦では先発落ちを味わった。
持ち味の積極性が消えかけたのもこの頃。パスを受けるトラップの動作について岡田監督から言われた。「前から来る相手を怖がって体の横に球を置くのではなく、きっちり体の前で止めるように。そうしないと前を向けずパスコースが狭まる。ウッチー、以前はできていたんだけどね」
「大事にいこうとしすぎているのかな。サッカーを楽しめてないな」と本人。思い悩みつつ、何とかシーズンを走りきった。鹿島の公式戦48試合中43試合、日本代表17試合中13試合、合わせて4778分間をプレーした。鹿島でリーグ初の3連覇を成し遂げた瞬間、涙があふれ出た。
「相手がどうというより、自分との闘いだった。優勝できてうれしいというか……。とにかくほっとした」
◇
当たり前のような日々の積み重ねが、そんな内田をずっと支えてきた。
小学4年生から中学3年生まで6年間にわたって指導した佐藤文昭さん(63)は「さぼろうとする姿を見たことがない」。練習を締めくくるグラウンド10周走を、内田は音をあげず、手を緩めず黙々とこなしていたという。
清水東高時代に監督だった梅田和男さん(45)は、内田の持久力とスピードに目をつけてFWからサイドバックに転向させた人物だ。「配置転換をはじめ、どんな指示も素直に受け入れた。そして課題を克服するまで反復練習をやめなかった」。函南町の自宅で朝5時に起きなければ、2時間後に始まる早朝練習には間に合わない。遅刻は一度もなかった。「クロスをけれ」と言えば、練習後、コーチ相手に1人でけり続けた。
その姿勢は鹿島に入っても変わらなかった。鈴木満強化部長(52)は「一歩ずつ階段を上っていける子。まるでコツコツ受験勉強するように」。1、2季目は戦況を見極めて右から左に大きく展開するサイドチェンジ。3、4季目は浮き球の処理とMFを使った細かいパス回し。一つずつプレーの幅を広げてきた。
けがや体調不良に悩まされながら、長期離脱せず試合に出続けられたことが09年の誇りでもある。「苦しんで、耐えて、負傷してもミスをしても後に引きずらなくなった。ちょっとは精神的にタフになれたかな」
◇
W杯は5カ月後。8年前の日韓大会は「ベッカム(イングランド)、格好いいな」、4年前のドイツ大会は「鹿島の先輩が戦う場所」というほどの印象しかなかった舞台が、すぐそこに迫っている。心と体の充電は終わった。「昨季も忙しかったけど、今季はもっと忙しくなる」と覚悟を決める。
誓いは「もっとタフに」。
新年に入って最初に驚いたのは、岡田監督から年賀状が届いたことだった。自筆で「自分を信じて、ぶれることなく進んでください」としたためられていた。「慌てて返事を書きましたよ。でも、普通の文言じゃつまらないから、しゃれた返事を考えた」
その中身は?
「『トラップは前にしろ』と教えてもらったでしょ。だから……」
〈気持ちとトラップは前へ。 頑張ります。 内田篤人〉
(中川文如)
朝日新聞のコラムである。
篤人の半生が垣間見える。
今年は、否、今年も飛躍の年である。
今日も明日も走り続けよ。
気持ちを更に前へ。
楽しみな一年が始まる。
2010年1月22日

2009年11月、香港戦でゴール前に速いクロスを入れる内田篤人=越田省吾撮影

自主トレでジョギングをする内田
内田篤人(21)が今年初めてJ1鹿島の練習場を走ったのは、昨年の最終戦から1カ月以上を経た15日だった。プロになり迎える5度目のシーズン。ちょうど1年前は、すでに日本代表合宿でサッカー漬けになっていた。「オフがこんなに長かったのは初めて。いやぁ、のんびりできたな」
2006、07年度は天皇杯で年末まで勝ち残っていた。08年度は試合日程の都合で代表合宿開始が年明けに早まった。加えてシーズンが本格化すれば、Jリーグだけでなく、各年代の国際大会が待ち受けていた。07年は20歳以下ワールドカップ(W杯)、08年は北京五輪、そしてA代表のW杯予選。
すべてで不動のレギュラーを担った。だからプロ入り後、時間をかけて心と体を休ませることはできなかった。過密日程の影響を質問されると、決まって「大丈夫。若いから」と繰り返してきた。
年末年始は実家がある静岡県東部の函南(かんなみ)町で過ごした。「一番ほっとできる」という故郷は慣れ親しんだ山や川に囲まれている。幼い頃、大好きだったのはザリガニ捕り。このオフは友人たちと旧交を温め、家庭の味だという母手作りの鶏のから揚げをほおばった。
