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小澤、パラグアイでの経験

南米の地で呼び覚まされていったゴールキーパーの本能
「他人に合わせていたら認めてもらえない」



 2010年12月、パラグアイ。首都アスンシオン。
交差点の信号で車を停めると、男がいそいそと近寄ってきた。頼んでもいないのに手にしたワイパーで窓を拭き、当然の権利のようにチップを要求してくる。小さくため息をつきながらもポケットのコインを無造作につかみ、半分近く開けた窓から手渡した。不用意に全開すると、そこから腕を入れドアを開け、体をねじ込んで強盗まがいの行為に遭うこともある。
信号が変わり、彼は188cm、84kgの巨躯(きょく)をシートに預けてアクセルを踏んだ。虚(うつ)ろな目をして立つストリートチルドレンを視界の隅に捉えた。速度が上がり、雑多な風景は背後に飛んでいった。
「無謀な挑戦」
そんな言葉を背中に浴びながら日本を出て、もうすぐ1年が過ぎようとしていた。カーステレオから流れる音楽は騒がしいヒップホップだった。この国では何かをくよくよ考えず、頭を空っぽにできる曲の方がいい。
<いつの間にか音楽の趣味まで変わったな>
彼は思わず苦笑いを浮かべた。
2009年12月、小澤英明は所属していたJ1鹿島アントラーズから契約更新の誘いを受けながら、その申し出を断った。強化部長や監督だけではなく、社長からも説得を受け、申し訳ない気持ちと心からの感謝に胸を詰まらせながらも、決心を変えずにチームを出た。他に行く当てがあったわけではない。
「誰も自分を知らない海外で、正GKとして思い切り戦ってみたい」。35才の日本人GKはその一念で年俸2000万円と安定した生活を捨てた。
Jリーグでの18年間、彼はベンチ生活を余儀なくされている。控え選手として記録した257試合は史上最多記録。「品行方正で勤勉」というのが彼の評判だった。試合に出られない選手は我慢できずチーム内で衝突を起こして移籍を繰り返すか、もしくは挫折を感じて引退を考えるのだが、彼はプレイする可能性がほぼ閉ざされていても毎試合準備を怠らなかった。関係者からは、「我慢強い性格、指導者に向いているよ」と称えられた。
単行本『アンチ・ドロップアウト』の取材ではそんな彼の本音に迫っている。
温厚に見えた小澤は、もうひとりの自分とたえず格闘していた。控えGKとして周囲に合わせて生きてきた自分。やがて、“分別顔”のマスクを捨て去りたくなった。 荒々しい闘争本能を剥き出しにする自分を取り戻したい。その衝動を抑えきれなくなった彼は、代理人を通じて話があったパラグアイに渡る決意をした。
2010年1月、小澤は東京から40時間近いフライトで南米パラグアイのアスンシオンに到着している。人口約85万人、アルゼンチン国境近くにある国内最大の町は、決して裕福とは言えない。平均月給は約3万円。町中にバラック小屋のような家を多く見かけるなど慢性的な貧困を抱え、昨今の世界不況の影響で治安は以前よりも著しく悪くなっているという。
しかし、パラグアイサッカーは熱気を失っていない。4大会連続の出場となった南アフリカW杯では日本を破り、ベスト8に進出。盛況を呈す国内リーグは、ネルソン・バルデス(エルクレス)、オスカル・カルドソ(ベンフィカ)、ロケ・サンタクルス(ブラックバーン)、ルーカス・バリオス(ドルトムント)など欧州のトップリーグやアルゼンチン、メキシコの名門クラブに数多くの選手を輩出している。
かつては廣山望(セロ・ポルテーニョ)、福田健二(グアラニ)と、日本人選手も活躍を遂げ、彼らを送り込んだ代理人と小澤は契約した。
1月12日、アスンシオンに本拠を置く古豪スポルティボ・ルケーニョの練習に初めて参加した。世界的名声を誇ったパラグアイ人GKホセ・ルイス・チラベルトもプレイしたクラブで、その一歩を踏み出すことになった。兄のロランド・チラベルト監督からはセービング能力を高く評価され、「2試合、レセルバ(リザーブチーム)でプレイしたら、トップで使うから」とお墨付きをもらうほどだった。
