ジーコのプロ魂
ジーコが刻んだプロ魂
2011.7.26 16:42

日本人選手にプロの厳しさを教えた現役時代のジーコ氏
1992年第1回ヤマザキナビスコ・カップを「私にとって一生、忘れられない大会だ」と振り返る人がいる。ワールドカップドイツ大会(2006年)で日本代表監督を務めたジーコ氏だ。「ナビスコ杯はアントラーズがプロとして初めて戦う大会だった。どんなことがあっても勝ちたかったんだ」と続けた。
現役復帰の地を、母国ブラジルから遠く離れた「日本」に選んだジーコ氏はこの時、すでに39歳。
少し前まではサラリーマン選手たちの集団だったアントラーズに『プロ魂』を埋め込むのには「どうしても優勝しなければいけない大会だった」という。ピッチ上にいる11人の中で技術的には39歳の自らがもちろん断トツだった。それは仕方のないことだとしても、他の選手より精神的にも一枚も二枚も上だったことが本人には許せなかった。
「40歳になるオレがピッチの中で一番走っているということは、どういうことだ!」と仲間を一喝。日本のリーグで初めてプロ選手として戦うジーコにとって懸命に走りまくった大会でもあった。
「とりあえず、走らなきゃダメだなと思った。それを見てもらって奮起して、もらおうとね」とジーコ氏。当然からだは悲鳴をあげた。この時に無理をしたことで右太ももは肉離れ寸前まで痛んだ。翌年Jリーグスタート時でもこの故障は尾をひくことになった。それだけナビスコ杯の初代チャンピオンに賭けていた。
結局、この大会では当時全盛期だったヴェルディ川崎に敗退。ジーコ氏は「一番悔しがっていたのも、私だった」と苦笑い。そして「このナビスコ杯の敗戦がなかったら、アントラーズは絶対に翌年、Jリーグ(1stステージ)で優勝することもなかっただろう」とも。
プロとして負けることの悔しさを知り、アントラーズが常勝軍団に生まれ変わるきっかけを作ったのが第1回ナビスコ杯であった。(久保武司)
1992年の第一回ナビスコ杯の思い出を語るジーコである。
負けず嫌いの伝統はこの大会でも発揮された。
周囲の評価は、結果的には敗退を余儀なくされたが、鹿島としては健闘したという見解だったと思う。
しかしながら、それは大いなる間違いであり、この悔しさを糧にチームは大いなる成長を遂げたと言って良かろう。
この時点で弱小で良いと自らを笑ってしまえば、鹿島の歴史は変わっておったであろう。
しかし、我等には世界一の負けず嫌い・ジーコがおった。
もっとも悔しがったジーコの影響がチーム全体に伝播しクラブの血となり肉となったのである。
我等は今でも悔しい。
その気持ちを忘れず、貪欲にタイトルを狙いたい。
それが鹿島の伝統である。
2011.7.26 16:42

日本人選手にプロの厳しさを教えた現役時代のジーコ氏
1992年第1回ヤマザキナビスコ・カップを「私にとって一生、忘れられない大会だ」と振り返る人がいる。ワールドカップドイツ大会(2006年)で日本代表監督を務めたジーコ氏だ。「ナビスコ杯はアントラーズがプロとして初めて戦う大会だった。どんなことがあっても勝ちたかったんだ」と続けた。
現役復帰の地を、母国ブラジルから遠く離れた「日本」に選んだジーコ氏はこの時、すでに39歳。
少し前まではサラリーマン選手たちの集団だったアントラーズに『プロ魂』を埋め込むのには「どうしても優勝しなければいけない大会だった」という。ピッチ上にいる11人の中で技術的には39歳の自らがもちろん断トツだった。それは仕方のないことだとしても、他の選手より精神的にも一枚も二枚も上だったことが本人には許せなかった。
「40歳になるオレがピッチの中で一番走っているということは、どういうことだ!」と仲間を一喝。日本のリーグで初めてプロ選手として戦うジーコにとって懸命に走りまくった大会でもあった。
「とりあえず、走らなきゃダメだなと思った。それを見てもらって奮起して、もらおうとね」とジーコ氏。当然からだは悲鳴をあげた。この時に無理をしたことで右太ももは肉離れ寸前まで痛んだ。翌年Jリーグスタート時でもこの故障は尾をひくことになった。それだけナビスコ杯の初代チャンピオンに賭けていた。
結局、この大会では当時全盛期だったヴェルディ川崎に敗退。ジーコ氏は「一番悔しがっていたのも、私だった」と苦笑い。そして「このナビスコ杯の敗戦がなかったら、アントラーズは絶対に翌年、Jリーグ(1stステージ)で優勝することもなかっただろう」とも。
プロとして負けることの悔しさを知り、アントラーズが常勝軍団に生まれ変わるきっかけを作ったのが第1回ナビスコ杯であった。(久保武司)
1992年の第一回ナビスコ杯の思い出を語るジーコである。
負けず嫌いの伝統はこの大会でも発揮された。
周囲の評価は、結果的には敗退を余儀なくされたが、鹿島としては健闘したという見解だったと思う。
しかしながら、それは大いなる間違いであり、この悔しさを糧にチームは大いなる成長を遂げたと言って良かろう。
この時点で弱小で良いと自らを笑ってしまえば、鹿島の歴史は変わっておったであろう。
しかし、我等には世界一の負けず嫌い・ジーコがおった。
もっとも悔しがったジーコの影響がチーム全体に伝播しクラブの血となり肉となったのである。
我等は今でも悔しい。
その気持ちを忘れず、貪欲にタイトルを狙いたい。
それが鹿島の伝統である。