もちろん、サッカーは頭から離れない。「休みといっても、体は動かしておかないと」。自宅近くの山道を走った。「中学、高校の時に使っていたコースだから」。同じ鍛えるにしても、慣れない場所で汗をかくのと、少年時代に上り下りした道を走るのとでは気分が違うものだ。「いいリフレッシュ」。鹿島の練習場に戻った日、いきなりシュート練習をこなした。
幕を開けたW杯イヤー。代表合宿は25日に始まる。
◇
「悪かったことはすべて忘れ、よかったことだけを引き継ぎたい」
新しい年が明け、試練の09年を改めて思い起こした。
食べても太らない細身の176センチ、62キロ。持ち場の右サイドバックは、タッチライン際の絶え間ない往復が求められる。3月のJリーグ開幕早々、左脇腹と右太もも裏を負傷した。痛み止め薬の飲み過ぎと蓄積疲労で胃が荒れ、吐き気に悩まされた。
「やたらとのどが渇いて水を飲みたくなる。で、少し走るとすぐ戻したくなる繰り返し」。4月22日のアジア・チャンピオンズリーグで試合中に吐いた。5月2日の千葉戦を欠場し、病院で胃カメラをのんだ。
だましだまし試合に出続けるから、吐き気は治まらない。顔には吹き出物。さらに右ひざも痛めた。次第にプレーは正確さを欠いていった。「心身ともに疲れている」と日本代表の岡田武史監督(53)。10月14日のトーゴ戦では先発落ちを味わった。
持ち味の積極性が消えかけたのもこの頃。パスを受けるトラップの動作について岡田監督から言われた。「前から来る相手を怖がって体の横に球を置くのではなく、きっちり体の前で止めるように。そうしないと前を向けずパスコースが狭まる。ウッチー、以前はできていたんだけどね」
「大事にいこうとしすぎているのかな。サッカーを楽しめてないな」と本人。思い悩みつつ、何とかシーズンを走りきった。鹿島の公式戦48試合中43試合、日本代表17試合中13試合、合わせて4778分間をプレーした。鹿島でリーグ初の3連覇を成し遂げた瞬間、涙があふれ出た。
「相手がどうというより、自分との闘いだった。優勝できてうれしいというか……。とにかくほっとした」
◇
当たり前のような日々の積み重ねが、そんな内田をずっと支えてきた。
小学4年生から中学3年生まで6年間にわたって指導した佐藤文昭さん(63)は「さぼろうとする姿を見たことがない」。練習を締めくくるグラウンド10周走を、内田は音をあげず、手を緩めず黙々とこなしていたという。
清水東高時代に監督だった梅田和男さん(45)は、内田の持久力とスピードに目をつけてFWからサイドバックに転向させた人物だ。「配置転換をはじめ、どんな指示も素直に受け入れた。そして課題を克服するまで反復練習をやめなかった」。函南町の自宅で朝5時に起きなければ、2時間後に始まる早朝練習には間に合わない。遅刻は一度もなかった。「クロスをけれ」と言えば、練習後、コーチ相手に1人でけり続けた。
その姿勢は鹿島に入っても変わらなかった。鈴木満強化部長(52)は「一歩ずつ階段を上っていける子。まるでコツコツ受験勉強するように」。1、2季目は戦況を見極めて右から左に大きく展開するサイドチェンジ。3、4季目は浮き球の処理とMFを使った細かいパス回し。一つずつプレーの幅を広げてきた。
けがや体調不良に悩まされながら、長期離脱せず試合に出続けられたことが09年の誇りでもある。「苦しんで、耐えて、負傷してもミスをしても後に引きずらなくなった。ちょっとは精神的にタフになれたかな」
◇
W杯は5カ月後。8年前の日韓大会は「ベッカム(イングランド)、格好いいな」、4年前のドイツ大会は「鹿島の先輩が戦う場所」というほどの印象しかなかった舞台が、すぐそこに迫っている。心と体の充電は終わった。「昨季も忙しかったけど、今季はもっと忙しくなる」と覚悟を決める。
誓いは「もっとタフに」。
新年に入って最初に驚いたのは、岡田監督から年賀状が届いたことだった。自筆で「自分を信じて、ぶれることなく進んでください」としたためられていた。「慌てて返事を書きましたよ。でも、普通の文言じゃつまらないから、しゃれた返事を考えた」
その中身は?
「『トラップは前にしろ』と教えてもらったでしょ。だから……」
〈気持ちとトラップは前へ。 頑張ります。 内田篤人〉
(中川文如)
朝日新聞のコラムである。
篤人の半生が垣間見える。
今年は、否、今年も飛躍の年である。
今日も明日も走り続けよ。
気持ちを更に前へ。
楽しみな一年が始まる。