2月17日、小澤は約1ヵ月間の練習参加の末、半年契約にサインした。
「練習はかなり激しかったですよ」と小澤は説明する。
「試合前なのに“2部練”があったり、バーベルスクワットなど膝がカクカクになるまで追い込みます。へたれ込みそうになると、『どうした? それで終わりか』とコーチが挑発してくるんです。『サッカーをやりたい奴はこの国にはごまんといる。お前は音を上げるのか?』と。『やってやるよ』という気になりますよ。その壁を越えると、コーチが全身で努力を称えてくれるんです」
男同士、問答無用のやりとりだった。
一方、小澤は練習を重ねる中で、語学修得の必要性も強く感じた。彼は片言のスペイン語はマスターしていたが、ピッチの共通語はグアラニー語だったのである。
「チームメイトの多くは先住民族グアラニー族で、グアラニー語を使い意思疎通を図っていました。すぐにスペイン語で引けるグアラニー語の辞書を購入し、最初はハウベイ(こんにちわ)、イコラ(元気です)など挨拶程度から覚えましたね。ピッチでもジェンバイ(マイボール)みたいにグアラニー語を使うようにしました。グアラニー語を使うとパラグアイの人たちは本当に嬉しそうな顔をするんです。現地のスペイン語はSpainのSは発音せず、そうすることで征服されたスペインへの思いを表しているなんて言う人もいます」
彼は環境の激変に必死についていった。
「なにより、“自分らしい戦い”を見せる必要がありました。日本にいた頃は、ディフェンス全体のことを考えて、サブGKはレギュラーGKと同じようなリズムでプレイするように心がけてきました。自分を殺してもチームに報いるプレイが大事だったんです。ところが、こっちでは他人に合わせようものなら、『お前は誰なんだ?』と、認めてもらえない。最初は少なからず戸惑いました。自分らしさを見せるために海を渡ってきたけど、長年の習慣は抜けなかったから」
しかしパラグアイ人たちと一緒にプレイすると、次第に野性的本能が呼び覚まされていく気がした。
「ピッチの選手たちは本能のままにボールを追いかけ、まるで獣のようなんです。例えば五分五分のボール、日本だと相手との距離を測って飛び込みますが、向こうはボールしか見ていない。相手を殺す気迫で向かってくるから、こちらも殺すか殺されるかで挑まざるを得ないんです。シャツを引っ張るなんて可愛いもんで、わざと顔を殴ったり足を踏んだり、殺伐としていますね。叫び声、うめき声、うなり声が聞こえる。野生動物ですよ」
ピッチでは肉と骨が軋(きし)む音が聞こえた。もし接触プレイから逃げれば、グアラニー語で「ニャティニュ」と嘲(あざけ)りを受ける。ニャティニュは蚊を指し、戦場に立つ資格がない者という意味だ。まるで未開のジャングルで獣が獲物を奪い合う獰猛さだが、彼は怯まなかった。足を踏ん張り、格闘した。
いつしか現地では、「Hide」と呼ばれていた。スペイン語圏ではHが発音されないため、イデになったが、友人への親しさと戦友への敬意が込められた呼称だと彼は気に入った。日本では、「小澤さん」と呼ばれることが多く、それは敬称に違いなかったとはいえ、“おとなしい優等生”と言われているようにも聞こえたのだ。
小澤は日々順調にパラグアイサッカーに適応していった。
しかしチラベルト監督との約束は果たされぬまま、レセルバの試合に出場するだけで6月2日には前期リーグが終わってしまう。チラベルトからは、「Hide、お前のことを使う気でいた。しかし、もし使ってしくじってみろ? 俺は日本人GKを起用した監督としてバッシングを受けていたはずだ。それが怖かった」と説明を受けた。小澤には戦い続けるしか手だてはなかった。
1軍出場試合が0でも半年契約を更新できたのは、孤高の日本人GKの闘争心と献身が高く評価されたからに他ならない。
<ここに自分が来たのは、必ず意味がある>
彼は赤土の大地と生い茂った木々を眺めながら思った。太陽は高い位置で、怒りを振りまくみたいに照りつけ、生命力が沸き立つような自然の迫力が心を癒してくれるような気がした。

試合に出るためには賄賂(わいろ)が必要?



6月下旬、短いオフを終えてチームに戻ると、ロッカールームから自分の荷物が消えていた。新たに監督に就任したビクトール・ヘレス監督は、「お前のことなど知らない。用はないから出て行け。練習の帯同も許さない」ととりつく島がなかった。小澤は当然、「契約がある」と強く抗弁した。実際、会長と契約書にサインを交わしていたが、運悪く会長は南アフリカW杯に視察に出かけていて、押し問答が続いた。
数日後、契約が確認されてチーム活動に帯同できたが、ぼろぼろの練習着を渡され隅っこで汗を流す日々だった。練習後は監督から「俺のシュートを受けろ」と命じられた。レセルバの試合出場すら許されなかった小澤は「少しでもアピールを」と気丈にもダイブを繰り返したが、それは見せしめだった。
「見てみろ、日本人はこんなシュートも取れねぇぞ」。彼は仲間たちの面前で、激しく罵倒された。
後期リーグ開幕後わずか3試合、8月にヘレス監督は成績不振を理由に呆気なく解雇された。小澤はようやく屈辱から解放されることになったわけだが、彼はその頃、絶望的現実を突き付けられている。
「この国は賄賂とコネが物を言う。誰でもいい。有力者に金を積むんだ。会長、監督、主力選手、記者。あいつらはきっと金を受け取り、お前がプレイするように計らってくれるだろう。さもなければ、日本人GKがこの国でプレイするのは奇跡だ」
周囲の言葉に小澤は耳を疑ったが、思い当たる節はあった。
「パパは本当に頑張っていました! だから、『賄賂を払えば、正GKになれる』なんて話を耳にしたときは“冗談じゃない”と腹が立ちました。そんなの許せなかった。でも、それが現実だったんです。実は夫婦二人では、『これは無理かもね』と話をしましたけど、『最後まで家族で戦おう』と誓ったんです」
これは小澤の妻である明子夫人の告白である。
「最初は夫だけがパラグアイに旅立ったんです。でも、Skypeのビデオ電話で話していると、みるみるうちに頬がこけてきて。水にあたったらしいんですけど、“私が行かなくちゃいけない”と決心しました。
治安は悪い国という認識はありましたよ。指輪やピアスなど装飾品は全部日本に置いていくことにしたし、服装も目立たない安い服だけを持って行きました。でも怖いよりも、“彼を助けに行かなくちゃ”という思いが強かった。“私がご飯を作って食べさせてあげるんだ”って。だから、8才と6才になる二人の娘たちにも、『パパ一人で頑張っているでしょ? みんなで行ったら、元気になるよ』と言いました。パラグアイがどこの国だか、よく分かっていなかったようですけど。
パパが一世一代の決心で頑張っているのに、今、家族が助けないでいつ助けるんだと妻として思ったんです。
日本を発ったのは4月4日です。初めて見たアスンシオンは道が汚かったし、危ないから一人では外に出歩けず不便でした。
でも、嫌いにはならなかったです。
家族を送り出すとやることもないからお勝手を片付け、床にモップを掛けるんですが、決まって涙が出ました。最初の頃は戸惑いましたが、涙はどうにもならないので、3ヵ月ほど止めどなく流れるままにしたんです。泣くのは決まって掃除の時だけ。泣くだけ泣いたら、すっごく気持ちがすっきりしました。寂しいとか、孤独だとかではないんです。うまく説明できないんですが、“夫は楽な境遇を捨ててこんなにも頑張っている”という気持ちが大地に伝わり、受け止めてもらい癒されるというか。“自分はこの国で家族と自然と共存して生きている”と実感して、抱えていたものが吹っ切れたんです。
きっと、日本では周囲のことを気にしすぎていたんでしょうね。夫自身が“いい人”と美化されていたので、必要以上に自分たちは目立っちゃいけないと思っていたのが、パラグアイでは余計な気遣いをしなくて済んだ。パラグアイ人はみんな本能のままにピッチで戦っていましたから、こっちも気兼ねしている場合じゃなかったし、全部が真剣勝負で、私は初めてサッカーが好きになりました。
娘たちも、『パパ、楽しそうだね』と嬉しそうに言うんです。日本にいた頃、『パパ、サッカーやっていて楽しいの?』と私に尋ねてきて、ショックでした。パパはその時は笑顔だったのに、子供は本心が読み取れるんですかね? 彼が本当の感情を隠さなくなったことは、娘たちにも伝わったみたい。上の娘はどちらかといえば内向的でしたが、向こうに行ってからとても明るくなりました。
ただ、娘に辛い思いをさせたこともありました。
スクールバスで日本人学校に通っていたんですが、下の娘がバスの中で寝ているとき、上の娘は一人で窓の外を眺めていて、銃を突きつけている人を見てしまったらしいんです。何があったのか聞いても、彼女は口を閉ざし、話してくれませんでした。ずっと後になって、『ワイパーを持った人がタクシー運転手を銃で脅していた』と話してくれたのですが、幼い娘に怖い思いを抱えさせたかと思うと、申し訳なくなりました。
でも、私たちはパパを支えようと誓ったんです。
試合では、向こうの選手が“日本人GKを潰せ。手柄になるぞ”とわざと蹴り上げてきたから、とにかく無事を祈っていました。敵選手も生きるために必死なんでしょうけど、それならこっちだって一緒ですよ。“家族みんなで燃えて戦うぞ”と心を一つにしました。家にいるときは他にやることもないから、みんな一緒になっていろんな話をしましたね。おかげで絆が深まりました。
私は何もできないけど、“サポーターを味方に付けよう”と考えました。現地にいる日本人の人たちが助けてくれました。応援を呼びかけるポスターを作ってくれる方もいて、ありがたいですよね。8月に「Hide Luque」というサポーターチームを作り、メーリングリストでレセルバの試合情報を流したら、最初5人だった応援団は徐々に増えて10月には50人以上になりました。
『Hideは日本人サポーターを背負っている』と新聞でも話題になって。今思えば、そこを契機に流れが変わったんです」

そしてつかんだ正GKの座



南半球は7,8,9月が冬だ。寒さは厳しいが、ロッカールームのシャワーは一つで水しか出なかった。選手たちはそれをみんなで分け合う。
しかしだからと言って、パラグアイ人選手は決してべたべたとしない。いつもふざけ合いバカ騒ぎしているのに、ある朝その同僚が練習場に来なくなったとしても平然としている。この国の選手は、常にいい条件を求めて移籍を繰り返すからだ。ルケでも同じチームに1年いれば“古参選手“扱いで、実際シーズン当初いた30人の登録選手で終了まで残ったのはわずか8人だった。
誰も感傷には浸らない。立ち止まると、不安が轟々(ごうごう)と立ち上ってくるのか、選手たちは情が絡んだ湿っぽさを嫌い、ひたすら今を生きている。
「コワンガ」
グアラニー語で選手たちは口々に言う。「今だ」と。日本で慣れ親しんだ「次、行こうぜ」という掛け声は意味を成さない。勝った後のロッカールームでは乱痴気騒ぎになるが、負ければ誰も口をきかず、親しい人が死んだような暗さに包まれる。今がなければ次などない。おかげでロッカールームはいつもカラッと乾いている。
そんなチームに半年以上在籍し、小澤は常に闘う姿勢を見せてきた。選手たちの多くは這い上がるために競争相手を出し抜こうとするが、戦う者を疎略(そりゃく)には扱わない。
「Hideをトップチームで使うべきだ」
10月に入ってもチームが負け続けてリーグ最下位を彷徨(さまよ)う中、そんな声が出始めた。
小澤にとって幸運だったのは、10月に急遽監督に就任したカルロス・ハラとGKコーチのハシント・ロドリゲスが色眼鏡を持たず、日本人GKのプレイを正当に評価してくれたことだろう。10月24日のナシオナル戦で初のトップ招集を受け、この試合で出場機会はなかったものの、11月1日のリザーブリーグ、ルビオ・ニュ戦でマンオブザマッチに選出されると、11月12日のオリンピア戦の先発出場が決まった。
「『お前で行く』と言われたことはそれまでもあったから、半信半疑でした。監督とGKコーチは人格者で、“この人たちに出会えただけでも自分の財産になる”と考えていましたね。ただ、出たらやれる自信は当然ありました」
オリンピア戦、小澤は“奇跡”のデビュー戦を果たすことになる。相手は3度の南米王者に輝いた強豪だったが臆することはなかった。
「念願の出場だからと言って、特に緊張することはなかったですよ。なぜなら、ライフル銃を持った人たちが町の中に突っ立ち、車のない選手も銃は持っている国で、僕は生きてきたんですから。練習もそうですが日常が戦いの連続で、誰が相手でも怖さはなかった。命を取られるよりも怖いことはないですから」
試合前、ロッカールームで仲間たちと円陣を組んだ。彼が円の中心に立ち、気合いの言葉を口にすると、チームメイトがそこに「行くぞ」とか、「やるぞ」とか、あるいはもっと俗的な言葉を被せ、全員で気持ちを高めていく。室内には神父がいて、選手は体のどこかに十字を切ってもらった。小澤は手の甲に十字を切られ、宗教心はないのに何かの加護を受けた気がした。
前半4分にルケーニョはセットプレイからゴールを決め先制するも、前半24分にオリンピアに追いつかれてしまい、その後は劣勢だった。しかし、小澤が持ち前の守備範囲の広さを発揮してピンチを防ぎ、冷静なコーチングで崩れかかる守備陣を立て直す。一進一退の攻防が続いたが、引き分けは負けも同然と思っている強豪オリンピアが、強引にゴールをこじ開けに来た。
ゴール前、小澤がハイボールをキャッチに行った時だ。彼は膝を曲げて相手をブロックしながら飛んだが、そこになりふり構わず相手選手が飛び込んできた。相手も死に物狂いなのだ。自分の膝が相手の内臓にめり込み、もんどり打って倒れるのが見えた。一方、小澤も衝突した時に足の付け根に激しい痛みを感じ、悶絶しそうになった。しばらく突っ伏していると、頭上から声がした。
「Hide、さっさと立つんだ。今、俺たちが戦っている舞台はPrimera(1部リーグ)なんだぞ!」
小澤は一瞬にして体が熱くなるのを覚えた。声の主は、リザーブリーグで一緒に戦ってきたディフェンスの選手だった。苦しみを分かち合い、同時期にトップチームに招集された同士だからこそ、その言葉の意味が伝わってきた。言葉に奮い立つと痛みはどこかに消え、「痛みは心が肉体に与えるものだ」とパラグアイ人トレーナーから真顔で諭されたことを思い出した。
日本人GKは再び守護神として立ちふさがった。決定的なシュートも何度かストップした。結局、試合は1−1のまま終わった。
「小澤のショーのような試合だった。多くの決定機を防いだだけでなく、自身のサポータークラブまで引き連れ、スタジアムを沸かせた。小さな目をしたGKがゴールマウスに立つと、その存在感は絶大だった」
パラグアイの有力紙「ウルティマオーラ」はそう論評し、出場選手中最高の7点を付け、マンオブザマッチに選出した。
11月21日のタクアリ戦でも小澤は先発して3−1の勝利に貢献。11月28日のスポルト・コロンビア戦では1部残留をかけて挑んできた相手を零封し、アウエーで“最高の憎まれ役”になった。ウルティマオーラ紙ではまたもマンオブザマッチに選ばれた。最終節、12月5日のソルデルアメリカ戦でもゴールを守り、最下位に沈んでいたチームは最後の4試合を1勝3分けの無敗で切り抜けている(パラグアイリーグの降格チームは3シーズン合計ポイントで争われ、ルケは残留)。
トップチームの勝利給は約2万円。J1時代の10分の1以下だった。これを多いと捉えるか、少ないと捉えるか。その価値は戦った者にしか分からなかった。

次なる戦いの場、新潟へ



ルケーニョの練習参加から最終節までの298日間、小澤は最後まで戦い切っている。
<この国のピッチによく立てたもんだ>
彼はつくづく思う。
練習時間は頻繁に変更になり、選手に伝わらないことや、チームメイトが抜け駆けしようとウソの情報を流すこともあった。トップリーグの試合開始時間も頻繁に変更された。16時と発表されていながら、当日に「天候の影響」で15時に変更され、10分ほどで着替え、慌ただしくアップを済ませ、ピッチに立つこともあった。
一事が万事、不便なことばかり。ロッカールームでは何度か“泥棒”に遭い、置いていたスパイクやサンダルを盗まれたこともある。人によっては眩暈(めまい)を覚えて逃げ出したくなる環境かもしれない。
運転中に起きる事件も日本では想定外だった。
警官から呼び止められ、何ごとかと思い車を停めると、「消火器と三角灯を積んでいるか」と横柄な態度で尋ねられ、「規則だとは知らず、積んでいない」と答えると、「見逃してやるから金をよこせ」と日本円で約500円ほどの賄賂を要求してきた。その後は消火器も三角灯も積み込んで運転したが、今度は「スピード違反」と呼び止められた。結局は金の無心なのだ。
<わずかな金のために大の大人がここまで姑息なことをするのか>
ハードボイルド小説の世界に飛び込んだ気分だった。しかし、しばらくすると彼は汚職警官への対処法を見つけた。相手の意図する話とは違う方向に、会話を持って行くのだ。週末の試合のことやパラグアイ生活など何でも良い。会話を進めているうちに、相手は途端に親しげになり、引き下がることも増えた。パラグアイ人は欲は深いが、基本的におしゃべりで朗らかなのだ。
大らかでいい加減、それがパラグアイ人の流儀とも言える。
しかし一方、人々が思いのままに生きているエネルギーはとてつもなく熱かった。
ホームゲームの最中、娘たちが「Dale、Dale、Luque」(行け、行け、ルケ)と声援を送り始めた時のことだ。小さな歓声の波は周囲の何人かを取り込み、ゴール裏、メインスタンドをも巻き込んでやがてスタジアム全体を覆った。小澤は大地が震えるような響きを体感し、その場所に立っていられることに大きな幸せを感じた。
感情や欲望が剥き出しになった国だからこそ、彼は正GKの座をつかめたのかもしれない。
シーズン終了後、小澤は契約更新のオファーを受け、パラグアイの有力チームからも誘われたが、娘たちの教育問題もあり家族は一度帰国した。しかし、それは次なる戦いの準備だった。
「日本を出るとき、“あと10年現役をやる”と決めたんです。残り9シーズン。もっと成長していきたいし、必ずやれると思います。四十代で日本代表なんて格好いいじゃないですか! ゾフやシーマンみたいに」
小澤にしては大風呂敷を広げたように思えたが、そこにいるのはHideだった。
2011年4月8日、小澤のアルビレックス新潟への移籍が発表された。オフシーズンの間、パラグアイの強豪クラブと交渉を始め、渡航直前まで進んでいたのだが、3月に入りかかってきた一本の電話が彼の心を動かした。
「お前の力を貸して欲しい」
鹿島時代の戦友である黒崎久志監督からの着信だった。事情を聞くと、GKが一人負傷したのだという。正GKの東口順昭は日本代表候補でしばしばチームを留守にすることも予想された。勝負を挑むにも、若手有力GKは相手にとって不足はなかった。海外でのプレイにひきずられる思いがないではなかったが、東日本大震災の不安もつきまとう中、水戸の実家は被災していた。当然、妻と二人の幼い娘を残して旅立つには躊躇(ためら)いもあった。
そもそも、37歳の選手にJ1のクラブから声が掛かることは奇跡に近い。彼には新潟へ赴(おもむ)くことが天命のように思えた。Jリーグという闘技場で、男は再戦を仕掛ける。壮絶な戦いの記憶を胸に。


小澤のパラグアイ記である。
当然のごとく苦労の連続だった模様。
それ以上に助けたのは夫人の内助の功であろう。
アスリートとして大成するには周囲の協力が必須である。
これほど経験を積め、今だに現役でピッチに立つ小澤には素晴らしい伴侶がおったことを記録しておきたい。

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Fundamentalism

Author:Fundamentalism
鹿島愛。
狂おしいほどの愛。
深い愛。
我が鹿島アントラーズが正義の名のもとに勝利を重ねますように。

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